肉じゃが 実家から帰ってしばらくの間は、食べ物に困ることがなくなる。むしろ、食べるものが多すぎて、消費するのに困るくらいだ。心配性で食べさせたがりな母さんたちは、僕にたくさんの食材を持たせてくれる。それがレトルトばかりならいいのだが、中には調理済みのものや生物も混ざっているのだ。
だから、この季節だけは、どうしても料理をしなければならない。野菜やお肉のような足の早い食材は、すぐに調理しないと傷んでしまうのだ。一応冷凍保存することもできるが、長い間放っておく訳にもいかない。そんなこんなで、僕も重い腰を上げて、生の食材と向き合っていた。
「で、何を作るつもりなんだよ。君は危なっかしいから、難しいものは作れないぜ」
僕の隣に歩み寄ったルチアーノが、キッチンを覗き込みながら言う。からかう口実ができたと思って、わざわざ眺めに来たのだろう。相変わらず意地悪な態度だが、僕にとっては有り難くもあった。
「今日は、肉じゃがを作ろうと思ってるんだ。実家でいいお肉をもらったけど、こんなには食べられないからね」
彼の言葉に答えながら、僕は食材に手を伸ばす。キッチン台の上には、既に材料が並べられていた。にんじんと玉ねぎが一個ずつと、じゃがいもが三個である。隣に並んでいるお肉のパックには、とんでもない値段が貼り付けられていた。
「肉じゃがか。まあ、野菜を切って煮込むだけなら、君にも作れるかもな」
ルチアーノの失礼な言葉を無視して、僕は端末に手を伸ばす。画面にレシピを表示させると、早速野菜の下処理に取りかかった。ピーラーで野菜の皮を剥き、一口ほどの大きさに切っていく。野菜が揃ったら、今度はお肉に手を伸ばした。
全ての具材を切り分けると、後は煮込むだけである。一度レシピを確認すると、指示された通りに油を熱した。先にお肉を放り込むと、火が通るまで炒めていく。色が変わったら、今度は野菜の乗ったまな板を手に取った。
軽く鍋の中身を炒めると、軽量カップをとって水を注ぐ。レシピ通りの分量を注いでも、全体が浸される様子はなかった。分量的には正しいのだろうが、少し心配になってしまう。鍋から顔を上げると、僕はルチアーノに声をかけた。
「ねえ、ルチアーノ」
「なんだよ」
「水の量って、これでいいの?」
僕の言葉を聞くと、ルチアーノは鍋の中身を覗き込む。すぐに身を引くと、興味無さげに答えた。
「いいんじゃないのか。落とし蓋をするんだろ」
彼からのお墨付きを得たことで、僕は調理の続きに戻る。彼が大丈夫だと言うなら、このまま続けても問題ないのだろう。からかわれるのは厄介だが、分からないことを教えてもらえるのはありがたい。気を取り直して端末を見ると、次の手順を確認した。
野菜に火が通ったら、後は調味料を入れて煮込むだけらしい。食器棚から小さなボウルを取り出すと、冷蔵庫から調味料を引っ張り出す。僕はほとんど自炊をしないのだが、調味料だけはこういうときのために用意しているのだ。僕の持ってきたボトルを見ると、ルチアーノは呆れたように呟いた。
「おい。これ、賞味期限切れてるぞ」
彼の示した先には、醤油のボトルが置かれている。垂れた液体によって一部が変色したラベルには、西暦と月が印刷されていた。そこに記された数字の羅列は、二ヶ月ほど前を指している。賞味期限に無頓着な僕からしたら、全然大したことのない数字だった。
「これくらい大丈夫だって。火を通せば、大抵のものは食べられるんだから」
あっけらかんとした声で返すと、僕はボトルに手を伸ばす。レシピとにらめっこしながら、中身を軽量スプーンに流し込んだ。乱雑に調味料を混ぜ合わせる僕を見て、ルチアーノはあからさまに顔をしかめる。
「もう少し気にしろよ。傷んでても知らねーぞ」
「大丈夫だって」
心配するルチアーノをよそに、僕はボウルの中身を鍋に入れた。グツグツと煮えたぎる水分が、醤油によって淡い茶色に染まる。後は落とし蓋をして二十分ほど煮込めば、ちょっと贅沢な肉じゃがの完成だ。
しかし、ひとつ問題があったのだ。僕の家のキッチンには、落し蓋というアイテムがなかったのである。最後の最後になって、困ったことになってしまった。
「ねえ、ルチアーノ」
僕が問いかけると、彼はこちらに視線を向けた。面倒臭そうに息をつくと、少し投げやりな声で答える。
「今度はなんだよ」
「落とし蓋がない時はどうすればいいの?」
