進捗サンプル 人間は、嫌な記憶の方が鮮明に残りやすいらしい。どこかで、そんな話を聞いたことがある。
だから、だろうか。
ルカが家に来た日のことは、今でもよく覚えている。
黒いランドセルを背負い、俺の両親に付き添われ玄関に佇む幼いルカは、俯きがちに申し訳なさそうな顔をしていた。
シン……と静まり返った玄関は、扉一枚を隔てて外の世界から切り離されてしまったように、冷たくて重い空気が漂っていた。
ほんの数秒前、扉が開いていた時に見えた外の世界は、春の日差しが地面を暖かく照らしていた。柔らかな風が木の葉を揺らし、遠くから小鳥の鳴き声が聞こえてくるような、そんな麗らかな景色が広がっていた。
それなのに。扉を閉めただけで、ここだけがその世界から取り残されたみたいに重く、重く、沈んでいる。まるで誰かが泣いたあとみたいな、冷たい空気だった。
その前日の夜、夕飯を食べ終えて、いつものようにテレビを見ようとした時だった。『大切な話がある』と両親が神妙な面持ちで言った。
普段であれば『早く宿題をしなさい』と言う母さんが何も言わない。いつもと違うその様子に少しだけ浮き足立つ。いったい、何の話なんだろう。ワクワクしていた。
俺は――今思えば不謹慎だと思うが――台風の時の雷やちょっとした地震なんかがあると、すぐにはしゃいで騒ぐ、そういうガキだった。
だからあの時も、両親のただならぬ空気を感じ取って、妙な高揚感を感じていた。
『突然だけど、コウはお兄ちゃんになるから』
そう、母さんが言った。
『お兄ちゃんになる』――それは、当時の俺にとって一大事だった。つい最近、ちょうどクラスの友達が『お兄ちゃんになる』と話していたことを思い出していた。そいつの話によると、お母さんのお腹が大きくなっていて、赤ちゃんがいるらしい……そんな話を聞いていたから。
俺は思わず母さんの腹を見た。母さんに変わりはない。でも、だんだん腹がデカくなっていったという話も聞いていた。だから確認した。
『母さん、“にんしん”してるの?』
その当時、妊娠、という言葉の意味を理解していたわけではない。ただ、女の人は“にんしん”して子供を“うむ”らしい……ということだけは、知っていた。
母さんは俺の言葉に少し驚いた顔をして、親父と顔を見合わせたあと、少し寂しそうに笑う。
『ごめんね、ちがうの』
どうして母さんが謝るのか、わからなかった。でも続く言葉で、身体の芯がスンと冷たくなっていった。
『琉夏くん、って覚えてる? ほら、去年の夏休みに北海道へ遊びに行ったでしょう?』
琉夏くん――嫌でも、覚えている。
やたら色が白くて大人しく、勉強ができて、教会の聖歌隊だかで歌を歌っていて……同じ学校にいたとしたら俺は絶対に関わらないやつだった。
俺と同い年だからか、何かと出来の違いを比べられるのも迷惑だった。『琉夏くんは、琉夏くんは』と、アイツの名前を出されるたびに鬱陶しくて仕方なかった。
それに最近、その『琉夏くん』のせいで、家の中がどこか落ち着かなかった。
理由はわからなかったが、両親はやたらと小声で話したり、どこかから、電話がかかってくることが増えた。そのたびに申し訳なさそうな顔したおふくろから『ごめんね、コウ。お部屋で待っててくれる?』と、テレビのあるリビングから、自室へ行くよう促された。俺の好きなアニメや戦隊モノの番組を見ている時でも、だ。まるで邪魔者扱いだった。
とにかく両親は、俺のいないところで『琉夏くん』の話ばかりしていて、本当に迷惑だった。
だから、心底嫌な野朗だと思っていた。
『アイツが、なに』
自分の口から出た声は、思っていたよりもずっとぶっきらぼうだった。もしかしたら、怒っているようにも聞こえたかもしれない。
『琉夏くんね、明日からうちに来るから』
『……え?』
腑抜けた声が出た。明日うちに来る、そう言った母さんは呆気に取られている俺を諭すように続ける。
『明日からね、うちの子になるの……誕生日はコウの方が早いから、コウがお兄ちゃんだよ』
突然『お兄ちゃんになれ』と言われて、そんなもの、なれるわけもなかった。
ましてや、散々出来の違いを比べられた、いけ好かない同い年の弟ができるなんて……冗談じゃなかった。
両親はそれ以上、事情を話そうとしなかった。だからこそ、余計に意味がわからなかった。
なんでうちの子になるのか、どうして俺が『お兄ちゃん』にならなければならないのか――何も、わからなかった。
そして、八歳の誕生日を迎えたばかりの俺は、それを受け入れることが出来なかった。
『コウくん、こんにちは……』
