お前なんて大嫌い 俺はハングマンが嫌いだ。
随分とキツイ言葉だが、その通りなのでオブラートに包む余地もない。
せめて苦手と言え。なんて言われそうではあるが、この感情に柔らかさを求める必要は全くないのだから、別にいいのだ。
なぜ嫌いなのか。
問えばいくつも候補が上がると思うだろう。それこそ山のように、文句が積み上がると。
でも生憎と、特にない。
仲間にそう答えた時、ものすごく不可解なものを見る目で見られたのは、今でもハッキリと覚えてる。
生理的に無理なのか。
謎を究明したい欲求に駆られたのか、ヒソヒソと小声で訊ねてくる仲間もいた。
確かにそれなら特に理由もなく嫌いだと、ハッキリ言えるのかもしれない。けれど、それはNOだ。近づいてほしくないとか、まあそれはあるけれど、こちらの精神が参るようなことはない。
なら、なぜ。
疑問に思った誰もが、最終的に俺に答えを求めてくる。でも出せる答えは、一つだけ。
嫌いだから。だ。
そこに付随する理由はない。
性格の合わなさ、考え方の違い、生きてきた環境、友人の系統、反りの合わない話し方。たくさんの候補を挙げられて、周りから見てもそんなにも合わない奴らだと認識されている事実に、思わず笑った。
でも、どれでもない。
もしかしたら、それらが複雑に絡み合って、嫌いというカテゴリーに落ちたのかもしれない。でも、自分の中ではそれらの候補は全て、苦手という幾分柔らかい場所に落ちるのものだ。
だから、違う。
だから、俺はやっぱり、ハングマンが嫌いだ。
いつから嫌いなのかと、聞いてきた仲間もいた。答えは一つしかないのだけれど、会った瞬間からだ。
定型的な挨拶を交わした瞬間に、ああこいつは嫌いな人間だとバチッときた。あの瞬間は今でも覚えてる。
本能的に、こいつはダメだと思ったんだ。それは正解で、話せば話すだけ気持ちは地に落ちてめり込んでいく。正直に言えば、顔は見たくないし話しもしたくない。会いたくないし、視界に入らないでほしい。
それでも、アイツは俺の視界に入るし話しかけてくる。せめてその話しかける内容が、当たり障りなく挨拶程度だったらいいのに、実際は嬉しくもない嫌味のオンパレードだ。やり返すお前も悪いなんて言われるけれど、されるがままはもっと嫌だからしかたがない。お互い口で負かすなんて子供じみたことはしないが、ぶつかるだけぶつかってそのまま離れて、また激しくぶつかり合う。
本当に嫌だ。
だって無駄でしかない。
アイツに好かれたいと思う気持ちがあるなら、ぶつかり合うのも仕方ないかもしれない。乗り越えなければと踏ん張れるかもしれない。けど、俺はちがうのだ。
好かれなくていい。
だからもう近寄るなと、声に態度に乗せても、またアイツは寄ってくる。
気に入らないと思ってることをつらつら並べて、何故を問うてくる。俺は俺だ。これが俺だ。まだ出来るとかそんなことは今は必要ない。俺のまま、空を飛びたい。
少しだけアイツへの印象が変わったのは、例の作戦のあと。
嫌味のない会話と目配せと、握手。
あの瞬間は確かにあった、好ましい感覚。
なんだ、普通に話せるじゃないか。
確かにそう思って、嫌いだと思い込んでいたのかもしれないなんて、軽く思っていた。
世の中の人間、全てを好きになる必要なんて全くないけれど、嫌いな相手は少ないほうが生きやすいだろう。
だから嫌いに分類されたものが好転するのは、大歓迎だった。
でもそれが、全部アドレナリンのせいだったと気づいたのは、陸に上がってからだ。ドバドバと尋常じゃないほどに出ていたそれが治れば、熱が冷めるように頭が冷静になる。
狭い艦内で冷めなくてよかった。そう思うくらいには、傍目には歩み寄っているように見えていただろう。
こらからも仲良くしろよな、と仲間から声をかけられたら、吐き気すら覚えた。
会話が全部頭を通り抜けていく。
胸の奥が張り裂けるように痛い。
姿が視界に入ると、胃がひっくり返るようだった。顔がこっちを見て、いつもの調子で近づいてくる。どこか明るく見える表情の中でゆっくりと開く口は、何かを言おうとしている。
来ないでくれと強く思いながら、俺の顔は愛想笑いを浮かべたのだ。
