神の眼に映るものは───「知らない方が幸せなことだってある」
神様はポツリとそう零した。世界に一人だけ取り残されたような強い孤独を感じて、私は俯きながら、ふらふらと雲の上を歩いていた。
「このまま天界から堕ちてしまおうか」ふとそう思い、重点を右にして、足を揺らした。───そして、頭から落ちた時だった。
誰かが囁いたのだ。
『…なら、来いよ。地獄の世界に!』
〖地獄へようこそ!〗
ハッと息を飲んで飛び上がった。
笑い声が残響となり頭から離れない。
「ゔっ」
壁に背を持たれて、周りを見渡す。
一面、おどろおどろしい赤に染まっていた。下に除く穴から黒い滝が流れ、魂が天井を埋め、人骨がそこらに散らばっていた。
腹の底から何かが這い上がる。胸の真ん中を抑え、吐き気に耐えようとした。
「き、気持ち悪い…」
まるで、いや、これは言わずもがな。
(───"地獄"じゃないか!)
屍(しかばね)を踏んで道を行くバケモノに悲鳴をあげながら、私はここから出ようと走った。
しかし、扉を抜けても光はなく、逃げても逃げても迷宮である。
最果てに辿り着いても、望む景色はない。
(色がない。
この世界には、希望の色が一つも…)
後ろから大きな声がした。
『走り回るな!はァ、全く、随分元気なこった。オマエが暴れるせいで足が疲れたぞ』
私の肩を叩いて、男はウンザリしたようにあくびをした。身体が震え上がる。
奇妙な笑顔を向ける男には見覚えがあった。
(既視感ではない。確かにヤツを知っている。しかし一体どこで…)
…いや、思い出せない。
男が靴をカッと鳴らし、痺れを切らしたように怒鳴った。
『おーい!無視す、る、な!』
「ひっ」
『大体なァ、お前がココに来れたのはオレのお陰だかんな。放っておいたら、そのまま死んでたんだから、恩人様に感謝しろよ』
「恩人様…?」
『アハハ、いい響きだな、もう一回!』
男を白い目で見る。
(待てよ。こんなアホそうな男だったか?)
前に見たのは、そう、不気味でどす黒い悪魔だったじゃないか。きっと人違いだ!
「すみません、用はこれだけですか?
私、急いでるんです」
『え?』
「なので、失礼します」
『あ、ちょっと、待って』
丁寧に断り そそくさと橋を渡る。だが男が急に袖を掴んだせいで、転びそうになった。
ウザったいので、私は男に言ってやった。
「あのね。どこの野郎か知らないけど、迷惑です。そんなに暇なら、周りの人骨でも片づけたらどうですか」
「このアホヅラ!」
早口でまくし立てる。一方的な攻撃をして
スッキリしたので、私は帰るべく、前を進んだ。
(諦めてはならん。私は”まだ”神様だ。必ず道は拓ける、信じれば生きてゆける)
男は突然のことに驚き、固まっていたが、
千切れるくらい羽を動かして、空を舞った。
『アホだと…?この無礼者が。地獄に堕ちても知らないからな』
その声は地獄の最果てまで響いていた。
〇
私が天空から地獄に来て、一日目。
何故ここに来たのかは、もう忘れた。もはやどうでもいい。脱出できりゃあバンザイだ。
(だが…ううん、困ったな)
すっかり暗くなったなと思う。否、日が暮れたのではなく〈視界的な問題〉が発生したのだ。
…魂が消えてしまった!
