モブ凪が読みたいだけなのに…… 傘が欲しかったんだと思う。記憶が曖昧なのは極力思い出したくないからか、それとも本当は傘なんか要らなかったのか。少なくともあの時、何か目的を持って商業施設に入ったんだ。
雨に濡れた体は冷房の効いている施設内でぶるりと震えて、「あ、そういえばトイレに行きたかったのかも」なんてとってつけたように思いだして。あとは帰るだけの自分を急かすものはないから、一番空いてそうなトイレを選んで用を足してさあ帰ろうと手洗いも済ませたんだ。
「すみません、紙を取ってくれませんか」
一番奥の個室から、男の声が聞こえてきた。切羽詰まっている声ではない、淡々と状況を伝える姿勢に少しだけ「この人、危機的状況なのに全く狼狽えていない……大人だ」と感心してしまった。すぐにハッとして「任せてください」自身満々に答えてみせて、与えられたミッションを華麗にスマートにこなそうとすぐに隣の個室から一つトイレットペーパーを拝借する。
「上から落としますね」
「あ、すみません。僕目が悪くて、キャッチしそびれると困るんで扉から貰えますか?」
ドキリとした。まさか対面するなんて思いもよらなくて、それこそ向こうは恥ずかしくないのだろうかと勘繰ってしまう。でも、もし自分がこの人みたいに潔癖症とかなら、確かに落とした時のリスクが大きすぎるか? とか無理やり納得することにして頷いてみる。
男同士だからそんなに気にしないけど、もし用をたす体勢で渡されたら少し面白いな……でも、丸見えは嫌かも。開けるまでの数秒間にいくつかの状況を想像して、開錠の音のあとに好奇心のまま二つノック。そうして、ゆっくり開けようとすると──
「ぅわっ……ぇ、!」
突然勢いよく開かれた扉に情けない声が出てしまうが、考える間もなくドアノブにかけていた手を引きづりこまれる。
何が起きているのか把握出来ずに混乱して、ただ自分を引きずり込んだ男は、世間的にも不摂生で不潔と言えば通じるほどだらしなく肥えた男であった。
「ァあー、今日は当たりみたい、だねェ。嬉しい、な」
「あ、の……痛いです……というか、えっと、なんでオレも、個室に?」
「あぁ! ごごめんね、僕一度決めたらァ周りが見ェなくなっちゃうんだ」
何を? そう尋ねる前に、男はオレの口に布を当てたかと思えばそのままぐるりと後頭部まで回して縛った。結び目に髪を巻き込まれて痛いけど、それよりも男のすることが“良くないこと”であるのは明白で、必死に抵抗した。
ただ、弱っこいオレの体では脱出は無謀だったみたいで、男は始めから用意していた麻縄を使ってオレの両手首を一つにまとめた。
声を出そうにも布のせいで話せず、言葉にもなっていない唸り声だけがトイレ内に響く。呼吸を荒くする男を見て、オレは悟った。
──ああ、オレはここで死ぬんだ。人気のないトイレを選んでしまったばかりに誰も助けに来てくれなくて、見つかった頃には暴行で青痣だらけのオレが見つかって、テレビで報道されちゃうんだ。いや、テレビに取り上げられるのはちょっと烏滸がましかったかも。オレみたいなぺんぺん草が、夕方のニュース番組の視聴率に利用されるわけはないんだ。反省反省。
なんて考えていると、男は「やさ、優しく、すすするからァねっ」とオレの服と肌の間に手を差し込んできた。分厚くかさついた、更に手汗で仄かに湿っている手のひらを滑らされ、あまりの不快感に眉根を寄せてしまう。
だんだんとその手は上の方へ上がってきて、その指先がオレの胸の頂きに触れた時に、オレはこの男の目的をようやく理解出来た。理解と同時に口に当てていた布を下にずらされて、男の唇が近づいてきて、これから起こりうることを想像して全身に寒気が走った。
いや寒気じゃなくて、これは……とんでもない突風?
「わあ、トイレが開放的になってる」
「ぎぃ〜全くお前もトラブルメイカーじゃなぁ♪」
右側にあった壁がいつの間にか破壊されて、瓦礫隙間から見えたのは簡易的な気球に乗り、見たことのない機械を抱えている子タろだった。速すぎて止まって見えるプロペラをこちらへ向けて、屈託ない笑顔を振り撒く姿は奇天烈で、よほど変だというのに安心してしまっている自分がいる。
どうやら、砕けた壁の一部が男の額に当たったらしい。額から血をたらりと流して、強い衝撃を受けて気絶してしまった男は地面のタイルにお尻をつけてしまっている。施設内の綺麗なトイレといっても用を出す場所であるのは変わらず、少しだけ可哀想と思ってしまった。
「サササ! さっさとずらかるぞぎぃ」
「え、流石にバレるよ?」
「マジか! うーん、捕まるのわカフカフを思うと良くないじゃろうし、サミーにでも一報入れるかぁ」
「うんそうしよう。前科アイドルの次の前科飲食店は二番煎じだし、何より飲食店と犯罪は相性が悪そうだからやめた方がいい」
オレの提案に頷いてくれた子タろ、その背後の壁にポッカリとあいた穴から見えた青空にはとても綺麗な虹がかかっていた。
雨は止んだみたいで、雨上がり特有の香りに気分も良くなる。この季節の雨は蒸し蒸しとしていて嫌われているけど、オレはこの季節にしか感じられない花たちの姿だったりが見れるから好きだ。
あの後、警察の人が来てくれて事情を話して、建造物等損壊罪に問われそうになったけど子タろが指を弾いてからことがとんとん拍子に進んでくれて、結局転がっている男が全部請け負ってくれるみたい。
予定より遅くなった帰宅に、玄関まで迎えに来てくれた主任が「心配したよ」と少しだけ怒った表情をしていた。心配されることにじーんと一人感動しつつ、すぐに謝罪して子タろが建物を壊したくだりだけを省いて事の顛末を伝えると、徐々に主任の顔が青くなっていく。隣に立っていた可不可も腕を組んでこちらをじとーって見ていたけど、オレの話が進むにつれて主任と同じように青ざめていて「朔次郎!」と突然大声を上げた。
連鎖するように騒がしくなっていくHAMAハウスの原因は分からないけれど、あれ以来皆んながオレに優しい気がする。何人かは憐れみを含んだ視線な気もするけど、どちらにせよ心配は心地良くてこれが家族なんだなあってオレは思うのだった。まる。