眩くも柔らかい、春の朝陽が空を明らめる。白い花の覆いに僅か和らげられたそれは、窓を通って寝坊助の顔へと降り注いだ。肉の薄い瞼など何の役にも立たず、物臭なサイボーグは唸り声を上げながらカーテンを閉めなかった昨晩のファルガー・オーヴィドを恨む。けれど口汚く罵った所で、誰かが東向きの窓から庇ってくれる訳もないのである。
ファルガーは寝返りを打ってシーツに突っ伏し、些細な抵抗をしてみせる。このまま日が傾くまで籠城を決め込むことも考えたが、今日の予定が脳裏を過った。仕方がない。もぞもぞと機械の手足をうごめかせ、ベッドに懐いた体を断腸の思いで引き剥がす。毛布に温められた肌にヒヤリとした空気が触れたが、震え上がるほどのものではない。服を着ないで眠る人間にも優しい季節になった。
締まり無く欠伸を漏らしながら、昨晩脱ぎ捨てたスウェットを引き寄せ鈍々着込む。頬を擽る寝癖の付いた髪を手櫛で掻き、最低限も最低限の装いでドアに手をかけた。
こんな恰好でウロチョロしていたら浮奇に叱られるし、せめても顔を洗って来ないと。眠気で半目になったまま、ファルガーはドアノブを引いた──瞬間。
視界へ割り込むオレンジ色に「はて」と上げた顔へ、鋭い衝撃が走った。
「だッ⁉」
踏鞴を踏んで後退する。勢い引っ繰り返らずに済んだのは、サイバネティクスを統括するシステムのお陰でしかない。姿勢制御のアラームがII'sの視界端に瞬く。衝撃と痛みに浮かんだ涙と共にそれを振り払い、ファルガーはバイオケミカルの銀瞳で敵を睨みつけた。
額を強かに引っ叩いて眠気を吹き飛ばした憎き襲撃者。それはドア枠に当たってブラブラと揺れる、紐で四辺をしっかり結わえらえた平たい包みであった。
素晴らしき幾何学的空間配置によって過たずファルガーのおでこを打ち据えた長方形を苛立ちに任せて引き寄せれば、紐はするり解けて包みを自由にする。露わになった鮮やかなオレンジ色の包装紙には、「Congratulations!」と黒々認めてあった。何がおめでとうだ巫山戯やがって‼
「アルバーンッ‼」
所在なく半開きになったままのドアの外へ、怒声を張り上げる。追撃の笑い声は聞こえない。何処ぞへ隠れやがったのか。怒りに任せて──少しばかり他の罠を警戒しながら──部屋を出る。ちらと振り返って見れば、見慣れた自室の扉の周りには見慣れぬワイヤーの装飾があった。ドアを開けた人間を襲撃する、よくある悪戯の仕掛けである。わざわざこんなことをする奴は、この家の中には一人しかいない。
「アルバニャンッ‼」
「おはよう、ふーふーちゃん」
足音も荒くリビングへ怒鳴り込めば、しかし返って来たのは穏やかな声音。ダイニングルームからひょっこり顔を覗かせたのは、生成色のエプロンを可憐に着こなしたサイキックである。配信で見せるより幾分緩い顔つきで、毛先に掛けて色を明るくしていく紫髪の頭を傾げてみせた。
「アルバーンなら、朝早くに出掛けていっちゃったみたいだよ」
「くっそ、逃げたなあの野郎」
額を強打した包みを片手に舌打ちをする。浮奇は重たげな睫毛をはたはたと上下させ、オレンジ色に書きつけられたメッセージに「あっ」と声を上げた。
「……先を越されちゃった。おれが一番最初にふーふーちゃんに渡すつもりだったのに」
「うきき?」
突然不機嫌そうに唇を突き出したサイキックに、銀の目を瞬かせる。人を怒らせるのは好きだが、怒った理由が知れないとなれば戸惑いの方が勝る。悪戯猫への苛立ちも忘れ、ファルガーは星を宿した色違いの目を覗き込んだ。
些かわざとらしいご機嫌取りに、浮奇はふぅと息を吐く。お許しのジェスチャーではない。眇めた両目と胸の前で組まれた両腕は、ふーふーちゃんを「仕様の無い奴め」と睥睨している。
