曲線の交点 どちらが言い出して始めたことなのか、ともし聞かれたら、答えに困るなとネロは思う。どちらともなく、気が付いたら手と手の先が触れることを許していて、それが腕と体になり、口と口になり、舌が絡みあっていただけのことだ。ネロとファウストは恋人同士でもなければ、こういったことをするための関係として割り切っているわけでもない。酔った勢いだと言い切ってしまうほど勢いもついていない。
どちらかの部屋で晩酌をして、一通り話す内容も尽きて、しょうもないことで笑ってしまう時間も過ぎると二人の行為は始まる。ベッドに腰掛け、手の指同士を絡ませたり、抱きしめ合ったりして、キスをする。それ以上に及ぶことは無い。ネロから言い出す時とファウストから言い出す時は半々くらいで、今日切り出したのはファウストの方だ。
ファウストからしたいと言い出す日も、より細分化すると二パターン存在する。ファウストから動きたがる日と、ネロに身を任せたい日。今日は後者なので、ネロはファウストが望む通りにわがままを聞いてやる。
「ネロ」
指を絡ませた片手を握る力が強くなり、とろんと緩んだ目がじっとネロを見つめている。ファウストがネロに強請る時、ファウストは何をして欲しいとは言わない。ただ名前を呼んで何をして欲しいのか目で訴える。それを察してネロが起こした行動が正解なのか、不正解なのかをファウストが口にすることは無いが、満足そうなファウストの顔を見ていると、まあ不正解だったことはそう無いのだろうと思う。
ファウストのおねだりに応えるように、ネロはまずファウストの唇に、頬に、何度か軽くキスをした。唇を食むようなキスに移ると、ファウストもはむはむと慣れない動作で懸命に応えてくるのでたまらない気持ちにさせられる。迎えに行くように舌を絡ませると柔らかい舌先がネロの舌に触れる。やがて部屋に響き始めた水温は猥らに聞こえ、唇を離した時のファウストの頬が火照っているのも、酸素を吸い込むように肩で息をしているのも酷く煽情的に映るもののはずなのに、不思議なことに、この行為を性愛や肉欲だと定義してしまうことが難しかった。
むしろ、人肌恋しい時にハグすると安心するようなもので、今とろんと力の抜けた目をこちらに向けているこの人風に言うなら、猫を撫でて癒されている時のような、そういう類のものだと感じていた。
ネロ、と甘えた声で名前を呼ばれ、肩に頭を預けられる。ネロとファウストにはそれぞれ甘えたい時と甘やかしたい時があって、どちらかが求めるのならもう片方が欲求を満たす。今日とは逆にネロが猫のようにすりすりと甘えて、ファウストが意地悪に煽るような言葉をかけてでろでろに甘やかすこともある。そういう時のネロは普段ファウストにダメなところを叱られたり、子供のように扱われている時と同じような居心地の良さを感じるのが好きなのだが、ファウストが甘えてくる日は普段感じることのないたまらなさを感じるのが好きだった。
ネロはファウストの体を腕の中に収めようとして、やっぱりやめた。肩を掴んで顔と顔を合わせると悪戯っぽく微笑んだ。
「もっかいする?」
ファウストはネロの返答にむっと口を尖らせた。悪戯は成功したようだった。
「ずるい」
「なにが?」
「分かっているのにそんなことを言うところ」
「分かんねえな、出来が悪い生徒なもんで」
むすっと不満げにむくれる表情の幼さこそたまらなくて、胸がぎゅっとするような気分になる。人差し指で撫でるように唇の先をちょんちょんと突いて、面食らっているファウストを強請るような上目遣いで見上げた。
「な、時にはあんたの口から聞きたいな。だめ?」
ファウストはかっと顔を赤くして、何かを堪えるような表情になる。照れている、それから、ネロのおねだりの可愛さに負けそうになっている。ファウストはしばらく神妙な顔で迷っていたが、観念したのか俯いて呟いた。
「……抱きしめて」
耳を真っ赤にして酷く恥ずかしそうに言う声に、またたまらなくなって腹の奥がうずうずと疼く。
「はいはい」
そう応えて腕の中に迎え入れると、ファウストもネロの腰に手を回してぎゅっとしがみついてくる。
「あと、撫でて」
言われなくてもそうするつもりだったが、ネロの要求を聞くからには全部言葉で伝えてこようとする律義さが微笑ましい。
「っはは、あんた以外とおねだりすんの上手じゃん」
