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    本当は新刊になるはずだったヌヴィリオの途中経過。

    Life for you.(ヌヴィリオ)序曲 ― Peace with you. ―


    世界が逆さまに見えた。
    「何しているのかしら、公爵?」
    「……見ていたからこっちに来たんだろう?」
     腹の上で疲れ切ったように、微かに寝息を響かせるヒトの頭を撫でて、溜息を零す。それがひどく甘い響きだったことからは目を逸らした。
    「ふふふっ。だってとっても素敵だと思うのよ。こんなにあたたかな陽射しの下、みんなが笑っていて大好きな二人が寄り添い合っている。こんな素敵な光景、長く生きてきたと思うけれど、なかなか見られない光景なのよ」
     すうすうと穏やかな寝息が心地好い。身体の下には柔らかな草原が広がり、新鮮な水のにおいが辺りを満たす。肌を撫でる風はやさしく、それに乗って聞こえる笑い声。確かに、こんな光景をリオセスリ自身、想像もできなかった。その光景の中に己があるなんて、それはまるで夢のようで――実際には夢に見ることもできなかったけれど。そのくらいに非現実的な光景だった。
    「……うん、そうだな。悪くない」
     自由に散らばる月白の髪に指を絡める。さらさらと流れる髪の感触が楽しくて、それで遊びながら気紛れにその頭を撫でると、のそりと腹の上に乗り上げていた頭が身じろぎした。
    「悪い。起こしたか?」
    「……いや。心地好いと感じ、君がどんな顔をしているのかと気になったのだ」
     俯せになるようにして、リオセスリの身体の上に乗り上げたヌヴィレットはその尖った顎をリオセスリの胸に預けた。それは少し痛ければ、充分に重い。けれど大型の動物に戯れられているようで、愛らしく思う自分にリオセスリはくすりと喉を震わせ笑った。
    「そうかい。で? 満足いただけたかな?」
    「ああ、大変満足したとも」
     ヌヴィレットはまるでメリュジーヌに向けるそれと――それよりも甘い笑みを浮かべると、満足したようにまた瞼を閉ざした。
    「ははっ、本当に寝る気かい?」
    「こんなにあたたかいのだから問題あるまい? 君も日向ぼっこをして、昼寝をしてみたいと言っていたはずだ。君も眠ればいい」
    「この国の最高審判官と監獄長が暢気に日向ぼっこでお昼寝か……随分と平和になったもんだな、フォンテーヌも」
     あらあらと愛らしい声が鈴を転がすように笑った。そうして旅人に声を掛けると、ふわりと二人を包むようにブランケットが掛けられる。
    「ウチも今度からピクニックのときにはマジックバッグを用意した方がいいわね。二人がこんな風にお昼寝しちゃうなら、ブランケットは必需品だもの!」
    「あはは! リネに頼んでおいてあげるよ。多分残ってると思うから」
     見た目だけで言うならば、己より幼い彼女らの会話に気恥ずかしさを覚える。しかし触れ合うぬくもりが、彼の隣に在ることに覚える不安はない。もういいか。こんなに天気がいいのだから。そう思い瞼を閉じれば、すぐそこに睡魔が迫っていた。
     フォンテーヌといえば、リオセスリの思い浮かべるその国は、灰色の空の国だった。青空がたとえ見えても狭くて遠くて、己の手の届かない場所にあるものだ。しかしいま、頭上に広がる青空に包まれてその中にリオセスリはある。
    ――息が、できる。
     深く息を吸い、細く長く吐き出した。すると音は遠くなり、指先までじわりとあたたかくなる。「おやすみ、良い夢を」。その囁きはきっと己の腹に乗り上げた男が言ったのだろうが、リオセスリはそれに応えることなく眠りに落ちた。





    第一幕 ― A week in the life of a cooperator ―


     このフォンテーヌにおいて、名誉市民には爵位を与えられることはご存じだろうか。自国民であれば階級制のあるフォンテーヌにおいて知らぬ者はいないだろう。階級制は不正の温床となりやすいが、この国における爵位の授与は公平を体現する存在、最高審判官・ヌヴィレットがいることで保障されている。彼は金や血筋で左右されない。彼は実際ある事実ですべてを見定める。よって一般市民であれど、功績さえあれば名誉市民として爵位を戴くことも可能だ。
     近年の一般市民へ与えられた称号といえば、一つ目は棘薔薇の会(スピナ・ディ・ロースラ)の前会長・カーレスの「伯爵」がそれだ。彼は巡水船の水路建設を支援し、水路はその家族の名に因んでつけられているほどの功労者である。彼がいなければこの水の国・フォンテーヌは未だ、海上の波に揺られ島々を行き来するのに天候が左右する不便さを味わっていたことであろう。それだけでなく棘薔薇の会は民衆の生活を第一に考え、各業界にまたがって人々のために全力で難題の解決に取り組み、必要があればフォンテーヌ政府とも連携する団体として民衆との懸け橋になる存在であった。栄誉市民と呼ぶに相応しい功績と言えよう。しかし彼が授けられたのは「伯爵」であり、序列三位である。血筋という後ろ盾もなくその上を授けられた者は歴史上存在せず、カーレスも元の身分からすれば充分な評価であったといえる。とはいえ、実質このフォンテーヌには序列一位である公爵など形だけの存在であり、国政は侯爵と伯爵によってほとんどを決められていた。ほとんどがその血筋で得た称号であり、よってカーレスはそれを辞退したわけだが、民衆からはそれを称えられるほどにこの国における爵位など民衆にとっては差別といえる区別以上に意味を為すものではなかった。
     しかし、近年与えられた称号はもう一つ存在し、それは序列一位の「公爵」であった。しかもそれをあのヌヴィレットが推したのだというのだから、当時は国中が騒然としたものである。だが、ヌヴィレットが示すその理由が事実であったのならば政を知る者であれば当然の選択と言えた。
     国内で唯一自治を認めた犯罪者の流刑地。それは裏を返せば何があったとしてもフォンテーヌ政府は関与しないと見捨てられた土地であるという証であり、水の下という立地上、水の上を通さなければ他国と貿易もできないのだから自治など形だけの正しく地獄といえた。唯一できることはクロックワーク・マシナリーの製造であり、その動力源は国内にしか存在しない。生きていくためにメロピデ要塞は自治が認められているのに労働し、その労働はフォンテーヌに還元しなければならないのだ。そんな場所であれば劣悪な環境となるのは至極当然の結果。事実、かつては行政府であるパレ・メルモニアから派遣された看守が一か月ともたない環境であり、地獄でこそ踊れる悪魔でもない限りそこに適応できる人間はいなかった。
     そんな地獄でクーデターを起こしたのが、この「公爵」を授けられた男・リオセスリである。
     囚人でありながら、当時の管理人からその座を奪い、刑期を終えたというのに彼はその地位に納まったのだという。リオセスリは刑期を満了した自由なフォンテーヌ人であるが、出所手続きを出来る者がいないとして自身以降の刑期を満了した囚人の出所手続きを対応し、そのまま改革を進めた。第一に最低限の生命保障。一日一食の無料配給から始まり、飲料水の無料開放。三日に一度のシャワーの使用許可。下手をすれば地上よりも生活を保障されているといえる。続けてクロックワーク・マシナリーの生産力強化。水の上で暴走するマシナリーの多くは製造番号なしの、所在不明の機体である。科学院の負の遺産も多くあるが、多くは地獄の悪魔と契約した水上の人間が解き放ったものだった。それに対しリオセスリは製造番号と徹底的な数字の管理に乗り出した。その管理の結果、謎の紛失事件はなくなり、生産力も跳ね上がった。暴走するマシナリーはそれにより、水の下から出荷され秘密裏に水上で加工されたものが八割を占め、水上は執律庭の監視があるために、マシナリーによる事故の発生率は激減。マシナリーの需要は爆発的に増加し、よってフォンテーヌの産業の大動脈をメロピデ要塞が押さえたようなものだ。
