【いていな展示】秋の風邪とホットワイン その日の嵐の谷は名前に似合わず快晴で、柔らかい秋の日差しが窓から差し込む、心地の良い昼下がりだった。
こんなに気持ちが良く涼しい休日に、静かな場所で居心地の良い友人と二人。のんびりとつまみでも作りながら昼から酒を開けてしまいたい絶好の日だが、いや、元々そのつもりだったのだが、今日はそれどころでは無かった。
「先生、熱測れた」
「うん」
家主は寝巻きになりベッドの中で上半身を起こし、緩慢に体温系を脇から取り出すとネロに渡した。既に結構熱が出ているが、毛布をぎゅっと引き寄せて寒そうにしているのでまだもう少し上がるかもしれない。
「その……何か欲しいものとかある」
つい数刻前まで何事もなく元気そうにしていたのに、突然体調を崩してしまったファウストに、ネロはどうしていいのか分かりかねていた。何か食べたいと言われれば作ってやることはできるけれど、他に何をしたら良いのか分からない。辛そうにしている友人にしてやれることがあればいいのだが、こんな時に何かしてもらった覚えが記憶の中に無いネロは、何をするのが正解なのか分かりかねていた。
「ネロ、すまない。わざわざ来てもらったのに迷惑をかけて」
ファウストからは、こんな時でさえまずネロを気遣う言葉が出てくるのだった。
今日明日、二人はお休みを貰って嵐の谷に来ていた。ちょうどヒースクリフとシノが用事で呼ばれて数日ブランシェット領に戻ることになり、しばらく急な任務もないので合わせて休暇を貰った。ファウストは自宅に本や呪具を取りに行きたくて、ネロは谷で取れる食料を貰いたかったので、それなら折角なので二人でゆっくりしようかと、ちょっといい酒を持っていったり、谷で採れるものでどんな肴を作るか考えたりして、気持ち浮き足立って出かけて来たのだった。
そういう経緯だったのだが、谷に到着してすぐにファウストが熱を出したので晩酌の予定は無くなってしまった。
「朝から体調悪かった?」
「いや、朝はなんともなかった。こっちに来てから急に……」
「んじゃあ久々の休みで気が緩んだのかもな」
それならむしろ、魔法舎から離れてゆっくり休めて良かったんじゃないかとネロは思う。ファウストの方は、ひどく申し訳なさそうな表情でネロを見つめていた。
「……僕は大丈夫だから、気にしないでくれ。魔法舎に戻っても、マナエリアの方に行ってきてもいい。谷でグリーンフラワーが採りたいと言っていただろう、行ってきたら」
「んなこと言われたって、あんたを置いておくわけにはいかないだろ」
「いや、別に無理をしている訳じゃなくて」
ファウストは言い訳を探しているわけでもなく、ただどう説明するか考えているようで、確かに本人の言う通り、無理をしている様子ではなさそうだった。
「僕はここで何百年も一人で生きてきた訳で、その間に体調を崩したことなんて数え切れないくらいある。魔法使いはこのくらいの風邪でどうにかなることはないし、自分の面倒の見方は分かっている。だから君はそんなに気を揉まずに好きにしたらってことなんだけど」
分かりやすく明確な説明だったが、今度はネロの方が頭を悩ませた。ファウストが言うならそうなのだろうが、はい分かりますかと納得してしまうには少し引っかかる。ネロは考えを整理するように、ゆっくりと口を開いた。
「あんたが俺が居ると気を遣うって言うならそうするけど……」
もにょもにょ、と考えがうまく纏まらない。きっと自分はファウストほど思っていることを言葉にするのが上手じゃないんだろうな、とネロは思っていた。
「俺がしたいことをすればいいって言うなら、俺はあんたを放っておきたくないって言うからさ。飯だって作ってやりてえし、なんとか出来るっつっても動くのしんどいだろ。だから今日はあんたの足だと思ってしてほしいことがあったら言ってくれたらいいよ」
人の世話を焼くのって嫌いじゃないしさ。と念を押すように言うと、ファウストは少し躊躇った後、分かった、と了承してくれた。
「一階の、瓶が並んでいる棚があるだろう。その二番目段に風邪薬があるから持ってきて欲しい。ラベルを貼ってあるからすぐ分かると思うが」
「りょーかい。他に何かある?」
「……水があると助かる」
「分かった。ちょっと待ってな」
ネロはそう言い残して階下へ降りていった。ファウストがベッドに横たわって毛布を引き上げると、白黒の二匹の猫達が心配そうに寄ってきたので、ふわふわとした暖かい体を熱い手で撫でた。