僕の問いを聞くと、彼はしばらく考え込んだ。アンドロイドとしての機能を活用して、知識のデータベースにアクセスしているのだろう。数秒ほど黙っていると、確信に満ちた表情で顔を上げた。
「そういう時は、アルミホイルを使えばいいらしいぜ。鍋よりも一回り小さく切って、空気を逃がす穴を空けるんだ」
与えられる指示に従って、僕はせっせと手を動かす。棚からアルミホイルを取り出すと、鍋の形に合わせて端を折った。形を合わせてから被せるが、思ったように留まってくれない。何度押さえつけても、端が浮いてきてしまうのだ。
「だから、穴を空けないといけないんだよ。空気が逃げないだろ」
隣から見ていたルチアーノが、焦れたように声を上げる。食器棚から菜箸を引っ張り出すと、アルミホイルに何ヵ所か穴を開けた。空気の流れが変わったのか、アルミホイルが動きを止める。そっと安堵の息を吐くと、僕はルチアーノに向かい合った。
「ありがとう……」
「全く、君は人の話を聞かないんだから」
咎めるような言葉を吐きながらも、彼は自信満々に胸を張る。何だかんだ言っていても、僕に頼られることが嬉しいようだ。僕としても教えてもらえるのは助かるから、文句を言うことなどできなかった。
ここまでの処理が済んだら、後は時間まで煮込むだけだ。端末のアラームを起動すると、二十分後を指定してタイマーをかける。完成を待っているうちに、洗い物を片付けることにした。まな板や食器を流しに移動すると、蛇口を捻ってお湯を流す。
ひとつしかメニューを作っていないのに、洗い物の量はそこそこになっていた。調味料を混ぜたボウルやスプーンが、余計に洗い物を増やしているのだろう。お肉を切った包丁とまな板は、特に念入りに汚れを落とした。
洗い物を全て片付けた後も、煮込み時間は半分くらい残っていた。せっかく自炊を試みたのだから、この機会に味噌汁を作るのもいいだろう。端末をインターネットに接続すると、簡単そうなレシピを探す。
検索ボタンを押すと、ページは山のようにヒットした。ネット上にある味噌汁のレシピには、多種多様な種類があるらしい。具材も豆腐やわかめなどの定番品から、季節の野菜を加えたものまであった。詳しいことは分からないから、一番上にヒットしたシンプルなものにする。
食器棚から小さな鍋を取り出すと、計量カップで計った水道水を注ぐ。慣れていれば目分量でも問題ないのだろうが、ここはきっちり計ることにした。料理を成功させる秘訣は、レシピを遵守することにあるらしい。空いているコンロで火にかけると、今度は食材の準備に取りかかった。
しかし、食材を用意する段階になって、僕はまたしても困ってしまった。自炊をしない僕の家には、味噌汁に入れる具材がないのである。豆腐のような生物などあるはずがないし、乾燥わかめだって買っていない。レシピに乗っている食材は、刻んだねぎくらいしかなかった。
「味噌汁って、具材がなくてもいいのかな?」
小さな声で呟くと、ルチアーノがちらりとこちらを見る。呆れたように息をつくと、どうでもよさそうな声で答えた。
「具無しの味噌汁を作るなら、諦めてインスタントにした方がいいだろ。フリーズドライなら、始めから具材が入ってるぜ」
「そうなんだけど、せっかくだから自分で作りたいんだよ。だしの賞味期限も近づいてるし」
僕が答えると、ルチアーノは不満そうに視線を逸らす。僕に横顔を見せると、少し尖った声で言葉を返した。
「どうせ聞かないんだろ。だったら、最初から好きにしなよ」
トゲのある物言いに苦笑しながら、僕は食品棚に手を伸ばす。小さな引き出しの中に入っているのは、粉末状のだしの袋だった。この手の粉末調味料も、以前自炊を試みた時に買っていたのである。傷まないように個包装のものを選んでいたが、少しも減ってはいなかった。
中からスティックを一本取り出すと、上を切り取って封を開ける。適量など分かるわけがないから、レシピ通りに計ることにした。洗ったばかりの計量スプーンを手に取ると、粉末を流し込んでお湯に溶かす。調味料の効果は万能で、すぐにかつおのいい匂いが漂ってきた。
そうこうしているうちに、端末からキッチンタイマーの音が響いた。画面を操作して音を止めると、落とし蓋を外して中身を覗き込む。水分も減っていて、それっぽく仕上がっているようである。試しにじゃがいもを持ち上げてみると、すぐにボロボロと崩れてしまった。