     リオセスリという男を紐解くと、痛ましい事件に突き当たる。少年が犯した凶行。罪人でありながら被害者。幼くして地獄に送り込まれた彼が、果たしてどうやって地獄を掌握したのかと背筋が寒くなるものを覚える。
     メロピデ要塞が罪人の贖いの場として正常稼働することで、パレ・メルモニアからの派遣職員に人事の見直しがおこなわれ、罪人とはいえフォンテーヌ人の生活環境が整えられ、刑期満了した受刑者の社会復帰率が向上、痛ましいマシナリー事故の激減、そしてマシナリーを使った犯罪も激減した。生活に普及したマシナリーによってフォンテーヌの生活水準も向上したというのだから、リオセスリに公爵が授与されるのは然るべきといえよう。――でなくとも、あまりにリオセスリは優秀過ぎる。公爵という最高位を授けることで懐柔を狙うのも頷けた。そして爵位を持たせることで、少なからず首輪の意味を持つ。市民であれば口出しできないことでも、爵位を持ち権利を与えられたことで義務が発生する。その義務でリオセスリを抑制する意味もあると、政を知る者からするとヌヴィレットの選択は英断ともとられた。
     そうしてこの国には名前こそ知れ渡る、公爵・リオセスリが存在するわけだが、リオセスリという存在そのものは謎に満ちている。彼の功績が何処まで真実なのか、そもそも彼の様相も謎に包まれている。嘗て出回っていた罪人・リオセスリの写真は、黒髪に折れそうな細い身体を包帯で包まれた姿である。それから既に二十年程経過したいま、黒髪以外に彼の容姿がわかるものは残されていない。謎に包まれた公爵の正体を探ろうとしたら、必然的にネタのためだけに罪人となって収監されるか、元囚人や看守から話を聞くしか選択肢はなかった。公爵は社交界に出なければ、決してその身分が持つ権利を利用しようとしない。水の上にいる一般の市民で公爵と関わりを持つ者は皆無であった。仕方ないとフォンテーヌに到る場所にいる記者は、公爵と会ったことのある者に問う。
    「公爵・リオセスリはどういう人?」
     すると誰もが自分がどれだけ彼を恐れたか、尊敬したか、口々に己の主観を口にするも彼自身の話はさっぱりだ。ただ共通するのはこれだ。
    「紅茶の香りに軽快な口調、それに騙されてはいけない。あの神の目のように、氷のように冷たい目。あの男は獄守。罪人の王だ」
     そう言われる地獄を生き抜いた男を、誰もが恐ろしい存在として囃し立てた。だがどんなゴシップであろうと公爵は何処吹く風、公爵を知る者もそれに関わることで火の粉を被りたくないと口を閉ざす。そうして今日も新たなゴシップが七国四海ポストを飾った。

    「――あの洪水を起こしたのは俺で、クーデターの一環だったってそりゃおもしろい話だな」
     スチームバード新聞社が予言を乗り越え、復興のため力を団結した人々に希望を与えんと号外を発行している最中、七国四海ポストは悪名高いゴシップ誌らしく人々の不安を煽ろうとしていた。
     リオセスリは配られていたそれにさっと目を通すと肩を竦める。フォンテーヌ廷、パレ・メルモニア裏手の丘に停めたウィンガレット号に思いを馳せた。あの船があったことで此度の洪水での被害は最低限に抑えることができたといえる。原始胎海の水の噴出に備え、ヌヴィレットの命で低地や地下、水の近くにある民衆の避難は進められ、メロピデ要塞は逆にヌヴィレットがゲートを封印したことで安全地帯として、外部に繋がるゲートを封鎖し安全を確保した。それがあったため水に流される者は最小限に抑えられ、水に溶けずとも閉じ込められて溺死するといった悲劇は起きなかったわけだが――それを穿って面白おかしく描く者がいたということだ。
    「公爵……」
     水の上でリオセスリの後姿を見て、公爵と呼べる者はそう多くない。そのうえ、少女のように愛らしい声となれば答えは決まっている。リオセスリは苦笑を浮かべ、視線を下げて彼女と目を合わせた。
    「なに時化た顔をしてるんだ、シグウィン看護師長? 顔を出さない男を信頼できる人は少ないってことさ。……まあ、俺はこの顔を見たうえで信頼してもらえないけどな」
     ククッと皮肉に笑うリオセスリの腰にトンと軽い衝撃が走る。それにリオセスリは眉尻を下げると、そのちいさな身体を抱き上げた。
    「看護師長を泣かせたら、俺がヌヴィレットさんに怒られちまう。さあ、怪我人救護で疲れたろう? お茶でもどうだい? 俺はこの緊急事態だ、公爵としてこの国の手伝いをしに行こうと思っていてね。労いだ。お疲れのヌヴィレットさんとお茶でも楽しんでくれ」
    「公爵も一緒にお茶してくれなきゃダメよ? あれからほとんど寝ないで、要塞と此処の行き来をずっとしているの、知ってるんだから。巡水船が物資運送で動いていないからってウェーブボートでずっと行き来してるなんて……公爵は自分の体力を過信し過ぎなのよ!」
    「これは耳が痛いな。俺もいい歳だから参考にさせてもらうよ」
     ぷんぷんと効果音がつきそうな怒り方をするシグウィンに、ははっと声を上げてリオセスリは笑った。しっかりと抱き上げた彼女の背中を撫でれば、彼女は仕方ないというようにリオセスリの背中を小さな手で叩いた。

    「すまない。いまは上の私の部屋にあった茶葉程度しかない。食料の多くは水で流されてしまったため、茶菓子の用意は難しい」
     パレ・メルモニアも洪水に見舞われたが、重厚な扉はまるでこれを予見していたかのように水をほとんど通さなかった。それが救いともいえる。各行政処理を此処には集約しているわりに、効率化されていないフォンテーヌ行政において、パレ・メルモニアが水没したら致命的といえた。職員が右往左往しているのを横目にヌヴィレットのいる執務室に足を運んだ二人は肩を竦める。
    「そんな期待してないから安心してくれ。寧ろあたたかいお茶を楽しめるだけ贅沢というものだろう?」
    「そうよ。それにお茶菓子があるなら避難所に回すわ。あと数日でスメールから物資が届くけれど、いまはほとんど民間の商船と《召使》が用意していた物資、ウィンガレット号に乗せていた備蓄で賄っているのよ? ヌヴィレットさんがみんなにできる限り均等に配給できるよう苦心しているの、ウチだって理解しているつもりなんだから」
     執務室には既にテーブルが三つ運び込まれ、資料が山のように積み上げられている。執務机など悲惨なもので、ヌヴィレットの顔が見えないほどだ。そんな状態で訪れた二人に冒頭の一言。呆れたようにリオセスリは溜息を零す。
    「さて、俺はお茶を淹れよう。看護師長は最高審判官殿の健康診断を頼む」
    「了解なのよ!」
     慣れ親しんだ仕種で壁際のティーセットに歩み寄れば、後ろからシグウィンの叱責が飛んでいた。いくらヌヴィレットとはいえ、どうせ水しか飲まず仕事に明け暮れていたのだろう。身体が無事でも精神は削れる。いま貴方が倒れたらこの国は終わってしまう。それを理解しなさい。そう捲くし立てられるのは、あの地獄と称される地で看護師長として働き、ヌヴィレットと長い付き合いであるシグウィンだからだ。ヌヴィレットにしては珍しくたじろぐような気配を感じさせ、振り返ればソファーに彼は座らされていた。
