しあわせの指輪「セール中なの!」
聞こえた可愛らしい声に顔を向ければ、十歳にならないくらいの女の子が眩しそうに顔を顰めてこちらを見ていた。彼女の隣には、さらに小さな女の子。丸い頬をふるふると動かして、「なの!」と拙い声をあげている。目元がよく似た姉妹は揃って真っ直ぐな瞳をルースターに向けていて、少しだけ彼女たちの圧に押されながらも制帽の鍔を少し持ち上げ、小さく会釈を返した。
「ほら、お仕事の邪魔しないの」
姉妹の様子をすぐそばの庭から見ていた母親が、ルースターに会釈をしながら子供たちに声をかけている。制服姿とはいえ、見知らぬ大男に警戒しているのがよくわかった。
何をするつもりもないし、声をかけてきたのはお嬢さんたちだ。二人の注意が母親に向いて、ルースターはその場から早く離れようと、緩めていた歩速を戻した。
少し前を行く、同じドレスホワイト姿の集団に混ざれば、可愛い子にナンパされてたな、なんて揶揄われて思わず吹き出してしまう。
「ああ、確かに。名誉なことだね」
同僚の結婚式は、この住宅街を抜けた先にある教会で行われる。その為の移動に対してほぼ無感情だったルースターは、姉妹の姿に少しだけ気持ちを浮つかせて、靴の踵を鳴らした。
花嫁はモデルらしい、と隣に立つ同僚がポツリと呟いた。だから? と返したくなるの堪えて、ふぅんと気の抜けた音を出せばそんな対応にも慣れている男は気にもせずに、失礼のないようにカラフルなドレスに身を包む女性たちを、サッと指差している。
「……全員?」
「そ。鼻の下伸ばしてる奴ばっかりで、恥ずかしいったらないな」
「……お前も既婚者じゃなかったら、フラフラ寄ってったんじゃないか?」
「失礼だな。俺はハニー一筋」
「だからそうじゃないって」
クツクツと喉で笑って、近づいてくる女性たちには失礼がない程度に愛想を振りまいて。ルースターは十字架の後ろにかかる太陽を見上げて、目を細めた。
花嫁のヴェールのような、柔らかな透ける白が十字架に分断されながらも幾重にも降り注いで、日差しの中へと進む二人を照らしている。
祝福されているなぁと、なんとなく思って。ルースターは制帽を被り直した。
常に笑顔が溢れて、明るく弾んだ声がカラフルな色を見せるようなこの場所。込み上げる愛しさや喜びをハグやキスに変えて、夫婦になった二人は沢山の友人たちから祝福を受ける。それは経験者には懐かしくも少し恥ずかしい光景で、未経験で憧れを持つ者には眩しく心奪われるような光景。
そのどちらでもない者たちは、笑ってはしゃいでおめでとうを口にする。
ルースターはどちらでもない者に属するけれど、一通り笑って二人と話してしまえばもうやることもなくて。パーティーへと移動しようかなんて声が出始めた頃、数人の仲間と用事があるからと手を振った。
祝いたい気持ちがないわけでも、つまらないと思ったわけでもない。
ただ、その光景を輪から離れて見つめるのは少し失礼かもしれないと、そう思っただけ。
他の仲間はそれぞれ、勤務であったり家族と約束があったりと予定があるらしく。特に予定もないルースターは、やはりどことなく悪いなぁと思いながら足をゆったりと動かした。
眩しい太陽の日差しを浴びるドレスホワイトは、一段とその輝きを増しているようで少し目が痛い。本日の主役であった二人は、あの場でどのドレスホワイトよりも輝いていたのに、この場では自分が発光しているような妙な気分になる。揺れる他の白も眩くて、上を脱いでしまおうかと思うけれど下のワイシャツも白だったと、思わず一人で閉口した。
閑静な住宅街と銘打たれるのが似合う、静かで優しい雰囲気の住宅が並ぶ道を歩いていけば、「セール中なの!」とまた少女の声が聞こえてくる。
ゆっくりと視線を向けると、あれからずっとここにいたわけではないだろうが、花柄のワンピースを揺らしながら少女が、くん、と顔を上げたところだ。
「ルースター?」