本心を言うのであれば、なかなか忙しくて取れずにいた折角の休日に友人と昼から酒を飲んで羽根を伸ばすなんていう最高のことができなくで残念だったが、それを言ってしまえばファウストが気を遣うだろうから口に出さないようにしていた。ファウストは薬を飲んでしばらくすると眠ったようで部屋には結界が張られている。何かあれば呼ぶし、もし僕が行けない時はこの子達が行ってくれるから、と精霊の猫達を指して言っていたので、それなら俺は夕飯用の材料調達に行ってくるからと言い残して、畑の野菜や、あまり家から離れない場所に木の実やグリーンフラワーを取りにいった。
家にある材料は好きに使って良いと言っていたので、何を作ろうかと食糧庫を開けながら考える。ファウストの家には、一人暮らしだとは思えないくらい丁寧にハーブやスパイスの類が置かれていて、その中にはシナモンや生姜もあった。ネロは余らせていた赤ワインを料理に使うために持ってきていたことを思い出し、晩酌ができなかった名残惜しさを埋めるにはこれがちょうど良いんじゃないかと思いついた。
鍋に赤ワインを注ぎ入れて、生姜やスパイスを入れ、蜂蜜も垂らして一緒に煮込む。庭先で採れたオレンジを輪切りにしてそれも入れた。それがまぜこぜになった香ばしい匂いが鍋から漂う頃、階段の方から足音がして、ファウストがキッチンに降りてきた。
「先生、起きてた?」
「今起きた。いい香りがしたから」
「腹、減ってる?」
「あんまり。それは?」
ファウストはネロの側まで寄ってきて、鍋の中身を覗き込んだ。
「ホットワイン。西の国の方では、風邪を引いた時にも飲んだりするんだってさ。体も温まるし、ほら、今日飲めなかったからその代わりってことで」
ファウストは驚いたように目を見開いて、突然、ぽすんと倒れ込むようにネロの肩に頭を預けた。
「わ……せんせ、危ないって。鍋あるから」
ネロは慌てて火を止めるとファウストの方へ向き直る。肩から服越しに伝わってくる体温が熱くて、首に手を当ててみるとさっきよりも熱かった。
「先生、熱あがってんじゃん」
「……次に」
「へ?」
「次にこんなことができるのはいつになるんだろうな」
ネロは、ファウストが突然そんな事を言い出したので面食らっていた。白い頬を真っ赤にして、少しネロに体を預けるようにしているファウストは、そのまま言葉を続けた。
「結構、僕なりに楽しみにしていたんだ。君は谷の食べ物で何を作ってくれるんだろうとか、家で果実酒を漬けてあるからそれを出そうか、とか色々考えてた。だから、今度こんなことが出来るのは大分先になるだろうなと思うと……残念だな」
ファウストはため息を吐いて、まるで遊びにいく日に熱を出す子供みたいじゃないか、なんて拗ねたように自嘲した。それがネロにとっては、薬を持ってきて欲しいよりも、何が食べたいというおねだりよりも一番欲しかった我儘で、ファウストも同じ気持ちを持っていてくれたことが嬉しかった。ネロが気を遣って言わなかったように、ファウストもネロに我儘を言って困らせたくなくて言わずにおいたことが気が緩んで溢れてしまったようだった。そんな風に甘えを見せられるのも今だけだろうからと思うと、気を張って頑張っている場所から離れた今日くらいは年上としてどれだけでも我儘を聞いてやりたくなった。
「約束はできないけどさ、俺も今日、結構楽しみにしてたんだよな」
「ネロも?」
「うん。だから、また休みが取れたら、今度はリベンジできるといいな」
「……今度か」
今度があるといいけど、と珍しく拗ねた子供のような弱音を吐いたので、ネロはあはは、と笑いながら頭をぽんぽんと撫でた。
「ホットワイン、飲む?」
「ああ」
「体しんどいだろ、部屋まで持ってくから休んでなよ」
「いや、ここがいい」
「寒くねえ?」
「君ともう少し喋っていたい」
ファウストがそう言うので、ネロは魔法でブランケットを出してファウストの肩に掛けると、ホットワインを手渡してソファに座らせた。気休めでしかないけれど、少しでも楽になるように願いを込めて作った、星のような形をしたシュガーもマグカップの中に落として溶かした。
ぽつぽつとお喋りをしながら二人でホットワインを飲み終えた頃、ネロは徐にファウストに魔法をかけた。
「アドノディス・オムニス」
魔法を掛けられたファウストは面食らって、すぐに「祝福の魔法?」と聞き返した。
「……先生ほど上手くはないけど」
「いや、君に祝福を掛けられるのは新鮮だ。何を願ったの」
ネロは口に出すのが気恥ずかしくなってもごもごと答えた。
「約束はできないけどさ、……ファウストもまたリベンジしたいって思ってくれてるなら、それが叶いますようにって願うことはできるだろ」
ファウストは先生の顔をして、ネロはかわいいな、と言う時と同じ表情で笑った。
「ありがとう」
ネロはいつもファウストにそうされている時のように、照れたまま何も言い返せずにただまごまごとしていた。