その日シャア・アズナブルが自室に戻ったのは、日付も変わった夜中のことだった。
「——ああ、疲れた。暇人どもは話が長くてかなわんな」シャアは部屋へ入るなり悪態をついた。
「夜分遅くまでお疲れ様です」
帰ってくるのを見計らったかのように出迎えた男は、シャリア・ブル大尉——腹心の部下である。労りの言葉をかける彼に、シャアの愚痴は止まらない。
「まったく、無駄を食った」
「ですが、成果はあったのでしょう?」
大佐が手ぶらで帰るとは思えません、とでも言いたげな声に、シャアは「無論だ」と笑ってみせた。
「支援物資の倍増を約束させた」
「なんと……さすがですね」
「でなければ割に合わんからな。ああ、大尉。君に少し話がある。……だが、とりあえず風呂に入りたい。狸爺どもめ、似合いもしないのに葉巻なんぞ吸っていた。おかげですっかり臭いが移ってしまったではないか」
次々と言葉を続けながら部屋を進むシャアに「風呂の用意はできております」と静かな声がかかる。
「——さすがだな、大尉」
驚きに振り向くと、シャリアは表情ひとつ変えず「予感がありましたので」と答えた。ニュータイプだからなのか、元々の細かな気配りゆえか、彼は先んじてシャアの世話をやいてくれることが多い。
「フ……ではさっそく入るか。君もついてきてくれ、大尉」
「はい、大佐」
身につけているものを脱ぎ捨てながら風呂場へ向かうシャアの後ろで、シャリアが赤い抜け殻を拾い集めながら続く。
顔を隠す仮面もなにもかも外し、躊躇いもなく生まれたままの姿になったシャアは、開け放った入口にシャリアを立たせたまま浴槽へ身を沈めた。
「ああ、生き返るな」
少し熱めの湯に身体を浸しながら、シャアは息を吐く。人類が宇宙へと飛び立ち、どんなに文明が発達しようとも、この原始的で無防備な行為以上に人へ安らぎを与えてくれるものもそうあるまい。シャアはそんな事を考えながら目を閉じた。
湯気が立ちのぼり霞がかった浴室の中、しばらく静かな水音だけが響く。
「シャリア・ブル大尉」
身体の芯まで熱が行き渡った頃、シャアはようやく声を発した。
「はい」
「君には次回からモビルスーツではなく新型のモビルアーマーに乗ってもらう」
シャアは浴槽の縁に頭を乗せ、目蓋を閉じたまま、シャリアの方を見もせずさらりと告げる。
「モビルアーマー、ですか」
「ああ。元々は複数人運用の大型機体になる予定だったが、君用に小型化してもらった。——その方がなにかと都合がいいからな」
「……その機体にサイコミュシステムが?」
「そうだ。君にはその能力を存分に発揮してもらいたい」
「——はっ。必ずや」
「ふ、頼もしいな」
出会った頃の自分の能力に懐疑的だった彼とは大違いだ。シャアとともに行動するうち、心境の変化があったのだろう。
そして、シャリアはその言葉通りシャアの右腕として戦果を上げるだろう。
それはニュータイプの能力を使わずともわかる、既に決められた未来だった。
◇◇◇
相手の考えていることがわかる。
自分を平凡だと思っているシャリアにとって、この能力は禍ともいえるものだった。戦争においては役立つこともあるが、そのせいでギレンに目を付けられることとなったからだ。そしてその結果、政治の道具として潰されそうになった。
そんなシャリアをすくい上げたのが、シャア・アズナブルである。
曰く「冗長でくだらん」会議を終え、部屋に戻ってきた時から不機嫌だった彼は、風呂に入ってからずいぶん機嫌を直したようだ。シャリアが事前に準備を整えていたことも功を奏したらしい。湯に身を沈め、満足気に瞳を閉じている。
均整のとれた肉体を惜しげもなくさらし、精悍な顔に寛ぎを浮かべるその姿は、まるで男神アポロンの如き美しさだった。
そして、優れた容姿にも劣らない彼の能力の高さは、シャリアの人生観をも変化させた。次回、ついにシャリアもサイコミュを使って戦うことになる。そのことは、シャリアに不思議な高揚をもたらした。
「——大尉」
ふと、彫刻のような男が口を開く。開かれた蒼い双眸には、どこか愉快そうな色が滲んでいる。
同時にほどけた空気を察し、シャリアは良くない予感を覚えた。敬愛する上官ではあるが、こういう時のシャアは大抵無茶を言うものだ。短い付き合いの中でわかっていた。
