暖かい風に誘われて、桜の花びらが舞う。そのうちの一片が、柔らかい頬にひらりと触れた。ふと見上げると、大きな桜の木には緑の葉と桃色の花が入り交じっている。
「今年の桜ももう終わりねえ」
鈴蘭はそう独りごちる。
この時期になると思い出す。あの子は今、どうしているのか。
あれは鈴蘭が十歳の頃。修行していた寺の住職に連れられて、地元では名医といわれる医者の家へ赴いた。なんとも立派な長屋門を通ると、その奥にはさらに立派やお屋敷があった。住職が使用人に声をかけると、使用人は屋敷の中へ人を呼びに行ったようだ。
中からスラリと背の高い白衣を着た男性が出てきて、鈴蘭は思わず住職の後ろへ隠れてしまった。その男性は住職と軽く挨拶をすると、鈴蘭の方へ視線を向ける。
「おや。この子は?」
「ああ、この子は鈴蘭といいます。かわいそうな身の上でね。行く当てがないので、うちで引き取ることにしたんですよ。鈴蘭という名前も私が付けました」
「それはそれは。うちにも同じ年頃の息子がいますが、本ばかり読んであまり外で遊ばなくてね。よかったら遊び相手になってやってください」
それから、体調はどうか、薬はよく効いているかなど子供には難しい話が始まってしまったので、つまらなくなった鈴蘭は屋敷をうろうろと散歩し始めた。
中庭に入ってみると、真ん中に桜の木があった。その木の下で、一人の少年が本を読んでいた。背筋をしゃんと伸ばし、正座をしている様子からして育ちがいいのであろう。年は同じか、少し下かもしれない。座っているから正確ではないが、背丈は四尺ほどだろうか。満開の時期が過ぎ、絨毯のように地面を覆っている桃色の花びらに、肩にかかる長さの若草色の髪が映える。
「きれいだなあ・・・・・・」
そうつぶやくと、少年は驚いた様子で鈴蘭の方へ顔を向ける。本に集中して人がいることに気付いていなかったのだろう。
「どなたですか?」
少年は本を閉じながら問う。その落ち着いた口調は、子供ながらに知性が感じられた。
「驚かせてごめんね。僕、鈴蘭っていうの。君の髪がすごくきれいで思わず声が出ちゃった。名前、なんていうの?」
鈴蘭はわたわたと早口に話しかける。男の子に対してきれいだと思い、思わず声に出してしまったことがなんとなく恥ずかしく感じられたのだ。
「鈴蘭さんはおもしろい方ですね。とても興味深い。僕はソ・・・・・・」
少年がクスクスと笑いながら言いかけた瞬間、いっそう強い風が吹いた。その風は桜の花びらのように、少年の声も吹き飛ばしてしまった。鈴蘭は聞き直そうとしたが、医者から持病の薬を受け取った住職が迎えに来たのでもう帰らないといけない。
「また来るよ!今度はいっぱい話そう!」
「ええ、また。必ず」
鈴蘭は、少し名残惜しい気持ちで帰って行った。
結局、少年とはあれから会えていない。あの後すぐ、蘭学を学ぶために一家で長崎へ引っ越したということを住職から聞いた。鈴蘭は鈴蘭で、戒律を破り、破戒僧となって今では替え玉新選組の幹部をしている。もしまた会うことができるなら、今まであったことを話したい。あの子のことをもっと知りたい、僕のことをもっと知って欲しいと思う。
桜が散る頃になると思い出す。あの子は今、どこで何をしているのか。懐かしい気持ちになりながら、少しの桜の花びらとお土産の甘味を持って、愛しい彼の待つあの部屋へ少女のようにるんるんとかけていくのだった。