真綿の首飾り 喧騒が支配するホールとは打って変わってひっそりとしているカウンターに肩を並べて座る。しなだれかかる男の熱と重さを感じながら、グースはショットグラスに注がれた琥珀色のウィスキーを揺らした。明日の訓練は午後からだからとせがむマーヴェリックに飲ませたそれは、疲労困憊の身体に思ったよりも早くアルコールを回したらしい。3ショット目のグラスは注がれた時からあまり中身が減っていない。
「何? 潰れたのか?」
後ろから掛けられた声は以前からよく知ったもので、特にここ――トップガンに来てからは何かと絡んでくる男、スライダーだった。了承も得ずに無遠慮にマーヴェリックを挟んで隣に座る。
「いや、まぁ、ちょっと飲ませすぎたかな」
「明日午後からだからな、気持ちはわかる」
スライダーは手にしていたショットグラスを呷った。
グースはこちらをじっと見つめるスライダーの視線に気づきながらも何を言うでもなくマーヴェリックの頭を撫でる。少し硬さの残る髪の毛を梳き、手の甲を頬に滑らせる。鼻から抜ける声が「ぐーす」と溶ける声で名前を呼ぶ。首にぎゅっとしがみついて鼻を寄せているのが少しむず痒い。
「酔ったらいつもこうなのか?」
スライダーが手を伸ばすのに気づいたグースはマーヴェリックを抱き寄せた。思わず払った手が乾いた音を鳴らす。
「おお、怖。なんだよ、減るもんじゃねーだろ」
「あー…悪い。なんか、その、すまん」
無意識の行動にバツが悪くなり頭を掻く。そうでなくともこんな状態のマーヴェリックをこの男の前に晒すのは少し抵抗があった。
はは、とスライダーは気にする風もなく続ける。
「束縛する男は嫌われるぜ? こいつ、今はお前にくっついてるけどさ、どうすんだよ」
「どうするって?」
「こいつが、お前以外を選んだら」
「まさか」
グースは自身が発した声の不機嫌さに驚いていた。もっとお道化て返すつもりだった。対するスライダーは楽しそうにニヤついていて、それが余計にグースの機嫌を下降させる。
「……マーヴが俺から離れるわけないさ」
つむじにキスを落とすと甘えるように体を寄せてくるのが愛おしい。
「お前のその顔、こいつが正気の時にも見せてやりたいね」
あーあ、と大袈裟にため息を吐いたスライダーが憐憫の声音で言う。
「お前って酷い男だよな」
「酷い? マーヴからは愛妻家とか子煩悩とか、評価が高いけど」
「……ほらな、酷い男じゃねえか」
それは絶対に覆せない、マーヴェリックが踏み込めない居場所に違いなかった。どれだけ近くにいても、薄皮一枚の隔たりの向こうに柔らかな温もりがあるように。
「マーヴはそういう俺が好きなんだよ。絶対に、こいつが手に入れられないものが」
グースは壊れ物を扱うようにマーヴェリックの頬を親指でなぞった。
「何でそんなに難しくするかね……俺にはよくわからん」
「手に入ったらきっとこいつは離れていくからな。せっかく手に入ったものを失うのが怖くて、壊すのが怖くて、自分から捨てていくんだよ。……俺だって、こいつが本当に幸せになれる場所があるなら、ちゃんと手放してやるさ」
そう言ってぼんやりとカウンターの奥に並べられたラベルを眺めるグースの目に温度はない。そんなグースを目の当たりにしたスライダーは、不格好に口元を引きつらせて笑みを浮かべようと苦心する。
「全く、こいつも厄介な男に引っかかったよな、かわいそうに」
「かわいそう? 俺はこいつを唯一理解してやれるのに?」
「でも、手に入らないんだろ」
「ずっと隣にいるけどな」
スライダーはぞっとした思いでやわらかな空気を醸す二人を見遣った。同じRIOとして、グースの優秀さは嫌というほど理解している。人好きする明るく柔和な雰囲気も、周囲への用意周到な気配りも、そして、ターゲットには絶対に悟らせない狡猾さも。
「……じゃあ、いつか解放してやるんだな」
「こいつが幸せになる場所が、俺の隣以外にあるならな」
ほら、そろそろ帰るぞ、とグースはマーヴェリックに声を掛けてゆさゆさと揺らしているが、当のマーヴェリックは幸せなぬくもりから抜け出したくないのかグースに額を押し付けたままいやいやと甘えている。すんすんと鼻を鳴らしていたかと思えば、ちぅ、と不釣り合いなほどに可愛らしい音がした。
「こらマーヴ、キスマークをつけるな」
「んー…ごめん…」
ゆめうつつで謝ったマーヴェリックは首筋に残る仄かな赤みをチロチロと舐めている。スライダーは頭を抱えた。
「お前ら…それで本当にデキてないんだよな…」
「お前だってアイスマンとはそういう関係じゃないんだろ」
