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    v_annno

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    v_annno

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    👹🐑
    SM、パラレル
    キングオブサディストなのに変な方へ転んじゃいそうなミロードと理想が高すぎてサドをやってるマゾのふーちゃん(&ふーちゃんに加虐されてるモブの男女)

     サディズムとマゾヒズムは表裏一体、と最初に言ったのは果たして誰だったのか。そんなことを取り留めなく考えながら、ヴォックスはステージを眺めている。
     N区にイイSがいるんだよと教えられ、敵情視察と洒落込んで訪れたクラブだった。彼が普段活動しているL区に程近い、けれど足を運ぶには相応の理由が必要なくらいには遠い場所。へぇいいね会ってみたいもんだ、と流してお終いにしなかった──出来なかったのは、N区の情報をくれた知り合いの発した、「そういえばあのS、ちょっと貴方に似てるね」という余計な一言のお陰だった。
     スツールの上で権高に足を組み、バーカウンターからワイングラスを取り上げる。キャンティ型だ。細いガラスのステムを傾け、ボルドーを口に含みながら「ちょっと恰好付けすぎたかな」と後悔する。普段なら好物のビールを頼むのだが、自分と似た同業者サディストがいると聞いていたから気取ってみせてしまったのだ。
     ヴォックスは、L区のSMクラブに君臨しているサディストである。多くのマゾヒストを虜にし、かしずかせてきたS。被虐者は勿論、同じ加虐者からも一目置かれる存在だ。L区のクラブという宮殿の中、数多の存在を下に置いて彼という「王」キングは存在していた。
     ──そこへ来ての、自分に似たサディストである。ヴォックスは自分の立場にも、キャラクターにもこだわりがあった。似ているというだけで己の領地を侵略されたり、「そういうジャンル」としてそいつと一括りにされては堪らない。彼我ひがの距離はそこそこ離れているとはいえ、あちらが越境してこないとも限らなかった。ゆえの、敵情視察なのである。
     ガラスの脚を抓んでワインの水面を揺する。折角の赤のフルボディだというのに、グラスがボルドー型でないから少々締まらなく感じた。恐らく、このクラブではワイン自体の提供が少ないのだろう。だから万能型とも呼ばれる小柄なグラスしか置いていない。ワインに合わせてグラスを変えるのが当然のヴォックスの城とは、まず客層が違うのだ。
     重たく被せた黒睫毛の下、金の瞳を左右に流す。店内は暗く、しかし小うるさい光に溢れていた。色とりどりのネオンが黒い壁をぼうっと明らめ、白いビームがちらちらと舞っている。ゴシック調に統一されたヴォックスの行きつけでは、考えられない演出だ。BGMこそ抑えられているが、それはショーが行われているからに過ぎない。ヴォックスは再び、ステージの上に目を向ける。
     そこには、縛られた女が吊るされていた。
     上腕ごと胴に縄化粧を施され、下腕は腰の裏で縛り上げられていた。太く束ねた縄が背骨に沿って、天井と女を繋いでいる。太腿はそれぞれ2箇所にしっかりと縄目を掛けて吊られ、ぶらり投げ出された爪先は頼りなく宙で丸められる。わざわざ牧歌的な見方をするならば、それは椅子型ブランコの形に似ていた。