「ああ、先行ってて」
「迷子になるなよ」
「知ってる? 今のセルフォンってすごく優秀なんだ」
ケラケラと笑う仲間は、ひらりと手を振って足を進めていく。それを見送るように見つめて、ルースターはキュッと踵を回して方向を変えた。
数歩で止まるその足の向こうには、ルースターに怯えの一つも見せない少女。ひょいと跨げてしまいそうな小さな体で、遥か頭上の顔を気後れすることなく見上げてきている。
「セールなの?」
「そう! そのほうがお客さん来るでしょ?」
開いた口には前歯が見当たらない。
乳歯が抜けた頃かと、どこか穏やかな気持ちになりながらしゃがみ込めば、少女も同じようにしゃがみ込んだ。そうして、柔らかな手がレジャーシートの上を滑っていく。
「これはね、ルビーよ」
「へぇ」
「こっちはね、サハイア!」
「サファイア?」
「そう!」
安っぽい銀色の光りを放つ小さな指輪。そこに嵌め込まれている傷だらけの石に思わず微笑んで、ルースターはその一つを摘み上げた。
軽くて、少しバリのあるそれ。
イミテーションにもならない玩具は、それでも子供には輝いて見える物だろう。現に目の前の少女は、これはどこで買った物でと思い出を口にしている。
大事な物なのに売ってしまうのかと、引き継いで遊ぶだろう妹もいるだろうにと少しだけ驚けば、少女は小さな声で「ママの誕生日にね、イヤリングを買いたいの」とこっそりと教えてくれた。
それはお小遣いではまだまだ道のりが遠くて、お手伝いをしてお駄賃をもらっても全然足りなくて、それで自分の宝物を売ろうと考えたようで。いじらしくも優しい気持ちに触れて、ルースターは優しく目尻を下げた。
正直なところ、この場にある全てを買うことはもちろんできる。そうしたら少女は大喜びするだろう。でも、それが果たしていいことなのかはわからない。足りないと泣いてしまうのは嫌だけれど、悔しさをバネに次の誕生日までに達成して欲しい気持ちもある。
難しい、と苦笑いを浮かべたら、少女はじいっとルースターを見上げて。そして、結婚式? と唐突に尋ねてきた。
「うん、そう。よくわかったね」
「教会から鐘の音聞こえたの。おじちゃんの結婚式だったの?」
「おじ……、いや、友達のだ」
グサリと刺さる無垢な言葉にダメージを受けつつ、ルースターはニコリと笑みを浮かべる。そうすると少女はじいっと手元を見てきたので、手袋を外してひらりと振ってみせた。
「結婚してないの?」
「そうだよ」
「パパの弟もね、結婚してないの」
大人はみんなするものだと、少女は思っているのかもしれない。彼女の友達の親はシングルもいるだろうけれど、おそらく多くは結婚した人たちだろう。囲まれたそれらを当たり前に思うのは何ら不思議なことではないから、ルースターはそういう大人もいるんだよ、とだけ口にした。
「好きな人はいる?」
初対面でだいぶ踏み込んでくるなと思わず笑えば、庭のほうから伺う視線を感じる。母親だろうと当たりをつけて上げた視線は、確かに彼女の母親を捉えた。
この子を攫うつもりもイタズラをするつもりもないのだと言うように、制帽を取って脇に抱えながらはっきりとわかる会釈を見せる。顔を曝け出せば少しは安心してもらえたのか、ぎこちない笑みを向けられた。もちろん、不埒な輩はこれで尚少女を攫うようなことをするのだろうけど、ルースターにはそんなつもりは微塵もないのだ。
「好きな人かぁ」
「うん。ママはね、パパが好きなの」
内緒だよ、と小さな声で話す内容に自然も笑みが浮かんで、わかったとつられて声を小さくしてしまう。
ふふふと笑う少女に倣って笑えば、庭のほうから、どこか朗らかな眼差しを向けられたような気がしないでもない。そちらを見ることができなくて、少し赤い顔でルースターは誤魔化すように別の指輪を一つ摘み上げた。
「いるよ、好きな人」
「結婚しないの?」
「……どうだろう、してくれるかなぁ」