肉じゃがの火を止めると、味噌汁の続きに取りかかった。冷蔵庫から味噌を取り出すと、スプーンで計って鍋に入れた。この冷蔵庫の味噌も、少し前に実家からもらったものだ。
味噌を溶かして刻んだねぎを入れると、味噌汁もそれっぽくなってくれた。コンロの火を止めると、中身を器に移していく。両手で食器を抱えると、慎重に机の上へと持ち運んだ。
「ほら、できたよ」
机の上に箸を並べながら、僕はルチアーノに声をかける。一部始終を見ていた彼が、呆れたようにこちらへと歩いてきた。机の上に並べられた料理を一瞥すると、冷めた声色で言葉を紡ぐ。
「できたんだな。一人じゃ作れなかった肉じゃがと、具無しの味噌汁もどきが」
「うう……」
容赦の無い言葉選びに、僕は呻き声を上げることしかできなかった。彼の言うことは間違っていないから、声を荒らげて反論することもできない。足早にキッチンへと向かうと、レトルトのご飯をレンジに押し込んだ。
「とりあえず、ちゃんと形にはなったでしょ。レシピを見て作ったから、味は確かなはずだよ」
温まったご飯を手に取ると、取り皿と一緒に机に運ぶ。調理工程は綺麗ではなかったかもしれないが、完成してしまえば同じなのだ。いいお肉で作った肉じゃがは、油が染みだしておいしくなっているだろう。食べるのが楽しみだった。
「僕も食べる前提なのかよ。……まあいいか。君の技術を確かめてやるよ」
尊大な態度で言葉を紡ぐと、彼は向かい側の席に座る。器の中から肉じゃがを掬うと、静かに取り皿へと移した。箸で恐る恐る具材を掴むと、ゆっくりと口の中に放り込む。試されているような仕草に、心臓がドクドクと音を立てた。
「まあ、味は悪くないな」
小さな声で呟かれる言葉に、僕はホッと息を吐く。これでおいしくないなんて言われたら、僕の心は挫けてしまっただろう。ルチアーノが言うのなら、味には自信を持っていいはずだ。器に手を伸ばすと、僕も肉じゃがを口に運んだ。
「おいしい……」
口に広がる味わいに、思わず口から声が出てしまう。お肉から染みだした油が、肉じゃが全体に浸透して味を濃厚にしているのだ。この深みとおいしさは、スーパーの特売肉では再現できない。自分で作ったという経験も加味されて、その感動はひとしおだった。
「なに間抜けな顔してるんだよ。いい食材を使ってるんだから、味がいいのは当たり前だろ」
僕が喜びに浸っていると、正面から冷静な声が響いた。辛辣なルチアーノは、この程度のことでは褒めてくれないようである。少しの悔しさを感じながら、僕は彼へと言葉を返す。
「だって、おいしかったんだもん」
「肉じゃがの方はいいんだよ。問題は、この味噌汁もどきだ」
淡々と言葉を重ねると、彼は目の前のお椀へと手を伸ばす。そこに並々と注がれているのは、ねぎ以外の具材がない味噌汁だ。両手で器を持ち上げると、彼は恐る恐る口をつける。すぐに唇を離すと、顔をしかめながら呟いた。
「薄いな。味見をしてないから、味噌の量が足りてないんだ」
彼の口から零れた言葉に、僕は目を見開いてしまう。味噌汁の味付けで失敗しているなんて、どうしても信じられなかったのだ。僕はレシピを見て料理を作っているし、計量も怠っていないのだから。
「そんなことないって。ちゃんとレシピ通りに作ったんだから」
僕が反論しても、ルチアーノは表情を変えなかった。僕の方に視線を向けると、挑発するような態度で言う。
「なら、君も飲んでみなよ。実際に味わえば、この汁に足りないものが分かるはずだぜ」
そこまで言われたら、僕も応じないわけにはいかなかった。肉じゃがの取り皿を机に置くと、味噌汁の入ったお椀に手を伸ばす。恐る恐る口を付けると、中の液体をすすった。
「本当だ。薄い…………」
口の中のものを飲み込むと、僕も同じ言葉を呟く。口の中に入ってきたのは、味噌の風味が強いだし汁だったのだ。もう一度口を付けてみるが、その味わいは変わらない。明らかに、投入する味噌の量が足りていなかった。
「な。薄いだろ。だから、料理ってのは味見が大切なんだ」
呆然としている僕を眺めながら、ルチアーノは自信ありげに語る。言われっぱなしで悔しいが、反論することはできなかった。やはり、料理のことに関しては、僕はまだまだ未熟なようである。いつか彼を唸らせてやりたいと、僕は心に誓うのだった。