     ぎぃ、と軋む音を立てて、ブランコ・・・・は揺れる。きちんと衣服を纏っているから、過度に性的な印象は受けない。だが日常的に身に付けているものを、真っ赤な縄が締め上げているというビジョンは余りにも非日常的で、倒錯的だった。
     バックで鳴らされる重たいドラムが腹の底にまで響き、視覚から来る興奮と混じって下腹の疼きに変わっていく。目隠しをされた女の顔がてらてらと光り、服がべっとりと肌に糊付けされているのが遠目にもよく見えた。碌に身動きも取れない彼女が、全身から汗を絞り出すに至る心地とはどんなものだろう? 声も忘れて見入る観客たちは皆、それを想像しながら股座またぐらを湿らせているに違いない。だが彼らが──ヴォックスも含めて──注視しているのは、吊られた女ではなかった。
     真っ赤な縄で緊縛された女体に添えられている、真っ赤な機械の腕。その持ち主こそが、観客に最も熱望されている、この舞台の主役なのである。
     暗めのライティングの中でも目立つ、銀の髪と白いタンクトップ。ノースリーブから僅かに覗いた生身に食い込む赤のサイバネティクスは、そのいかつい見た目とは裏腹に繊細だった。まるで小さな子どもにしてやるように、緊縛のブランコを優しく揺らす。身動みじろぎと視界を封じられた女は、その度に紅唇を大きく開けて喘いだ。足もつかない真っ暗闇の浮遊感と心許なさは、自身を責め立てる縄と加虐者への依存心を育てていく。
     そして銀髪のサイボーグは、囚われの被虐者を更に追い詰めていくのだ。
     細身の黒いボトムが、ステージの上をゆっくりと歩む。重い足音が長い間隔をあけて響き、ボトムのサイドに走る赤のラインが露わにされた。その緩慢な足取りは、吊られた女の周りを回っている……そして赤い手を添えられたままの女も、ゆっくりと回転させられている。
     女の頭上で、赤い縄がじれていく。
     あの手を離されたら、何が起こるのか──被虐者に、観客にそれを考えさせながら、責め手はまるで緩まない。薄い唇が動いているのが見えた。BGMの重低音に掻き消され、何を言っているのかまでは聞き取れない。だが深みのある柔らかな声音こわねは、かろうじてヴォックスの席まで届いてくれた。
     思わず、ワインに濡れた唇を舐める。あの優し気な声と話しぶりで、あの男はマゾヒストを調教しているのだ。羞恥心を煽り、不安を抱かせながら、被虐の快楽にじりじりと火を入れる。そして発火の直前に──。
     ぱっ、と手を離した。
     媚びに粘ついた悲鳴がBGMを塗り潰す。散々捩られた縄が解放されて元に戻ろうとし、吊られた女はその煽りを食らって縛り上げられたまま回転する。独楽こまのように回る様子は、無様で、間抜けで、みっともなくて……たちの悪い興奮を催させた。
     回転によって捩れが解消された後も勢いは止まず、そのまま縄は捻られ、速度が緩んだ頃に今度は逆回転。吊られた獲物はクルクルと振り回され、その度に濡れた悲鳴を迸らせ。そうして最後に、機械の腕によって回転の地獄から救い上げられた。
     啜り泣きに揺れる荒い呼吸が響く。赤縄に彩られた胸が、不自由な中で必死に弾んでいる。優しい腕と声は被虐者の昂りをそっと慰める。が、決して休ませはしない。
     赤い両腕は縛られ突き出された太腿をそれぞれ掴み、女の股の間にその体を滑り込ませた。陥落した女体と支配者の男体……対比によって雄々しさを強めるはずのサディストの肉体は、けれどヴォックスにとっては「美味そう」にしか見えなかった。タイトなタンクトップの布地を余らせる細い腰に、小さな尻。掴める贅肉ラブ・ハンドルろくにない痩身は、組み敷いた時にどんな反応を示すのだろう?