    「ははっ。ヌヴィレットさんでも、看護師長の前では形無しだな。さすが俺の看護師長」
    「そうね。いつもウチの言うこと聞かない悪い子の相手をしてるんだもの。いいこなヌヴィレットさんを休ませるくらい難しくないわ」
     ソファー前のテーブルの上を一部片付けトレイを置く。行儀が悪いが仕方ない、ティーセットを広げるスペースはなければ資料を汚すわけにもいかない。せめてと丁寧に淹れた紅茶は、先月リオセスリが贈った茶葉で、ストレートより砂糖を入れて飲む方が深みが出て美味しいものだ。勝手に角砂糖をそれぞれのティーカップに二つずつ落としてしまうと、ヌヴィレットは微かに眉を寄せる。
    「まあまあ。この茶葉には砂糖が合うんだ。疲れているときには甘いもの。物は試しにこれで飲んでみてくれ」
     リオセスリがそう言って先に紅茶を啜り、ほっと溜息を零せばヌヴィレットもそれに倣う。
    「……」
    「な? 美味いだろう?」
     大仰に眉を跳ね上げリオセスリがそう問えば、何処か幼くこくりとヌヴィレットは頷いて、もうひと口紅茶を啜ると細く息を吐き出した。
    「……美味しい。安心する味だ」
    「そりゃよかった」
     リオセスリがそれに微笑めば、二人に挟まれるようにしてソファーに腰掛けていたシグウィンは満足したようにころころと笑った。

     シグウィンはお茶を一杯楽しむと、すぐに執務室をあとにした。怪我人の救護は終え、予言は過ぎ去ったとただ喜ぶには、充分洪水は恐怖を覚えさせる代物であった。メリュジーヌの目は、そういった人間のこころの機微を察知するにも適している。理解できなくともやさしくあたたかい存在が寄り添う、ただそれだけで癒されることもあるものだ。彼女を始め、普段メリュシー村にいるメリュジーヌも総出で今回の水害の後処理にあたっていた。
     リオセスリはそういったケアに役立つ存在ではない。しかし業務の効率化や書類作業、数字との睨めっこには一家言ある。「さて」そう呟くと、リオセスリは目の前の書類の山に手を掛けた。
    「ヌヴィレットさん。一応確認するが、この書類は何かしらの規則性をもって此処に山積みにしてるのかい?」
    「いや、テーブルごとに共律庭、枢律庭、執律庭から上がって来たもの、それを日付ごとに分けて置いているだけだ。最低限内容報告のみ受け、優先順位が低いと判断したものはそちらに、高いものは私の机に持ってこさせている」
    「ふむ。なら聞くまでもないが、あんたに秘書のような立ち位置の職員はいないよな?」
    「秘書はいない。一番近しいといえば、セドナがそれだろうか? 彼女にはスケジュール管理と郵便、各種連絡等の庶務をしてもらっている」
    「……だろうと思った。了解、それで充分だ。今日から一週間、昼から夜にかけてあんたの秘書になってやる。見せられない重要書類があればそれだけはあんたの方で対処してくれ」
     リオセスリは大小さまざまな資料を手に表紙を見てソファーから床まで使いそれらを分類し始めた。それを見ていたヌヴィレットは瞬きをし、少し慌てたように腰を上げる。ヌヴィレットにしては雑な仕草だったため書類の山が崩れかけ、リオセスリは追い払うように彼を執務机に追いやった。
    「さあさあ時間は有限だ。効率的にいこう。各所で本来対応できるものもパッと見る限り此処に上がってきているようだ。大規模の改革は後日として、緊急時の臨時法案の草案も明日には用意してこよう。ヌヴィレットさんは三時頃議事庁の担当者と共律庭広報部を呼んでおいてくれ。審判は当分行えないんだ、各所に審判官を配置することで、検律庭監視のもとに権限を付与する。災害時は初動が大事なんだ、既に遅れているといえるが、今更としないでいい理由にはならない」
     リオセスリはヌヴィレットに目もくれない。そのかわり仕分けの速度は速く、どんな基準でそれを仕分けているのかも理解できず小さくヌヴィレットは唸る。
    「……貴殿は、救助活動にメロピデ要塞の管理と既に貢献してくれている。そのうえそのような事務作業まで手伝わせるわけには……」
    「要塞の方は優秀な部下に任せているからな。それに水の上であれそれ起こした連中だが、ほとんどはこのフォンテーヌを故郷と思っている。家族の無事を確認し、連絡してやればそれだけで大抵は協力的になったから、こっちのことは気にしないでくれ」
     あまりに当然のことのようにリオセスリはそう言い切ったが、ヌヴィレットは目を見張った。あの予言の日からまだ三日だ。漸く水が地下を含む街から引き、各所に水溜りがある程度になったばかりであり、パレ・メルモニアははっきり言って混乱の中にある。被害報告は未だ止まず、フリーナの審判も有耶無耶なまま。そんな状態にあるのに、リオセスリは何百人といる囚人や要塞にいる者の親族の安否確認まで既に完了しているという。優秀だと思っていたが、自身の認識以上だと開いた口が塞がらない。
     人間とはこんなに優秀な生き物なのか。それともこの男が特別なのか。いずれにせよ、そんな男を前に、手伝いは不要だと見栄を張ることの方が愚かというものだ。ヌヴィレットはちいさく溜息を吐くと目の前の書類に手をつけた。
    「貴殿の献身には必ずや報いろう。一週間、それで事態を収束させる故、いまは力を貸して欲しい」
    「言われるまでもないさ。これでも俺もフォンテーヌ人だ。できる協力は惜しまない」
     リオセスリは薄く笑うと、その後は無言になった。合間合間に報告にくる職員に指示を出し、場合によっては現場の確認にまで赴いた。彼が回してきた書類は優先順位が高く、ヌヴィレットが気付かず埋もれさせていたものもその中に含まれていた。彼が手伝いに名乗り出てくれなかったら、事態は深刻になっていたかもしれない山がいくつもあり、ぞっとしない思いをヌヴィレットは抱えた。
    「――……幾ら払えばリオセスリ殿をパレ・メルモニア職員にできるだろうか?」
    「おっと、それは引き抜きかい? 光栄だね。しかし幾ら積まれようとお断りさせていただこう」
     リオセスリが手伝いに名乗り出て三日。理解していたと思っていた認識を塗り替えられる。勿論いい方向でだ。リオセスリがいなければ今頃どうなっていたかと打ちのめされているヌヴィレットを横目に、気分よくリオセスリはスメールからの支援物資リストに目を通す。パレ・メルモニアからの申請だけでなく、草神・クラクサナリデビから教令院を通しての支援も合わせて届いたのだ。それらに不審なものが含まれていないかの検閲にマレショーセ・ファントムを多く配置し、リオセスリは国内の被害状況と突き合わせその配給の検討をしていた。
     余分がなく、過剰ではない支援。食料は多湿なフォンテーヌでも傷みにくいものがほとんどであり、しかし被災から約一週間という避難生活へのストレスが高まる頃合いを狙ったように菓子を多く乗せてくれていた。それは他の食料と比べれば日持ちしない。よって先に配給するほかないのだが、国としては嗜好品よりも早急な復興作業の方が優先だ。そう言った菓子を手配する余裕はなく、支援品だからこそ遠慮なくばら撒くことができる。タイミングもセレクトも流石知恵の神といおうか。リオセスリは満足げにリストを作成していった。
    「勿論リオセスリ殿にはリオセスリ殿の責務がある。貴殿以外にメロピデ要塞を任せたいと思う者は現状いない。だがこれを味わってしまうとな……」
    「なんだい? ヌヴィレットさんも人間らしいところがあるようだ。楽を覚えると人間はそうしたくなってしまうものなんだ。いい経験になっただろう?」