〖アヤトリサマのマツリ〗
唯一の光を失い、空間が闇に包まれたので、もう手探りで進むしかない。
ドン、と巨大な背中にぶつかった。
「痛いッ」
『どこ見て歩いてんだ、薄汚れたチビが』
思わずムッとする。なんて物言いを…と血が上るのを沈めて、問う。
「すみません、地獄に来たばかりなので迷ってしまって。どうか道を教えてはくれませんか」
こういう相手は礼儀正しく接した方が良い。
長年の人間観察の経験が、ようやく生かされた。ヤツはぶっきらぼうに言った。
『チッ、またか。面倒な輩(やから)ばかりが増え続けるな。もういい、着いてこい』
「ありがとうございます!」
ヤツの腕を掴みながら、バケモノに混ざって窮屈に身を寄せて歩いた。
ある場所に立ち止まる。
そこから楽しそうな声が聞こえた。
『マツリ、マツリ、ミナツドエ』
『アヤトリサマノ、オナーリー!』
天井から降り注ぐ光のように、灯篭が綺麗に並び、暗い襖(ふすま)から一人の女性が現れた。
黒い髪を靡か(なびか)せて、両手で着物を摘み、堂々と歩く様は非常に美しく、同時に、呑まれそうな恐さがあった。バケモノが騒がしく歓声をあげた時。
『皆、静まれ!』
ピタリと音を止めて皆、彼女の方を向いた。
彼女は周りを見渡した後、目を開いた。
『…おや、アイツは…』
今度は私の方を見て、こう言う。
『初めて見る顔じゃな。新人か?』
「え?えっと…」
すると周りの野郎がブーイングをし始めた。彼女は先頭にいるバケモノ一匹を捕え、崖につき落とした。ビクリと肩を揺らす。
『黙れ。今度騒いだら、お前達も同じ目に遭わせてやるぞ』
(怖…)
コイツは怒らせたら面倒なタイプだ。
『めでたいのう。お前は”綺麗すぎて”好きじゃないが、年に数回のマツリだからな。寛大な心で許してやろう』と彼女は笑った。
(くそ、上から目線が多いな)
とりあえず疑問に思った事を聞いてみる。
「なぁ、マツリとは何だ?」
『口の利き方を正しなさい、坊や』
「坊やじゃないですけど」
『ふははっ、生意気じゃな!反抗的な態度は嫌いじゃないぞ。よろしい、アヤトリサマが答えてやろう』
『それじゃ、坊やはそこで見てなさい』
「だから坊やじゃ…うわっ!」
台から飛び降りて、彼女は大鎌を振りかざした。バケモノは首を切られ、それは床に落ちた。残酷で、無慈悲で、とても見ていられない。
(これは…)
私の知っているマツリなんかじゃない。
こんなもの…ただの殺し合いじゃないか!
赤い飛沫がシミとなり、真っ白な服に残る。空間は重く、どろどろと歪んでいく。
(逃げないと…早く、ここから!)
こんな場所に居てはならない。しかし逃げようとしても周りが崖になっていて、逃げ場がなかった。
アヤトリが冷たい声で言う。
『この中に、紛い者がいる』
その言葉で、周りがざわめき始めた。
(…私の事じゃないか。ああ、耳が痛い)
…もしかしたら、あの時のように。
──神様の”交代”を求められた時のように、皆が血で血を洗い、争うのではないか。人間が一人消え、また一人消え、私の仲間も殺されて…呼吸が浅くなり、両手が震え出した。
『紛い者?かわいい顔したコイツの事か?傷一つねぇ”綺麗”なヤツだなァ…』
『んなもん地獄に相応しくない。
さっさと消えろ』
バケモノ…血みどろの鬼が私に飛びかかってくる。アヤトリが間に入り、鬼の首を切り落とす。
『黙れ。まだ話は終わっていない』
『トモリ、来い』
『あーもう!
人使いの荒い閻魔サマ(えんま)だなぁ!』
空からあの悪魔が降りてきた。
(またかよ)と思いながら、彼を睨む。
突然、彼が周りのヤツらを崖に吹き飛ばし、マグマに溺れる様子を見て、嘲笑った。
(…え…?)
そして、私の腕を掴む。
『そんな怖い顔すんなっての。何も危害は加えないからさァ』
「悪魔の言う事なんて信じられるか。今すぐ離せ!」
『ハハ、落ち着けよ。まぁ、オマエに選択権なんてないけどな!』
強引に腕を掴まれ、二人は宙を舞った。下を見れば、もうアヤトリの姿が小さくなっていた。もし、ここから落ちたら…落ちたら……
「あれ」
私が空から落ちた時に
迎えに来てくれたヤツは…
『──来いよ、地獄の世界に!』
「…地獄?」
それは、もしかして…
「お前は…」
『はぁ?気づくの遅すぎだろ
そうだよ、オマエを助けた悪魔のトモリ!』
「そんな…強そうなヤツだと思ったのに、
幻滅した」
『幻滅するなよッ』
『いや、オレは強いっての!』とうるさい声で叫び、永遠に続くような天井の襖を潜り、霧の中を進んだ。
その先には、天の星の世界があった。
「わ…綺麗だ…」
『綺麗だろ?アイツらは分かってくれねーけどさぁ、血と戦いしか興味ない野郎ばっかで。あぁ、そりゃまぁ殺すのは楽しいけど?』
(コイツ……)
「それはお前が殺したバケモノのことか?」
『オレ一人で殺したワケじゃ…!