『弟なんていらない』
消え入りそうな声を遮るように、乱暴に言葉を吐き捨てた。ルカは驚いたように目を見開いて、じっと俺を見つめる。俺は負けじと真っ直ぐにルカを睨み返してやった。
目が合うとぴくりと小さな肩が揺れる。怖がるような、怯えるような瞳で、申し訳なさそうにへにゃりと笑った。でもその笑顔はすぐにしぼんで、視線は足元に落ちていった。
ランドセルの肩ベルトを強く握りしめていた白い手に、さらに力がこもる。下唇を噛みキツく結んだ唇が、わずかに震えているのが見えた。
そうだ。男のくせに女みたいにすぐ泣くから、余計腹が立って、嫌いだった。
北海道に遊びに行った時、ルカを泣かせてこっぴどく怒られたことを思い出す。なんて事はない、子供同士の喧嘩だった――はずだ。
それは、ルカが聖歌隊の衣装を着た写真を見たときの、俺の一言だった。
『女みてぇ、変なの』
『えっ、変じゃない……』
『俺はこんなの着たいと思わない』
その日は散々ルカと比べられて、心底腹が立っていた。ちょうど夏休みだったから、一学期の成績はどうだったとか、三者面談で何を言われただとか……そんな話題ばかりがのぼっていた。
今にして思えば、あれはきっと八つ当たりだったんだと思う。どうでもいいことで、必要以上にルカにキツく当たっていた。
初めはモゴモゴと小さな声で何か言い返していたルカは、次第に顔をくしゃくしゃに歪めてボロボロと涙を流し始めた。
ギョッとした。泣くとは思っていなかった。
あとはもう、よく覚えてない。気付いたら騒ぎを聞きつけた大人たちに見つかって、親父に思い切りゲンコツを食らった。
だから、俺は反射的に、また、ルカを泣かせて親父に怒鳴られると思った。
でも――誰も、何も言わなかった。
思わず両親の顔色を伺うように視線を泳がすと、二人は悲しんでいるような、怒っているような……言葉では言い表せない、複雑な表情をしていた。
ルカはというと、足元に落としていた視線をそっと上げて、口を噤んだままその場に佇んでいる。眉を垂れ下げて、困ったように微笑んでいた。けれど、その目の奥には涙が溜まっていて、それが零れ落ちないように必死に堪えているのがわかった。
まるで、泣くことを許されていないみたいだと思った。
ルカはキツく結んでいた口を開きかけて……けれど結局、何も言わなかった。
その瞬間、俺だけがわるものになったような、そんな気がした。
玄関に、張り詰めた沈黙が落ちる。
おふくろが、やけに甘く優しい声色でルカに言う。
『……ごめんね、琉夏くん。コウ、ちょっと機嫌が悪いみたい。ほら、上がって。今日からここがお家なんだから』
そう促されたルカは靴を履いたまま、土間で足を止めていた。それより先に踏み込むことを躊躇っているみたいに、ただ、立ち尽くしている。そんな姿がますます空気を重くさせた。
それまで、やり取りを黙って見ていた寡黙な親父が口を開く。
『琥一は、部屋に戻れ』
低く落ち着きのある声の主は、俺ではなく、ルカを見つめていた。おふくろもまた、視線の高さに合わせるようにルカの隣にしゃがみ込む。俯くルカの背中にそっと手を添えて、甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
ああ、俺は邪魔なんだ。
そう思った瞬間、喉の奥がカッと熱くなった。息が、詰まる。何か言ってやろうと思ったが、言葉は何も出てこなかった。
そのまま踵を返し、弾かれたみたいに自室へ向かって走り出す。わざと、大きく足音を鳴らしながら――せめて、自分の存在を無視出来ないように。
思い切り音を立ててドアを閉めた。
普段なら、すぐに部屋まで追いかけてきて『静かに閉めなさい!』と怒鳴り込んでくるおふくろが、いくら待てども来なかった。
どうしてだかわからないけど、涙が出そうになった。
静まり返った部屋の中で、親父の顔を、おふくろの顔を、ルカの顔を思い出す。
あんな顔をされるくらいなら――いっそ、思い切り怒鳴られて、ぶん殴ってもらった方がよっぽどマシだ。
心の底から、そう思った。
ルカの両親が交通事故で亡くなったこと。
その車に、ルカ自身も乗っていたこと。
それを知ったのは、その日の夜のことだった。
ずっと後悔している。
あの日、ルカに『弟なんていらない』と吐き捨てたことを。
なぁ、ルカ。
あの時――オマエを素直に迎え入れてやれば。無理にでも手を引いて、家に招き入れてやれば。家を出て行くなんて馬鹿げた選択、しなかったんじゃねぇか?
ずっと後悔している。
今さらもう、遅いけど。