「ふーふーちゃん? 今日が何の日なのか、ちゃんと理解してる?」
「は? え、すまん浮奇、何の話だ?」
訊ねる声に答えは無く、エプロンの背中はダイニングへと引っ込んでいく。けれど追い掛けるべきかと悩む間も与えず、浮奇は再び姿を現した。不機嫌は何処かへ置いてきたようで、そのふっくらとした唇には柔らかな微笑みが載せられている。
「おめでとう、ふーふーちゃん」
そして、両手で差し出された包み。紫とピンク、2枚のチュール生地で美しく包装され、愛情深い手つきで捧げ持たれたそれに、ようやっとサイボーグの脳が動き出した。
「……あ、あー……、そういうことか」
乱暴に鷲掴んでいたオレンジの包みを、丁寧に持ち直す。そして浮奇に向き直り、笑顔と呼ぶには少々情けなく眉を下げながら礼を述べた。
「ありがとう、浮奇。とても嬉しいよ」
「まったくもう! そういうことは、中を見てから改めて言って欲しいな」
硬い機械の手に包みを渡しながら、きちんと手入れされた麗しい唇がまた突き出される。けれどその不機嫌はポーズに過ぎず、目元は優しく撓められていた。何だか酷く気恥ずかしい。耐えきれず、口は勝手にお道化た音を奏でてしまった。
「お前がくれるなら俺は何にだって尻尾を振っちゃうよ、うきき!」
「それじゃあキスしてよ、ふーふーちゃん。……勿論、顔を洗ってきてからね?」
ママの威圧感に慌てて良い子のお返事をする。言われるがままに二つの包みをリビングのローテーブルへと鎮座させ、ファルガーは洗面所へと足を進めた。途中、自室に立ち寄ってアルバーンにメッセージを送る。「普通に渡せ」という簡潔にして当然の言葉に返って来るのは、どうせFワードが精々だろう。返事も待たずに部屋を出た。
顔を洗い、適当ながらに身支度を済ませてリビングへ戻れば先程とは少々様子が変わっていた。
微かに聞こえる浮奇の鼻歌。鼻腔を擽る香ばしい匂いは、彼が用意してくれている朝食だろうか。寝癖を直して真っ直ぐになった毛先を揺らし、ファルガーは首を傾げる。聴覚と嗅覚、更にもう一つの感覚に、僅かな差異が訴えかけていた。
南向きの大きな窓から差し込む、春の日差し。包みを置いたローテーブルの手前にある、こちらに背を向けている二人掛けのソファの半ばにも、それは降り注いでいた。──そしてソファの背からこっそり覗いている、キラキラしい金の髪にも。
「ようサニー、おはよう」
「んんん、もーにん」
近付いて覗き込めば、座面にやっと尻が乗っているような姿勢でサニーが座っていた。太陽の光をすべて跳ね返すような鮮やかな髪色とは裏腹に、その下から寄越される応えはどれも鈍い。口は子どもがぐずるような声を漏らしているし、ライトブルーの瞳はファルガーと何かの間をウロウロ泳ぎ回っている。
ははあん。ソファーの背に凭れ掛かりながら、サイボーグはにんまり笑った。
「サーニィ。お前も何か用意してくれたのか?」
あれはアルバーンと浮奇から貰ったものなんだが、と泳ぐ視線の先を示してやる。ライトブルーは明後日の方へと逃げ、口はふにゃふにゃ「Idk」と呟いた。
「う~ん、でも、鉢植えの傍で何か見た気がする」
「鉢植え?」
その言葉に首を巡らせる。言われて真っ先に思いつくのは、壁際に置かれたモンステラの鉢だ。窓辺からの光を間接的に受け取る強い緑の葉の下、素焼きの鉢の陰。そこに目を凝らして見れば、何やら隠れているようだ。
凭れていたソファから身を起こせば、サニーがこっそりと視線を寄越すのが見えた。悪戯をした犬のような振る舞いに、思わず笑いがこぼれる。
浮ついた気配を背に足を伸ばし、鉢植えの傍に膝を落す。穴の開いた独特の形の葉を優しく除けて、ファルガーは鉢と壁の間を覗き込んだ。果たしてそこには、黒い紙袋が身を潜めていた。