     クックッと喉を震わせリオセスリはまとめ上げたそれをセドナに渡しに行った。複写し各担当部署に配布してもらう。そのやり取りもこの三日で慣れたもので、セドナと手伝いの共律員がさっと複写に取り掛かる。その働きを眺め、ついでにパレ・メルモニアの全体の様子を見るが、まだ落ち着きは取り戻していないが鬼気迫る形相の職員はいなくなった。記者がスキャンダルを求め連日押しかけていたようだが、そういった様子も見られない。少しずつではあるが正常に戻りつつあるその姿に、リオセスリはちいさく息を吐いた――その瞬間、ひゅっとリオセスリは自身がおかしな息をし始めたことに気付く。
    「公爵様? どうかなさいましたか?」
     さすがはメリュジーヌだ。手元の書類を見ていたはずなのに、セドナは何か不審に思ったようで面を上げた。その大きな瞳をくりっとリオセスリに向け、首を傾げるが彼はなんでもないと手を振る。おかしくない程度に急ぎ足で執務室に戻ると、濃厚な水の気配にほうっとリオセスリは息を吐いた。
    「さて、臨時法案は正常に機能しているようだ。上がってくる書類もこの調子ならあと四日で問題なく落ち着くだろうさ」
    「貴殿がそう言うのであればそうなのだろう。名残惜しくもあるがあと四日、よろしく頼む」
    「喜んで」
     変わらずリオセスリは軽口を叩いているが、自身の呼吸がおかしくならないよう努める。此処は外と比べたら息がしやすいのだから大丈夫。そんなことをリオセスリが考えているとヌヴィレットは気付くことなく、珍しく微かに眉を下げて見せた。
    「私はフォカロルスにこの国を託され、フォンテーヌ人の罪を許した。よって私はその判決を下した責務を果たさなければならない。しかし貴殿がいなければ、きっとそれもままならなかったのだろう」
     唐突にそう語り出したヌヴィレットに苦笑することしかできない。何故なら、リオセスリはそれを知らない。普段ヌヴィレットは水神・フォカロルスをその名であるフリーナと呼んでいた。何故いまあえてフォカロルスと呼ぶのか。そしてフォンテーヌ人の罪とは何か。――リオセスリは予言の日からフリーナの姿を見ていないこと、それと原始胎海の水、洪水から幾つかの仮説を立てていた。故にいまのヌヴィレットの発言から事の次第を察せないことはないのだが、こんな仮説を口にできるほどリオセスリは人間を辞めてはいない。神や水龍、世界の理などの領域に足を踏み入れる気は更々なく、労うように甘い紅茶を淹れた。
    「明日の午前はフォンテーヌ廷の視察に出てくれ。まだやることは山ほどあるが、あんたが顔を見せるだけで現場の士気が上がるし、市民は安心するもんだ」
    「そういうものだろうか? 私は現場に出たからといって、メリュジーヌたちのような復興作業に必要な何かをしてやることはできない」
    「まだまだあんたは自分のことに関して理解が乏しいようだな。あんたがいる。それだけで安心を与える。それだけの存在になったんだよ、ヌヴィレットさんは」
     リオセスリはそう言うと机にティーカップを置いた。この三日で慣れ親しんだ甘い紅茶に、ヌヴィレットの強張っていた肩の力が抜ける。するとリオセスリは彼の背後に移動して、その肩を掴んだ。
    「甘いもので癒されるなら、肩も凝るだろ? 力抜いて少し目を閉じてるといい」
     ヌヴィレットの肩をその分厚い法衣の上から揉み込む。ゆっくりと指圧すると微かに呻き声が上るが、強張った全身から力が抜けていった。数度指圧して、腕を取る。上に持ち上げたりと血流を促して、頭を支え大きく首を回させた。
    「どうだ? すこしは肩が軽くなっていたらいいんだがな」
    「うむ。悪くない感覚だ。よく職員が肩の痛みを訴えているのを見掛けるが、確かにこうして机に向かっていれば人間の脆い身体ではすぐに支障をきたすだろう」
    「怪我の功名ってやつだな。あんたがそれに気付いてくれたお陰で、漸くこのパレ・メルモニアでも業務改善がされるかもしれない。それは俺も大いに助かることだ。此処の書類は手間ばかりかかって、他に任せられなくて困ってるんだ」
    「貴殿がそう言うなら業務改善というものを考える必要があるのだろう。ふむ……落ち着いた頃に相談させて欲しい」
    「ハハッ。パレ・メルモニアのコンサルタントに就任か? まあ、お茶をしながらの相談くらいなら承ろう」
     リオセスリはヌヴィレットの両肩をぽんっと叩くと休憩は終わりだとそう促し、専用デスクとなったソファーセットに腰掛けた。彼自身が書類を作成することは少ないため、タイプライターが稼働することは少ない。けれどある書類を見て眉を跳ねさせたリオセスリはタイプライターを引き寄せ、リズミカルに打鍵する。
     手書きよりも随分と楽になったと、初めてタイプライターを使った日のことを思い出す。囚人となってから、リオセスリはあらゆる力を身に着けるための努力を怠らなかった。身体を鍛えるのは勿論、知識、情報、縁に到るまで、何が必要となるかわからない。あらゆる力を身に着けた。その際にどれだけの文字を書いてきたことだろう。真っ白な紙なんてない。油染みなんかがついて、インクでも鉛筆でもまともに書けないような紙にだってあらゆる知識を書きつけてきた。己は天才でも特別な何かでもない。だからどれだけ泥臭くとも、そうすることしか知らなかった。だからか、そんなみすぼらしいリオセスリにしか価値のない紙切れに悪戯されることはなかった。そうしてそれらの知識が頭に染み付いた頃には、リオセスリの手元には真っ白な紙と新品のペン先とタイプライターがあった――。
    「……心地好いな」
    「ん?」
    「その音が。貴殿の迷いのない打鍵はまるで音楽を奏でているようで好ましい」
     カタカタカタギィ……カタカタ……ギィ。繰り返されるその音が心地好いなんて。きっとこのパレ・メルモニア内でそう思うのはこの人だけだろうとリオセスリはちいさく笑う。この音を聞き過ぎてもう嫌だと半狂乱になっている者もこの執務室と外とを隔てる扉の向こうにはいるだろうに。きっとヌヴィレットは時計のカチカチと時間を刻む音を聞き続けるのも苦ではないのだろう。実に彼らしいなと思いながら、リオセスリは紙を取り換える。五枚に渡る文書作成を終えると、もうおしまいとばかりにタンッとキーを叩き、机の片付けに取り掛かった。
    「さて、そろそろいい頃合いだ。今日は終わりにしよう。明日も昼頃には来るから、それにあわせて視察から帰ってきてくれると助かる」
     此処はパレ・メルモニアの、それもヌヴィレットの執務室だ。リオセスリは重要文書を取り扱っているわけでもなく、片付けなどすぐに終わる。
    今回の洪水被害がもっとも少なかった居住区はロマリタイムハーバー近辺だ。あの辺りは大型船が運行できる程度の深さはあるが、海底地下共に開拓されていないことも功を奏した。そのため外国からの物資運搬に活用しているわけだが、そのせいで不審な目撃情報が増えている。フォンテーヌの混乱に乗じて良からぬものが入り込もうとしている気配を感じ、リオセスリは作成した文書をヌヴィレットに見せると、彼は静かに頷きを見せた。
    「……承知した。それは広報部に回してくれ。私の方でシュヴルーズ殿には話を通しておこう。検閲に配置しているマレショーセ・ファントムと協力して対処すれば大事には到るまい」
    「ああ。じゃあ、俺はこれを帰りがてら提出してくるさ。ヌヴィレットさんも早めに上れよ」