「ちゃんと、好きです! 結婚してください! って言わないとダメなんだよ」
「そうだよなぁ」
目をキラキラさせてそう話す少女は、そんなプロポーズの場面に憧れているのだろうか。
「他の人に取られちゃうよ? もお! 待ってて!」
そう言うなり、少女はぴゃっと飛び上がるようにして家の中に走り込んでいった。
仕草だけを見ると、ルースターが何かしたかのようだ。ぎこちなく視線を庭に向けると、一連を見ていてくれたらしい母親は苦笑いを浮かべていた。
良かったと一安心して、手元に視線を落とす。
指先でひょこひょこと動く指輪は、太陽の光りでとても輝いている。彼の指にこれとは違うけれど、シンプルな揃いの指輪をはめて欲しいと思ったのはもう何年も前で。それを言い出せずに、居心地のいい距離と関係のままここまで来た。
一緒にいてくれるとは思う。
でも、その形に囚われて、共にいることが義務のようになってしまったら悲しい。
自分のものだと示したいのに、もしも心が離れてしまったらを考えて、結局一歩を踏み出せない。
臆病者めと何度も自分を奮い立たせたけれど、父の写真を見つめる母の姿を思い出すたびに、その形が正解なのか間違っているのかわからなくなる。
こんな尻込みだらけの自分に愛想が尽きれば、切り替えの早いあの男はさっさと立ち去るだろう。精一杯そんなそぶりを見せていないけれど、結婚をしたら全て明け透けになってしまいそうだ。
いいところだけ好きでいてほしい。そう思うのは当然で、でもそれは本当の自分ではなくて。
どうしても堂々巡りをして抜け出せなくなる迷路に、ルースターはやはり自分はダメだなと薄く笑うしかない。
「取られちゃうよ、か」
幾度となくその危機はあったと思う。
男女問わずに言い寄られている姿は、もう何度目にしたかわからない。それでも最後にはルースターの横にいてくれて、笑ってくれている。上がる口角が口にするのは「お前、俺のこと好きだな」と自信に満ちた言葉。そのとおりだけれど認めたくなくて、「お前が俺を好きなんだろ」と皮肉めいて言えば肩をすくめながら「当然」と返してくる。そうしてその口は「好きって言えよ」と模るのだ。
「……難しいなぁ」
ポツリと呟いたのとほぼ同時に、勢いよく少女が家の中から飛び出してきた。転ばないかと一瞬不安にもなる勢いだったが、少女は鼻息荒く元気にルースターの前に戻ってきて、小さな手をずいと突き出してくる。
「ん?」
「はい! これあげる! おじちゃんの好きな人に、結婚してくださいってちゃんと言って!」
強引に手渡されたそれは、程よい重さで、鈍い色を放つ指輪。大ぶりなエメラルドが台座に鎮座するそれは、本物か偽物かルースターには判断がつかないけれど、慌てて立ち上がった母親の様子から本物なのではと冷や汗が流れ落ちる。
「いや、これは」
「おばあちゃんがくれたんだけど、おっきいし重いし遊んじゃダメだから! だから、あげる!」
どうしてそうなる。
子供の思考回路に翻弄されながら母親を盗み見れば、酷く動揺している。当然だ。本物であるならば大切な品だろう。
ルースターの手に乗るそれはキラキラと太陽光を反射して、その存在感を主張している。大変に立派だと思うけれど、自分のところに来るべきものではない。
「いや、なら大事にしないと。おばあちゃんはキミにあげたんだ」
「でもー」
「今はまだ指が細くて小さいけど、大きくなったらきっとぴったりだよ。そうしたらその素敵な指輪を付けてあげたらいい」
「みんなそう言うの。大きくなったら! って。でもね、今付けたいのに付けられないならいらない」
子供らしい率直な意見だとルースターは笑って、それでも、と少女の小さな手に指輪を戻す。確かにこの小さな手にはまだまだ大人用の指輪は大きくて、指輪を付けて遊ぶ憧れの世界には出番がないだろう。
「おばあちゃんは、キミがこれを付けてくれる日を楽しみにしてると思うよ」