     劣情にまみれた、視線の先。マゾヒストの股間に分け入ったサディストは、その細い腰を相手の股に、トン、と一つ打ち付けた。両者とも衣服を纏ったままのその行為は、当然セックスの真似事に過ぎない。だが昂り切った女にとっては──。
    「────ッ‼」
     声なき断末魔が耳をつんざいた。縄に固められた体が仰け反ろうと藻掻き、願い叶わず軋みだけを上げ続け。そうして遂に、がっくりとすべての力を失った。
     暗い店の方々ほうぼうから、濡れた溜息がこぼされる。ネオンとレーザーに照らされて、いくつもの黒い影が堪えきれずに身を捩る。きっと舞台には、羨望と欲望の視線が集中しているに違いない。
     見事なショーだった。ヴォックスは幾度か頷き、ワインをあおる。そしてそのままステージに背を向け、グラスをカウンターに置くなりバーテンダーにビールを頼んだ。
     間を置かずきょうされたピルスナーを片手に、息をつく。成程、先の舞台の支配者──お目当てであった「N区のイイS」、すなわち己に似たサディストである銀髪のサイボーグは、確かに見事な手腕を持っている。ヴォックスはそれを認めながら、愛する銘柄に舌鼓を打った。
     自らのアイデンティティの崩壊を恐れ、わざわざ敵地を訪れた男の反応としては、実に呑気な反応である。それもそのはずだ。ショーが始まって間もなく、L区の王はN区の彼が己の敵に値しないと見抜いていた。
     暗いステージの上には、スポットライトがまばらに流れていた。無作為に差す灯りは加虐の器具を、甚振られる獲物を、そして支配者を、ドキリとするようなタイミングで露わにしていた。その最中さなか、ヴォックスは見ていたのである。眩い光が、加虐者の細面を舐める一瞬を。
     輝く銀の髪の合間から覗いた切れ長の目。化粧か何かで赤く色付けされたそれに意識を奪われた瞬間、気が付いたのだ。吊られた女を見つめる、わずすがめられたその眼。薄い色の瞳は、切なそうに濡れていた。
    (何がイイSだ)
     口の端の泡を舐め取りながら、知り合いの勘違いを嘲笑う。
    (あれは、マゾだろうが)
     自分で虐めている相手を、心底羨ましそうに見つめるあの瞳。こんな風に甚振って貰えたら……と熱っぽくうるんだあれが、マゾヒストの目でなくて何だというのだろう。自覚があるのかないのかまでは分からないが、畢竟ひっきょうあれはヴォックスにひざまずく存在だ。しのぎを削る相手では、決してない。
     完全に肩の荷を下ろした気分でグラスを傾ける。情報収集の為にこの店のMと遊ぶ予定もあったが、相手の正体が割れた時点で必要なくなった。この一杯をしたら帰ろう。シャワーを浴びて、もう幾らかアルコールを味わって、そして眠る。たっぷりと睡眠を取ったら、久しぶりに凝った料理をしてみるのもいいだろう。好きな音楽をかけて、料理に合わせた酒を開けて。そうして、ここしばらく張り詰めきっていた神経を癒すのだ。
     けれど完璧な週末の夢は、たったの一言によって掻き消えてしまった。
    「マスター、いつもの頼む」
     すぐ隣から聞こえる、低く物柔らかい声。カツンと音を立てて、赤い指先がカウンターに触れた。スツールがギィと軋み、人ひとり分の気配が肌を圧す。
    「お疲れ様です。いいショーでしたよ」
     慣れた手つきでバーテンダーが、グラスをカウンターに滑らせる。機械の指がなめらかにそれを拾い上げた。キャンティ型よりずっと小振りなリキュールグラスの中、琥珀色の酒がとろり波打つ。
    「ありがとう。緊張で足が震えてたけどな!」
     低い声がお道化どけて高く笑う。酒杯が傾けられ、銀の髪がレーザーを弾く。ヴォックスは息を詰めたまま、操られるように顔を彼の方へと向けた。
