二つの日記帳「ただいま、いつもビデオレターをありがとう。チェーミン、もうあんなに文字を覚えたのかい?」
「うん! 『ぱぱ』も『まま』も『おにいちゃん』も、全部書けるんだ!」
久しぶりの帰還に駆け寄るチェーミンを抱きしめながら、ブライトは我が子の成長を噛み締めていた。
文字が書けることだけじゃない。髪も背丈も伸びて、少しずつお姉さんになっている。子どもの成長は早いものだと、ブライトは家族と長く過ごせない自身の職務を少し恨んだ。
もうすぐ五歳を迎えるチェーミンはトレードマークの赤いリボンを着けておめかしをして、自分の帰りを迎えてくれた。なかなか一緒に過ごすことのできない自分を思ってこの姿を選んでくれたのかと思うと、目頭が熱くなるのを感じた。
「ハサウェイも、元気にしているみたいだな」
「うん! 学校でいろんな勉強をしてるんだ。もしかしたら僕、学者になれちゃうかも」
「ふふ、この子ったら、この間のテストが満点だったからすっかり調子に乗っちゃってるのよ」
人差し指で鼻の下を得意げになぞるハサウェイを、ミライが笑いながら頭を撫でた。
二人とも自分のことを忘れずに成長してくれていることがなにより嬉しかった。ミライが自分を信じてくれていること、そしてビデオメッセージを通して会話の機会を作ってくれていることの賜物だろう。ブライトは自分の伴侶がミライであることを心底幸せに思った。
「そうだ、二人にお土産があるんだ。…気に入るかどうかはわからないのだが……」
二つの包みを取り出して子どもたちに手渡した。
「わぁ! なぁに? お菓子かな?」
「おもちゃかもしれないぞ?」
甘い想像をする二人を見て、少し複雑な気持ちに駆られつつも、無造作に包装を開く二人の姿を静かに見守った。
「…? 鍵が付いてる。本? なのかな?」
包装紙の下から現れたのは、箱に入った鍵付きの日記帳だった。
「お菓子やおもちゃじゃなくてすまない。これは日記帳なんだ」
「ニッキチョウ?」
「そう。今日はこんなことがあった、あんなことを考えた、とか、いろんなことを書いて記録していくものなんだ」
学校で使う薄く簡素な造りのノートとは全く違う、革製の立派な表紙を携えた紙の束に、ハサウェイはどこか魅了された。
「あっ、これ僕の名前が書いてある! こっちはチェーミン」
「二人の名前を刻印してもらったんだ」
「コクイン?」
「父さんも仕組みはよく知らないんだが、ずっと消えないものらしい」
「じゃあ、この赤い本はずぅっとチェーミンだけのものってこと?」
「そうだよ、君のためだけの日記帳なんだ。もちろん、ハサウェイのものも、世界で一つだけのものだよ」
「僕だけのもの! そいつはすごいや!」
「ニッキ?のことはよくわからないけど、すごーい! これ、チェーミンだけのものなんだ!」
リボンと同じ鮮やかな赤をした重厚な日記帳を掲げて、チェーミンは喜びをあらわにした。
「じゃあ、僕の日記にはチェーミンは触っちゃだめ。僕もチェーミンの日記には触らないようにするから。どっちも秘密のものにしよう!」
「うん! ひみつ!ひみつ! ぜーったい覗いちゃだめだからね!」
自分だけのものや秘密を持つこと。そういうことを嬉しく感じる年頃にまで我が子たちが大きくなったことを感じ、ブライトは目尻にしわを寄せ微笑んだ。
*
▼ Side Chemin
その日記帳は年月日の前にスペースがあり、自分で記入していつからでも使える仕組みだった。そのため、まだ特定の単語しか書くことのできないチェーミンにはこの空白が示すものが何なのか分からず、早速ミライに救援を求めた。
「ねえママ、これはなあに?」
「どれどれ…ああ、ここには今日は何月何日ですよっていうことを書くのよ。いつの日記なのかがわかるようにね」
「うう〜どうやって書いたらいいかわかんない」
「そうね、特に年号の部分はまだ難しいかもしれないわね。それじゃあチェーミン、今日から一緒にカレンダーの読み方を勉強しましょう。そうしたら、いずれあなた一人で日記が書けるようになるわ」
ミライは、チェーミンの頬を撫でながら
「だってこれはチェーミンだけの日記帳ですもの。ママだって見ちゃダメ、でしょ?」
とウインクした。
「そうなの! これはチェーミンだけのものだから! ママにだってナイショなの!」
イタズラっぽい笑顔でチェーミンが応えた。
「それじゃあママと一緒に、カレンダーの読み方を覚えながら、別の紙に日付を書いてみましょう。それを見ながら日記帳に写し取れば、ママはチェーミンの秘密をちゃんと秘密のままにできますからね」
「うん! そうする!」
それからしばらくの間、ミライと一緒にカレンダーを読みながら、日付を書く練習を続けた。チェーミンは飲み込みが早く、半年もしないうちには読み方と書き方を覚え、自分一人で日記帳に向かうようになっていった。
文章というよりはわかる範囲での単語の羅列ではあったが、それでも自分だけの日記帳に自分の感じたその日の出来事を書き留めていくことに面白さを感じていた。
おままごとでハサウェイに犬の役をやってと言ったら断られたこと。ミライと一緒に家事をしたこと。ブライトが帰ってくる日に合わせてご馳走を作ったこと。自分一人で料理ができるようになったこと。料理を「美味しい」と言われるととても嬉しい気持ちになること。
けれど独り言を言っているような気恥ずかしさを感じることもあり、時々幼い頃からの友人のテディベア・テッドに話しかけるようなかたちで日記を綴ることもあった。
こうして、他愛もないけれどチェーミンにとっては大切な出来事の数々を、日々少しずつ綴っていった。
余程のことが無い限りは日記を書くことが日課になり、日記帳のページが無くなりそうになったらブライトに頼んで新しい日記帳を買ってもらうほどになった。
勿論、「Chemin」の刻印を入れた《特別》のものを。
*
UC0104年○月△日
お兄ちゃんはまたしばらくの間出張みたい。教授がスラウェシ島にいるから、そこに行くんだって。植物監察官は世界中の植物のことを調べるから、長く家を留守にするのは仕方ないことなのかな…
最近はレジスタンスが現れてなんだか政府と揉めているみたいだし、少しこころがザワザワするの。コロニー落としが起きた、あの頃みたいに…
ねぇテッド、お兄ちゃん、無事に帰ってきてくれるよね?
*
▼ Side Hathaway
妹のチェーミンほどまめにではなかったが、ハサウェイも時折日記に出来事を綴っていた。空の日付欄は、習慣化出来なくてもそれを許してくれる許容力があった。
そして、ある時を境に、その日の出来事でないことを書くことが増えていった。それでも分厚い紙束が埋まるほどではなく、青の日記帳には白紙のページがまだたくさん残っていた。
長期の出張を控え、ハサウェイは久方ぶりに日記帳を開いてみた。
なぜ開いたかはわからない。けれど、書くなら今しか無いような、そんな気持ちがしたのだった。
ぎこちない文字で思いつくままのことを綴り、パタンと日記を閉じて引き出しに仕舞って、ハサウェイは再び出張の支度へと戻っていった。
“△, ○, UC0104
Dear God, if you really exist, please grant me one wish.
Please erase all memories of me.
From all the people who have been involved with me.”
《神様、あなたが本当に存在するのなら、
一つだけ僕の願いを叶えてください。
僕に関する記憶を消してください。
僕に関わった全ての人たちから。》
【了】