耳元で言葉を掛けながら頭を撫でると、ファウストは擽ったそうに身をよじる。ファウストが実は撫でられるのが好きなのも、少し上から目線の言葉で褒められるのが嫌いじゃないのもネロはとっくに知っている。そうしてほしいのに口に出すのは恥ずかしいから、要望を口に出さずにネロに動いてもらおうだなんて狡くていじらしい甘え方をしてくるのだ。それを満たしてやろうと最大級に甘やかしてやることで、ネロもふわふわと満たされたような気分になる。
撫でられていたファウストがふと漏らした甘い吐息が耳にかかり、体が跳ねそうになる。前言撤回、この行為に性欲が含まれないだなんて、そんなことは無い。腹の中で疼く熱を無視して、性愛でも肉欲でも無いだなんて狡いことを言っているわけではない。ただこれはアルコールの酩酊ではなく、暖かくて甘いミルクティーで体がぽかぽかとなるような、どちらかというとそういうものなのだ。
他人と手を繋いだのなんて、抱きしめ合ったのなんて何百年ぶりだろうか。と、舌を絡み合わせるようなキスをしながらファウストは思う。最も、何百年前にしたそれは友愛や親しみの意味でしかなく、お互いの温もりを確かめ合うようにネロとするそれとは全く意味が違うものであることくらいは分かっている。とはいえネロに対して恋愛感情を抱いているわけでもなければそういった感情を抱いた相手が今までいたこともないので、この胸の奥が切なくなるような、擽ったさにじっとしていられなくなるような感情を何と呼べばいいのいかは分からない。ネロはそれを何か型にはめて定義するつもりが無いようだし、ファウストも、名前を付けずとも心地よさに満足しているのでそれで良い。二人は同僚で、先生と生徒で、晩酌友達で、時々キスをする。
二人は、お互いにして欲しくなる時としてあげたくなる時があって、相手に求められたものを差し出すことによっても満たされることができる。どちらかの満足に偏ることが無く、お互いが求めるままに立ち位置を変えて満たし合っている。二人の形はぴったりと嵌まるものでもなく、運命と呼べるような大層なものでもなく、もっとちぐはぐなはずなのにバランスが良かった。
今日のファウストは無性に甘えたい気分だった。昨晩見た悪夢だとか、昼間の討伐で疲れていたとか、思い当たる原因はいくつもある。寝不足だったにも関わらず生徒たちの前で気を張っていたファウストに、討伐が終わって帰ってきたところを労うように、あんただけにだよ、と差し出された、猫型のマシュマロが浮いたホットチョコレートのせいかもしれないし、湯気の隙間から、自分に向けられた見守るような視線が見えてしまったせいかもしれない。
こういう日、ファウストはネロの気遣いと察しの良さに甘えて、ネロ、とただ名前を呼んで触れ合いを求める。いつもそのわがままな呼びかけに応えてくれていた手が、今日はファウストの思惑と違う動きをした。その時のネロが何か期待しているような目線をファウストに向けていたので、わざとやっているのだとすぐに気が付いた。
「ずるい」
「なにが?」
「分かっているのにそんなことを言うところ」
「分かんねえな、出来が悪い生徒なもんで。……な、時にはあんたの口から聞きたいな。だめ?」
つんつんとあざとくファウストの唇をつついて、上目遣いで言ってくるのだからタチが悪い。油断をしたらすぐこれだ。
まあ、いつもネロの優しさに甘えているのは自分の方なのだ。そのくらいの願いを叶えてやるのはやぶさかではないし、正直今のネロの表情が可愛いので、ファウストは素直に根負けした。とはいえ、それはそれとして甘えた要求を口に出すのは恥ずかしくて、ファウストはネロに顔を見せないように俯いた。
「……抱きしめて」
そうか細く呟いて、ファウストはネロの顔をちらりと見た。ネロは愛おしいものを見た時の様に口元をうずうずと緩ませて、それから、ホットチョコレートの湯気越しに見たのと同じ表情になった。年上の顔。しょうがないな、と手を焼いてやる時の顔。ファウストはネロのどうしようもないところや、情けない表情をいつだって可愛いと思っているけれど、こうやって誰かを目にかける時の表情を自分に向けられると胸のあたりが疼いてたまらない気持ちになる。
「はいはい」
「あと、撫でて」
「っはは、あんた以外とおねだりすんの上手じゃん」
優しく撫でるような声も、掌の温もりもむず痒くてファウストは少し身をよじった。。二人はぴったりくっつくパズルのピースでもなければ、交わらない線でもない。ゆるやかな曲線のどこか一点がたまたま交わっていて、それが胸の奥をじんわりと暖めるような時間を生み出している今なのだとファウストは思った。その小さな一点の、一瞬の心地良さをもう少し味わっていたくて、ファウストは身を委ねるように力を抜いた。