よしよし 十月になると、気温は一気に寒くなった。昼間は暖かいのに、朝晩は布団が手放せないほどに寒い。風邪を引きそうになって、慌てて冬の布団を引きずり出した。
寒暖差が激しいと、人間は自律神経が乱れるのだという。体温を調節するために、たくさんのエネルギーを使うのだ。その結果、身体が疲れてしまって、やる気が出なかったり食欲が出なかったりするのだという。
だからだろうか。その日の僕は、あまり調子が良くなかった。いつもはしないような簡単なミスをしてしまったり、デッキに入れるカードを間違えてしまったりしたのだ。カードの発動タイミングを間違えた時には、ピンチに陥ってルチアーノを怒らせてしまった。
「おい、何を余所見してるんだよ。もっと集中しな!」
怒りの籠った声で、ルチアーノは僕を怒鳴り付けた。失敗している自覚はあったから、僕は謝ることしかできなかった。
「ごめん……」
その後も、僕の不調は治らなかった。ショップで必要なものを買い忘れてしまったり、目的地を間違えてしまったりしたのだ。その度にルチアーノは僕に指摘をし、家に帰る頃には、すっかり不機嫌になっていた。
「今日の君は、ミスばっかりしてるよな。もしかして、わざとだったりするのかい?」
僕に詰め寄ると、ルチアーノは不機嫌な態度で言う。ずっと僕のリカバリーばかりさせられているのだ。不満が溜まっているのだろう。
「わざとじゃ無いよ。ただ、なんか調子が悪くて」
「本当にわざとじゃないんだな。明日からはちゃんとしてくれよ」
「気を付けるよ」
会話を終えると、僕はとぼとぼと洗面所に向かった。服を洗濯機の上に置くと、ゆっくりと服を脱ぐ。気持ちが落ち込んでいて、動く気力が湧かなかった。
軽く身体を洗うと、湯船の中に身体を沈める。温かいお湯は、優しく僕の身体を包み込んでくれた。全身が収まるように、身体を折りたたんで湯船の中に収めていく。お湯の中で膝を抱えると、大きくため息をついた。
今日の僕は、本当にダメだった。何をしても上手く行かないし、挙げ句の果てには怒らせてしまった。気分が沈んで、身体から力が抜ける。息を止めると、お湯の中に顔を沈めた。
口から零れた空気が、ボコボコと上に上っていく。しばらく沈んでいると、息が苦しくなってきた。顔を水面に上げて、大きく息を吸い込む。身体が温まると、自然と涙が出てきてしまった。
僕は、何をしているのだろう。ルチアーノの力にならなきゃいけないのに、ヘマばかりしてしまうなんて。こんなんじゃ、呆れられて当然だ。もしかしたら、タッグを解消されてしまうかもしれない。
考えれば考えるほど、思考は悪い方に向いていく。後ろ向きな思考を振り払うように、湯船の中で頭を抱えた。
しばらくすると、身体が火照ってきた。お湯の熱に耐えられなくなって、お湯の中から這い出す。洗面所はそれなりに冷えているが、風呂上がりの身体では気にならなかった。タオルで身体を拭くと、衣更えした寝間着を身につける。
部屋に戻ると、ルチアーノがベッドの上に座っていた。ちらりと僕に視線を向けると、気まずそうに咳払いをする。
「さっきは、悪かったよ。少し言いすぎたみたいだ」
子供に気を遣わせてしまった。恥ずかしいような悔しいような気持ちになって、余計に涙が出てきてしまう。ルチアーノの前に倒れ込むと、そのお腹に顔を埋めた。
「うわっ! なんだよ!」
彼が困惑したように身体を強ばらせる。その胴体に腕を回した。涙がじわじわと零れて、目元を濡らしていく。
「ごめん」
答える声は、少し鼻声になっていた。気がついたのか、ルチアーノが小さく息を飲む。衣更えした寝間着は、生地がしっかりとしていて、少しの涙は簡単に吸い込んでしまう。涙の跡をつけるように、そのお腹に顔を沈めた。
「ルチアーノ」
呼び掛けると、彼は戸惑ったように身動ぎをした。僕の弱っている姿に、単純に困惑しているのだろう。一瞬の沈黙の後に、小さな声で言葉を返す。
「……なんだよ」