睨んだり無表情になるのを避けたのは、精一杯の悪あがきだったと思う。
酷く引き攣った表情に、アイツは気づいたんだろう。前と変わらない、嫌だを前面に出した子供のような防衛策。
浮かんでいた笑みが、スルスルと消えていくのが見えた。代わりに浮かんだのは、俺と同じ。愛想笑い。
口にしたかった言葉は、一体なんだったのかわからない。閉ざされてからまた開いた口は、少し歪んでいたようにも見えた。
「まぁ、上手く飛べよ、雄鶏」
「どうも」
そっちも、なんて返せたら良かっただろう。
生憎とそんなものは欠片も溢れなかった。
乾ききったカラカラの口から、そんな音だけでも出せたのは奇跡だろう。
横を通り過ぎて行くその顔を見ることはなく、あの日の甲板のように、俺は前に進んだ。
あれからまた別の集まりで、どうしてか顔を合わせることが増えた。
上が決めることで決定された事に物申すつもりはないが、こうも頻繁になると少し辛い。もちろん二人きりなんてことはないので、他の仲間達に紛れてしまえば、なんとでもなるけれど。
軍人であれば、久しぶりの再会は素直に喜ぶものだろう。また生き延びたな、と。決まり文句のように、笑顔で握手をしてハグをするだろう。他の仲間達には当然する。戦地に赴いた顔見知りには、苦しいとタップされるまでハグをした。
でも、アイツとは軽い挨拶だけ。手も触れず、お互いに許容できる距離で立ち止まる。何も変わらない嫌味を含んだ言葉と、流せばいいのに買って投げるように返す言葉。
近づくなと気持ちを込めた視線の意図は、笑う顔に届いているのか、やはりわからない。
お互いの間を取り持とうとするような仲間は、今回は居らず。揃ってヒートアップはしないようにと、理性を緊張感を持って働かせる。ギリギリ保つ距離に、殴っちまえよなんて煽る声を貰うが、それは無視した。
会話をしないからといって、上官に目をつけられることはない。全体訓練での必要な声出し確認は絶対に手を抜かないし、無線でのやり取りの際も要点のみの簡潔なやり取りで、寧ろ褒められるほどだ。
相手を蹴落とそうとか、泥を塗ってやろうとか。くだらない感情に囚われないからこそ、勤務にはとにかく真面目に取り組むのだ。そこで交わす言葉のやりとりは、会話になんて入らないから。
「それで? アイツのことなんにも気にしないのに、そんな苦しそうなの?」
「だって、毎日見る」
「あと少しでしょ? そしたら会わなくなる」
「それがさぁ、半年後に合同訓練あるんだって」
「あらま」
「……洋上に出たい」
頭を抱えてため息を吐いても、決められた事実は変わらない。人員をピックアップしての訓練なら、体調不良など断る理由もあるかもしれないが、部隊丸ごとでの訓練では逃げようもなかった。
「いや、逃げないけど」
「アンタらしい」
「……あと何年続くんだろ」
「どちらかが辞めるまで」
それは長そうだと笑えば、別の用事でこの場所へやって来ていたフェニックスは、ニコリと気持ちのいい笑みを浮かべた。
自分は辞める気はない。恐らく向こうも。なら、このぎこちない関係性はまだまだ続くのだ。それを察したから、面白い奴らだと笑ったのだろう。
「そういえば、コヨーテから聞いたんだけど」
「うん?」
「アイツ、別れたんだって」
「……え? それってあれだよな、十年以上付き合ってるとかの」
「そう。ご自慢の彼女と別れたんだってさ」
「何したんだ、アイツ」
知らないよ。そう笑うフェニックスは、ナッツをひとつまみ口に放り込んで、小気味よく噛み砕く。
その音を聞きながら、そういえば出会った当初から、付き合っている彼女の片鱗を匂わせていたやつだったと、少し呆れながら思い出した。別に自慢されたわけではない。時折、漏れ聞こえる会話の端々に、大切な存在を感じさせていたのだ。
アナポリスを出たら結婚の予定だったのに先延ばしになり、それが幾度となく繰り返されているとか、何とか。
大変なことだと、まさに他人事として捉えていたその会話。直接聞いたことは一度もない、言ってみるなら盗み聞きしたようなそれ。
その、世間一般では当たり前だろう幸せを掴みかけて逃したのは、優秀で最速の男にしては些か間抜けだ。
