写真が繋いだ昔と今 ミラマー航空基地でのエアショーは、ブラッドリーが心待ちにしていたイベントだ。
開催が決定したとマーヴェリックに聞いたその時から、母親に何度も行きたいと懇願し、誕生日プレゼントはそれでお願いと言ったほどに見に行きたかったものだ。結局は行きたがらなかったキャロルに代わり、マーヴェリックが休みをもぎとって連れて行くと言う話しになり、大好きなマーヴェリックと大好きなエアショーを見れる興奮で、もう何日も前から荷物を準備するくらいに楽しみにしていた。
当日の朝迎えに来たのが、アイスマンに変わるまでは。
申し訳ないという表情で扉の前に立つアイスマンのことも、ブラッドリーはもちろん大好きだ。マーヴェリックとは違う大人の人で、ベタベタに子供扱いをしてこない。怒る時は怒るし、でもたまに一緒になってふざけてもくれる。だから大好きだ。
でも、今日一緒に行くと約束したのはマーヴェリックだ。あれこれ頭を突き合わせて一緒に計画したのもマーヴェリックだ。それなのに、突然アイスマンに交代とは。
その小さな口から「またどこかに移動したの?」と出てくれば、荷物を持ってきたキャロルとアイスマンが同時に苦笑いを浮かべていた。残念なことに、こんなことがもう何度目かわからないからだ。
「いいや、違う。ちょっと外せない用事があって、俺が迎えを交代しただけだ。大丈夫、向こうで会えるから」
そう言ってまだ小さい手を握りしめた大きな手は、キャロルに預かる旨を告げて歩き出す。いつの間に受け取ったのか荷物はアイスマンの片手にあり、ブラッドリーは大慌てで母親へと手を振った。
「行ってきまぁす!」
「楽しんできて! ブラッドリーをお願いね」
エアショーを見に行くことをどことなく渋っていた母親が、それでも楽しんでと笑顔を見せてくれればブラッドリーは嬉しくなる。本当は一緒に行きたかったけれど、それは母親にとって辛いことだと幼いながらにわかっているから。だから、先ほどまで少し曇っていた顔を目一杯輝かせて、ブラッドリーは大きな笑顔を見せた。
それが一番、喜んでくれることだとわかっているから。
エアショーは良い席で見るのがいいとは、多くの人が口にすることだ。でもブラッドリーにしてみれば、どこで見ようともあの迫力や、空気の振動を身近に味わえるのなら、多少見えづらくても構わないのだ。そう思って空を嬉々として見上げている。
良い席は取れなかったみたいだと、アイスマンはそう口にしていたけれど、そんなの全然平気だと笑ったのはここにきた当初。二人並んで見上げる空を、いとも簡単に飛んで曲芸を披露する飛行機。カッコいい、すごい、とはしゃいで声を上げればアイスマンも嬉しそうに頷いてくれる。それがまた嬉しくて、少しだけ甘えるように腕にしがみついたら腕が直ぐに引き抜かれた。拒否されたのかと思う暇もなく、ブラッドリーの体はアイスマンの体に抱き寄せられて、見上げた先のニッと笑う顔に嬉しくなって、笑い返しながら体に抱きついた。背中に回された手が大きくて温かくて、とても安心する。これがマーヴェリックだったらと思わないわけではないけれど、滅多にないアイスマンとの今も嬉しいから。
ブラッドリーは見上げた空でくるりと回転する飛行機に目を細めて、あれすごいねと高い声を上げた。アイスマンも本当だなと笑っていて、あの動きをするには速度はこれくらい、角度はこれくらい、フラップはこれくらい、なんて細かく教えてくれるから難しいよと笑ったら、それもそうだなとやっぱりアイスマンは笑ってくれた。
そんな楽しかった時間がつまらなくなったのは、アイスマンがマーヴェリックを呼んでくると口にしたのがきっかけだった。
一緒に行くと言ったのだが、マーヴェリックは今、関係者以外立ち入り禁止の場所にいる。そのため入り口の前で待っていてもらうことになってしまうと、アイスマンは言ってきた。その場所は残念ながら、空を駆ける飛行機が見えない場所。この場で待っているほうが、つまらなくないと言われたのだ。
もちろん、子供一人を残して立ち去るのは良くない。隣にいた家族連れが、アイスマンがアクロバットを披露する飛行機の動きを事細かに説明するのを聞いていたのだろう。途中から質問をしてきたりして、どことなく和やかになっていたから、少し席を離れることとそばにいてあげてくれないかと口にした言葉に、家族連れは二つ返事で頷いてくれた。
そうして、この場所を離れたアイスマン。
残されたブラッドリーは最初は飛行機を楽しんで見ていたけれど、長いこと戻らない様子に少しずつ不安と不満が募ってきて。賑やかに笑い合う家族連れを見上げるたびに、それが自分にはないものだと痛感してしまって。少し苦しい胸の痛みに、楽しい感情がすっかりといなくなってしまっていた。
ぼんやりと空を見上げて、途切れることのない歓声や笑い声に耳を塞ぎたくなった時だった。
──声?
