その日は酷い雨が降っていた。
傘なんて何の意味もないくらい膝から下はびしょ濡れ、靴下も靴も雨にぐっしょり濡れて重りのようになった足を無理やり動かす。
あともう少しで家に着くから。
家に着いたら靴下を脱いでタオルで拭いてそれから、と行程を確認するだけでうんざりとした。コンビニで買ったお弁当もそのうちにさめてしまうのではなかろうか。
ピチャリ。
水溜りの上を何かが飛んだ。
足元に現れた黒い影にびっくりして尻餅をつく。
あー、、、最悪だ。尻もびしょびしょ。弁当はかろうじて無事だが、ビニール袋は土と泥に塗れて、傘は転がって行き何の意味もなさなくなった。悪いことが起きる日というのは悪いことが重なるものである。
人よりそんな日が多いのではないか。
心の中でひとりごちて転げた傘を拾い尻についた泥を拭った。物陰にガサゴソしたのは黒い影の正体だろうか。
「んもー、びっくりさせんなよ」
蛙に人の言葉がわからないと分かっていても言わずにはいられなかった。
全く。
アパートの鍵を取り出すと、部屋の前に物陰が見えた。
ひゅっ、と一瞬びっくりするも先程の蛙のこともあってかまだ冷静にその影が何なのか見つめることができた。
「井田…?」
遠くからでもわかるのは何故なのか。
かつて恋人だったらしい男。
ただのクラスメイトだったはずなのに、いつのまにか恋人になっていたらしい。
ゆらり、と立ち上がると深い暗がりに雫がひとつ、ふたつと落ちていく。
ずっしり水滴を含んだ髪の毛、ぴたりと張り付いた衣服。顔は乱雑に拭かれたのか水滴がところどころ残っている。渡り廊下の上から差し込む光が、よく濡れたまつ毛の上の滴を照らした。
どくん、と心臓が跳ね上がる。
まつ毛の下にくっきりと広がった黒鉛の色の瞳に釘付けになる。
息を吸うのも忘れてしまうようなその色が心のうちさえ見透かしてしまうのではないか、と不安になった。逃げてしまいたい。そう思うのに張り付いたように足が動かない。
「風邪ひくだろ」
なんでここに、とか。傘忘れたのか、とか。連絡くれればよかったのに、とか。思うことは沢山あるのにそれしか言葉は出てこない。
そうだ、カバンにタオルを入れてたはずだとファスナーを開けるも、中はもうすでにぐっしょりと濡れており、そうだ、さっき尻餅をついたのだったと思い出す。
「悪い、いきなりきて」
井田ってこんな低い声だったろうか。
張り詰めたような空気がぴりと、頬をかすめた。
「や、それはいいけど、風邪ひくだろって。今タオル持ってくるから」
ドアノブを掴む手を上から抑えられた。
力は強くなくて、むしろ優しいほど。
全身ずぶ濡れなのに掌はほんのりと温かかった。