そっと拾い上げてみれば、鉢で隠れていた部分にはカナリーイエローのカードが張り付けられている。そこに書きつけられたメッセージを硬い指先はそっとなぞり、鋼色の目は柔らかく細められた。
「サニー・ブリスコーから俺宛の荷物が隠れてたぞ」
「そうなの? 良かったじゃん」
包みを片手にソファに戻り、報告してやれば気の無い返事がもごもごと告げられた。長身はソファからどんどんずり下がり、とうとう尻すら座面から離れて背中と足でバランスを取っているような有様だ。殆ど襟元に埋められたような口元は、けれどニヤニヤと緩んでいるのが丸分かりだった。
「あぁ、ありがとうなサニー! 愛してるよ!」
ソファの背から身を乗り出し、耳の近くで大きなキスノイズを立ててやる。途端にケラケラ笑いながら嫌がるサニーを更に構っていたら、背後から咳払いが聞こえた。
「ふーふーちゃん? 順番が違うんじゃないの?」
「うきき!」
振り返り、サイキックの拗ねて膨れた頬にキスを落す。けれど浮奇の機嫌はまったく浮上せず、唇を突き出し顎をつんと突き上げてみせた。
「もう一回。別のとこ」
「浮奇~、子どもがいる前だぞ?」
ふざけて返せば、ソファの向こうから「DaddyMammyベッドでやって~」と笑い声が乗っかって来る。それに笑いながら、ファルガーは膨れっ面の反対側へもキスを落してやった。
「ふんだ。いいよ、ふーふーちゃん。許してあげるから朝ご飯を……」
と、浮奇が身を翻し掛けた瞬間、玄関からドアチャイムの音が響く。二人で首を傾げた。
「何だろ? おれが見て来るから、」
しかし言葉半ばで再び遮られる。今度はキッチンからだった。薬缶の笑い声に紫髪が揺れるのを見て、ファルガーはその背中をキッチンの方へ押してやる。
「俺が行くよ。浮奇はそっちを頼む」
「オレが行こうか?」
「いいよ。立ってるついでだ」
サニーが腰をあげ掛けたが、赤い手を振って座らせる。手に持ったままだった黒い包みを他のものと一緒にテーブルへ飾り、玄関へと向かった。
急かすチャイムに足を急がせ、玄関ドアを開く。花の香りを含んだひんやりとした風が吹き込み、翳りなく差し込む陽光に目が眩んだ。瞬き、少し眉を潜めながら来客を見遣る。そこに居たのは、荷物を片手に携えた男だった。胸に宅配会社のロゴを飾ったブルゾンを見るに配達員なのだろう。しかし置き配ではなく、わざわざ手渡しに来るとは。
「ファルガー・オーヴィドさんですか? サインをお願いします」
「……俺に? 差出人は?」
何か頼んだ覚えもない。不信感に目つきを鋭くすれば、一見冷たい細面はより酷薄なものになる。赤い三角波の走る目に睨まれ、怯んだ配達員は無言でデリバリーノートを差し出した。受け取それを目を通すバイオケミカルの冷たい瞳は、不意にハッと見開かれる。
すぐには判じられない程度に顰められていた眉が柔く下がり、ひんやりとした顔に温かな表情が灯る。来訪者に向けられる目も、先程より明るい色になっていた。
「サインだったな。これでいいか?」
「あ、はい、確かに……」
書きつけられたサインを確認し、配達人は片腕で抱えていた荷物を引き渡す。青い包装紙で飾られた包みを、赤い両手は大事に受け取った。薄い唇は淡い弧を描き、短い睫毛を伏せても視線の温かさは損なわれない。まったくの他人でしかない配達人の目からしても嬉しそうに見えた。先程の冷顔とは打って変わった表情に、思わず余計な口を利いてしまう。
「……贈り物でしたか?」
「え、ああ……」
はた、とファルガーは顔を上げて苦笑した。赤の他人にすらバレるような喜色を浮かべてしまったという、ばつの悪さからだった。
「……誕生日なんだ」
本人からすれば、ただの苦笑いでしかないそれは。けれど春の日差しの下、蕾の綻ぶような優しい微笑みだった。