     そう言ってリオセスリは身を翻した。いま帰れば少し遅いがギリギリ夕食には間に合うだろう。最近はリオセスリを始めとして水の上の復興支援に出ている者が多いこともあり、時間を置いても美味しく食べられるようなサービス食が多く用意されている。帰れる時間もまちまちなのだから、ウォルジーなりの支援の一つということだ。有難くそれを利用させてもらおうと考えていると、その背にヌヴィレットが思わぬ言葉を投げかける。
    「待ちなさい。毎日水の下に戻るのも、巡水船が使えないいま大変だろう。夜に漂流物が多くなっている海を潜水するのも避けた方がいい。要塞に派遣した職員からもそちらに混乱がないことの報告を受けたいま、貴殿を引き留めない理由はない」
    「は?」
    「よって、貴殿を私邸に招きたい。此処の上階にある私の休憩室でも構わないが、客室がない故私のベッドを使わせることになってしまう。リオセスリ殿は謙虚だからな、それを良しとは思うまい」
     ヌヴィレットは一方的にそう捲くし立てると、机の抽斗に印などをしまい鍵を掛けた。幾つかのファイルを手に取ると、ツカツカとリオセスリに歩み寄りこくりと頷いて見せる。
    「誰も招いたことはないが、必要なものは一式あるだろう。貴殿の体躯は優れているが、寝巻程度であれば私の服で問題あるまい。何か問題は?」
     決定事項を伝えるように、すらすらと説明されるがリオセスリは思わず額に手を当てる。リオセスリ自身効率重視のきらいはあるが、この男もその気がある。確かに彼が言うことも尤もと思うが、秘書を務めるとは言ってもプライベートまで共にするとは一言もリオセスリは言っていない。
    「問題しかないな。いまは混乱がないとしても、こんな情勢だ。あんたがいると市民が安心するように、俺がいるってだけで要塞内の空気が締まる。今後のことを考えても、俺は水の下に帰った方がいいのさ」
     わかるな? そう言わんばかりに片眉を上げて見せればヌヴィレットは納得したように頷く。説得はできたようだと肩を竦めれば、何故かヌヴィレットは音もなく手を伸ばし、リオセスリの頬に手を添えた。
    「貴殿の言うことも尤もだろう。しかし人間は休まねばならない。誤魔化しているが、今日のリオセスリ殿は呼吸が些かおかしい瞬間がある。疲れが出ているのだろう。この状態の君を何もせず水の下に帰せば、私がシグウィンに怒られる」
     シグウィン。その名前を出されれば、リオセスリも押し黙るしかない。彼女がもし要塞に戻っていれば、確実に働き過ぎだと𠮟りつけられるだろう。そのくらいに自身が睡眠不足なことをリオセスリも認識していた。呼吸がおかしいのはそれが理由ではないが、いまは関係ない。
     リオセスリはたっぷり数秒悩むと、肩を落として溜息を吐く。
    「……わかった。だが、今晩だけだ。明日は帰るからな」
    「うむ。それで構わない。午前、私は視察に向かう故、ゆっくりしてから昼にパレ・メルモニアまで来るといい」
    「……助かるよ」
     立場に大きな違いはあるとはいえ、なんだかんだ付き合いは長い。リオセスリがヌヴィレットを理解している程度には、ヌヴィレットもリオセスリを理解していた。腹の探り合いとなればリオセスリに分があり、感情の理解となればヌヴィレットにはどうしようもないが、相手が断れないよう仕向けるには充分な相互理解があることが少しばかり忌まわしい。
     一晩だ。それもヌヴィレットの傍ならば、最悪な事態はないだろう。リオセスリが思わずもう一度溜息を吐けば、ヌヴィレットは無表情ながらに何処か満足げに見えて、少しばかり腹が立った。


     ヌヴィレットに従い、フォンテーヌ廷を行く。ごみが片付けられ、流されたものが使えるようであればすべて元ある場所に戻されていた。流石に至る場所に置かれていたブックスタンドや鉢植え、カフェテリアのパラソル辺りは何処を見ても見受けられない。それらは近々新調され、以前の景観をひと月もすれば取り戻すのだろう。
     陽が落ち薄闇の中、それでも街灯は変わらず点いていた。本来水害などあれば、このような灯りが街中を照らすことはないのだろう。フォンテーヌのエネルギー源である諭示裁定カーディナルが生み出す律償混合エネルギー。予言の日以降、裁判がおこなわれなければ歌劇場は現在封鎖されているとのことで、そこからエネルギーが生み出されているとは到底思えない。それでもこうしてフォンテーヌ中にエネルギーが行き届いているのだから、きっと目の前を行く男がどうにかしているのだろうとリオセスリは呆れにも似た感情を抱いていた。
    「……リオセスリ殿」
    「……なんだい?」
     一国のエネルギー問題をたった一人で解決し、災害の後処理に追われるこの男は、果たして一人で何処まで責任を負うつもりなのだろう。困ったものだと思いながら、背中を見ていたリオセスリはヌヴィレットの隣に並ぶよう歩幅を大きくした。
    「夕食なのだが、セドナより我が家に食材を幾つか届けてくれているとは聞いている。しかし私も久々に帰るため、いまから何か作らねばならないのだが、君は何か苦手なものはあるだろうか?」
    「へえ? ヌヴィレットさんは料理ができたのかい?」
    「あまり家に他者を招きたくはないのでな。スープを好むが、テイクアウトできる店はあまりない故、寛げる日は自身で作っている」
     初めてヌヴィレットの私生活を垣間見ているような気がした。普段から水を好み、お茶会でも茶菓子にあまり手を伸ばさない。チョコ辺りをたまに摘まむ姿から、乾燥していないものを好んでいることは察せられたが好物がスープかと思うと少しばかり微笑ましく思う。
    「確かにスープのテイクアウトは難しいな。器の用意が難しい。冷たいものならまだしも、あたたかいものとなると厚みも欲しい。ああ、それにもし上手いこと紙のカップなんかが普及したら、今度はごみ問題も生じるだろうな」
    「……ポイ捨ては法律で規制したが、未だフォンテーヌでは人通りの少ない場所で瓶が転がっている。川や海にもごみが流れているのを見ると嘆かわしい。どうにかならないものか……」
     ヌヴィレットの口からポイ捨てという言葉が出たことに思わず笑いそうになった。おかしなことは言っていないのだが、ヌヴィレットの顔と合わさるとその差異に響きが何とも愛らしい。リオセスリは微かに喉を震わせ、親しみを込めてその肩を叩く。
    「まあごみ問題よりメカフィッシュの方が優先だろう? ごみ自体はいまの法律で充分抑制されている。順に解決していけばいいさ。それよりいまは目の前の夕飯のが問題だ。キッチンを爆破してよければ肉くらい俺が焼いてもいいがどうする?」
    「……とりあえず君には食後の紅茶を淹れて貰うほか、何もさせてはならないことを理解した」
    「ハハッ! 本気で最高審判官の自宅のキッチンを爆破すると思わないでくれ。そんなのテロリストと変わりないだろう?」
     軽口を楽しむリオセスリの様子に、ヌヴィレットの目元も和らいだように見える。きっと彼にとって一国のエネルギー問題でさえ息をするような些事なのだろう。それでもそこに人間が関われば問題は複雑化し、幾らこの三日リオセスリがそれを整理して彼の負担を軽くしているとは言え、どうも放っておけないような張り詰めた気配を感じさせた。
     彼がどんな存在であっても、立場が何であっても、この国に生きる隣人であることに変わりはない。そして彼は決して罪を犯さない、公平なこの国の正義そのものだ。そんな彼が誰を頼ることもできずに削られていくのを、気付きながら放っておけるほどリオセスリは薄情ではない。こうして軽口を叩き、甘い紅茶を淹れるのはただそれだけのことだ。それでもと、リオセスリはあと四日でできるかぎりのことをしてやりたいと思い、彼の話に相槌を打った。