「……そうかなぁ」
「うん」
「でも、おじちゃんの好きな人にあげたほうが、喜んでくれるんじゃないかなぁ」
「いや、きっとそんなことしたら俺、すごく怒られちゃうよ」
こと、子供が絡むような話題には感情をむき出しにすることの多い男が、この指輪を手に事情を知ればそれこそ「そんなやつとは思わなかった」なんて口にして、別れを突きつけてくる気がする。
リアルな音声が頭に流れて、ルースターは勘弁してくれとばかりに、ブルブルと犬のように頭を振った。
「じゃあ、どうするの? 結婚してもらえないよ?」
「んー、そうだなぁ」
ズドンと刺さる言葉にダメージを受けながら、ルースターはレジャーシートに散らばるたくさんの輝きに目を落とした。そうして目に止まった一つをそっと持ち上げて、少女の顔の前に差し出す。
キラリと太陽光を跳ね返すそれは、円の一部分が離れているフリーサイズの指輪。燻んだ金属色や、取れてしまっている小さなプラスチックがどこか歴戦の姿を思わせてくる。ハート型にカットされた石の色はエメラルドで、実物と並べると玩具だと丸わかりだけれど、これがいいと思った。
「じゃあ、これください」
「……それでいいの? セール品だよ?」
「あはは、ならお買い得だろ? 俺のダーリンは喜んでくれるよ」
「結婚してくださいなのに?」
「お得になった分で美味しいものを食べるんだ」
パチン、とウインクをして見せるルースターに、少女はパチパチと瞬きをして。そうしてにっこりと、笑みを顔いっぱいに広げていく。花が咲くようだと、ルースターはつられるように笑った。
「じゃあ、いっぱいおまじないしておくね! おじちゃんの結婚してくださいがうまくいきますように!」
ルースターの手と指輪をぎゅうっと握りしめた少女は、小さな顔を顰めるように力を入れてそうおまじないをかけてくれる。一瞬呆気に取られて、でもやはり絆されたように笑むルースター。そこにもう一つ、より小さな手が加わって、「よーに!」と可愛らしい声が弾ける。
おもちゃの指輪に込められた溢れんばかりのおまじないは、確かにルースターに勇気をくれるようだ。
「ありがとう。がんばるよ」
「大丈夫だよ! おじちゃんすごく優しいもん! 大好きですって言ってあげてね!」
「ね!」
「うん、ちゃんと伝えるね。これ、お釣りはいらないから」
ポケットから5ドル紙幣を取り出して小さな手に乗せれば、少女はとても驚いたように顔を上げた。確かにレジャーシートの上にある値札は1ドル。こんなに、と訴える様子がよくわかってルースターはうんと頷いた。
「おまじないしてもらったからね。……ママに素敵なイヤリング見つけてあげて」
「う、うん! うん! ありがとう! その指輪ね、いつもお姫様がつけてた、しあわせの指輪なの! きっとおじちゃんも、好きな人としあわせになれるよ!」
少女が作り出す世界の、お姫様の指輪らしいそれをしっかりとポケットにしまって、ルースターはニコリと笑顔を向けると、そうだと人差し指を振った。
「俺ね、ブラッドリーって言うんだ」
「ブラッドリーさん?」
そう、と頷いて。ルースターは曲げていた膝をゆっくりと伸ばした。
おじちゃんと呼ばれることが少しだけ引っかかったとか、そんなことがあるような、ないような。コールサインを教えても良かったけれど、子供に呼ばせるには些か重たいだろう。呼び名自体は、親しみもありそうだけれど。
「ブラッドリーさん、しあわせになってね!」
「ありがとう。がんばるね」
差し出される小さな手を握り返して、伸ばされるもう一つの、より小さな手も握り返して。
ルースターはたくさんの勇気をポケットに詰めて、眩しい空の下を大股で歩いて行った。
自宅のドアを開ければ、ふわりと風が通り抜けた。
部屋を突き抜けたようなそれは、確かに向かいの窓のカーテンを揺らしている。つまりは、窓が開いている。
――やべ、開けたまま出てたか?