ブラッドリーよりもずっと幼い声が、聞こえた。
辺りを見渡して、人ばかりのそこに口を噤み。大きくなっては消えてを繰り返すそれを、キョロキョロと探す。何度も繰り返して、ようやくその音の出どころを見つけたのは、ブラッドリーたちがいる場所から少し離れた広場。
上を見上げては視線を彷徨わせている小さな子供。泣きそうなその顔の理由は、まだ子供のブラッドリーにだって直ぐにわかった。
「ぼく、ちょっとトイレ」
「ああ、気をつけて。迷わないようにな」
空を見上げたままの声が届く。うん、と返事をした声は届いたかは分からない。
でもブラッドリーは気にすることなく、真っ直ぐに小さな子供の元に向かった。
大人の腰より少し上に頭があるブラッドリーは、それでも大人の目線から外れがちで見失われることが多い。そのブラッドリーよりも更に小さな子供は、大人の足の長さほども身長がなく。曲がって上がる膝が顔に当たりそうで、ヒヤリとした。
「ねぇ、大丈夫? パパかママは?」
太い脚が子供の方に振られて、ぶつかってしまうと、慌てて手を引っ張ったブラッドリーにぶつかってしまう子供。必死に泣くのを我慢しているのか、真っ赤になって目元が強張っている。それでも、誰にも気付いてもらえていなかった子供はようやく存在に気付いてもらえた安堵からか、ぼろっと大粒の涙を溢した。
「こっちにおいで。ここ、人がいっぱいで危ないから」
小さくて細くて、でも柔らかい手をそっと握りしめて。ブラッドリーは上を見ながら歩く大人たちにぶつかられながら、小さな子供をフェンスの近くまでどうにか連れ出した。通りますと声を上げても、何度もぶつかられたブラッドリーは顔や肩が少し痛んだけれど、懸命に手を掴んできた子供のほうにはぶつかられた痕はないと思われるので一安心だ。ようやくホッ息の吐ける開けた場所で、ブラッドリーは子供の前に膝をついた。
小さな子供の目線が下がり、スン、と鼻を鳴らす音が聞こえる。
「はぐれちゃった?」
「……うん」
「名前は? 一緒にパパとママ探してあげるよ」
「……じぇー」
「ジェー?」
「うん、じぇー」
瞬きをすると、ぽろぽろとまた涙が落ちていく。俯くとよく見える頬の丸みと口先が本当に小さい子供だと教えてくるようで、ブラッドリーは自分だってまだまだ子供だというのに、しっかりしなきゃと深く息を吸った。
「ぼく、ブラッドリー」
「……ぶらっでぃー?」
「違う、ブラッドリー」
「……ぶらっでぃー」
そこまで難しい発音だろうか。うーんと考えても、正解はわからない。でも、ジェーと名乗った子供が一生懸命に聞き取って返してくれた名前だ。それでいいかと、うんと頷くことにする。
「うん、よし! じゃあ、迷子センター行ってみようか」
こんなに人が多いところをウロウロと探しても、探す相手は見つからないだろう。なら、怪我や誘拐などの心配がない迷子センターに向かえば、親のほうから子供が迷子になったと助けを求めに来るに違いない。そうしたらそこで会えるだろう。
手を差し出せば、迷子センターが何かわかっていないのか、首を傾げながらもその小さな手はしっかりとブラッドリーの手を握りしめた。
一人っ子のブラッドリーは、当然小さな子供の相手など殆どしたことがない。たまに公園などで友達の妹や弟と遊ぶことはあっても、どう接したらいいのかよくわからず仕舞いだった。自分から手を差し伸べたことなどはほぼない。だから今のやり取りも、友達がやっていたことの真似っこだ。
ただそれでも。ジェーが手を握ってくれたのは事実で、頼られる喜びとやる気が沸き起こったのも事実。頼られていることに気持ちが上向きになるのは嘘ではない。
しっかりと握りしめた手を引いて、ブラッドリーは空を見上げた。
「迷子センター、どこ……」
できるだけ人通りの少ない通路の端を、ジェーを守るように歩いたブラッドリー。人だかりの多い場所をうろうろとしてみたけれど、迷子センターなど見当たらなかった。
キャロルやアイスマンに、もしも道に迷ったりしたら、警察官か警備の人、お店の人に道を聞きなさいと言われている。でも警察官などこの場所に見当たらないし、警備の人もいない。海軍の人を探せばいいとは分かっていても、この場所にはその制服が見当たらない。ならお店の人と思うけれど、長蛇の列ができているそこに並ぶのはどうしても気が引けてしまう。ではどうしようか。確かどうしようもなかったら、子供を連れた人に聞きなさいと言われた記憶がある。周りにはそんな人が大勢いる。
けれど。意を決して声をかけても、迷子センターの場所を知らないと言われ続けてしまって。誰か一人でも、一緒に探してくれたらと思うのにみんな空を見上げるのに忙しくて、見ず知らずの子供に貴重な時間を割いてはくれなかった。
はーっと息を吐いたら、何だかとても疲れた気がする。繋いでいる手が引っ張られたのもこの時で、顔を向けたら、ジェーがその場に座り込んでいた。ゆっくりと手を離せば小さな膝を抱えて、そこに疲れた顔を乗せている。また涙が目の端に浮いているのが見えた。
「ごめん、ジェー。絶対にパパとママに会わせてあげるから」
「……あし、いたい」
俯いた顔に聞こえる鼻を啜る音。ブラッドリーも足が痛くて疲れたと思うのだから、もっと小さいジェーが疲れないわけがない。今まで文句も言わずに手を引かれるままだった小さな子に、ブラッドリーはぐっと自分の太ももを押しやった。
「おいで、抱っこしてあげる」
広げた両手とその言葉に、ジェーはゆっくり顔を上げて。それから少しだけ戸惑ったようにしてから、その小さな手をブラッドリーへと伸ばした。
背中を抱き締めるようにして抱き上げたら、何だかとても動きづらい。あと、ジェーも苦しそうだ。ずりずりと落ちていく体と腕に引っかかってしまう服とで、ジェーの背中と腹が丸見えになる。
これはきっと正しい抱っこじゃない。とブラッドリーは周囲を見て、近くの大人が子供の尻を支えるようにしているのを見たから、一度ジェーを下ろして。それから真似るようにして抱き上げた。
「わ、わわ」
「っ、こわい」
「ごめん、ギュッて捕まってて」
「……ぅん」
思ったよりもしっかり抱き上げられたけれど、自分よりも高い位置に頭が飛び出したジェーがグラグラするのでバランスが難しい。
でもしっかりしないと、と息を巻くブラッドリーが捕まってと言えば、ジェーは素直に従ってくれたので。
なんとか転倒することなく、歩き出すことができた。
──でも、重い。
