キマ進捗「もう帰った方がいい。送っていこうか」
デスクの上の書類をまとめる手つきには無駄がない。マサルはダンデの方を見て、遠慮がちに微笑んでから、「いえ、自分で帰ります」とだけ答えた。
知っている。マサルがこうして一人になりたがるときは、本当にそっとしておくべきなのだ。少なくともダンデは彼にかける気の利いた一言を持ち合わせていないし、彼の心を溶かすだけの体温を持ち合わせていない。それが悔しくないと言えば嘘になるが、ある種公然の秘密ともいえるその事実はマサルとキバナの幸せそのものに他ならなかった。疲れ切った顔で、やはりマサルは笑った。そんな顔をされれば、ダンデも二の句は告げないままだ。デスクに備え付けられたワークチェアは、マサルの体には少し大きすぎる。立ち上がろうとした拍子に少年がたたらを踏む。こんな具合では振り落とされても文句は言えないと判断したのか、相棒のラティアスに乗って帰ることは諦めた様子であった。
「じゃあ、お先に失礼します」
「ああ。気をつけて」
ぺこりと音が聞こえてきそうなほど律儀な一礼を終えた後、マサルは静かにバトルタワーを去っていった。さすがに倒れやしないかと不安になったが、空飛ぶタクシーで帰ることにしたようだしと息を吐く。リザードンがひとつ鳴いた。ダンデはそれに左手を挙げて応える。スマホロトムが震えていた。
「もしもし」
風の音が大きい。彼も帰宅途中だろうか。辛うじて聞き取れた言葉から察するに、ついさっき帰路に就いた王さまの話らしい。
「ああ、今バトルタワーを出て行ったよ」
今。今の今まで?大声で聞き返される。恐らく、聞こえなかったのではない。こんな時間まで彼がバトルタワーにいたことが、そこで仕事をしていたことが問題なのだ。それはバトルタワーの責任者であるダンデが一番よく分かっている。
「不甲斐なくて悪いな。あとは頼んだぜ」
それ以上は言わないことにする。己の保身のためというよりも、キバナ自身の恋人としてのプライドに配慮してのことだった。その配慮がキバナに伝わるかどうかは分からないが。それじゃあ、と言いかけて口を噤む。
「明日は休みになったと、マサルくんに伝えてくれるか」
少しばかりの沈黙の後で、感謝の言葉が落ちた。それに返事はしない。今度こそじゃあ切るぞと声をかけて、ダンデは通話を終了させた。
「……オレたちも、そろそろ帰ろうか」
相棒の安堵したような声を聞いて、ダンデもようやく微笑んだ。
鍵穴に鍵を差し込むその手が覚束ない。自分はそこまで疲れていたのだろうか、と考えて、そういえば上司と呼んで差し支えないダンデにも気を遣わせてしまったなと思い至る。申し訳ないことをした、明日会ったら謝ろう。そんなことを考えながら玄関に体を滑り込ませる。振り返った刹那にちらりと見えた、ナックルの街が眩しかった。
キバナという名前の恋と愛を知ってさほど長くないマサルにとって、キバナが十日ほどガラルを留守にするという話は絶望にも等しかった。ただ、そうと分かっていながら「行かないでほしい」とは終ぞ言えず今に至る。