     先程まで舞台を支配していた、加虐者──のフリをした被虐者が、そこに座っていた。
     ステージの熱がまだ冷めやらぬのか、肌理きめ細かなはだにはふつふつと汗の粒が浮かんでいる。癖のない髪が所々束を作っているのも、汗を掻いた所為だろう。首輪じみた機械の下で、喉仏が僅かに上下し汗の粒を滑り落とす。ぐりりと主張する鎖骨、厚みのある胸板を見せるタンクトップは変わらないが、今はその上からジャケットを纏っていた。黒地に赤を差したデザインは、舞台の上で見せびらかしていたボトムと揃いのものだろうか──。
     ことん。リキュールグラスの底がカウンターを打つ。琥珀色のかさは、持ち上げられた時と然程変わっていなかった。……しかるに、たった一口舐めた程度の僅かな時間で。
    「……なあ、あんた」
     銀のとばりの分け目から、銀の瞳が流される。それを縦断する赤い三角波は汗にも滲まず、メイクではなくタトゥーなのだと知れた。濡れた銀の中央に浮かぶ瞳孔は真白い。そこも、機械なのだろうか。
    「ここらでは、見ない顔だな?」
    「……」
     仄かに色付いた薄い唇に、話しかけられているのだと気付いた瞬間。ヴォックスは、身の置き所の無い羞恥心に苛まれることになった。然るに、たった一口舐めた程度の、世間話の水向け口上こうじょうの、その僅かな時間で。隠そうとする意思も持てないまま、相手をがっつり観察してしまったのである。
    「……あぁ、ここに来たのは今夜が初めてだな」
     如才じょさいなく見えることを願って、ヴォックスは男から視線を外した。気付いているのかいないのか、相手はくつくつと喉を鳴らしている。
    「ふうん? だがこういう場所がハジメテって訳でもないんだろう? おたつくどころか王様みたいにどっしり構えてる。マゾの奴らがみんな、引っ叩かれたそうな顔してあんたのことを見てるぞ?」
     肩の触れない距離感で、囁くように窄められた唇がヴォックスをたたえた。普段なら尊大にそれを受け取れるのだが、今この時に限っては居心地の悪さばかりを覚える。とっととここから離れたい思いひとつで、変に力の籠った口を開いた。
    「それは君の方だろう? 実に見事なショーだったじゃないか。マゾヒストの手腕とは思えないな」
     相手の地雷になりかねない箇所に、思い切り踏み込む。激昂するなり気を悪くするなり、距離を開ける話題に違いない……と思ったのだが。
    「あぁ、やっぱりバレてたか」
     色味の薄い顔は、あっけらかんと認めて笑う。そこには暴かれた怒りも、恐れも、羞恥心も。マゾヒストらしい被虐の欲望も、まるで見つけられなかった。
     腹の底で、加虐の欲がぐつりと煮える。
    「……何故、サディストのフリを?」
    「フリ、というか」
     喋りかけた唇に、グラスが当たって傾けられた。とろりと重い酒を一口舐めたそこに、淡い色の舌が品なく走る。もっと婀娜あだに魅せてくれてもいいだろうにと残念に思い、そこでヴォックスは舌打ちをしかけた。気が付けば、逸らした視線がまた惹き付けられている。再び背けようとした鼻先を、温められたアーモンドの香りがくすぐった。
    「ここらのサドは、まあ何と言うか、下手くそな奴ばかりでな。無抵抗の相手に暴力をふるいたい、暴言を吐いてさを晴らしたい、そんな感じ。滅茶苦茶にオモチャにされるのは本望なんだが、こう、ぬいぐるみを振り回すようなやり方は好みじゃないんだよな」
     ふう、と一息。赤い波の走る目が、横目にヴォックスをちらりねぶり。
    「……俺は理想が高いマゾなんだ」
     リキュールグラスが大きく傾く。ほっそりと形の良い顎が上がり、喉仏が密やかに上下するのを晒す。白昼夢のように儚く消えた視線の意図は、容易たやすく知れた。
     ──あんたはそういう、馬鹿なサド?