こんなに小さいのに、と軽くショックを受けながらジェーを運ぶブラッドリーは、最初の数歩はサクサクと歩けていたものの。当然その重さに手も足疲れてきて、汗をかきながら必死に歩き続けることになった。目的の場所がわからない、誰もこちらを気にしない。見えるのは人の体と狭い空。轟音を上げて飛び交う飛行機なんて微塵も見えないし、時折細い飛行機雲が見えればいいくらい。
何してるんだろう、と思わなくもない今、それでも歯を食いしばって小さなジェーの親を探す。
子供を探す声が聞こえないかと耳を澄ませて、周囲を必死に見渡す人がいないかと目を向ける。
けれどやはり、そういったものは一切なくて。人の多い広場から離れた塀のそばにやってくると、限界間際だった腕からは自然と力が抜けてしまった。ジェーがちゃんと足を地面につけてくれたので、転ばずにはすんだけれど。
「ごめん、ちょっと休憩」
「うん」
「……ごめんね、あそこでじっとしてたら、パパとママに会えたかもしれない」
しゃがみ込んだブラッドリーの横に、同じようにピタリとくっついてしゃがみこんだジェーは、ゆっくりとブラッドリーを見上げてくる。泣いてはいないけれど、必死に我慢しているような顔は今のブラッドリーの心境と全く同じだ。
もしかしたら、さっきまでショーを見ていた場所にアイスマンが戻っているかもしれない。勝手にいなくなったことをきっと怒るだろうけど、でもあの大きな手でブラッドリーとジェーを抱き上げて、迷子センターに行ってくれるかもしれない。きっとそのほうが、ジェーのためになる。
すっかり歳上の気分でいたブラッドリーは、まだ自分が非力だと思い知って。それでも、自分よりも小さな子が泣いてしまわないようにと、必死に頭を働かせて。
素直に、自分ではダメだったと認めて、ごめんねともう一度口にした。
その声が震えていたのに気が付いて、あ、と思った時にはポロポロと涙が溢れてきてしまう。
ジェーのまんまるな緑色の目がブラッドリーを真っ直ぐに見て、ビックリしたように動きを止めている。
泣くつもりなんてなかったブラッドリーは必死に涙を拭うけれど、次から次へと溢れてくるそれは止まってくれない。
悔しいとか、悲しいとか、少しの寂しいとか。色んなものが混ざり合って、ブラッドリーの涙として溢れていく。
泣いたって何も変わらないのは分かっているのに、それでも溢れて落ちていく。このままでは引き摺られるようにジェーが泣き出してしまう。そう思って必死に拭うのに、ちっとも止まる気配がない。
唇を強く噛み締めて、痛みで誤魔化そうと思った時だった。
「ぶらっでぃー、なかないで」
泣きそうになるのを堪えるジェーが、小さな手で頭を撫でてきた。驚いて直ぐ近くの顔を見つめたら、真剣な顔で頬に触れた手がやや強引に涙を拭ってくれる。手のひらで、まるで塗り込むように。濡れた手は少し迷ってから自分の服で拭いて、そしてまたぐいぐいと。
小さな子供の優しい気遣いに、ブラッドリーは知らず涙を止めて。そして、ふふふと柔らかく笑えた。
「ごめんね、ありがとう。ぼくのほうがお兄ちゃんなのに、しっかりしなきゃね」
涙に濡れた重たい睫毛を開けば、キョトンとした幼い顔が満面の笑みを浮かべてくれる。ようやく見せてくれた笑顔。それが嬉しくてまた笑えば、何がそんなにおかしいのかわからないけれど、二人揃って声を出して笑ってしまう。
不思議なことに、笑うと今まで抱えていた重たい気持ちが泣いた時よりもずっと軽くなっている。すっかりとご機嫌になったらしいジェーも同じなのか、ブラッドリーに対してお兄さんぶれたのが嬉しいのか。ふんふんと鼻息を上げて得意げだ。
「ジェーは優しくていい子だね」
眩しいほどの金髪に触れてみると、とてもふわふわで。その下にある顔が嬉しそうに目を細めてくれるから、両手でたくさん撫でたらきゃらきゃらと声を上げて笑ってくれる。お返しとばかりにまだ短い腕が伸ばされて、ブラッドリーの頬をぶにぶにと押して。その面白くなった顔を見たのだろう、ジェーはまた明るい声を上げて無邪気に笑った。
強張った顔のまま、当てもなくフラフラとしていた時よりずっと今のほうが居心地がいい。
体を寄せてきたジェーをぎゅっと抱きしめたら、大丈夫きっとこの子の両親は見つかると、そんな希望が湧いてくるから不思議だ。
「ぶらっでぃー」
「うん? なに?」
呼ばれて顔を向けたら、鼻先に柔らかいものが触れた。ニコニコしている顔が間近にあって、ああ鼻にキスをされたんだなと納得がいく。
「ママがね、にこにこしてるとね、してくれるの」
「……そっか、じゃあぼくもお返しー!」
低い鼻の頭にちゅ、とキスをすれば、途端に嬉しそうに笑ってくれる。笑えば笑うだけ緑色の目がキラキラするから、キャンディーみたいだなと思って、もう一回鼻に唇を押し付けた。
ペタンと地面に座り込んだブラッドリーの足の間にすっぽりと入り込んだジェーは、もう泣きそうな顔は見せなかった。ご機嫌に話しをして、ブラッドリーが笑えば嬉しそうにしてくれている。
休憩のようにそうしていれば、人の集まる広場のほうがとても賑わっている様子が見てとれた。多分また曲芸飛行が始まるのだろうなと思うけれど、今またそこに足を運んでも人だらけで何も見えないし、それこそジェーとはぐれてしまったら大変だ。だから人の少なくなった壁沿いに座ったまま、ぼんやりと雲だけが浮かぶ空を見上げた。
「ひこうき!」
「え?」
ねぇ、と言うように服が引っ張られて意識がジェーに移る。その横顔は空を見上げて、キョロキョロと頭を動かしている。何も飛んでいない空だが、耳には唸るような音が確かに聞こえた。
この音が聞こえたら飛行機が飛んでくると、そう思っているのだろう。残念だけどここからは見えないよ。そう言おうとして、小さなジェーの手が空に伸ばされた。
「あ」
「ひこーき!」
建物と監視台のような高い建造物で塞がれたような空を、まるで切り裂いていくように。五機の飛行機が空を飛んでいく。
白い雲を引いて、方向を変えて、回転して、ぶつかりそうなくらい接近して。
ブラッドリーとジェーが見つめる先の空はとっても狭いのに、その先の広い空を堂々と飛んでいく飛行機たち。
「かっこいい!」
立ち上がって小さな手を振って、ぴょんぴょん跳ねて。ジェーは丸い顔を真っ赤にしてキラキラの目で空を見上げている。
ブラッドリーもそうだ。動いて視界を遮ってくる人の壁ではなく、空を遮るのが無機質な建物のお陰で自分が動けば視界が開ける。だから自然と顔には笑みが広がって、轟音と引く雲を連れて駆けていく飛行機に思いっきり手を振った。