「大尉。髪を洗ってくれないか」
案の定、無茶苦茶なことを言い出したシャアに対し、ほぼ反射的に「ご自分でできるでしょう」と返す。呆れを隠そうともしないシャリアに、上官であるシャアは咎めるわけでもなく笑い声をあげた。「疲れているんだ。頼む」さらに食い下がる。
はぁ、とため息を吐き、軽く首を振る。
「子供ですか……まったく」
結局、毎回折れるのはシャリアの方だ。靴を脱ぎ、腕を捲りながら浴室へ入る。
白い陶器に頭を預けたシャアの元へ跪くと、膝辺りの布に水が染み込む感触がしたが仕方あるまい。
「失礼します」
触れた髪からは、僅かに煙の匂いがした。先ほど言っていた、葉巻の匂いだろう。
美しい金髪に醜いものがへばりついているのは不快だ。シャリアは急き立てられるように備え付けのボトルを手にすると、中身を泡立てながらシャアの頭髪へ塗り広げた。清涼感のある爽やかな香りが浴室内を満たす。
指の腹で頭皮を揉むように洗っていると、再び目を閉じたシャアが「気持ちがいいな。寝てしまいそうだ」とのんきに呟いた。
「いけません。逆上せますよ」
「君はまるで母親のようだな」
「……このようなことをさせている貴方がそれを言うのですか」
非難を込めて言うと「ははっ、そう怒るな」と笑う声が浴室に響く。心底楽しそうな声だ。シャリアの抗議など意に介してもいない。
——本当に子供のようですよ。そう言ってやろうかと頭に浮かんだ時、シャアの腕が湯を弾き、シャリアの首へと絡みつく。
「えっ……」
そのままぐっと引かれ、シャリアの身体が前のめりに倒れかかったが、浴槽の縁を掴んで耐える。首周りから少し冷えた湯が侵入して、くすぐったさにシャリアは軽く身震いした。
「なあ、大尉」
見下ろした顔は逆さから見ても美しかった。凛々しさの中にほんのり滲む甘さは、若さゆえだろうか。
シャリアが思わず見惚れているとシャアはニヤリとした笑みを崩さぬまま、「眠くならないよう、手伝ってくれないか」と言った。
「は……手伝うとは、どのように」意図を読めずに聞くと、「わかるだろう、子供ではないのだから」と笑みを深める。その唇から、微かな酒気を感じた。
「……お酒を召されたのですか」
「素面ではやってられんからな」
で、どうする? と目線で聞くシャアに、シャリアは細い吐息で答えた。
楽しそうに見上げる男の顔へ近付き、いつもより血色の良い唇へ自分のそれを重ねる。温かい唇は、やはりアルコールの匂いがした。
押し付けるだけの口付けが不満だったのか、首に絡んだ腕の力が増し、苦しさに開いた口内へ熱い舌が入り込む。
「んんッ、……ふ、ぁ、」
上顎を舌で擦られ、先端を強く吸われ、シャリアの身体からどんどん力が抜けていく。硬い陶器を掴む腕が震え、それに気付いたシャアが唇を離す。身を起こし、シャリアの方へ向き合った彼の瞳には微かな炎が見えた。
「——なんて顔をしているんだ、君は」
「え……?」
意味がわからずに聞き返すと「いや、いい。それより君も脱いだらどうだ」とシャアは首を傾げた。言われて見下ろしてみれば、肩周りは濡れ、胸元は泡だらけになっていた。膝をついた下半身は言わずもがなである。
「君も一緒に入ればいいだろう」なんでもないように言ったシャアは、浴槽から上がり、シャワーで髪についた泡を洗い流している。
「いえ、そういうわけには……」
上官と同じ湯を使うわけにはいかないと固辞するシャリアに、ザァッ、と湯がかかった。手に持ったシャワーがこちらに向いている。
「ほら、濡れてしまうぞ」
「大佐が濡らしているのでしょ……う、」抗議の声は弱々しく消えた。
蒼い瞳がふたつ、こちらを見ている。宿った熱を隠そうともせず、シャリアを射抜く。
「大尉」
シャワーを止め、濡れた髪をかきあげたシャアは、完璧な芸術品のように美しかった。
「——早く君に入りたい」
熱っぽく囁かれた声に「……ここで、ですか」とシャリアは躊躇うふりをした。
——そう、「ふり」だ。仕方ない。どのみち、いつものようにシャリアが折れるのだ。上官である彼に逆らう術はないのだから。
そう、自分に言い聞かせながら。
シャリアは濡れた首元をそっと緩めた。