     グラグラと、支配欲が腹の中で沸き立つ。はっきりと言葉にこそしなかったが、きっと彼は過去に相当な仕打ちを受けたのだろう。加虐者に対する不信を植え付けられながら、加虐者にふんして場を支配する強く、矜持きょうじの高い被虐者。それを口説き落とし、腰砕けにし、心からの従属を引き出してはべらせることが出来たのなら──噴き上がりそうな欲望を宥めようとビールグラスを取り上げる、と。
     入れ違いにリキュールグラスがカウンターを叩いた。汗が渇き、ぱらりほどけた銀髪の隙間から二つの銀瞳がヴォックスを映す。瞼を半ば落とし、にまりと笑ませた形でもって。
    「だからな、調教してやったんだ」
     は? と訊ね返す間もなく、カウンターの上で赤い人差し指が立てられた。
    「──ブロージョブ」
     サディストから外された視線は、正面でグラスを磨くバーテンダーに向けられていた。注文を受けた彼は片眉をピンと上げ、かしこまりましたと妙にわざとらしい笑みを浮かべた。カウンター奥の作業台に並べられるグラスと材料。再度訊き返す余地もないまま、ヴォックスは彼の仕事をただ眺める。
     用意されたのはショットグラス。二本の指先で支えられる程度の小さなグラスだ。分厚いガラス底の重たそうなストレートの形状に、まず注ぎ入れられるのは黒い酒。鼻腔へ僅かに届く甘く苦い香り……コーヒーリキュールだ。続けて注がれるのは仄かに色を落した白色の酒、甘いクリームの香りを持つベイリーズ。最後に泡立てられた生クリームが載せられて、完成だ。
     カウンターへと滑り出されたカクテルは、混ざり合うことなく三つの層を重ねている。見た目も美しく、口当たりは甘くクリーミィ。だが人に勧めるのはあまり感心されない。このカクテルには、作法があるのだ。
     ブロージョブを飲むにあたっては、手を使ってはいけない。グラスを咥え込み、そのまま仰向いてあおる。カクテルの名の通り──ブロージョブフェラチオをするように。
     思わずそわりとしてしまう。これを、呷るのだろうか。色の薄い細面の、髪から覗く目鼻立ちも酷薄に整ったこの男が、これを咥えて飲むのだろうか。口の端から生クリームをしたたらせて──。
     けれどヴォックスの妄想は実現しなかった。スツールが軋み、ライトに照らされた銀糸の先がアルコールに弛んだ空気にひるがえる。くるりとバーカウンターに背を向けたサイボーグは、ホールに向けて男の名らしき声を上げた。カモン、と呼びつけるその声色は、友人に向けたものとは程遠い。まるで、ペットの犬を呼ぶようだ。
     サディストとしては馴染みの深いその音程に、ソファー席から一つの影がふらり立ち上がる。背が高くがっしりとした体形の男は、しかし見目に相応ふさわしくない足取りでよろつくようにカウンターへと近寄ってきた。羨まし気な視線が、あちらこちらからその背中に集まっているのが分かる。
    「ほら、おいで」
     機械の手が、細身のパンツに包まれた己の腿を柔く叩く。呼ばれた男はへなへなとその場に膝を落し、仰け反るようにして銀髪を仰いだ。けれど健気な犬の仕草に主人はこたえず、銀瞳は半ば振り返っていたヴォックスに向けられている。
    「こいつも、そのサドの内の一人。話聞かないわ噛みつくわで大概な坊やだったが、今はカワイイもんだよ」
     仄かに浮かべられた支配者の微笑みは、そのさがに反していながら彼に良く似合っていた。サディズムとマゾヒズムは表裏一体という言説が、再び脳裏に甦る。
    「そら、口を開けな」
     主人の言葉に、跪いた犬はおずおずと口を大きく開いた。示される忠誠を褒めるサイバネティクスの片方には、ショットグラスが抓まれている。ブロージョブ──性的な意味を持つカクテルは、情けないほど大きく下げられた下唇に優しく当てられ、「咥えて」という命令はされると同時に遂行された。
     赤い指はグラスを抓んだまま。ゆっくりと、時間を掛けて、その角度をかたげていく。頑健な犬の顎は、それに従って持ち上がる。グラスの底が天を向き、口から白いものがあふれ落ちてようやく、支配者の手はそこを離れた。けれど、犬はあおのいたまま動かない。許しを得られていないからだ。