よっぽど相手を怒らせたのだろうなと、ゆるゆるかぶりを振った。ハングマンを可哀想だとは思わないが、相手の女性に対しては長いこと決断しない男に振り回されたなと、少しだけ哀れに思う。余計なお世話だろうけれど。
「……そこでアイツのダメなところを口にしないのは、アンタの良いところ」
「んー……全く思いつかないんだよな」
「それは、どういう意味で?」
「どういう? えぇ? そうだなぁ。……だって、全く興味ないし、どうでもいいし」
アイツの嫌なところは山のようにあるけれど、それは他の誰かにもそうなのかは知らないことが多い。そこまで知らないから、良いところもダメなところも口にできない。
素直にそう言うと、フェニックスはキュッと口角を上げて、至極楽しそうに笑った。
「やっぱ、アンタ面白い」
「それはどうも?」
首を傾げても笑っているその顔を、なんだかそれを見ていられなくて。ため息混じりに頬杖をつく。冷えた指先が触れる頬は熱くて、彼女のペースで飲みすぎたと、小さく笑って撫でさすった。
***
避けて避けて。出来るだけ顔を合わせないように。
それでも、必要最低限のやり取りは忘れずに。
何も変わらず平行線のまま、ルースターはいつも通り自分が許容できる距離でハングマンと相対する。
貼り付けたような笑みと、全ての感情をシャットアウトした目で、のらりくらりと会話をする。それは度合いは違えど向こうも同じ。取ってつけたような笑みと、笑っていない目と、全てを誤魔化すような声。
突きつけた感情の矛先に触れないように、揃ってギリギリのところで止まっている。
それは果たしてなんの意味があるのか。単純な答えは、自分を守るためだ。それ以上は踏み込まないと引いた一線を、律儀に守り続ける。
自分から苦行に飛び込む理由がないし、その価値もない。
お前が嫌いだと、態度に乗せて。声に乗せて。笑顔を突きつける。
言葉にしないのはなぜなのか。言っても無駄だとわかっているから、小馬鹿にされる心労を回避しているのだ。
「お前、俺のこと本当嫌いなのな」
歪な笑みが放たれたのは、訓練の最終日。解散だと飲み歩いた時間の、きっともうだいぶ遅い頃。
気づけばルースターの隣にはハングマンが座っていて、なんでだと思っても、仲間の誰も気にせず各々盛り上がっている。深夜を回る時間だろうに店は大賑わいで、あちこちで大きな笑い声が上がっていた。
頭に届いた言葉は、なんとも答えにくいものだ。
聞きそびれたとか、ニコリと笑って見せるとか。向けられた言葉に対してやれることはあったはずで、でも顔はぎこちなく動くだけ。口からようやく絞り出せた音は、「あ」とも「う」とも表し難いものだった。
それでもどうにか、懸命に絞り出した声で「……そうだよ?」なんて呟き、泳がせていた視線が自分の手元に戻って、手持ち無沙汰に触れていた紙ナプキンを、指先が細く縦長に折っていく。指に巻いて離すと勝手にクルクル動く、そんな様を見るともなく見つめていれば、背中と胸元と腋と。嫌な汗が、ジワジワと広がっていくのが自分でもわかった。
このあと何と言われるのか。笑って、俺もだと言ってくれるだろうか。そうしたら今後、会っても当たり障りのない挨拶だけで、会話が済むようにならないだろうか。
妙な期待を抱いて横を向けば、無感情な顔がルースターの手元を見ていた。
酔ってはいるらしく、未だ頬は赤らんでいるけれど、恐らくは頭の中は正常に近い動きをしているだろう。
目は恐ろしく、澄んでいた。
「俺も、お前嫌いだ」
聞こえた音は、一瞬聞き間違いかと思って、でも間違い無いと、見つめる先の顔が教えてくれている。
冗談を言って笑ってやろうという、そんな気配は微塵もなかった。
すぅっと、胸が晴れるようだった。
やっと言ってもらえたから。
胸にのし掛かるような重みは苦しいけれど、今はとてもとても晴れやかだった。ずっと待ち望んでいた言葉。向けてくれと思っても向かない言葉は、いつも煽る文言を運んできた。
でも今、ようやく、とうとう手に入れたのだ。
「ありがとう。これでやっと、お前を視界に入れても苦しくない」
「そうかよ。……馬鹿らしい」
短く笑う声が、傾いたグラスに飲み込まれる。