     案内されたヌヴィレットの私邸は情報として場所を知ってこそいたが、内装含めその地位に見合ったものであり、行き過ぎていない豪華さが彼らしい品行方正さを伺わせた。しかし彼の作る料理一つを取り上げれば、それらはどちらかと言うと質素という言葉が似合うものであった。
    「口に合わなかったかね?」
    「いや、俺は健啖家でもないし味の良し悪しはあまりわからないが、だからこそ複雑すぎないシンプルさが結構好みだ。しかしキュルティバトゥールと焼いた肉という組み合わせは意外だった」
    「君は先程も口にしていたくらいだ。その身体からしても肉を好むだろう? スープだけでは物足りないだろうと思ったのだが」
    「そうか、気遣い感謝する。いい具合に腹が満たされたよ」
     農夫という意味を持つ家庭料理に獣肉のロースト。料理の様子をおもしろがって見学させてもらったが、鉄板を用意するなり獣肉を乗せて塩コショウに、にんにく、適当な野菜を添えてオーブンに突っ込んだヌヴィレットを見て些かリオセスリは驚いた。彼であれば料理も几帳面に分量を量り、レシピ通りに作るのだろうと思い込んでいたため、あまりに一般的な調理風景で唖然としている間にも野菜を刻んでスープ作りに取り掛かっていた。さすがに四百年も人間社会で生きてきたのだ、何も不器用な男ではない。このくらいできて当然かと思うと同時に、何故か感慨深くなる。
     塩コショウと添えられた粒マスタードだけの味付け。スープは僅かにこだわりが見え食材の味を活かして作られていたが、こちらも塩コショウとチーズだけと、気負わず気楽に食べられる料理。ヌヴィレットと食事をしたこともあるが、その時はレストランを利用していたためテーブルマナーが必須であり、堅苦しいものであった。いまのヌヴィレットは上着を脱ぎ、シャツ一枚で髪も料理の邪魔になると無造作に首の後ろで括られている。これが法衣の装飾や髪が椅子などに引っ掛かることに顔を顰めていた彼の素の姿なのかもしれない。
    「――やっぱり自宅は寛げるかい?」
     せめて食後の茶を淹れるついでに洗い物くらいさせてくれ。互いに仕事をして疲れているのだから、分担させてほしい。そうリオセスリが言えば食い下がるだけ時間の無駄だと判断したのか、ヌヴィレットはすぐに了承した。自宅では普段水しか飲まないのだろう、あまり使われた様子のないカップを取り出し缶に入れられていたティーバッグに手を加えロイヤルミルクティーを淹れる。キッチンがなければ淹れられないのだから、たまにはこういうのも悪くないだろうと差し出せば、物珍し気にヌヴィレットはそれを楽しんでいた。
    「そうだな……それもあるが、共に過ごしているのが君だからというのもある」
     ソファーに深く腰を掛け、脚を組む姿は優雅だ。しかし髪を適当に結った薄着のヌヴィレットという時点でひどく無防備にも思う。とはいえリオセスリも一人で書類仕事にあたるとき、夜中は上着どころかベストもネクタイも放り投げ、持ち込んだ食事とティーブレイクの間だけはぐったりとだらけた様を見せてはシグウィンに苦笑されていた。気持ちはわかるぞと思っていたのだが、些かヌヴィレットの言葉に違和を覚える。
    「俺? あんたなら一人で過ごすか、メリュジーヌと一緒の方が寛げるんじゃないのか?」
     印象でそう語れば、ヌヴィレットは緩く首を振った。
    「確かに彼女たちと過ごす時間は心休まる。しかし彼女たちは働き者故に、私が疲れているだろうとあれこれと世話を焼こうとするのが少し心苦しく感じるのだ。その点、君は程よい塩梅を示してくれるので助かる」
    「ああ……たしかに、気を遣われると疲れることあるよな」
    「それに一人で過ごすとなると、私ならきっと今頃入浴し、資料を読み終わるなりすぐに就寝していることだろう。こんな風に寛ぐ時間をきっと設けることはない」
    「…………」
     すこしばかり身に覚えがあると思ってしまい、リオセスリは苦虫を噛み潰したような顔をした。
     リオセスリは誰であろうと弱みを見せないために、いつでも余裕に振舞うことを心掛けている。故に来客が見込まれるときは見回りをおこなったり、ティーブレイクを挟み、レコードで音楽を奏でる。決して仕事に忙殺されている姿は見せないよう心掛けていた。そのため、私室に戻ればそちらでの生活の方が余程ストイックといえる。
    口煩くシグウィンにワーカーホリックと怒られては不毛の味を差し出されてきたが、ヌヴィレットの言葉を聞いてこう自分が見えているのだと思えば致し方ないことのように思えた。
    「……まあ、あんたを休ませることに貢献できたようで何よりだ」
    「ああ、感謝する。だから君も寛いでほしい。私は入浴時間が長いので、それを飲み終わったら先にシャワーを浴びなさい。君は充分な睡眠をとるためにも夜更かしをしないように」
    「こればかりは身体のつくりが違うからな。お言葉に甘えるとするよ」
     此処にシグウィンがいれば、ヌヴィレットも夜更かししてはならないと𠮟りつけていたことだろう。しかしリオセスリがそうすることはない。人それぞれ、何に癒しを感じるかは異なる。
     リオセスリであれば適度な運動と睡眠、己の時間を持つことだ。自身のために時間を使う感覚そのものに癒しを覚える。ティーブレイクを多く設けるのもそれが理由だ。自身の精神の安寧にも繋がる行為で、こころに余裕を生むためにも必要不可欠である。それに対し水に執着を見せるヌヴィレットにとって入浴は癒しなのだろう。雨の中、傘を差さず濡れていたくらいだ。きっと水に触れることが彼の安寧に繋がると思えば邪魔などできない。風呂で寝ないでくれればいいのだがと、想像だけで笑えてしまう心配をしながらリオセスリはヌヴィレットに教えられた浴室に向かった。
     いまのところ、リオセスリの呼吸は乱れていない。此処はヌヴィレットの領域なだけあり、水の気配が濃い。彼の傍を離れても、パレ・メルモニアにいるより息がしやすいとリオセスリは安堵の溜息を吐いた。
     着替えやタオルはあとで置いておくとヌヴィレットに言われたので、好意に甘えてリオセスリは全身の装備を外していった。
     ブーツ、ベルト、ベスト、ネクタイ、バンデージ。身体を締め付けるそれらを外すと、鎧を外したようで少しだけ心許ない気がした。しかし此処は他の誰でもないヌヴィレットの領域だと思えば、それはもう水龍の腹の中と同義だ。今更何を警戒する必要がある? とリオセスリは全身の力を抜いた。


    ――窓から朝陽が射し込む。眩しさに瞼の裏を焼かれ、目を覚ますと同時に、喉からひゅっと嫌な音がした。
    「っ、ハッ……! 、……ッ」
     転がり落ちるようにベッドと壁の隙間に身を潜めた。冷たい床、湿度を感じるそこに身体を押し付ければ、徐々に息が整いだす。息苦しさに思わず掻き毟りそうになった喉が痛み、思わず呻き声を上げるが派手な音を立てたもののヌヴィレットが姿を現すことはなかった。
    「……先に向かったか」
     ほっと吐息を零す。こんな無様な姿を見れば、彼は心配に眉を顰めることだろう。それでなくとも憂いを抱えている人だ。たかが一匹の獄守犬に気を揉ませるわけにはいかない。己は彼の手伝いに来たのだから、それでは本末転倒というものだろう。
     なるべく陽射しに当たらないように気を付けながら、カーテンをきっちり閉める。朝陽などこの二十年近く浴びた覚えがなかったが、どんどん己の身体が陽光に弱くなっていくと感じられ、リオセスリは深く溜息を零した。

    「リオセスリ殿、ゆっくり休めただろうか?」
