「ハンドサイン」「口癖」 ひとつのプロジェクトが終われば、また新しいプロジェクトが始まる。ゴールのないマラソンを永遠と走りつづけているようだ。
同期の半数は激務に耐えられず2年以内で辞めてしまう中、杏寿郎は持って産まれた強い身体と剣道で培った精神力で乗り切ってきた。
そう、そのはずだった。しかし、いくら杏寿郎とて限界はやってくる。それがあの日、木曜日0時過ぎだった。
もう、何度となく木曜日0時過ぎを待ちわびた自分がいること。そして何かしらの言い訳を考えてサウナに通っている事実。仕事のストレスからくる性欲の解消のためなのか。考えても仕方のないことは考えないのが杏寿郎の心の自己防衛術だ。答えを求めると深い底なし沼から這い上がれなくなると、心が警報を鳴らす。いっそのこと、激務で精神破綻をきたしたと考える方がマシな気すらしたのだ。
それでも彼を見つけてしまえば、そんなモヤモヤは頭の片隅からも追いやられ、ひたすら快感に溺れる自分がいた。いきなりシャワールームに引っ張り込まれる日もあれば、ひと通り風呂やサウナを楽しんだ後に事に及ぶ事もあった。
最初は気付く余裕も無かったが、このサウナの客達には独特のサインがあること。ロッカーキーの身に着け場所だったり、目配せや、軽いボディタッチ、そしてハンドサインでのやり取り…。
ぼんやりと何を考えていたのかと、頭を振って頭の中から彼を追い出そうとした。
時計を見ると、1時をとうに過ぎている。
今日は行けなかったな。
初めて木曜日0時過ぎの約束を破ってしまったと思ったが、元から約束なんてしてなかったとため息が自然と漏れた。
彼は今日も来ていただろうか。時間に来ない自分を、少しは気にかけてくれただろうか。
頭から追い出したいのに、木曜日0時過ぎは何時も彼のことでいっぱいだった。
◆
コンペの手応えは上々。連日深夜までの資料作成が報われたことにホッとしたのも束の間、先方からもう少し詳細をと声を掛けられたら断りようもない。隣の上司に目配せし、急ぎ接待の段取りを頭の中でやりくりした。
「本日は貴重なお時間を頂きありがとうございます! 先程のご要望も加味して、週明けに追加資料をお送りします!」
「いやいや、こちらこそ無理を言ったのに早速対応してくれるとは。流石バイン社さんですね」
「煉獄が優秀ですので、私も安心して任せています。ご期待は裏切りませんよ」
「上司の信頼も厚いとは。いい部下をお持ちで羨ましいですな」
手配したハイヤーに深々と頭を下げて見送り、少し離れた場所で上司のために呼んでおいたタクシーを待つ。
「お疲れさまでした」
「今日のコンペ、先方の反応も上々だな。煉獄に任せて正解だったよ。週明け資料、よろしく頼む」
「かしこまりました。よい週末を」
上司を乗せたタクシーが銀座通りから消えるのを確認して、漸く大きな溜め息をつく。緊張の糸がゆるゆると切れていくのを感じ、そこで初めて結構な酔いが回っていたことを自覚した。
少し酔いをさましてタクシーを呼ぶ方が無難だろうと判断し、とりあえずコンビニで飲み物をと一歩踏み出した時だった。
グラッと世界が反転したかのように、踏み出した足が踏みしめるべき地面を見失った。
マズい。
咄嗟に受け身の態勢に身体を動かしたつもりだったが、酔いが思いのほか杏寿郎の動作を鈍くし転倒を覚悟したが、固いアスファルトの衝撃を受けることはなかった。
「随分と飲んでいるな」
聞き覚えのある声。ここは銀座で、今日は金曜日。こんな街中で聞くはずのない声がする。杏寿郎の腕をがっちりとつかみ、倒れるかけた身体を引き上げてくれた声の主。
「………」
「何だ、その幽霊でも見たかのような顔は」
「……よもや…」
「なんだ、よもやって」
「よもや……」
「それ、口癖か? アッチでもたまに呟いてるよなぁ」
和光の時計が0時過ぎを教えてくれる。今日は木曜日ではないのに。
「昨日は来なかったな」
「…今日のコンペの準備があったから…」
「その格好、仕事が出来ますって感じだ」
そう言われて、お互い初めての日から先週まで外で会うことも無ければ、素肌以外を見たのも初めてだということに杏寿郎は気づいた。
まじまじと彼の姿を見てしまう。服のセンスが若いなと思った。シンプルなリネンの黒シャツとボーダーのインナーにクロップドパンツ。足元はスニーカーだった。
スーツ姿で酒臭く、足元が覚束ない自分とは対照的に健康的な姿。彼は自分が思うよりずっと若いのかもしれないと、掴まれたままの彼の指先を見つめて、喉の奥から苦いものが込み上げてくるのを感じた。
「…す、すまない…、ちょっ……」
彼の腕を振り払って、素早くハンカチを出して口元を覆った。
「飲み物買ってくる。そこに座っていられるか? 吐きそうか?」
「いや、大丈夫だ。収まった」
「無理するな。待ってろよ」
スニーカーで駆け出した彼はふわりと浮いてしまうのではと思うほど軽やかで、見る見るうちに視界から消えてしまった。
情けない。
ふーっと酒臭い息を吐き出すと、銀座の夜の空気に混じってまた自分にまとわりつく。
そうか、昨日もあそこに来ていたのだなと思うと、少し申し訳ない気持ちになった。