「すごいねぇ」
「すごいね!」
ブラッドリーの横に座ったジェーは、真上を飛んでいく飛行機を追いすぎてひっくり返りそうになり、慌ててブラッドリーが壁にぶつかる前に抱き止めたら、楽しそうに体を預けてくる。そのジェーをもう一度すっぽりと腕の中に収めて、二人はまるで兄弟のように仲良く、そこから飛行機に向かって歓声を上げた。
見ていた飛行機が広場のほうへと飛んで、それが戻ってこなくなって。それでも、二人はピッタリとくっついたまま空を見上げている。
どうしても見たかった飛行機の曲芸を、きっと一番端っこで見れた。なんだか少し特別な気がして、ブラッドリーはふふ、と笑いが込み上げてくるのを止められない。つられるようにジェーも笑うから、二人はまた体を揺らして笑い続けてしまう。
「じぇーね、おっきくなったらね、ぱいろっとなるの」
「本当? ぼくもだよ。一緒にパイロットになれるかなぁ」
「いっしょね!」
「うん、一緒」
きゅうっと口角を上げて笑うジェーを抱きしめて、いつか一緒に飛べたらいいなと素直にそう思って。楽しみだなぁと言葉をこぼした。
「きみたち、ここで何してる? 会場はあっちだよ?」
壁に寄りかかっていれば、突然にかかった声。びくっと腕の中のジェーの肩も跳ねていて、ブラッドリーも同様だ。そおっと視線を声のしたほうへ向けると、青を基調としたミリタリーの制服に身を包んだ男の人が、のしのしと歩いてくるところだ。色黒で逞しい体付きは少し恐怖を感じたけれど、ブラッドリーはもうすっかりと心は元気を取り戻していたので。
「この子、迷子なんです」
と、しっかり口にすることができた。
「迷子? それは大変だ。迷子センターに連れて行こう。……きみは? 親御さんは近くにいる?」
「えぇと、ぼくも一緒に迷子になってるかもしれません」
「あっはは、そうか。じゃあ一緒に行こう。おじさんはここの海軍の人だ。怖がらないでくれな」
「はい!」
快活にブラッドリーが返事をすれば、名前のワッペンと所属のワッペンを見せてくれる。もし何かあったらと一瞬だけ頭をよぎったけれど、そうしたら大声で助けを求めるのだとブラッドリーは立ち上がった。
「じゃあほら、抱っこしてあげよう」
小さなジェーに手を差し伸べる男だったけれど、ジェーはピッタリとブラッドリーにくっついてしまう。人見知りかなと笑う男の声に首を傾げるブラッドリーは、残念だけどもう抱っこはできないとジェーの手を握りしめた。
「一緒に歩いて行こうか」
「うん」
ぎゅっと握り返される手。ブラッドリーが笑顔を見せれば、ジェーもすぐに笑い返してくれた。だからそのまま男を見上げると、了解したとばかりに頷く顔。そして、その大きな手がブラッドリーの右手を握りしめた。
「おじさん、ゆっくりね。ジェーが転んじゃうから」
「わかってるよ。迷子センターまでの短い旅だ」
ゆっくりと歩きだす三人は、人のあまりいない建物の間を通り抜けて、そうして遠くに聞こえていた歓声を肌で感じるようになってくる。わあわあと、叫ぶ声や笑う声、人の話し声。色んな音が混ざり合って大きな音になっているその場所は、人でいっぱいになっていて驚くほどだ。
あの中を通ることになるのかと、一瞬ギョッとしたブラッドリーだったけれど、男はそこをぐるりと迂回するように歩いて、朝アイスマンと一緒に通ったメインストリートへと出ていった。見覚えのある風景に周囲を見回すと、救急室と書かれた看板と、迷子センターと書かれた看板が仲良く並んでいるのが確認できた。
朝来た時にここを見ていれば、迷子センターを探して迷子になるなんて事態にならなかったのに。そう思ったけれど、迷子になるつもりなどなかったのだから、仕方がない。うん、と頷いて。男に手を引かれるまま、その足は確かに迷子センターへと向かって行き、なんとも可愛いのか可愛くないのかなんとも微妙なパンダやクマの絵が迎える扉を、カラン、と軽やかな音と一緒に潜った。
「迷子を連れてきました」
「ああ、ありがとうございます中尉」
「ジェイク!?」
「あ、ママ!」
迷子センターの受付のところで、ハンカチを握りしめて必死に何かを書いていた女性が振り向いたと思ったら、勢いよく声を上げてブラッドリーからジェーを奪い取った。
思わず驚いて一歩下がるくらい、勢いがすごかった。
「ジェイクどこ行ってたの! 探したのよ!? 怪我は? 大丈夫?」
ぎゅうぎゅうと抱きしめて、頬擦りをして。体を触って異常がないかを確認している母親。ジェーは大丈夫だよと口にして、それからぎゅうっと母親に抱きついている。泣き出すかと思ったけれど、嬉しそうに笑っているからよかったと、そう思えた。
「お子さんで間違いないですか?」
「はい! ありがとうございました」
「いえ。自分はここに連れてきただけですよ。その子のそばにいてくれたのは、この子ですから」
ぽん、と肩を叩かれて思わず見上げたら、不器用なウインクが見えた。思わず笑ってしまうと、少し強引に頭を撫でられる。
「あぁそうだったの。ごめんなさい、ありがとうね。あなたの親御さんは?」
「えぇっと、ぼくも迷子になったみたいなんです」
「まあ! もしかしてうちの子のせいじゃない? ごめんなさい、ああ大変」
オロオロとする女性にブラッドリーは、もうここに来たので大丈夫ですと笑い、そのタイミングでセンターのドアが勢いよく開いた。
「すみません! ここに七歳の男の子は来ていませんか!? 髪はブロンド、目はヘイゼル、身長はこれくらいで、名前はブラッドリー・ブラッドショー!」
「お、落ち着いてください! 何人かその年頃の子は来ていますが……」
「はい! ここにいます! ……ごめんね、トム」
「ブラッドリー!? お前っ! どれだけ心配したかっ! ……もし、お前に何かあったらっ」
肩で息をするアイスマンは、あちこち走り回ってブラッドリーを探したのだろう。汗だくだしヘアセットも乱れている。綺麗なブルーの瞳が揺れて、でもその大きな腕に包み込まれたら、もうその目は見ることはできなかった。
腕中に閉じ込めたブラッドリーを確かめるように、アイスマンは頭や肩や背中を撫でて、何度も頷いている。
心配させてしまった。迷惑をかけてしまった。信頼を裏切ってしまった。たくさんのごめんなさいが頭に浮かんで、ブラッドリーは目の前の胸元に顔を埋めた。
「ごめんなさい、トム。ごめんなさいっ」