床をガツガツと鳴らして、万が一強盗でもいれば音に気づいて出て行けと促すようにリビングに入ると、確かに人影がある。
反射的に握られた拳は、それでも「おかえり、勝手に入ったぞ」とのんびり聞こえた声に振りかざすことは無くなった。
「……へ? ハングマン?」
「俺以外の誰に見えんだよ。……なんだ、めかし込んで」
「同僚の結婚式だった」
「ああ、それで今日は用事があるって言ってたのか」
「そう……なんだけど、え、来るの明日だろ?」
はあ、と大きく息を吐いて警戒を解けば、勝手知ったる家とばかりに、ハングマンは我が家のようにキッチンへと入り冷蔵庫を開けている。「今日から来るつもりだったから来ただけだ」なんて平然とした声が冷蔵庫の中に向かって告げられて、ああそう、と気の抜けた返事が口から出ていく。なんもねぇ、と呟く声にはほっとけと不貞腐れた声が出て、あとでマーケットに行こうと提案されて少しそわりと浮ついた。
一言一言に振り回されすぎだなと、そう思って制帽と手袋をカウンターに置けば、汚れるからちゃんと片付けろと小言をもらって仕方なく両腕の中に収める。ここまでも振り回されていると感じて、少しだけ照れ臭くなったのは秘密だ。
「俺、帰ってこなかったら、どうするつもりだったんだよ」
「別に? 今みたいに勝手に入って勝手にしてた。もしくはファンボーイか誰か捕まえてメシに行ったり」
「……いや、そもそも連絡しろって」
「俺は行けたら行くって、先月言ったぞ」
「先月のを信じろってか! 無茶言うなよ」
情報は更新してくれと天井を見上げて呟けば、バムと冷蔵庫の扉を閉めたハングマンが、グラスに注いだ炭酸水を手に楽しげに笑っているのが見えた。
「たまにはいいだろ。お前の真似な」
「……くっそ」
先月言ったとか、この前言ったとか。
それはルースターがよく口にする文言で、ハングマンはいつかやり返してやろうと思っていたのかもしれない。そう考えるとなんだかあまり憎めなくて、体から力を抜くように息を吐いた。
「で、お前はパーティーには呼ばれなかったのか?」
結婚式に招待されたにしては、随分と早い帰宅だと気付いたのだろう。グラスを手にキッチンから出てきたハングマンは、つま先から頭のてっぺんまでをじっくりと時間をかけながら舐めるように見つめて、キュッと口角を上げている。値踏みされているようで少しばかり居心地が悪いけれど、基地が違えば滅多やたらに目にしない格好なのだから、珍しがるのは仕方ないかと頬をかいた。
「呼ばれてたけど、帰ってきた」
「なんで」
「んー、なんか、幸せそうな二人をぼーっと見てるのも、なんかなぁって思って」
「お前はいつだってぼーっとしてるだろうが」
「失礼な」
「まあ、今日はそんな妙な感覚に感謝するんだな。おかげで俺に早く会えたんだ」
「それはいいことなの?」
「なんだ、嬉しくねえのかよ」
むす、とした顔を見せるハングマンに首を振って、ハグを求めるように両手を広げると瞬きに合わせて片笑む様子が見えた。確認できる前にその顔はルースターの肩口に収まってしまって、ハグしてくれたことでしか怒っていないのを確認できない。
腕の中に入ってくる前にコン、と置かれたグラスが中の水をゆらゆらと揺らしているのが妙に目に焼きついた。
「香水くさい」
「ええ? そんなにかけてないよ」
「お前のじゃない。女物」
「あー、新婦側の友達だろ」
「ふぅん、匂い移るほど近くに? 長く?」
少しだけ体を離して鼻を鳴らすハングマン。その様子が珍しくて、ルースターは言いたいことが上手く口から出ていかない。
あからさまな嫉妬なんて、本当に珍しいのだ。
「結構話しかけられたから、それでだろ。たまに触れてくる子もいたし……」
「触らせたのかよ」
「気づいたら腕とかに触れてんだよ! びっくりするくらい自然に!」
「だからって気安く触らせんな」
「すぐやめてって言ったよ。……なんだよ、マジで珍しいな」
「別に。移動長くて疲れただけだ」
むすりとした声色のまま、もう一度肩口に頬を預けるハングマンはその逞しい腕でやんわりと体を締め付けてくる。