「……ほっとけ。俺の話はしてねーんだよ」
さっさと帰れと手を払う仕草で二人を送るスライダーに、グースは手持無沙汰に遊んでいたショットグラスを押し付ける。マーヴェリックをあやしながら立たせ、帰り支度を始めた。
「それ、マーヴの飲みかけ。釣りがくるだろ」
「……マザー・グースにしては寛大だな…」
スライダーの声は誰が拾うでもなく消えていく。既に二人はバーの出口でくっついていて、そこかしこの甘ったるい空気に紛れていた。それを目に留めているのも癪で、スライダーはぬるくなったウィスキーを一気に呷って視界を遮った。
―――
「ん、……ぁ…?」
窓から薄ぼんやりとした光が差し込む部屋は、寝起きのマーヴェリックが状況を把握するのに若干の時間を要させた。寝苦しさに目を覚ましたのは、何者かに拘束されているからだ。というのは、もう馴染みの深いグースの長い腕だったのでマーヴェリックを安心させる要素でしかなかった。鈍い痛みが残る重い頭と渇いた喉の引き攣りに、飲みすぎたなと思いながらマーヴェリックは昨夜のことを思い出そうと努めた。いつものようにバドワイザーを片手に飲んでいたところは記憶が明瞭だ。それから先、翌日の訓練は午後からだからと慣れないウィスキーを呷った、ところまでは、記憶が、ある。気がする。グースがやめとけって止めていた、ような気もする。全ては「気がする」だけだったが、その後のことまで聞かれては「何も覚えていない」としか答えようがなかった。あのふわふわした感覚から先はどうしたのか。なんとなく馴染むベッドと剥がれかけのウォールペーパーは、此処が見知った自室だと告げている。どうやって辿り着いたのかも定かではないが、状況から察するにグースが連れて帰ってくれたのだろう。
あぁ、好きだなぁ。
己を包むぬくもりに身を任せながら、マーヴェリックは心に広がる気持ちに少しだけ居場所を与えた。もうずっとグースのことが好きだった。報われない、報われるつもりのない想いだけれど、時々無性に寂しくなる。グースが少しでも、自分と同じような熱を感じてくれたらいいのに、なんて夢想したこともあった。
視線を動かした先、ふいにグースの首元に残る赤い痕を見つけて目を見張る。昨日はこんなものなかった、あったら絶対に気づいている、とマーヴェリックは胸を張って言えた。グースの変化を見逃すわけがない、と悲しい自負すらある。しかしながら、ということはつまり、昨夜自分が酔い潰れてからの出来事に違いない。とは言っても今一緒にベッドにいるのだからお持ち帰りしたとかではないだろうし、そもそもグースはキャロル一筋だから他の人に目を奪われるなんてあり得ない。これもまた一つの悲しい事実だった。
マーヴェリックはグースに残るその赤いしるしを、バーで出会った女の子が絡んでつけたりしたんだろう、と当たりを付けた。これまでにも似たようなことが何度かあって、その度にグースがマーヴェリックにその一端を担わせてキャロルに謝っていたのを知っている。本当に僕がそう出来ていたならいいのに。羨ましい。顔も名前もわからない相手に嫉妬するなんて馬鹿みたいだ。
考えるほど滲む視界を振り切って、マーヴェリックはグースの首筋に唇を寄せた。こんなにも近くでグースのにおいがする。そのことがマーヴェリックの理性を少しだけ焦がしていった。気づかれないようにそっと、残るしるしの上に吸い付いた。
あぁ、おれって最低だな、とどこか冷めたようにマーヴェリックは己の行動を俯瞰する。きっと同じ場所だしグースは気づかないだろう。少し、ほんの少しでいいから、自分の痕を残したかっただけだ。気づいてくれなくていい。気づかないでくれ。
うーんと唸りながらグースの手が背中を這う。少しだけ強くなった拘束に、それでもマーヴェリックの心は満たされていて、そして少しだけうら悲しさが込み上げる。もっと沢山痕を残してやりたかった。だけどそんなことは許されるはずもなくて、そのまま鼻を寄せて顔を埋めた。グースのにおいを肺にいっぱい吸い込むと安心する。なんだかグースに包まれているみたいだ。いや、抱きしめられているし、包まれているんだけど。
少しばかりの不埒な気配を孕んだグースの大きな手は、腕の中にいる人物がマーヴェリックだと気づかないままにシャツを捲り侵入してきたようだった。直接グースの熱を感じる。マーヴェリックの心中は、嘘だろという思いと、嬉しいという思いが裏腹に交錯してアンバランスだった。キャロルと勘違いしているのか、そうに違いない。起こしてやるべきだ。間違えてるぞ、って。マーヴェリックが導き出した最適解は、ずっと焦がれていたグースの愛撫に霧散していく。