あのオバサンもいたし』
誰かがトモリの頭を叩いた。
『いった!』
アヤトリが背後に立っていた。
『死にたいのか?トモリ』
「アヤトリ…さん?」
『ああ、さっきは怖がらせてごめんなさいね
坊や。アレは悪事を成したバケモノを
選別していたんだ。そういう恒例行事でね』
「最初に言ってくださいよ!」
私は口をとがらせて言った。
アヤトリはおかしそうに笑う。
『まぁ、オマエ以外は悪いヤツだから…殺してやったんだけどね』
「怖いこと言うなよ」
さすが悪魔といったところか、酷いことをサラッと言う。私は苦い顔をした。
トモリはこてん、と首を傾げた。
『…オマエさ、何で死のうとしたワケ?』
「え?」
芯を着いた質問に動揺しながら、目を閉じる。私は小さい声で答えた。
「実は…」
「私は、神様だったんだ。もう辞めたけど」
人間の世界を見守る”神様”に選ばれた時。
私は相当浮かれていたと思う。
時折、地上に降りては、街の人間と会話をしたり、見たこともない食べ物を食べたり、観光したり、それなりに楽しんでいた。
のだが───
男が言った。
『この街の誰かが息子を殺した』と。
私は驚いて、詳しい話を聞いていた。
息子の死因は分からなかった。
いきなり眩しい光に襲われたかと思えば、彼は隣で倒れていて、真っ白な灰になって消えた───そう話していた。
それを聞いた住民が口々に『こんなの…人間の成せることじゃない』と呟いて、一人が私を見た。
すると、それに続くように、皆が疑いの目を向けて、「いや、違うよ。そんなことするわけないだろう」と笑顔で言ったが、もう誰も私を信じてはくれなかった。
次の日から、皆、怖がって話しかけなくなった。寂しかった。
「本当に、私じゃないのに…」
あんなに仲良しだった住民とも顔を合わせられず、子供にも『人殺しの悪魔だ!』と逃げられて、だんだん虚しくなった。
地上に降りたのは、それっきりだった。
──数年経って、神様交代儀式が始まった。
私は人間を見るのが辛くなって、神を目指す仲間に嫌われるのが嫌で、神権を降りた。
どうせ、私がいなくても世界は回る。
誰かが上手に回してくれるさ。
天界を出て、雲の上に立った。
「このまま天界から堕ちてしまおうか」
右足を踏み出して落ちた時、頭上から声がした。『…なら、来いよ。地獄の世界に!』と悪魔が笑っていた。
私はそこで意識を失ったのだが、悪魔は天界の扉に人の気配を感じて、そこに向かって歩いていった。
〖悪魔が大嫌いなもの〗
「おい、そこにいんだろ。出てこい」
オレは揺れる影に言った。
感激しながら両手を挙げ、姿を現したそいつは、地獄にいるバケモノとそう変わらない。
(気持ち悪いヤツ…)
男は情緒がおかしくなったように、笑い、泣き、また叫んだ。
『アハハッ!ようやく邪魔な奴が消えた!』
『あいつがいるから、俺は神権を得ることができなかったんだ。俺こそが神様に相応しいと、世界創成者様に認められないのが憎くて悔しくて……
それが自分から死んでくれるなんて、あぁ!最高だ!』
「あーあー、狂ってやがる。よく分からんが、コイツが落ちたのは、あのキモイヤツのせいか?」
男を睨んだが、それに怯む様子もなく…
完全に自分の世界に入って、声が聞こえていないようだ。
呆れてため息をつく。
「おい、殺されたいのか?」
男に近づき、ナイフを突き立てるとようやく慌てた様子で飛び跳ねた。
面白いリアクションだ、もっと見せてほしい。
『なッ、なんだ貴様は!』
「ほぉ?オレが目の前にいるのに気づきもしないとはな?相当な馬鹿だねぇ」
『悪魔…!?なぜそんな汚らわしい存在が天界に来てるんだ。この世界を荒らす気か?神を殺すのか?』
男は手足をバタバタと動かして暴れた。オレは力を込めて首をしめる。
「”汚らわしい”?それはオマエのことだろう」
「邪神が」
更に力を込める。ちぎれるくらい、血管が浮き出るくらいに、爪を突き立てて男を苦しめる。
神権だとか、天界だとかは知らないが、誰かが死んで喜ぶ野郎はろくな奴じゃない。
「なァ、生きたいか?」
『ガッ…ぐぁッ…!はな、せ…』
「おうおう、口の利き方には気をつけろよ?今すぐ地獄に連れて行ってやってもいいんだぜ?オレは閻魔(えんま)に認められた、最強の悪魔だからな」
『ふざけ…ッ』
「ふざけてないっての。オマエを殺すか殺さないかは答えによって変わるワケ。アンダスタン?」
男が、腕を離せ、と手で叩いてきたので、オレは言われた通りに離してやった。
空の中へ。
『おい!貴様…』
「貴様じゃないだろ?頼みごとをする時はなんて言うんだっけ〜?」
『ムカつく…ッ』
男は翼を広げて、雲をつきぬけた。オレは逃げないように男の足を鎖でしばる。
まぬけた声をあげて、男はオレを睨んだ。
『離せ!俺はもう自由なんだ!誰が何を言ったって耳を傾けない、自分の欲望の為に生きるんだ!』
「まだ言ってやがんの。ありえね〜」
奴隷のチビ悪魔に運ばせたアイツを思い出して、妙にムカムカしてきた。
なんで、こんな野郎をほっぽって死のうのしたのか、理解できない。
(天界があるのは噂に聞いてたケド、度胸のない小心者しかいないのかァ?)