「いや、俺も悪かった。長い時間離れてすまなかった。お前が無事ならそれでいい。怪我は? してないか?」
「大丈夫だよ。トム、探してくれてありがとう、大好き」
ぎゅうっと抱きつけば、笑う音が体から聞こえた気がする。背中を抱き締めてくれる腕が本当に安心できて、涙が出そうになって。
「ブラッドリー!!」
「っ!? え、え? マーヴ?」
突然の大声に、出そうになった涙は引っ込んで、ついでに建物が揺れた気がした。
「ブラッドリー! よかった! やっぱり見間違いじゃなかった! ああ僕のブラッドリー!」
「おい!」
アイスマンの腕から強引にブラッドリーを引き剥がしたマーヴェリックは、そのままぎゅうっと包み込むように抱きしめてくる。それはとても嬉しいのだけれど、なんだかゴツゴツした感触がそこかしこにあって痛い。
「マーヴ、なんか、痛いっ!」
「あ、ごめんごめん。装備つけたまま来ちゃって」
そっと離してくれたマーヴェリックの格好は、ヘルメットを被っていない飛行士の格好そのままだった。
「お前、せめてGスーツは脱いでこい!」
「しょうがないだろ!? 空からブラッドリーによく似た子発見して、大慌てで来たんだから」
「よくまあ、あんなところから地上の子供を見つけられる……」
「フフン、僕はブラッドリーならどこにいたって見つけられるからな」
頭上で交わされる会話に置いてけぼりのブラッドリーたったが、マーヴェリックの空から発見したと言うセリフに、驚いたように目をパチパチとさせた。
「もしかして、あの外のほうまで飛んでた飛行機、マーヴ乗ってたの!?」
「そうだよブラッドリー! 驚かせたかったんだ」
「いやお前、罰としてエアショーに出ろって言われてただろ」
飛行機に乗る限り罰ではないな、とマーヴェリックは楽しそうに笑っている。それでいいのだろうかとブラッドリーは思うけれど、マーヴェリックもアイスマンも笑っていたので、いいのかなと笑顔になった。
「さぁ、じゃあ私たちはそろそろ行きます。坊や、うちの子と一緒にいてくれてありがとうね」
「はい。……ジェー、元気でね」
突然の賑やかさが落ち着いたのを見計らったように、ジェーの母親が優しく声をかけてきた。もう終わりになるその言葉に、ブラッドリーは素直にしっかりと頷いた。
またねは、できない約束かと思って。ブラッドリーは母親にしがみついている手に背伸びをして触れて、にっこりと笑顔を向けた。まだ小さくても、会話の内容はどことなく理解できるのだろう。ジェーはくるりとブラッドリーを見下ろして、その手をぎゅっと掴んできた。
「ぶらっでぃー」
「うん、元気でね」
握手をするように手を揺らすと、小さな柔らかい手はより力を込めてブラッドリーの指先を握りしめた。さすがに困ったと表情を変えれば、気付いた母親はその場にしゃがみ込んでジェーの背中を優しく撫で始めた。
「ジェイク、お兄ちゃんにバイバイして?」
「やだ」
「もうバイバイの時間なの」
「やだ!」
首を必死に振って、それは嫌だと訴える小さな体。握りしめた手は離さないと体現するように、痛いほどに力が込められている。母親の手がジェーの指を離させるようにブラッドリーとの手の間に入ってくる。一本一本ふくよかな指が離されていく。少し寂しいなと思って、ジェーを見たら。
「……ジェー、泣かないで」
大きな目に目一杯涙を溜めている姿が、あった。
子供さながらの泣き喚くようなものではなく、溢れてしまった感情のような涙。静かに涙をこぼす様子は見ていて、とても胸が痛い。
「ジェイク」
「ねぇ、ジェー。最後に抱っこさせて。ギューってして、バイバイにしよう」
また会えるよとか、本当なら言いたかった。けれど、ブラッドリーもまだ子供で。だからこそ、そのまたねが嘘になることを知っているから。どうしても、自分を信頼して手を握ってくれたこの小さな子供には、たとえ優しい嘘だったとしても吐きたくなかった。
両手を広げておいで、としたら。ジェーはずびっと鼻を啜って、おずおずと両手を伸ばしてくる。母親も仕方がないというようにジェーを床に下ろして、そうしたらその短い数歩を、ジェーは蹴るようにしてブラッドリーの腕の中に飛び込んできた。
ぎゅうっと。力一杯の抱擁は、子供らしい。もちろんブラッドリーは手加減しているけれど、それでもしっかりと腕に力をこめている。ジェーは力一杯だったので、少しだけ苦しかったけれど。でもそれも、ブラッドリーが抱っこするために少し屈めば緩んでくれて。お尻の下を支えるようにして、最後の抱っこをして見せるブラッドリー。
少しだけふらついたけれど、それは後ろにいたアイスマンとマーヴェリックが支えてくれたので、転倒はしなかった。
軽そうに見えてとても重い子供は、ブラッドリーの細い腕ではほんの少しの時間しか抱き上げていられない。もっと大きかったら良かったなと思って、スンスンと鼻を鳴らすジェーを見上げた。
涙は止まってくれたようだけれど、まだ目はうるうるとしている。綺麗なグリーンが揺れていて、その瞳が真っ直ぐにブラッドリーを見つめてくると、とても嬉しかった。
だから、笑って見せる。
そうしたら、ジェーもゆっくりと笑ってくれたから、この寂しく思う気持ちも勘違いではないのだなと気が付いてしまって、ちょっとだけブラッドリーも鼻の奥がツンとした。
「あの、失礼ですが、あなたはもしかしてパイロットの方なんですか? もし良かったら……うちの子と写真を撮ってもらえませんか?」
二人が笑っているのを見つめていた母親が、少し意を決したようにマーヴェリックへと声をかけてきた。一瞬呆気に取られたようなマーヴェリックはアイスマンをチラリと見て、はあと生返事を返している。ブラッドリーは慌てて口を開くと、
「あのね、この子、ぼくと一緒に迷子になっててね、ずっと一緒にいたんだ。パイロットになりたいんだって」
そう告げた。ジェーはブラッドリーを見つめてから、そうだよと言うようにニコッと笑ってくれる。答えるように微笑み返すと、その様子を見ていたマーヴェリックから、もちろんと承諾の声が聞こえた。
「あ、あのね、ジェーのママ。トム……、ええとこっちの、アイスマンもパイロットなんだよ」
「まあ、そうなの? あなたの周りはパイロットだらけなのね」
ふふ、と笑うジェーの母親は鞄からカメラを取り出して、優しくジェーの頭を撫でている。
「じゃあお兄ちゃんと一緒に、パイロットさんと写真撮るわよー」