「よしよし、して」
「はあっ?」
「よしよし、して……」
僕の声に切実な響きを感じたのか、彼は怖々と手を伸ばしてくる。頭の上に手を乗せると、恐る恐るといった様子で手を動かした。
「よしよし」
何度か髪を撫で付けると、その手は後ろへと引っ込んでいってしまった。頭が寂しくなって、もう一度声を上げる。
「もっと、して……」
「ああもう、面倒くさいな」
鼻を鳴らしながらも、彼は再び手を伸ばしてくれた。髪の間に指を差し込むと、乱暴に頭を撫でる。その少し荒い態度が、今は心地よかった。
「うぅ……」
僕は、静かに涙を流した。鼻を啜りながら、ルチアーノの寝間着に顔を押し付ける。鼻の奥へと入り込む甘い匂いは、トリートメントによるものだろう。涙が染み込むことも気にせずに、僕はただただ泣き続けた。
「何泣いてるんだよ。もう大人なんだろ?」
ルチアーノが、戸惑った様子で声をかける。思えば、僕が彼の前で泣いたことはほとんどない。いつもなら、僕がルチアーノの涙を受け止めていたのだから。
「大人だって、弱い時はあるんだよ」
答える声は、あまりはっきりしていなかった。涙が溢れて、まともに喋ることさえできなかったのだ。こんな姿を見せるなんて、歳上失格だ。そう思いながらも、恥ずかしいとは思わなかった。
「何言ってるのか分かんないぞ。本当に、どうしちまったんだよ」
「ごめん。なんか、悔しくて」
声を上げようとしても、震えて形にならなかった。息が上手く吸えなくて、大きくしゃくり上げてしまう。ルチアーノが宥めるような声を出した。
「安心しろよ。あれくらいで見捨てたりなんかしないからさ。まあ、ちょっとはイラッとしたりするけどな」
温かい手のひらが、僕の頭を撫でてくれる。いつのまにか、その手つきは優しいものになっていた。愛おしむような、慈しむような、柔らかい触れ方だ。いつの間に、彼はそんなことを覚えたのだろう。
恋人に頭を撫でられていたら、少し涙も落ち着いてきた。大きく息を吸うと、ゆっくりと身体を起こす。涙に濡れた肌は、乾燥して固まってしまっている。恐る恐る見上げると、ルチアーノは柔らかい表情で僕を見ていた。
「やっと落ち着いたかい?」
「ごめん。迷惑をかけたね」
ルチアーノから離れると、引き出しから新しい寝間着を取り出した。彼の着ていたものは、僕の涙で濡れてしまっている。彼のことだから、嫌がるんじゃないかと思ったのだ。
「はい、これ」
「別にいいよ。このままで」
僕の差し出した服を、彼はベッドの横に置いた。あんまり気にしていないらしい。彼も、かなり丸くなったものだ。
布団の中に潜り込むと、ルチアーノが隣に寄り添ってくる。ひんやりとしていた布団は、二人の体温ですぐに温かくなった。温もりの中に身体を埋めながら、静かにルチアーノと向かい合う。
「それにしても、変な感じだよな。いつもなら、君が僕を抱いてるのにさ」
僕に顔を寄せながら、彼は小さな声で言う。そこにからかうような響きが混ざっているのは、僕が泣き止んで安心しているからだろう。
「たまには、こういうこともあるよ。僕だって、強いわけじゃないんだから」
「なんだよ。いつもはあんなに堂々としてるのに」
「あれは、強いふりをしてるだけなんだ。本当の僕は、すごく弱くて、ルチアーノがいないと生きていけないくらいなんだよ」
「ふーん。君は、僕を必要としてるのか。変なやつだな」
楽しそうに呟いて、ルチアーノはくすくすと笑う。僕に顔を近づけると、こつんと額を押し当てた。額の宝石のようなものが、肌に触れてひやりとした。その慣れない感触に、彼が人間ではないことを再確認する。
「ルチアーノ」
「なんだよ」
「僕を見捨てないでね」
呟くと、彼は呆れたように笑った。甘やかな吐息が、僕の肌に触れる。それはほんのりと甘くて、どこか機械的な香りだった。
「それは、君次第だな」
くすくすと笑いながら、ルチアーノは言う。言葉とは裏腹に、そこには優しい気配が満ちていた。