待っていてくれたのだろうか。
サウナに通うようになってから、少しは気になって調べたのだ。ゲイの出会いの場、どんな付き合い方なのか、何かルールがあるのかもしれないと。その中で色々な隠語やサウナでの暗黙の了解、そして何よりその場限りの関係が多いことも知った。だから、彼のような人が独りでいたら、放っておかれるはずがないだろうと思う。
それでも、昨日行かなかったことを彼が開口一番発したことで、少しは残念がってくれたかもしれないと胸の奥が締め付けられた。
「ほら、飲め」
いつの間にか戻ってきた彼は、汗一つかいていない涼しい表情のまま、スポーツドリンクと水を差し出してくる。
「ありがとう」
その手からスポーツドリンクを受け取り、ゴクゴクと飲み干した。身体の内部から水分が吸収されて、隅々まで染み渡っていくようだ。
「サラリーマン?なんだな」
「そうだな、金曜日の接待帰りのサラリーマンだ」
彼は隣に腰を下ろすと自分用に買ったらしい炭酸水を勢いよく飲みだした。ごく、ごくと喉仏が動く。街灯に照らされ、暗闇でもなお彼は独特のオーラを纏っていて、杏寿郎の視線を掴んで離さなかった。
「なに?」
不意に視線を合わせられ、杏寿郎はらしくなく固まってしまう。今日のコンペのプレゼンでも緊張なんて感じなかったのに、彼に見つめられただけで、また全身にアルコールが回ったように頭がくらくらして、心拍数が上がってくる。それを悟られたくなくて、ぎこちなく視線を外し話題を変える。
「少し、歩かないか?」
「大丈夫か? もう少し休んでもいいんだぞ」
「いや、風に当たりたい」
帰ろうと思えばタクシーを止めてすぐさま帰れたのに、どうしても足が家に向かわないのだ。酔いは回っていたが、それでもこの時間を終わらせてしまうことが杏寿郎にはできなかった。
「歌舞伎座だ。時間に余裕があったときはたまに観に来ていた。最近は全然だな」
「ふーん、歌舞伎とか見たことないな」
「機会があったら見てみるといい」
歌舞伎なんて見るように見えるか?と髪を摘まんでおどけてみせる彼は、やはり自分が思うよりかなり若いのだろうと思った。
聞いてみたいことはいくつもある。サウナで会うたびにその言葉を飲み込んで、ただただ意味をなさない喘ぎを漏らすのは自分だ。
そんなことを思いながら、光を失ったオフィスビルを見上げる。今日はやけに明るいと思ったら、見事な満月だった。突然歩みを止めた自分に彼は気づき、振り返った。
「どうした? 吐かずに帰れそうか?」
「……あぁ」
「なんだ?」
「その、君はどうするんだ? タクシーか?」
「いや、走って帰るさ。お前と違って酒も飲んでないしな」
『家が近いのか?』
喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「10キロはないだろう。トレーニングがてらだ」
「そうか」
「杏寿郎?」
俺の名前は呼ぶのか。俺は君の名前を知らないのに。
「君の瞳は月に似てるな」
こんなこと言いたかったわけじゃない。いつもなら聞きたいこと言いたいことも躊躇うことはないのに、彼の瞳を見つけてしまうと上手く言葉がでてこない。少し汚れた靴先を見つめて、週末に磨かないととどうでもいいことを思ってごまかす。
そんな俺に軽く笑って、彼は俺の頬にかかった髪を人差し指で掬うと耳にかけてくれた。
「だったら、お前の髪こそ太陽のようだな」
彼の触れた頬が熱い。耳が熱い。なんら性的な意味を持たない動作だったのに、それだけで杏寿郎の全身を粟立たせる指が目の前にある。
そうだ、彼はいつも髪を触る。お約束のように、まず髪に唇を落とす。それが二人の始まりのサインだ。
そして、あの指で全身を検分する。先週の左胸の痕が消えて、他の痕がないか確かめるのだ。
「タクシー乗るんだろ?」
そう声をかけながら彼はもう道路に半分身を乗り出し、こちらへ向かってくる空車のタクシーに向かって左手を上げていた。
「気を付けて帰れよ」
「………」
「どうした? 服を着てるほうが落ち着かなそうだな」
「……が」
タクシーがドアを開けて待っている。あれに乗って自宅に帰り、シャワーを浴びる。そしてベッドで眠る。サウナの布団とも言えない薄くて堅いマットなんかより眠れるはずなのに、あのベッドの冷たさを思って震えた。
「なんだ、乗らないのか?」
「…帰りたくないんだが」
あまりに小さな声で彼に聞こえたかわからなかった。
タクシーのドアが閉まる音が聞こえ、エンジン音が遠のいていく。
あぁ、彼はあれに乗って行ってしまったのかもしれないと、しばらく顔を上げることができないでいた。
どのくらいその場にいただろうか、数秒だったかもしれないし数分たっていたかもしれない。ふいに視界が真っ黒に覆われて、それが彼のリネンのシャツだと気づいた時には、両頬を掴まれて唇を奪われていた。
「じゃあ帰らなくていい。帰るなよ、杏寿郎」
自分の酒臭い息が彼を汚しているようで、杏寿郎は少し罪悪感がよぎったが、全てはその唇に奪われていく。
今日は金曜日0時過ぎなのに。もう後戻りできないと、彼に向かって腕を伸ばした。