ブラッドリーの左右に立つ、アイスマンとマーヴェリック。それぞれ頭や背中に手を置いて、少しふらつくブラッドリーをさりげなく支えてくれる。くすぐったく感じながらジェーを見上げたら、大きな二人を見上げるその顔がブラッドリーへと視線を降ろしてきて、一緒にふふ、と笑い合えた。
カシャリカシャリ。数枚撮られた写真は、いつかジェーの記憶を呼び起こすきっかけになるだろうか。そうなったらいいなと思いながら、礼を口にして手を伸ばす母親へとジェーの体を傾けた。けれど、しがみつくようにくっつくジェーは離れないというようで。でもブラッドリーの腕ももう限界で。ずりずりと落ちたジェーは、それでもぎゅうっとブラッドリーに抱きついている。
「ジェー、ママが困ってるよ」
「……ぶらっでぃーといる」
「ジェイク、お兄ちゃんとはまたねなの。パパも待ってるし、お姉ちゃんだって心配してるから」
「ぶらっでぃーがいい! いっしょいる!」
また泣きそうな声をあげて、ブラッドリーの腹に顔を埋めるジェー。
そう言ってもらえてとても嬉しいし、時間が許すなら一緒にいたいとも思う。でも、大人の事情はそうもいかないのだと、それもわかる。
現に、アイスマンもマーヴェリックも困ってように笑っている。
きっとこのあとに何か、予定を立ててくれているのだ。そしてそれは、ジェーの家族もそう。
縋るように「ぶらっでぃー」と声を上げるジェーは、それでも何も悪くない。困ったと曖昧に笑う大人に、ジェーの精一杯の気持ちはきっとちゃんと伝わらない。だから、ブラッドリーはぎゅうっとジェーを抱きしめて。そして、その頭のてっぺんに思い切りキスをした。
「ぼくもジェーといたいけど、バイバイなんだ。……大人になって、パイロットになれたら、また一緒にいようね」
それこそ、途方もない約束だ。でも、その場凌ぎのものではない、ありったけの気持ちを込めた約束。
ジェーはすん、と鼻を鳴らして。それから、こくんと頷いてくれた。
緩まる腕の力が、体温すら連れていってしまう。寂しいなと思って、でもブラッドリーは我慢した。
母親に抱き上げられて、少し不貞腐れた顔でジェーはブラッドリーをじいっと見つめて。それを見上げたら、これでお別れだと痛感して眉が下がってしまう。そんなブラッドリーの顔が面白かったのだろうか。ジェーは小さな顔で、くしゃっと笑ってくれた。
「へぇ、これがルースターの子供の頃? 可愛いじゃん」
「そりゃどうも」
「まだまだ沢山あるよ!」
「大佐、どれだけ持ち歩いてるんです?」
写真を片手に笑みを浮かべるファンボーイと、呆れた顔を見せつつ頂戴と手を出しているペイバック。更にその周りにはあのミッションを共にこなした面々が集まって、とても賑やかに“ピートおじさん”の思い出の写真披露会に参加している。発端は、例のミッションの解散の時だった。マーヴェリックが「僕は今ここに住んでるから。こっちへ来ることがあったら寄って? 僕もそっちに行く時は顔出すよ。……ええ、嫌がらないでくれよ……僕のハンガーにはグースとキャロルの写真も沢山あるんだぞ? お前の小さい時の写真も! まだ髪質が変わる前の貴重なやつ!」と、思春期の子供にまともに相手をされない親戚全開で話しているところを、マーヴェリックに最後に挨拶をとやってきた彼らが全員耳にして。その写真今度見せてくださいよと、盛り上がったのだ。
最初は当然嫌がったルースターだったが、よく考えればこのメンバーが集まること自体がとても珍しく、少数で集められたとしてもマーヴェリックが絡むことはそうそう無い。そう判断して、好きにすればと肩をすくめたのだ。
そうしたら、何故か今日、示し合わせたかのように全員いる。
その上マーヴェリックは、こうなるとわかっていたかのように、分厚いケースを持参していて。そこから出てくる出てくる、ルースターの幼少期の写真。ピンボケしたものも大事に取っているのだから、実の親以上に傾いた愛情が垣間見えた気がするほどだ。
あり得ない、と天を仰いだルースターをよそに。酒が入り陽気になっていくメンバーは、マーヴェリックの「汚すなよ」という割とドスの効いた声に背を正しながら、写真を回し見している。
ルースターと、若いマーヴェリックと。たまに妙に顔のいい若い男性たちがあちこちに。そんな写真を見ては、この時はねと整理整頓された記憶を披露していくのだ。当事者のルースターだけが緩く頭を振って、好きにしろよとばかりにノンアルコールのビールを喉に流し込んだ。このあとに運転が控えてなければ、浴びるように飲んで酔っぱらえたのに。
ため息混じりに、賑やかに盛り上がる一角を背にカウンターに肘をついたら、離れた場所で動きを止めている人影が視界に入り込んだ。じっと手元を見て、皺が残るのではと思うほどに眉根を寄せている顰めっ面の横顔。
「ヘイ、ハングマン。どうした、親の仇見つけたみたいな顔して」
賑やかな後ろに負けないよう声を投げたら、無反応が返ってくる。さすがにそれはないだろうと目元がピクリとすれば、壊れた人形のようにギギギと首が動くのが見えた。相変わらず、眉根はくっつくほどに寄っている。
「どうした?」
その様子のおかしさに、不機嫌な気配を漂わせていたルースターはそれを霧散させて。パチリと大きく瞬きをした。
「……これ、お前、なのか」
「なに? ……ああ、そうだけど?」
さあどう揶揄って来るんだよ、とばかりに構えれば、ハングマンは手にしているマーヴェリックの写真をまたじっと見下ろして、目元が少し険悪になっている。予想とは違う反応は、ルースターが逆に困った。いつもの調子なら、ヒヨコだの雛だのと揶揄ってきただろう。そんな類の言葉が笑う声と共に来るものだと思っていたのに、ハングマンは一切何も口にしなかった。むしろ他のメンバーがはしゃぐようにそれを口にしていて、いっそ清々しいなと思ってしまう。
「ウソだろ……マジかよ……」
周りの喧騒に掻き消されそうな、細い声。額を抑えて俯いている様子は、普段の彼からは想像もつかない。
そんなに子供の頃の俺がショックなのか? と首を傾げるルースターは、近寄ってきたファンボーイが持つ写真に目を移して肩を揺らしながら笑った。
「懐かしい」
「この頃の髪はもうブラウンなんだな。なんかルースター、ポケモンみたいに進化してるよな」
「そう? 進化するたびに可愛くなくなるやつか?」
「そうそう」
「このやろ!」
