パンスト事変+α(降志)「あ、」
薄暗いパーテーションの裏で、呟くような声。機材の不具合か、はたまた資料の不手際か。
「どうかした?」
降谷は振り返って声をかけた。と、眼前の光景に固まる。そこには、タイトスカートを軽くたくし上げ、今まさにパンティストッキングを脱ごうとしている志保の姿があった。
「え、こっち見ないでくれる?」
形のよいヒップを包むヌードベージュのなめらかなストッキング。そして、下ろされかけたそれの隙間から覗く白いレースの──。首がつりそうな勢いで、降谷は顔ごと目をそらした。
「ちょ、ちょっと待って? なにしてる?」
「ストッキングが伝線したから脱いでるのよ」
見れば分かるでしょ、とでも言いたげな志保の物言いに、ああ、そうか、と思わず納得しかけた。いやいや、違う。これは駄目だろ、と内なる降谷が激しく抗議する。
「志保さん、そういうことは更衣室かトイレで」
「もうそんな時間ないじゃない」
今日は重大事件の押収品に関する解析結果を彼女から聞くことになっている。パーテーションの向こうにはすでに十数人の捜査員が着席し、各々雑談をしているようだ。あと十分ほどで定刻となる。
「開始時刻を少し遅らせても構わないよ」
「いやよ。こんなことでナメられたら癪だわ」
若い女のくせに。そういう態度を取られて、実際に嫌な思いをしたことがあるのだろう。ごくごく一部だがそういう輩がいないとは言い切れない。でも。
「そういう奴らを、君はその仕事ぶりで蹴散らしてきただろ」
「そうかしら。だといいんだけど」
彼女が、ふっと笑う気配がした。
互いに背を向けたまま続く会話の一方で、微かに聞こえる衣擦れの音。どうやらパンストを脱ぐ作業は継続されているらしい。全く気が休まらない。
「そろそろかしら。あ、もういいわよ」
降谷がやれやれと振り向くと、志保は脱いだそれを近くにあったゴミ箱へ無造作に投げ捨てたところだった。
「待て」
左手でこめかみを抑えながら、降谷は静止を促すように右手の掌を彼女に向けて突き出す。
「君は危機管理がなっていない。そこら辺のゴミ箱にストッキングを捨てるな」
「じゃ、どうすればいいのよ?」
降谷は荷物の中にあった半透明のレジ袋を拾い上げ、口を広げて志保に差し出した。
「これに入れて持ち帰れ。可燃ゴミとして捨てるときは、袋の外から見えないように十分に注意すること。インナー類も同様だからな」
「口うるさいお巡りさんね」
志保は降谷からレジ袋を受け取ると、ゴミ箱からストッキングをつまみ上げて袋に入れ、持ち手を縛って自分のバッグに押し込んだ。
「これでいい?」
「ああ」
「じゃ、行きましょ」
ノートパソコンと書類を抱えて表に向かう志保の脚は、ストッキングを身につけていなくても白くなめらかだ。降谷は小さくため息をついて、その後に続いた。
* * *
ボクはしがない小さなゴミ箱だ。警視庁のとある会議室に置かれている。プラスチック製の円柱形で、黒くてシンプルなデザイン。多く見積もっても十年ほどの年数しか経っていないと思うけれど、さまざまな思念が入り混じるこの場所に在るからか、ボクは数ヶ月前から意思をもつようになった。ただ、自ら移動したり人をたぶらかしたりすることはできなから、ライトな付喪神といったところだろうか。
そんなボクが最近、来庁を心待ちにしているひとがいる。ミヤノシホさんだ。心の中では勝手に「シホちゃん」と呼んでいる。シホちゃんは、クールでミステリアス。しかも、仕事のできる敏腕科学者である。この会議室で偉そうな警察官どもの口を見事な解析で黙らせてきたのを、ボクは何度も見てきた。
そして、そんな彼女にまとわりついている金髪の男、フルヤレイ。こいつは家族でも彼氏でもないくせにシホちゃんにあれこれ言ってくる面倒な奴だ。シホちゃんが迷惑そうにフルヤを見るたびに、ボクは心の中で「ざまあ」と嘲笑っている。
この日、シホちゃんとフルヤはパーテーションの裏でプレゼンの準備をしていた。
おい、フルヤ。この暗がりでシホちゃんに何かしたら許さないからな。ボクは威圧感をたたえながら、隅に鎮座する。
そのとき、シホちゃんの「あ」という声が聞こえた。どうやらストッキングが伝線してしまったらしい。
あ、ああああ、シホちゃ、そんな、ここで脱いじゃ……フルヤアアアアおおお前見るんじゃねぇぇぇぇぇーー!!!!!
