Yes,Yes シルクのパジャマに袖を通しナイトガウンを手に取った瞬間左馬刻から電話がかかってきた。
「よぉ、じゅーと。明日休みっつってたよなぁ」
「あぁ」
「今から酒持って行くわ」
「いや……」
「んだよ。まだ仕事中か?」
「いや、もう自宅だ。左馬刻。悪いが明日は買い物に行く予定があるから酒には付き合えない」
「買い物?」
「あぁ。悪いな」
「ふーん……。分かった。じゃぁな」
唐突に通話は切られた。
ビジー音が耳に痛い。だが左馬刻の声色は怒っている風でもなかった。
機嫌を損ねないように。尚且つ誤解を与えないように。慎重に断ったはずだったが。
一から十まで説明した上で断らないと左馬刻は引かないのだと、早朝のインターフォン連打で俺は思い知った。
「買い物つきあってやんよ」
玄関を開ければ、遠足に行くガキみたいな笑顔でずかずかと入ってくる左馬刻に怒る気も失せる。
「珈琲淹れてやっからさっさと支度しろ」
我が物顔で俺の横を通り抜け部屋へ入っていく左馬刻を溜め息混じりに振り返ったが、見慣れないロングコートに包まれた背中に不覚にも胸がときめいた。こっちの都合などお構いなしな強引さも、プライベートの気恥ずかしさを隠しているように思えてくるから不思議だ。
まぁいいか。
買い物が済んだら飯でも行こうと誘うつもりでいた。
予約した時間まであと一時間。
珈琲のおかわりができるといいが。
できるだけ人の少ない時間帯にと、朝一番の時間帯に予約を入れた。目論見通り、開店したばかりの百貨店は平日なのも相まって客よりもスタッフの数が多い。
一歩下がって俺についてくる左馬刻に「こっちだ」とエスカレーターを指させば、俺を追い越しステップに足を乗せる。
「てか何で枕なんだよ。今使ってるのも羽毛がどうとかこうとか言ってたじゃねぇか」
確かに。
あの枕も時間をかけて検討した末に購入した。当時使っていたシンプルなシングルベッドに不釣り合いな程大きくて高級な枕だ。
引っ越しと同時に大きなベッドに買い替え、サイズ的には問題なくなったのだが。
「お前が自分の枕を持ってきたからだよ」
真顔でそう答えると、左馬刻が眉を顰めた顔で振り返る。
―― てめぇ、こんな場所で何を言い出すんだ ――
そう言いたげだ。笑いをかみ殺して見据えてやると、左馬刻は探るように俺の後方に視線を走らせた。大丈夫。誰も居ないから放ったひと言だ。動揺したのか、階に到着した第一歩でつんのめっている。いつもみたいに噛みついてくるかと思ったが、ふんっとそっぽを向いたまま大股で歩いていく。
店の位置も知らないくせに。
人生の三分の一は睡眠時間である。
よく耳にする言葉だ。
正直、睡眠時間を八時間としてはじき出したその数値が自分に当てはまるとは思っていない。左馬刻も然り。だが、人よりも睡眠時間が短いなら尚更良質な睡眠をとりたい。
今日訪れるオーダーメイド枕専門店は、以前からずっと気になっていた。ベッドを共にするようになり半年ほど経った頃、左馬刻が枕に文句をつけ始めてからずっと。曰く「低すぎる」と。そしてある晩、枕持参で乗り込んできたのだ。
そりゃぺしゃんこにもなるだろう。男が二人で頭を並べて眠る想定で作られた枕ではない。時には重なった二人の下敷きになったりもする。そして現在、俺の枕は半分ベッドからはみ出した状態だ。だからまだ使えそうだが弾力を失った枕をそろそろ手放そうと決めた。
店に予約を入れる際に左馬刻も誘うべきか悩んだが、あいつはああ見えて物への愛着が強い。きっと「俺はあるからいい」と断るだろうと誘うのを止めたのだが。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。お、お揃いですか」
出迎えてくれたスタッフは固い笑みを貼り付け目を瞬かせている。『お揃いですか』は、MTCの二人がという意味だろうが、内心すっかりデート気分でいたから、明るく「えぇ」と頷いてしまい咳払いで打ち消した。
「勝手についてきたんです」
「うっせ。俺は適当に見てるわ」
無愛想に呟いて店内をうろつき始めた左馬刻にどう接するべきか困り果てている直立不動のスタッフが気の毒だ。
「では、よろしくお願いします」
そう切り出すと、我に返ったスタッフが「こちらへどうぞ」と売り場と仕切られたスペースへ案内してくれた。
小さな机を挟み対面で座りヒヤリングから始まった工程は、さっきのぎこちない接客からは想像できないほどスムーズだ。
スタッフがペンを走らせている間に中材のサンプルを手に取ると、左馬刻とスタッフの談笑が天井に届かないパーテーションの隙間から流れ込んできた。会話の内容までは聞き取れないが、何やら楽しげだ。
「中材、どれがお好きですか?」
「あ……そうですね、」
会話に聞き耳を立ててしまい相槌が遅れてしまった俺に、スタッフが揶揄うように声を潜めた。
「お待ちですね。急いで進めましょう」
「いや全然。急がなくていいですよ。これと、これが好きな硬さですね」
何食わぬ顔で二種類の中材を指差したが、どうやら早口が災いしたようで、『分かってますよ』と言わんばかりの微笑みを返されてしまった。
