(1)図書室。直感で選んだ本を読むでもなくぼーっと眺めていると視界端に見知った色が映った。しかし、違和感に気がつく。いつも隣に立っている影の姿がなかったのだ。
―離れた?
有り得ないだろう事を期待してしまい、思わず顔を上げる。そこに立っていたのは紛れもなく青年であった。確かに青年が立っていた。しかし、その目は人ならざるものとなっていた。
『やあ』
声が二重音声のように重なって聞こえる。主導権が彼でないことは確かだった。
きっと、他の人たちから見たら、目も声も普通のままなのだろう。自ら人気のない場所へ移動する必要はなさそうだ。
「…体、返してあげなよ」
『寝てる間だけさ。それとも君の身体をくれるのかな?』
化け物が、彼よりも彼らしく微笑みそっと私の手に手を重ねる。触れた部分から力が抜けるような感覚に手を払い退け庇えば、影はその手をそのままにおどけたように笑った。
「…彼が私に近づくように仕向けてるでしょう」
『間違いでは無いけれどね、彼は元々そういう気質があったんだ。僕はそれを少し後押ししているだけだよ』
「同じでしょう」
内側を覗き込むような視線から逃れたくて目を逸らすのを誤魔化すように吐き捨てる。それらを全てわかっているのだろう。影は愉快そうに目を細めた。
『いいや?何故なら彼は僕が来る前から、浅ましくも君を自分と同じだと思い、以下だと思い、優越感を感じていた。そしてそれを"愛"と勘違いしたんだ。僕はそれを行動に移せるようにしただけだ』
「…同じだよ。貴方が居なければ彼は行動に移さなかったのだから」
淡々と言い放つ事実らしいそれから言い逃げるように席を立つ。本を元の場所へしまい、その場を立ち去ろうとする私の前に影が立ち塞がった。逆光で薄暗い中、目だけが浮き上がるように光っていた。
「退いて、欲しいのだけど」
『逆に聞くけど、退くと思う?』
人目につかない本棚の影に溶け広がるように、彼の体の輪郭がぼやける。
話し方、表情、動きまで全てが気持ちの悪い程同じだった先程までとはうってかわって、存在から何から何まで揺らいで形が掴めない。避けて立ち去りたくても、夜闇に飛ぶ蛾のように予測できない動きに圧され、突き当たりの本棚に背が当たった。
光の一筋さえ遮られて私には届かない。その代わり、影は私の頬に手が届く。
「彼の体で何をする気」
『よく見て。この体は君に触れてない』
掴んだ彼の腕をよく見ると、輪郭がぼやけていたのではなく、彼の表面を覆うように影の姿が重なっている―…それに気付いた瞬間、立っていられない程の凄まじい悪寒。全身の力が抜け崩れ落ちる身体を本棚に押し付けるように抱きとめられ、密着した部分から体温を奪われるような感覚に震えが止まらない。
「は、なし…ッ」
『…』
いつもの歪んだ笑みが彼の顔に重なって見える。指先ひとつ力が入らない。
―寒い、死んでしまう。
本能的な恐怖に思わず目を強く瞑った。
《…まだ何も思い出せない?》
耳元で囁かれたその言葉にハッとして目を開けると、影はそっと身体を離し立ち上がると私を見下ろした。奪われた生命力が多すぎて視界がぼやけ表情が見えない。いつものように笑っている様に見えるのに、雰囲気はそうでは無い気がした。
『彼が起きる。またね』
そういった影はまた気持ちの悪いほど彼だった。寒さで震える体はまだ立てるような状態ではなく、光の方へと向かう後ろ姿を見つめる。そして見えなくなった後、膝を抱えこんだ。
何を忘れているというのだろう。いや、人を弄ぶことを愉快に思う質の悪い化け物だ。どうせまた、私をからかっているのだろう。
化け物の言葉なんて、考えるだけ無駄だ。
―だから、この罪悪感に似た感情はきっと、生命力を奪われた不快感を誤解しているだけだ。