     先にパレ・メルモニアのヌヴィレットの執務室に赴き、本日分の報告書の仕分けと復興状況の精査をしていれば、帰ってきたヌヴィレットはそう言いながらリオセスリに歩み寄った。朝の一件をおくびにも出さずリオセスリはへらりと笑うと、承認印が必要な書類一式を彼に差し出す。
    「随分しっかりと寝させて貰ったよ。あんな柔らかなベッドなんて初めてだったが、よく看護師長には腰を労わってベッドの交換や椅子の新調、それに合わせた机を買えって口煩く言われているんだ。しかしあのベッドを体感すると確かにベッドだけでも新調しようかと悩むものだ」
    「ほう? それならば、此度の謝礼にそれらを私から贈らせて欲しい。同じものでいいだろうか? それとも職人を手配して……」
    「待て待て。あんたにベッドを贈られたなんて知られたら面倒になりそうだ。フォンテーヌ人として当たり前のことをしているだけさ。謝礼なんて考えず、あんたはただ好意を受け取ってくれりゃいいんだよ」
     書類を受け取り目を通しながらヌヴィレットが事もなげに話を進める。それに呆れてしまうのも仕方ないだろう。彼は先日まで自身を余所人だと思い込んでいた。故に他人との関わりが下手で、まったくと呆れながらもその純粋さが好ましく思える。
    「しかし……」
     執務机に向かいながらも食い下がって見せるヌヴィレットに、リオセスリはひらひらと手を振った。
    「それでも気が済まないって言うなら、全部落ち着いたらゆっくりお茶をしよう。シグウィン看護師長に、旅人を呼んでもいいな。あんたの方であの食い意地を張ったパイモンの腹も満たせるだけの茶菓子を用意してくれ。俺はそうだな……ヴァザーリ回廊のウォーターストーンズのスコーンがいいな。是非限定のスペシャルスコーンを頼むよ」
     それは歌うように穏やかな語り口で、ヌヴィレットはそっと吐息を零す。一体どんな光景を思い浮かべたのか、彼の顔に微かに喜色が滲み、リオセスリは目を細めた。
    「……それは楽しみだ」
    「だろう? さあ、そのためにも頑張ろうじゃないか」
     それから執務室は静かなものであった。しかしその無言は痛くもなければ、切羽詰まったものでもない。
     リオセスリが用意した緊急時の臨時法案は、完全に縦割りにされたパレ・メルモニアの職務を円滑に回す効果があった。各々の裁量による行き過ぎた事態は発生せず、法の下の抑止を審判官が務めることで現状は大きな問題も発生していない。長期で使うには粗があるが、災害から復興の目途が立つまでの期間であれば問題がないことから、今後のパレ・メルモニアの改革についても思いを馳せる。
     さて、何処まで口出ししていいものかとリオセスリは思いながら、横目にヌヴィレットを見遣った。何時見ても伸びた背筋、涼やかな目元、真剣な横顔。それを見てしまえば、もう暫くはお節介してやってもいいかと思えた。





    第二幕 ― Champion Duelist and articles ―


     予言から半月。避難民すべてが己の住居へと帰ることができた。住居の倒壊といった被害はほぼなかったが、水が引くのに時間のかかった水辺や地下に溜まった泥などの撤去にどうしても時間がかかってしまったのだ。人命に及ぶ被害はなく、早急にシグウィンを中心としたメリュジーヌと医療関係者の協力で感染症なども流行る前に対処できたことに誰もが安堵していた。
     未だ、ポワソン町の悲劇の傷跡は残っている。しかし棘薔薇の会現会長・ナヴィアの笑顔が、彼女の振舞いが人々を鼓舞した。彼女がその組織の在り方を示すように積極的にパレ・メルモニアと連携を取ってくれたことにより、行政も立ち回りやすかったとも言える。今回の災害ではフォンテーヌに住まうすべてが手を取り合ったため深刻な被害が出なかったのも事実だが、棘薔薇の会とメリュジーヌ、そしてメロピデ要塞の貢献があってこそと知る人は理解していた。
    「……もう! 何を見ていたらこんな記事が書けるのかしら? ちゃんと取材してから記事にしなさいよー‼」
     桃色の髪が激しく揺れる。己のプロ意識が、彼女自身が知る真実と到底掛け離れた記事の内容に地団太を踏む。思わずその新聞を破り捨てそうになりながらも、どうにか耐える彼女の横をパレ・メルモニアに向かおうとしていた決闘代理人・クロリンデが通りかかる。ナヴィアを介し交流を持つようになった人が荒れているのを放っておけるほど、彼女は薄情ではなかった。
    「あまりこの辺りで不審な行動をしない方がいいと思うが、どうかしたか?」
    「クロリンデさん……!」
     声を掛けられたシャルロットは弾かれるように顔を上げて、クロリンデに駆け寄る。そしてその手に持つ新聞を突きだせば、彼女も知っていたのだろう「ああ」と小さく呟き肩を竦めた。
    「七国四海ポストか。こんなゴシップ誌、信じる人の方が稀だろう。貴女がそんなに腹を立てる必要はないと思うけれど」
     シャルロットが何かを語る前にそうクロリンデは言うが、彼女はわかっているけれどと肩を怒らせた。
    「でもウィンガレット号がどれだけ貢献したか、メロピデ要塞の職員がどれだけ復興に協力したかを私は知っている。公爵に取材こそできなかったけれど、話してみてわかったわ。あの人はとても優秀な人よ。それこそヌヴィレット様が「公爵」を与えた理由もすべてが真実だって確信するほどね! そんな人がこんな風に貶められる書き方されることを許せるわけないわよ!」
     ぐしゃりと握り潰された新聞は、予言直後に配られた七国四海ポストの号外ではなく、今朝販売されたばかりのものであった。それには公爵・リオセスリの陰謀説、彼が嘗て犯した犯罪、囚人時代のよからぬ噂を独自の取材で近しい者から入手したとして一面の記事にされていた。あまりの内容に、これが偽りであれば侮辱罪が適用されかねない内容で、元よりゴシップに興味のないクロリンデでさえ鼻白み、それをオフィスで読む者に思わずそんな暇があるのかと一喝してしまったほどだ。真実を信条にしているシャルロットには許し難いものであることは理解できる。
    「しかし公爵は表に出るつもりはなければ、こんなゴシップを構うつもりはないだろう。今までだって何度となく彼は捏造のゴシップを各誌に掲載されてきたが、一度も訴えたことはない。寧ろ彼が何か行動すれば、今まで反応していなかったこともあり思う壺というものだ。七国四海だけでなく、他も彼を暴こうと躍起になる未来は想像がつく」
     クロリンデはシャルロットを宥めながらも、目的地へと歩を進めた。シャルロットも話を聞いてもらえるならと共に歩を進める。取材を拒否する最強の決闘代理人と記者の組み合わせは異色であったが、だからこそシャルロットが信用の置ける記者であることは明白であった。
    「それも勿論わかるわ。だからこそ公爵に取材ができたら……ああ! もう! ウィンガレット号の記事に彼のことを書けていたら、いますぐにでもこの記事を批判する記事を掲載したのに!」
     クロリンデはシャルロットのこのようなところに信頼を置いていた。だからこそ、上司であるヌヴィレットが取材を受けたのだろうとも思う。彼女は熱く、姦しさがある。しかしその実、実直で懸命だ。真実を見抜くために、見切り発車をせず耐える忍耐力もある。だからこそクロリンデは一言、わかったと呟いた。
    「この件は一応、私からヌヴィレット様に報告しておこう。ヌヴィレット様は公爵に爵位を与える際、身内のいない彼へ後押しをしたこともあり、後見ともいえる立場にある。目に余るとあの方が判断したならば、公爵への働き掛けもするはずだ。もし記者の力を必要とすることになれば、貴女を推薦しよう」