アハハ、と明るい笑い声が離れて、でもその足は途中で止まったようで「ハングマンどうした?」と声をかけている。「あんまりにもルースターの幼少が可愛らしくて、驚いてるんじゃない?」なんて笑うフェニックスの声に、「可愛くなくなっててごめんよフェニックス」と冗談めいて口にすれば「ブラッドリーは今も可愛いぞ!」と、フェニックスが何か言う前に口を挟んでくるマーヴェリック。途端にワッと笑い声が膨れ上がった。
人だかりの中でも会話があっちへこっちへ跳ねていて、ルースターはその輪に参加していないのに、その場の様子に笑ってしまう。
「ハングマン、この写真のルースター、女の子みたいに可愛いぞ」
「やめろペイバック!」
「だって本当だぜ? ほら、そこら辺の子より可愛いぞ」
「それは失礼すぎる」
ケタケタ笑うファンボーイがペイバックから写真を受け取って、ワオと笑っている。それをハングマンに見せようと振るから、またルースターは大きため息を吐いた。ハングマンはその写真を受け取りながら持っていたものを差し出して、まるで交換する様に写真に目を落としている。
「へぇ」
それだけ口にしたハングマン。後に続く揶揄いの言葉はやはりなく、調子が狂うなとルースターは瓶を傾けた。そのハングマンの足元を、ヒラリと何かが落ちていく。滑るようにしてルースターの足元に落ちたそれを屈んで拾い上げれば、随分と古い写真だとわかった。真っ白だったろう背面は茶色っぽく変色し、ところどころボロボロだ。
「なにこれ」
クルリと反転させて、目に入るのは四人の姿。大人が二人と子供が二人。
──あれ、これ……。
「なっ、なに勝手に!」
ルースターの手から素早く奪われた写真は、ハングマンの手の中。先程、彼がマーヴェリックが出してきた写真と何かを見比べていたように見えたが、それと見比べていたのか。
でも、何故そんな写真をハングマンが持っているのか。
はて、と首を傾げるルースターに、じわじわと顔を赤くしていくハングマン。
でも。
「ハングマン、大佐の写真くすねるなよ」
「んなことしてねえわ!」
「じゃあほら」
と。コヨーテがハングマンの手から写真を抜き取って、マーヴェリックへと差し出して。ハングマンの声にならない悲鳴が、聞こえた気がした。
「バカヤロウ! 返せっ!」
「返せって、大佐のだろ」
「違っ! ちょっと、おい!」
「大佐とルースターと、あと誰です?」
「ええと……アイス、この子はわからないけど……いや、この写真は僕のじゃないぞ。これ持ってない」
ブラッドリーが小さい子を抱っこしてるなんて貴重なもの、見たことない。そう言って、写真をひっくり返したり戻したり。マーヴェリックは不思議そうな顔で写真を見つめている。
「これ……いつだ?」
「大佐フライトスーツ着てますけど」
「フライトスーツどころかGスーツ着てるし」
「アイスマンは私服ですね」
「ルースターがいるってことは、基地の中じゃない? 談話室とか?」
大人二人が同じ格好をしていればある程度場所の見当もつくけれど、生憎と一人は私服で一人はフライトスーツ。そこに子供が二人。基地なのかもしれないし、違うのかもしれない。そしてルースターが抱き上げる子供が誰なのか。
ワイワイと話しが弾んでいくのを遠巻きに見つめて、ルースターは小さい頃にあった出来事をぼんやりと思い返して。ふと視線を上げたマーヴェリックと目が合った途端、二人同時に「あ!」と声が出た。
「思い出した! エアショーだ!」
「そうだ、ブラッドリーが迷子になった時の!」
謎が一つ解けて肩を下ろせば、じゃあこれは誰なのとフェニックスが口を挟んできた。指さされているのはもちろん、ルースターの腕の中にいる子供。
「いやフェニックス。それ簡単だろ」
コヨーテが笑って、その顔をハングマンへと向けた。当然、全員の顔もそちらへ向く。そこには、苦い顔をしているのに羞恥からか赤くなっているハングマンがいて、パチンとファンボーイが指を鳴らした。
「これ、ハングマンか!」
「なんだよ可愛い時あったんじゃねーの」
「思いもよらずハングマンの子供の時も見れるとはなー」
賑やかになる話し声に、ハングマンは大急ぎでマーヴェリックの手から写真を奪い返し、ズボンのポケットへとねじ込んだ。もう少し見ていたかったとマーヴェリックがしょんぼりとすれば、意地悪だなぁとボブが笑っている。
「大佐には、あとで送信しときますよ! ……もういいだろっ! クソッ!」
「子供の頃にルースターに抱っこされてたとか。……可愛いことしてたんだねぇあんたたち」
「いや、のちのハングマンとか知らねぇし。そもそも俺、その時のことあんまり覚えてない」
「──奇遇だな、俺も小さかったんで覚えてない」
ハッ、と鼻で笑うように口にするハングマンに、小さく肩をすくめるルースター。でも、ファンボーイが首を傾げて二人を見上げてくる。
「でもさ、写真持ってたんだから、何かしら思い出があったんじゃないの?」
それは他のメンバーも思ったことなのか。そうだそうだと頷いている顔がいくつもある。ハングマンは歯噛みするように唸って、それからチラリとマーヴェリックを見やった。
「そりゃ、ガキの頃からパイロットになりたかったし。写真撮ってもらえたやつだし。大事にするだろ」
「え、ルースターのことは?」
「知るかよ!」
「そりゃそうだ。進化前だもんな」
「俺はモンスターじゃないぞ」
笑うルースターは残っている瓶の中身を全て口に注ぎ込み、マーヴェリックを振り返ると声を上げた。
「ちょっとナビ見てくる」
「わかった。もう少ししたら出ようか」
その声の返事とばかりに手を振って、ルースターは賑やかな酒場からゆっくりとした足取りで外へと出た。このあと、マーヴェリックのハンガーまでの長い運転が待っている。諸事情により、この場所の近くにある基地へ連れてこられたというマーヴェリックは、いつもの足であるバイクがないため、車をレンタルしていたルースターがハンガーへと連れていくことになっている。どちらにしろ休暇で彼の元へ赴く予定だったので、何も気にしていないが。
アクセサリまでキーを回して、パッと光るナビにセルフォンに表示させたハンガーの住所を入力していく。砂漠の一角にある飛行場が候補に出てきてそれだと決定を押せば、そこまでの所要時間とルートがあっという間に表示された。ありがたいことだと、二つあるルートのどちらにしようかと腕を組めば、カランとドアベルが鳴る音が聞こえて「うるせぇ! 帰る!」と大声を上げるハングマンが出てきた。
「どうした?」
「あ? 散々揶揄われるからもう帰る」