背中をなぞっていた手のひらが、腰に降りてくる。マーヴェリックは心臓がどくどくと煩く脈打つのを感じていた。直接触れているグースの熱が下半身にまで回りそうで苦しい。お前も同じ熱を感じていたらと、あるはずもないことを願う。グースの熱い吐息が耳をくすぐって、マーヴェリックの首筋にちゅ、ちゅ、と寄せられた。優しさに溢れた控えめな刺激は、少しの痕跡も残すことはないけれど。
首筋を滑る熱が、感触が、歓喜となって全身を駆け巡る。マーヴェリックはたまらなくなってグースの首筋に咬みついた。こんなの、どうしたって言い訳できない。そうだ、アルコールのせいにすればいい。ぐちゃぐちゃとまとまらない考えがマーヴェリックの脳内に浮かんでは消えていく。まだ酔いが覚めていない頭では、正常な判断なんて出来るはずがないと嘯いた。
「…ぁ、…ふ……」
「……ん、……あれ、……マーヴ…?」
アルコールのせいにして身を任せてしまおうか、と考えた直後だった。耳元から聞こえる声に血の気が引く。さっきまで熱を帯びていた体も、今は少しだけ震えてしまっているのではないか。グースはどこまで気づいてしまうんだろう。どこまで気づかれたんだろう。
「ち、違う。…ちがう。……だって、その、グースが、悪いんだ」
何を言っているんだろう、と混乱の中でマーヴェリックはとにかく言葉を紡ぐことに専念した。何にせよ現状の打破が必要だった。このまま勘違いをされては困る。勘違いではないけれど、どうか見捨てないでほしいと祈りながら続ける。
「お前が、キャロルと間違えて、」
グースの顔を見ることが出来ずに、逃げ場のないベッドの上で視線だけでも逸らして逃れようとした。怒ってる? 軽蔑してる? 失望してる? おれのこと、嫌いになった?
「それは………あー、悪かった。でも、それならさっさと起こせばよかっただろ…」
訝しむグースの声に対して言い訳になる言葉のひとつも思い浮かばずにマーヴェリックは項垂れていた。グースの言うことは全くその通りだからだ。浅ましくグースの熱を強請ろうとした、その事実だけがここにはあるのだ。
「お前はさ、あのまま俺が気づかなかったらどうするんだよ」
グッと手首を掴まれ、マーヴェリックはグースに馬乗りされた。見上げた先にある影の濃いグースの表情が、拒絶の色を湛えているのか、侮蔑の色を湛えているのかわからない。恐れていたその色を知るには、闇に紛れすぎている。
「抵抗らしい抵抗もしないで、」
ふ、と自由にされた手首が撫でられる。
「俺が狼だったらどうすんだ。お前、小さいからすぐ食われちまうぞ」
ははっといつもと変わらない表情で笑うグースを、微かな月明りがぼんやりと照らす。
マーヴェリックはグースのその表情を認めて安堵した。何も気づかれなかった。嫌われていない。ほっと人心地付き、涙腺が緩むのを堪えた。食べてくれればいいのに。でも、お前は食べないんだろ。なんてしがないことを考えながら。
「ほら、今日は午後からなんだからもう少し眠ろうぜ」
グースはぽんぽんとマーヴェリックの頭を撫で、隣にごろんと横たわった。寝返りを打つようにグースに背を向けたマーヴェリックを後ろから抱きすくめる。
「お前あったかいから、このまま寝させて」
何も答えずにそうしていれば、グースからはいつの間にかくうくうと規則正しい寝息が聞こえてきた。グースの吐息が首をくすぐるたびに、心臓が脈打つ度に、マーヴェリックは心が乱される思いだった。
酷い男だな、僕は。こんなにも信頼を寄せてくれている男に、浅ましい感情を抱いてしまうなんて。堪えていた涙腺が緩むのを感じたが、もうグースは眠っているのだからと少しだけ涙が流れるのを己に許す。火照る体を持て余しながら、マーヴェリックはグースの鼓動を子守歌に眠ることにした。
―――
「よぉ、グース、男前だな」
ロッカールームから出たところで声を掛けてきたスライダーにグースは溜息で応じた。当のスライダーは全く意に介していないのか、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべたまま続ける。
「何、昨日遂にヤったの?」
「シてねーよ。なんだよ」
「首、すげーことになってたから」
とんとん、と自分の首をつつくスライダーに、あぁこれか、と満足げに笑みを返してやる。
「かわいいだろ、俺の狼ちゃん」
がぶりと咬みつかれた首筋には文字通り歯形が残っている。マーヴェリックは覚えていないと言っていたけれど、情熱的なマーキング痕を見るたびに赤くなる顔が真実を物語っていた。