一通りを終え売り場へ戻る際にチラリと確認した腕時計の時刻は既に一時間半が経過していた。来店時より客数の増えた売り場を瞳だけ動かして見回したが、左馬刻の姿が見当たらない。どうせ煙草でも吸いに行ったのだろう。やれやれとポケットからスマホを取り出すと、それを目ざとく見つけたスタッフがいそいそと近づいてきた。恐らく左馬刻の相手をしてくれていた女性スタッフだ。
「お疲れ様でした。あの……」
「なんでしょう?」
「碧棺様はお車でお待ちです」
「そうですか。ありがとうございます」
会釈を返すと、「ではお受け取りのご予約を」と今度はレジ横のカウンター席に案内される。あと少しだ。受け取りの日時を決めれば店を出られる。あくまでも左馬刻が勝手についてきて困った体でこの場を去りたかったのだが。
「お二人、お似合いですね」
その語尾にハートマークを添えた好奇心満々の一言を贈られて、反射的に「いやいや」と声が上擦った。
ようやく手続きを終えて店を出た。
しんとした薄暗い駐車場で車に近づくと、助手席の窓から左馬刻が燻らせている煙草の煙だけが見えた。シートを倒しているようだ。車に近づくにつれ、こんな所で待たせて悪かったな……と歩幅が大きくなる。左馬刻だって決して暇だった訳じゃない。俺たち警察が抗争を警戒する中、舎弟の尻拭いに奔走し憤りを押し殺して頭を下げ事を丸く納めたと聞いている。愚痴の一つも言いたいだろうに飄々とした顔で部屋を訪れ、そして硬い車のシートの上で俺を待ってくれている。
せっかく二人で行ったのだから、左馬刻の分も作ってもらえば良かったと今更の後悔に胸がチクリと傷んだ。
売り場でスタッフと一体何を談笑していたのか気にはなるが根掘り葉掘り聞くのはやめにしよう。
そう心に決めて助手席の窓をコンッと叩くと、咥え煙草で起き上がった左馬刻が嬉しそうに睫毛を揺らした。
両手が塞がっているから、不自然に体を傾けて取手を掴み思い切りドアを引き開ける。頑丈な扉が閉じていく隙間に足を挟んで何とか荷物ごと体を捻じ入れた。
「左馬刻、どういう事だこれは」
三和土に揃えられたブーツ。廊下の奥からは腹の虫を起こす美味そうな匂いが漂ってくるが、左馬刻は出てこない。
「おぅ。ご苦労さん」
離れたキッチンから声だけで出迎える時は、大抵何かしら心算がある証拠だ。
というか、その心算は俺が持っているでかい紙袋の中だ。
「手が塞がってんだ。開けろ」
行儀悪く脱ぎ捨てた革靴がブーツを倒したが、御構いなしで廊下を歩くと、やっと左馬刻がドアを開けて俺を出迎えた。
「おー。大荷物だな」
「誰のせいだと思ってんだ」
「寝心地が楽しみだろ。良かったな」
「誤魔化すな。俺が聞いてるのはこっちだ」
鞄と一緒に床に置いたのは、受け取ったオーダーメイド枕だ。本来俺が持って帰るのはこれだけだったはずなのに。
「これは何だ」
紙袋に手を突っ込んで中身を掴み引き出せば左馬刻が煙草を噛む白い歯を見せははっと他人事のように笑った。
「すげー。結構でかいな」
「だから、何なんだこれは」
「あん? 見たまんまだわ。イエス・ノー枕? だっけか?」
「お前……注文したのか?」
「するかよ。『カップルでご来店いただいたお客様にプレゼント』だってよ」
「プレゼント……」
掠れたダミ声は全く似てはいなかったが、左馬刻が真似たのがあの店のスタッフである事は分かった。だから言われたのだ。『お似合いですね』と。
「いや、断れよ」
「んでだよ。プレゼントっつーのに断れねぇだろうが」
俺なら丁重に断るが。と、密かに溜息を溢したが、まぁそれが左馬刻だと思い直す。あの談笑中にこの『プレゼント』を素直に受け入れたのだろう。
正直、内心悪い気はしていない。むしろせっかく頂いたのなら――いや、待てよ?
そこでようやく俺はある事に気づき、手にしていた枕をくるりとひっくり返した。
「なぁ、左馬刻」
「んだよ」
「これ、裏も『YES』だ」
「おぅ」
「『NO』の枕がないな」
使う使わないはともかく。揃っているはずのものが無いと分かれば損をした気分になるものだ。
スタッフが渡し忘れたのか。それとも店に置いて来てしまったのかと記憶を辿る俺に、左馬刻がふてぶてしい笑みを浮かべてこう言い放った。
「NOはいらねぇっつったんだわ」
「は? 誰に?」
「あ? 店員に決まってんじゃねぇか」
「いや、お前……それは……」
生々しいにも程があるが、口に出すのはやめた。当然だと唇を尖らす左馬刻を、気づけば俺は思い切り抱きしめていた。馬鹿がつくほど真っ直ぐなこいつに絆され続けて今があるのだ。
「何だよ。まだ『YES』の時間じゃねぇぞ」
左馬刻の楽しげな声に、あぁこんな甘い会話を交わすための枕なんだなと俺の気持ちが着地する。
「俺は『YES』なんだが」
「飯が先だ」
「お前を食べたい」
そう耳元で囁やけば、左馬刻が俺の首に手を回しコツンと軽く額を合わせて美しい緋色の瞳を潤ませた。
「な? NOはいらねぇだろ?」
「そうだな。お前が正しい」
END