シホちゃんのパンティを部分的にでも目撃したフルヤレイ、万死に値する。なお、オレは妖怪的な無機物なので致し方ない。ノーカウントだ。
「ナメられたら癪だわ」
そう言うシホちゃんに、オレは涙を禁じ得ない。これまでにこの会議室で彼女に対して高圧的な態度を取る輩も少なからず居た。でも、彼女はそんな奴らを並外れた仕事ぶりで黙らせてきたのだ。
「そういう奴らを、君はその仕事ぶりで蹴散らしてきただろ」
おいフルヤ、オレの台詞を取るな。まあ、オレはそもそも喋れないんだが。
「そうかしら。だといいんだけど」
彼女がふっと笑った。シホちゃんの笑顔は、天使のほほえみ。この暗がりで目をそらしているヤツには見えていない。残念だったな、フルヤ。
そのとき、オレの頭上にふわりとあたたかな感触が舞い降りた。
ああああああああああシシホちゃんの脱ぎたてパンティストッキングがオオオオオオレのなかに……!!!!?!??!
「待て」
正気を失いそうになっているオレを尻目に、フルヤが言った。
「君は危機管理がなっていない。そこら辺のゴミ箱にストッキングを捨てるな」
フルヤ貴様アアァァァァァ!!!オレの千載一遇のチャンスを……!!そこら辺のゴミ箱などというオレ様を軽んじた物言いも含めて、決して許すまじ……と呪詛の言葉を吐きそうになったのだが、なけなしの良心を掘り起こして思い直す。
シホちゃんの隠れファンは多く、中にはストーカーまがいの輩も存在する。
先日、シホちゃんがその麗しい口元をそっと拭ったティッシュペーパーをオレの中に捨てたわけだが、会議室に誰もいなくなった隙を狙って、一人の男がそれを拾い上げようとしたのだ。すでに意思をもっていたオレは、中に入っていたゴミをポップコーンのごとく弾け飛ばすことで、その変態野郎を撃退した。
オレの中に彼女のパンティストッキングが捨てられることは大変に喜ばしいことではあるが、ああいうヤツらを引き寄せてしまう危険性もはらんでいる。
「これに入れて持ち帰れ。可燃ゴミとして捨てるときは、袋の外から見えないように十分に注意すること。インナー類も同様だからな」
そう言って、フルヤはレジ袋をシホちゃんに渡した。前言撤回、よくやったフルヤ。シホちゃんの安全を願う同志(不本意ではあるが)としては及第点だ。
「口うるさいお巡りさんね」
はは、ざまあフルヤ。
「じゃ、行きましょ」
シホちゃんがオレの横を通り過ぎる。
ほのかな甘い香り、白くなめらかな太もも、繊細なホワイトレースに縁取られたラベンダーカラーのパンティ。見えてしまうのは、小さめのゴミ箱ゆえの不可抗力だ。スケベ心からではない、断じて。
シホちゃん、がんばれ。応援してるぞ。
オレはわずかにコトリと体を揺らし、プレゼンに向かう愛しの彼女にエールを送った。