「子供かよ」
「うるせぇ」
「帰るって、どこ帰るんだよ」
「基地」
「リモア?」
ひっくり返るような声をあげれば、憮然とした表情はそうだと頷いている。思わず笑ってしまうのは許してほしい。だって、ここからリモアの基地までかなり遠いのだ。気軽に、帰りたいから帰ると行動できるものではない。
「送ってやろうか?」
「……別にいい」
「そう不貞腐れるなよ、ジェー」
「やっぱ覚えてたな!」
「思い出した、だよ。むしろお前がよく覚えてたな」
「……うるせぇ」
口を尖らせて不満げなその顔。ルースターは笑って指先でチョイチョイと来いと示せば、その不満げな顔のままにハングマンは近付いてくる。
「ふざけんなよ、なんで髪色変わってんだよ」
「そういう文句は初めて言われたな」
「変わってなかったら、気付けたかもしれないのに」
「ごめんて。ほら、抱っこしてやるから」
「ふざけんな! 俺がハグすんだよ」
「あっそう」
ぎゅう、と抱きついてくる体は、酒を飲んでいるからか過去のことが恥ずかしく思い出されたからなのか、とても温かい。
思い出した記憶の中のあの小さな体とは全く違うこの体は、本当に同一人物なのかと疑ってしまうほどだ。
でも今も昔も変わらず、ブラッドリーのことが好きだと言うのだから面白い。過去のことなどすっかり忘れて出会ったのに、惹かれ合うなんて。
「でも、大事に持ってたんだなぁ写真」
そんなにあの二人と撮れたの嬉しかった? と笑えば、しばらくの無言のあとにポツリと、違うと聞こえた。何がだろうと首を傾げたが、果たしてハングマンが見えたのかはわからない。
「ハッキリとは、あの時の出来事なんて覚えてない。けど、ひとつだけ確信があって」
「確信?」
「……俺を抱き上げてくれてた人のことが、めちゃくちゃ好きだってこと」
「おお」
「俺の初恋……」
「マジか。初恋は実らないんだろ?」
「うるせぇ、ねじ伏せた」
力技かよ、とルースターが体を揺らして笑えばハングマンも笑っている。
じんわりと馴染んだ体温が、ゆっくりと離れていく。その寂しさに目を細めると、ハングマンの唇が鼻の頭に触れた。
記憶の彼方にあった出来事が昨日のことのように思い出されて、離れようとする体を引き寄せた。しがみつくようにして抱き寄せた体は、何だよと文句を口にしながらその腕をまた背中に回してくれる。
「ぶらっでぃー」
「ふふ、うん。なぁに、ジェー」
くすくすと笑って交わす、どこか舌足らずな呼び名。
恥ずかしいのだろうか、ハングマンの体温が上がった気がする。それを愛おしく思いながら少し顔をずらして、見えた耳へと唇を押し付けた。しっかりと熱を持っている赤い耳は、唇よりもずっと熱い。
「痒い」
「くすぐったいって言えよ」
「いや、これは痒いだろ」
髭が、と言いながら耳を撫ぜる手。ハングマンとの間に入ってきたその無遠慮な手にも唇を押し当てたら、指先で唇を上下から挟まれた。ついでにそのまま上唇と下唇を、むにむにと左右にずらされるのでくすぐったくなる。いつの間にかこちらに向いている顔をむすりと見返したら、楽しげに目を弓形にする大好きな顔。
離せと訴えるように唇を突き出すと、ぶふ、と堪えきれなくなったような声を出してきた。
失礼なやつだなと目を細めるタイミングでハングマンの顔が近付いて、摘まれたような唇にキスをされる。
「アヒルみたいだな」
そう低く笑って何度か啄まれた唇からようやく指が離れれば、お返しとばかりにその唇に噛み付いてやった。
「残念ながら俺は鶏でね」
「鶏に歯があるなんて初めて知ったな」
笑いながら、今度は優しく触れるだけのキス。
「あの頃は可愛らしかったのに、今は随分いやらしいんだな」
「うるせぇな。久しぶりなんだ仕方ないだろ」
触れ合うだけのキスで期待してしまったのか、随分と素直な反応を示すそこ。座席に座ったままのルースターの太ももに押し付けるようにされて、兆していただけのはずのそれがしっかりとした硬度を持ち始める。
それで辛いのは自分だろうと思うけれど、体が勝手に気持ちのいいことを優先させてしまうは仕方がなかった。
「約束、果たさなきゃなぁ」
「約束?」
「お前は覚えてないかもしれないけど、大人になってパイロットになれたら、一緒にいようって言っちゃったんだよな、俺」
今の今まで忘れていた記憶。それでもはっきりと、幼かった自分が口にした言葉は頭に思い浮かぶ。忘れていただけで、捨てられていなかったそれはとても懐かしい。
「なんだよ、お前、三歳児にプロポーズか?」
「んなわけないだろ」
笑って抱き締める体は、三歳の頃の面影なんてひとつもない。同じように、自分の体も七歳の頃の面影はない。全くの別人になったような二人は、それでも顔を見合わせれば柔らかく好相を崩し、あの頃を思い出させるような笑みを見せる。
「俺はいつでもいいぞ」
「……俺も」
挑発的に笑むハングマンにつられるようにして口にしたら、それはもう嬉しそうに笑う顔が見えた。
なんだか照れ臭くて唇にまた噛み付けば、予想してたと言うように、その口がハングマンに食べられる。
口付けが緩やかに深くなれば互いの息も自然と上り、欲望と理性が激しく戦い出す。
が。
「セレシン大尉」
ヒヤリとした声が通り抜けて、一瞬にして離れる二人の体。
青褪めたハングマンの向こう側、腕を組んでにっこりと微笑むマーヴェリックが見える。そういえばもうすぐ出ようかと話していたんだった、と今更思い出しても遅い。
直立不動になったハングマンは青い顔のまま滝のような汗を流し、哀れにも不敬だなと呟かれれば、回れ右をして背筋を伸ばすしかない。
そこに浮かぶ笑みも空気も全てが上官としてのものではないのに、不敬だのと酷いことだとルースターは頭を振って、目の前のハングマンの体を抱き寄せた。
「ちょ、おい!」
「ダメだよマーヴ、今は勤務外。ジェイクは俺の大事な人。OK?」
「で、も! ブラッドリー!」
「やだよ。二十年以上想っててくれたってわかったんだ、ぜったい離さないから」
ぎゅうっと腕に力を込めたら、戸惑うようだったハングマンの顔がようやく落ち着きを取り戻して、力強く息を吐き出した。
ルースターの手を力強く握りしめ、マーヴェリックを見返すその目は、負けるものかと強い光を湛えている。
ハングマンの財布に大事にしまわれている写真の、小さな子供たちが、無邪気に笑って大人の自分たちを応援してくれている。
ずっと一緒にいるんだよと、笑顔を弾けさせた。