それを見届けることなく、さあ終わりだと立ち上がるルースターは、お先にと一言店を出た。引き止める仲間の声が聞こえた気がしたけれど、今はそれどころではない。こんなにも嬉しくて、踊り出したいくらいに足元がふわふわしているのだ。邪魔をしないで欲しい。
閉じ込められたようだった空間から解放されれば、星の瞬く夜空がとても美しく見えた。星座のことは細かくは知らないけれど、夜間にレーダーが使えなくなった有事の際に使ういくつかの星はわかる。ギラギラと輝くそれらを目にして、澄んだ空気を肺いっぱいに取り込んだ。
さあ祝福してくれよと、吹き抜ける夜風に両手を広げたらこの重たい体も飛んで行けそうな、そんな気さえした。
「……で、なんで俺はお前に膝枕されてんの」
「おかげ様で酔いも覚めたから帰ろうとしたら、このベンチにお前が転がってたんだよ」
それでは理由になっていない。そう口にしたかったけれど押し黙って、ルースターは重たい瞼を懸命にこじ開けた。
何度確認しても、そこにあるのはハングマンのいけすかない顔だ。もう見ることもほとんどなくなるだろうと思っていた、記憶から消し去りたい顔だ。
こちらを見ず、どこかを見つめているその顔は腹がたつほどに男前だ。
――ああ本当に、コイツ嫌い。
劣等感があるわけでもないのに、改めて生まれる嫌悪感。
腹に渦を巻く感情のままに顔を歪めたら、その目がゆっくりと見下ろしてくる。笑うこともなくジトリと見やる目は、一体どんな感情を秘めているのだろう。
目を逸らして頭を動かすと、重いと苦情をもらった。
「硬い」
「文句言うな」
「筋肉でパンパンなんだけど」
「ありがとよ」
褒めてない。と、その言葉は出ていかず。重いなら下ろせばいいのにとつくづく思うし、自分も早く退いたら良いと思う。けれど意地を張ったように体は動かなくて、向こうが先に折れて下ろしてくれないかと、そう思ってしまう。
「ほっといてくれて良いんだけど」
緩やかに誘導する言葉は、短く笑う音にかき消される。チラリと向けた視線の先で、男は相変わらず憮然とした表情だ。
嫌だろう、下ろしてくれよ。
そう思っても自分の口は言葉を紡がないのだから、本当に腹立たしくもなる。
じっと耐えるような時間を、なぜ過ごさなくてはいけないのか。ほとほと疑問に思えた頃、深く息を吸った男の唇が細く開いて、赤い舌が動いたのが見えた。
「泣いてるヤツを、放っておけるかよ」
「……ええ、そんな気遣いできるヤツだったの」
「お前には生まれて初めてやったよ」
会話が跳ねるたびに胸の奥が痛い。苦しい。だからもう、これ以上はいらない。もう自由にして欲しい。嫌いだと言われて喜んでいたあの時間を、返してほしい。
眉根を寄せて、もうどうでも良いとばかりに体を起こそうとすれば、首元を掴まれた。
さすがに首を絞められるとは想像していなくて、両手をホールドアップせざるを得ない。でも意図したのは違ったのか。押さえてきた手はすぐに離れて、悪いと小さな声が聞こえる。
そんな謝り方もできるやっだったのかと、妙な関心が湧いては消えていく。
少しだけ、苦しい胸の内に余裕ができた気がした。
「嫌われてるってわかって、嬉しかったんだ」
「それで泣くとか、変わりすぎだろ」
「仕方ないだろ。ずっと言って欲しかった言葉なんだから」
「……なぁ、それは、」
言葉が途切れる。続くはずの言葉はなんだったのか。
溢れる涙を拭って、ルースターは馬鹿らしいと笑った。
「頼むからもう、ほっといて」
「……口にするたびに傷ついてちゃ、世話ねぇな」
「そうだな。だからもう、ほっといて」
笑ったルースターを真正面から見下ろしてくるハングマンは、いつになく嫌そうな顔を見せて、その口を開く。
鈍く緩慢な動きは、どうにもらしくないなと、思った。
「ちょっと、それ、言い換えろよ」
何を。
眉を寄せた視線で問えば、意地悪くその口角は上がった。
それこそ、待ってましたとばかりの顔で。
確信めいた声色が放たれる。
「好きって」
細く折り畳まれた紙が模る小さな円が、よく手入れをされた指先に摘まれていた。
クルリと動いたそれは、ハングマンの左の小指にスポッと収まる。
見覚えのあるそれと、飲み込めない言葉と。
ルースターは口を半開きに、只々、ハングマンを見上げ続けた。