オレはイラつきながら、闇に包まれたワープゲートを創り出し、真っ黒で血に濡れた世界に男を投げた。
男は情けない声で叫ぶ。それはもう見物だった。
「アハハッ!アハハハッ!!」
「この世に害をなすヤツは要らねぇんだよ。せいぜい、地獄で溺れ死んでくれ」
悪魔は笑いながら、地獄に堕ちて行った。
〇
私とトモリが話し終わると、空間は静かになった。しかし…コイツは…
(手段の選び方とか喋り方とか…アヤトリさんと似てるなぁ。一緒にいると似てくるのか?私は嫌だな)
トモリがイラつきながら言う。
『失礼なこと考えてねーか』
「いいや?でも、そうか、お前が見つけてくれたんだな。ありがとう。犯人が分かって安心した……」
『もっと感謝してもいーぜ?
てか、怒んねぇのか。殺してもいい最低なヤツだぜ?オレならすぐ殺すね』
『ふはっ、まぁ地獄に来た”紛い物”なわけだし、すぐ死ぬじゃろ。あのバケモノの中に紛れてたかもなぁ』
『アハハ、笑える!』
「やめろよ。それぐらい神権は偉大なんだ。嫉妬して奪い合うのは、私の時代より前からある。
それに、お前が代わりに倒してくれただろ?」
トモリは微妙な顔をした。満更でもなさそうだ。
『あァ、あと』
『最初にオレのこと、馬鹿にしたの
一生忘れないからな!』
「もう忘れろよ」
『ふはは。二人共、仲が良いなぁ。
どれ、我の使いにならんか?』
『ならない!』「なりません!」
二人は同時に叫び、無言でいがみ合った。それからしばらくして、皆、我慢できずに吹き出した。
〖地獄にさよならを〗
世界も天界も地獄も、生きづらさは変わらない。いつか誰かに裏切られ、何も信じられなくなる。
私は今でも、地を踏むのが怖い。
「あぁ、私は…なんて弱いんだろう」
『……誰だってそうだと思うぜ』
「え?」
『最初は弱いけど、何百年も人生送ってたらそりゃ強くなるだろ。強くならなきゃ、心が辛いだけだって…』
「なんだ、急に慰めるなんて。気持ち悪いな」
『うるさい!せっかくオレが元気づけようとしたのに!もう喋ってやんねーからな』
「ごめんって」
ふてくされたトモリの頬をつき、アヤトリが目を細める。
『トモリの言う通りじゃ。そんなんじゃ世界に置いてかれるぞ。ずっと、逃げ続けていいのか?害悪神が地獄で笑うぞ』
『人間は脆い生き物だ。
我にも人間の友がいたが、永遠の地獄に気が狂って死んでしまったの…心の病気でね。だから、きっと後悔するわよ』
”一瞬の儚さを噛みしめなさい”とアヤトリは微笑み、『さ、天界に帰るんだろう?』と肩を押される。
『え!もう帰んの!?』
「…そうだな。戻らなきゃいけない。
皆、心配して待ってるから」
『ふーん…』
「なんだ、寂しいのか?」
アヤトリとニヤニヤすれば、トモリは遠吠えのように、わーわーと叫んだ。
『別にぃ?全然!早く帰れってば!』
「ははっ…じゃあな」
『また絶対来いよ、次はもっと強くなってから!』
「あぁ、そうだな」と笑う。
私も、悪魔も、閻魔も、神も…人間達も。
諸行無常の世に生きている。
いつかは、現実に向き合わなきゃいけない。
分かってるよ。
「皆、変わっていくんだね」
空を見上げて、背中の翼を広げた。私はまた天界に戻る。地獄にさよならを告げて。
─fin─