     ショットグラスの重さはおよそ100g足らずとはいえ、それを咥え、仰け反り続けることがどれ程きついか。勿論知っているだろうマゾヒストは、己が苦役を与えている犬のことなど忘れたようにヴォックスに笑顔を向けた。
    「こんな風にしてな、一から教えてやったんだ。正しく加虐されたら、どんなにイイか──マゾヒストとして満たされ、幸せになれるのか」
     とろけるほどに、な。
     そうのたまう奴の目こそ、とろとろに濡れて艶光っている。ぞわ、と皮膚がそそけ立った。
    「……あぁ、もういいぞ。よくやった、よしよし」
     そして次の間には、ヴォックスを忘れたように犬を可愛がっている。天を向くグラスの底を抓んで持ち上げれば、白濁した唾液が粘った糸を引いた。下僕は大口を開けたまま、忙しなく息を弾ませ続ける。汚れたグラスをカウンターに戻した支配者は、とろんとした笑みを浮かべながらそれを見下ろした。
    「じゃあ、ご褒美をやらなきゃな」
     スツールに掛けたまま、上体が乗り出される。真っ赤な機械の右手が持ち上がり、サイドの長い髪を攫って耳に掛けた。露わになる生白い頬、ゆるく落とされた瞼と睫毛。鼻筋から唇まで、ヴォックスからでもはっきり見える。
    「そのまま、あーんしてな」
     甘やかす声色。犬の息がより一層荒くなる。掬い損ねた銀糸の掛かる横顔が僅かに口をすぼめて。薄い唇の間から、舌が伸ばされた。
     レーザーが反射して光るほどに濡れたそこから、重たい速度で唾液の塊が垂れる。そして過たず「ご褒美」は、慈悲を乞う奴隷の口に落とされた。瞬間、床に這いつくばった惨めな体が跳ねて震える。だが、その口はまだ閉じられない。
     許しを得られていないからだ。
     唯一それを与えられるご主人様は、欲情にまみれた犬を見下しながら涎に濡れた唇を舌で拭う。焦らしの時間をたっぷり挟んで、そして。
    「──よし」
     思わず息を呑んだ。不随意に嚥下運動をした粘膜が擦れて疼く。自分が命じられた訳でもないのに自然と反応した己の体に、ヴォックスは羞恥と戸惑いを覚えた。こんなのは、まるで──。
    「さて、こんなもんかな」
     場にそぐわぬ明るい声に、はっと目をみはる。気付けば事はもう済んでいて、今は後戯の真っ最中だった。犬はあの細い腿に額を預けて、機械の指先で優しく髪をくしけずられている。丸められた背中は大きく上下し、興奮の度合いと安堵の深さを剥き出しにしていた。
     そして犬にすがられている支配者は。
    「これで俺のことは、幾らか解って貰えたと思うんだが」
     銀の髪の隙間から、銀の瞳で流し目を作る。とろんと目の形すら緩ませて、被虐の期待に揺らしている。虐めて躾けてくれるんだろうと、ヴォックスに期待を寄せている。
    「……そうだな……」
     焦らす素振りで腕を組む。実際は、心を揺さぶる時化しけの気配を鎮めようとする足掻きの時間だった。
    「……あとは、最中に呼びつける名前を教えて貰えるかな?」
     ヴォックスはにこやかに、支配的に、サディストらしく問いかける。奮い立てる必要もなく、加虐者の欲は腹の中を騒がせていた。
    「ファルガーだ。……よろしく頼むよ、ご主人様♡」
     発情した目でなおもこちらを揶揄からかうマゾヒストに思い知らせてやりたい。もう二度とサディストの真似事なんて出来ないと、心の底からの敗北宣言を吐かせてやりたい。サディストとしての本懐を遂げたい。……だが、それと同時に。
     金眼が、未だ一点に引き付けられている。
     赤いサイバネティクスに撫でられ続けている、元サディストの犬の姿。傅かせるべきマゾヒストにそむかれ、被支配者への堕ちた見苦しい有り様。L区の王としては唾棄すべき、同業者の醜態……そのはずであるのに。
     淡い羨望を、そこに抱いてしまっている。
     サディズムとマゾヒズムは表裏一体。今宵三度も脳裏をよぎった言葉を、ヴォックスはアルコールで掻き消そうとした。
    「……あぁ、こちらこそよろしく。ファルガー」
     ビールを最後まで呷り、スツールを滑り下りて靴の踵を床へと落とす。
     さて、この爪先が向かうのはどちらやら。
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