ベッド珍しく花城と言い争いになった。
珍しくというよりは、初めてだったかもしれない。
小さなアパートの部屋の中で、花城と立ったまま向かい合いながら、謝憐はぼんやりとそう思った。
二歳年下の花城は、いつも謝憐の言うことには従順だった。何でも言うことを聞くわけではなかったけれど、頑なに反対することもなく、たいていは謝憐の願いを尊重してくれた。
それなのに、なぜか今日は折れてくれない。
「だから君がベッドで寝ればよかったんだ」
「昨日も言ったでしょう。泊めてもらっている分際で、それはできない。今日も僕は床でいい」
静かにそう言う花城の声はどことなくかすれていて、語尾には軽い咳が続いた。
「風邪を引いている人を床で寝かせられるわけないだろう。絶対にベッドで寝てもらう」
「それを言うなら、兄さんを床で寝かせられるわけないでしょう。ここは兄さんの部屋だ。兄さんがベッドを使ってください」
「君は客で、しかも具合が悪いんだ。意地を張っていないでベッドで寝てくれ」
先ほどからずっとこの調子である。
意地を張っているのがどちらなのか、謝憐にももうわからなくなっていた。
そもそもの発端は、花城が「家族とケンカして追い出された」と泊まりに来たことだった。家にもきちんと連絡を入れた上で数日なら泊まっていいと許可すると、花城はほっとした顔で礼を言った。
しかし問題は、学生向けの一人暮らし用のこのアパートに、男二人が寝泊まりするスペースがないことだ。ベッドはひとつ。ソファなんて気のきいたものはない。寝具は毛布だけなら余っていたが、マットレスはもちろん、クッションや座布団でさえも部屋には置いていなかった。
そこで花城が提案してきたのが、
「僕は床で寝る」
だった。あわてて止めようとする謝憐をしり目に、花城はさっさと床に横になってしまい、初日の夜は押し切られた。
そうして二日目が過ぎ、三日目の朝。
目が覚めた花城は、風邪を引いていた。
狭い室内に気まずい沈黙がおりる。外の喧噪がやけにむなしく響いた。
花城は相変わらず口を真一文字に結んで、固い表情で横を向いている。
謝憐はため息をついた。
「三郎、どうしてそんなにベッドを使うのを嫌がるんだ。そりゃ他人と寝具を共有するのは抵抗があるかもしれないけど、シーツも枕カバーも洗っているし、それでも嫌なら新しいものを買ってくる。どう?」
花城はゆるゆると首を振った。
「ベッドが嫌なんじゃない。兄さんが床で寝るのが嫌なんだ」
「じゃあ、君さえよければベッドで一緒に寝よう」
何の気なしにそう言うと、花城は弾かれたようにこちらを向いた。
信じられない、という表情にも見えたし、何かを期待するような、懇願するような、それでいて恐れているような顔にも見えた。
不自然な沈黙のあと、花城はやはり静かに首を振った。
「だめだ。風邪がうつる」
「今さらだろう。こんな小さな部屋で一緒に過ごしているんだから」
「それでもだめだ」
「遠慮しているのか? 私に遠慮なんてしなくていいんだよ」
そう告げると、花城が眉根をぐっと寄せて何かをこらえるような表情をした。両手を握りしめて、呼吸をおさえ、歯を食いしばり、目をせつなげに潤ませて……何だろう、必死で何かを我慢しているような。
謝憐は、はたと気づいた。
ああ、そうか、そうだったんだ。
気づいてあげるべきだった。鈍感すぎて彼に申し訳ない。
三郎は、三郎は――――
――――ものすごく体調が悪いのでは?
きっとそうに違いない。いつも謝憐に面倒をかけまいと気をつかってくれている花城が、風邪が悪化してしまったことを正直に言えないという可能性は大いにあった。年上の自分が気づいてあげなければいけなかったのに、情けない。
謝憐は意を決してくるりと背を向けると、ベッドの掛け布団をめくり、枕をととのえ、もう一度振り返って有無を言わせぬ目つきで花城の腕をつかんだ。
「とにかく! 今だけでもいいからここで寝ること。いいね?」
毅然とした口調に花城が気おされているうちに、ぐいっと腕を引っぱり、ベッドに座らせて両肩を押さえ、――そして謝憐は体ごと花城の上に倒れ込んだ。
「?!」
「?!」
足元に放ってあった脱ぎっぱなしの服に、運悪く足を取られたのだ。そう気づいた時には、花城を押し倒す形でベッドの上に乗り上げていた。息のかかる距離で目が合い、一瞬時間が止まる。綺麗な深い色の瞳で見つめられ、謝憐はかつてないほど動揺した。
「ご、ごめん!」
慌てて体を起こすと、背に回されていた花城の手が力なくベッドに落ちた。
「兄さん……」
どうやら反論する気力もなくしたらしい。
花城はそのままぐったりと横になり、謝憐はほっと息を吐いた。
さっきよりも花城の頬が少し赤い気がする。
やっぱり具合が悪かったんじゃないか。熱が上がってしまったのだろうか。
我慢せずに何でも言ってくれればいいのに。水臭い。
すらりとした彼の長身をしっかり掛け布団でくるみながら、謝憐は今朝からの言い争いを埋め合わせるように、やさしく言った。
「三郎、少し寝ていて。風邪薬を買ってくる」
「うん……ありがとう」
ドアを閉めた後、謝憐の匂いとぬくもりが残るベッドの中で、押し倒された時の感触を思い出してしまった花城が、何をどう我慢しなければいけなかったのか、謝憐が知るのはずっと後のことだった。