それは非常に心地のいい触れ合いで、もっとと言えば強くなるし話題を変えれば解かれる優しさ。
ルースターも同じようにハングマンを抱きしめて、同じように顔を肩口に預けた。同じくらいだと思うのに、全く異なるように思える体温は、接している部分から溶けて混ざり合うよう。
居心地のいいそこに欠伸が一つ出れば、同じタイミングでハングマンも欠伸をしていた。見えたわけではないけれど、その仕草はわかる。
なんだかそれがとても、嬉しくてくすぐったくて。
ルースターは「あのさ」と声を転がす。
自然と離れる体温は話しを聞くため。少し寂しいけれど、どちらにしろドレスホワイトのままでは、あまりくっついてもいられないのだから仕方がない。
ゆっくりと離れた体に乗る顔がルースターをじっと見て、話しの続きを待っている。それが急かすものではないから、ルースターは目尻を下げた。
早く話せとか、遅いとか、ノロマとか。
恋人となった今でも当然のようにハングマンの口からは飛び出すけれど、それ以上にルースターの出す雰囲気を感じ取ってもくれる。揶揄うような煽る言葉はそれに対応できる時だけで、今はやめて欲しいと思う時はあまりしてこない。
全てにおいて優秀だと自負する男は、長いことルースターを観察していたと言うだけはあって、タイミングを滅多に誤らない。もちろん、間違えて盛大な喧嘩に発展することもあるけれど、互いに謝る勇気を持っているから、別れ話しに行き着いてもそこで引き返している。
きっと。どうでもいい相手なら、その先へブレーキも踏まずに突き進むのだと思う。振り切れた感情のままに、ひどい言葉を吐いて、嫌なところを口にして、こちらがどんなに我慢しているかを叫び続けるだろう。
でもハングマンは違う。
不満はあるし、腹の立つことも多い。一見したら、なんでそれで隣にいるのかと疑問に思われるかもしれないけれど、それこそ自分が悪い部分も噛んでいるから「そうさせているのは俺」という原因がある。そして、それはお互い様で。揃って足を止めて、考えて話し合うことができるから、不揃いでも同じ方向を目指せる。
喧嘩もなく意見も違えず常に笑顔ではないけれど、二人なりの進み方で歩いてきた今が、生きやすい。
ただいるだけではない、生きている実感を持たせてくれるから、その手を離したくなくなるのだ。
嫌だろうところを、無理に直せとは言わない。許容を広げるから少し意識しろと促して、互いに居心地がいい塩梅を探し出す。
それはまるで、この手を離すつもりはないと宣言しているようだ。時間をかけて、自分の居場所を整えているようだ。
「ルー?」
口を噤んだままのルースターの頬に触れる手は温かくて、自然と表情が緩む。ゆっくりと瞬きをする瞳が真っ直ぐに見つめてくるから、その色に息を呑んで、ポケットに触れた。
たくさんのおまじないを受けた、小さなレディたちの勇気のお裾分け。
子供の玩具かよとか、せめてイミテーションにしろよとか。ありえないとか。ふざけるなとか。
言われる覚悟はある。でも。
――これはこれで、俺らしいと思うんだよな。
ポケットから取り出した指輪を手に包んで、ハングマンの左手を手に膝をつく。それだけで、何をしようとしているかわかるだろう。まんまるになる目が、自分しか映していないことに強く喜びを感じた。
「ジェイク、好きです。ずっとこの先も好きだ。俺と結婚してほしい。……この指輪、好きな指に付けて?」
「……おま、え、まて。これなんだ」
「小さなレディが持ってたお姫様の指輪。幸せになれるんだって」
「……」
じっと指輪を見つめる目は、困惑している。
変にリアルなイミテーションであれば、騙されて買ったんだろうと大騒ぎにもなるだろうけれど、これは一目で、使い古された子供の玩具とわかるはず。
しん、とした静かな時間が重たく思えてきて、なんでもいいから反応してほしくて。ルースターは、冗談だよと言うしかないと顔を上げた。
「好きな指って、お前つけてくれないのかよ」
「……え」
「おいおい、なんでそんな怯えた顔してんだよ。プロポーズしてんのにそれはないぞ」
ったく、とハングマンは少し震える声で呟いて。指輪を優しく広げると、金属が折れてしまわないギリギリで指へと滑らせた。
それは左手薬指の、第一関節で止まってしまったけれど。それでも、そこへ通してくれたことが何よりも嬉しくて。
「ジェイク好き」
「今度は泣くのかよ」
いつもより湿度の高い笑い声に、ルースターも笑って。降ってくる優しくて少しだけしょっぱい唇に、大声をあげて泣きたい気持ちになった。
「ったく、玩具でプロポーズとか、せっかくのドレスホワイトだってのに」
「玩具だけど、あの子の宝物だったから」
立ち上がりながら少女のことを話せば、ハングマンの目尻は笑いながら下がっていく。その優しい目は子供好きの彼らしい、温かなものだ。
怒りも喜びも与えてくれる手で涙を拭われて、促されるままにソファに座れば、聞かせろというような笑顔がすぐそばにある。
ほんの少しの、少女とのやりとり。
まだ引かない涙を時折ぽろっと溢しては、笑って話して。ハングマンはその間もずっと笑みを浮かべながら聞いていて、その手は涙を拭って肩を抱いて手を握って。少しも離れることがない。
寄り添ってくれるこの温かさを、自分のだと思っていいのだと強く感じて喜びに体が震えた。
「じゃあ、この指輪は家宝だな」
「そうなんだよ」
笑うとまた涙が落ちる。今度はそれをちゅ、と吸われて顔が赤くなったけれど、ハングマンは気にもしないで、指にはまりきらない指輪を落とさないようにしながら手を持ち上げて見せる。玩具だとわかるのに、誇らしげに輝く光りは嘘ではないのだ。
「式に呼ぶか?」
「住所も名前も知らない」
「本当にノロマだな。レディの名前くらい聞いてこいよ」
「面目ない。あんまりにも可愛かったんで」
「お? 浮気か?」
「なんでだよ」
体を寄せ合ってたくさんキスをして、これ以上ないくらいに幸せで。でもやはり不安はたくさんあって。
いつか訪れる最後の時が、明確にやってくることを決定づけられて怖くなる。
それでも。
「また不安そうな顔してんな。いいか、今を見ろよ? お前が生きてるのは今。未来でも過去でもない。今を最高に生きれば楽しかったな、幸せだったなって満足できる。後悔しない生き方を俺とするんだ」
「うん」
「俺だって最後を考えたら怖いし嫌だ。けど、そんなのいつなのか誰にもわからないんだから、今ここにいる俺と幸せになれよ」
「うん、ジェイク好き」
「俺も好き。ブラッドリーが好きだ。愛してる」
「へへ、俺も愛してる……う?」
握り込まれた手は指同士に圧迫感を生んで、少し苦しい。その手が離れて顔に触れてキスをされて。
それでも、ルースターの指には違和感がある。
「ジェイク……?」
「俺のは玩具でもイミテーションでもないぞ」
「いつ? 全然気づかなかった!!」
「そうだろ。お前単純だからな」
「おい!?」
「なぁブラッドリー」
左手を取られれば、指輪が輝くその指に唇を押し当てられた。
いつ用意したのか、本当はいつ言うつもりだったのか。もしかしたらハングマンの予定を滅茶苦茶にした可能性もある。それでも一つも嫌な顔をしない男は、まっすぐな目でルースターを射る。
真剣なその眼差しは、誤魔化すことも茶化すことも許しはしない。
知らず居住まいを正せば、ソファに並んで座る二人はしっかりと向かい合った。
「俺と結婚してほしい」
「……うん、喜んで」
もう決まりきった答えだ。
でも嬉しくて、ふわふわと綻ぶように笑ってしまう。
同じように笑う顔が大切で愛おしいから、今を懸命に幸せに生きなければと思えた。
優しい光りを湛えるエメラルドは、あの少女がそこで笑っているかのような錯覚を覚えさせる。
今この指輪を付けたいのにと、今を何より切望していた少女と自分達が重なる。
ああどうにか、住所と名前を知りたい。
勇気をくれた、背中を押してくれた。
あの小さなレディが、ドレスホワイトの二人に向かって、真っ赤な顔で花びらを放る姿が見えた気がした。