    「本当⁉ ありがとう、クロリンデさん! それだけでも幾分気分が晴れたわ!」
    「気にしないで。私も別に公爵の肩を持つ気はないけど、一緒に仕事をする相手だからおもしろくなかった。彼が気に喰わないなら、会おうと思えば会う手段は幾らでもある。直接話して、真実で訴えればいい」
     クロリンデがそう言った頃には、パレ・メルモニアに着いていた。さすがに中にまで共に入るわけにはいかないと、漸く笑顔を浮かべたシャルロットと別れ、クロリンデはヌヴィレットの元に向かう。
     半月の間に、火事場泥棒と言われる犯行が数件。他国からの不法侵入者並びに、規制品の輸出入といった事件の検挙がおこなわれた。それらの審判が保留されていたが、今日から通常に戻る運びとなり、それに伴う打ち合わせを予定している。水神・フォカロルスの退位、その真相はスチームバード新聞社の協力のもと発表され、そちらに民衆の目は集まっているので、シャルロットほどこの記事に感情を揺さぶられている市民はいないと思うが、それでも不快さと心配は少なからずあった。
     自治を許されたメロピデ要塞が隠し持っていた、フォンテーヌ一の巨大飛行船。その管理者は謎の多い公爵。水神は引退し、水神がこの国に誘った四百年生きる男が名実ともにフォンテーヌの元首となり、彼が推挙したのがその公爵である。――それはあまりにも、陰謀論を好む者にとって美味しいだろう。そんなことで揺らぐ二人ではないと確信しているが、クロリンデは懸念を晴らしておくべきだと執務室の扉をノックした。
    「――どうぞ」
    「失礼します」
     普段と変わらない凛とした声が入室を許可した。ヒールは上質なカーペットにより、威圧的な音を吸い込まれ、物静かにクロリンデは歩く。数日前まで悲惨といえる状態であったというのに、いまでは書類を載せたカートがいくつかあるほか平時の執務室の様相を取り戻していた。
    「御苦労。早速だが本題に入らせてもらおう。まずはこの資料に目を通してくれ」
    「はい」
     執務机に向かったままのヌヴィレットから差し出された書類を受け取る。ヌヴィレットとの仕事は円滑に進めやすい。それは彼自身が聡明ということもあるが、言動が明瞭なのだ。何をどうしたい、その意図がはっきりと示され、それを円滑に進めるための意見を取り入れる柔軟さもある。クロリンデは同時に漆黒を纏う男を思い出したが、あれは含みが多すぎる。ヌヴィレットの欠片でもいい、その清廉さをあの男も得てくれたのならきっと評価はがらりと変わるだろう――そこまで考え内心で否定した。そんな慈悲深さを彼が持てば、現在のこの国の安定は儚くも崩れるだろう。そうした時、自身の仕事が増えることは目に見えている。墓穴を掘る趣味はないのだ。クロリンデはスケジュールと、水神の護衛業務に関する今後についてを読み込むとこくりと頷いた。
    「承知しました。これで特に問題はないでしょう。現状フォンテーヌには警護を必要とする貴人はいません。ヌヴィレット様がフリーナ様の代役を務めることとなりましたが、それに伴い過剰に我らが貴方の警護にあたれば不要な憶測や不安を呼ぶ可能性が高い。今までと変わらず、しかし他国から貴賓を招く際は警察隊と私で警護にあたらせていただきます」
    「うむ。そのような振舞いが必要と理解している。私のスケジュールはセドナより共有する。こちらから警護依頼を出すが、足りないところがあれば君からも進言して欲しい」
    「かしこまりました。フォンテーヌにおいて貴方を守るなど烏滸がましいことですが、面子というものがあります。その辺り、フリーナ様は振舞いをよくわかっておいででした。短い期間ではありましたが、彼女の傍らでその振舞いを見て参りましたので、気付きがあれば報告させていただきます」
     打ち合わせという名の通り、ものの数分で議題の擦り合わせは終了していた。水神が退位しこの国から神がいなくなったとはいえ、裁判も国政も元よりヌヴィレットに集中していたものが明確に彼の担当になり、エネルギー問題でさえ解決しているのだから大きな問題などないのだ。信仰心であったり、フォンテーヌ人の大好きな討論が最も厄介であるが、詰まる所やることには変わりはない。
     話は終わったといつもであればすぐクロリンデは退室したことだろう。ヌヴィレットとクロリンデはお茶を共にするような関係ではない。互いに付き合いはそれなりのものだが、だからと友好的にお茶に誘う選択肢を持ち合わせていない。今日もそうだろうと、ヌヴィレットは手元の書類に目を落としたがクロリンデは此処に来る前の一件について触れるべく一歩踏み出した。
    「ヌヴィレット様。別件となりますが、少しよろしいでしょうか?」
     改めて面を上げたヌヴィレットは、クロリンデの様子から業務外の話題なのだろうと察したのだろう。こくりと頷くと立ち上がり、「ひと息入れよう。そこに座っていたまえ」と告げて執務室を立ち去った。取り残されたクロリンデは気まずい思いを抱える。旅人たちに上司を評された相手であり、今後警護対象となる彼に茶の準備をさせてしまったのだから当然だ。せめてと座るよう言われたが立ったまま待っていると、すぐにヌヴィレットは戻ってきた。
    「そんなに畏まらなくともよい。君はリオセスリ殿の淹れる紅茶を飲みなれているだろうから物足りないだろうが、君の口に合うとよいのだが」
    「ありがとうございます」
     何故ここでリオセスリの名を出すのかと、これから己が口にするつもりの話題を予見されたように思う。しかしヌヴィレットとクロリンデにおいて、私的な話をするとなれば共通の話題は水の下――リオセスリかシグウィンのことだけだろう。そう思えば当然の選択かと思いながら、勧められた紅茶をひと口啜る。
    「……これ、此処で普段振舞われる茶葉と違いますね。ヌヴィレット様は紅茶に造詣がお有りで?」
    「ほう? 君は紅茶に詳しいようだ」
     普段の二人であれば交わされないような雑談だ。それでも紅茶と件の男を介することで、会話に澱みはない。どちらも無口で感情の起伏がちいさい方だが、決して内向的なわけではない。無駄を口にしないだけで、会話や友人らが和気藹々としているのを眺めるのを好む傾向にあった。内心意外に思いながらも互いに会話を重ねる。
    「いえ。ナヴィアがお茶を好むので、自然と覚えただけです。……ああ、これは公爵からの貰い物ですか?」
    「ああ。折角の茶葉だ。香りを楽しみたいと思い、最近はこの部屋で紅茶を口にするときは必ずこれを使うようにしている」
    「流石公爵だ。茶葉に関してはいい趣味をしていますね」
    「彼の影響で、私も己の舌が肥えたように思う」
     思わずクロリンデはくすりと喉を震わせた。彼女からすると、ヌヴィレットは随分ととっつきやすくなったように思う。以前の彼から感じる感情はフリーナに対する呆れであったり、デーツナンを始めとした己の苦手に対する嫌悪程度のものであった。審判の間だけでなくそれなのだから、感情が希薄ともいえるだろう。そんな彼が舌が肥えたなどといって薄く笑みを浮かべている。
     これは他国でも名を上げたあの不思議な、フォンテーヌの英雄でもある旅人が原因か。メリュジーヌであるキアラへの脅迫状事件が原因か。予言を覆したいまを理由とするか。それをクロリンデが判ずることはできない。しかしいまのヌヴィレットの方が好ましいと純粋に思った。
    「……実はこの件で少しばかりヌヴィレット様と話をしたいと思ったのです。こちらは読まれましたか?」
     空気も悪くないと思い、クロリンデは漸く話題を切り出す。差し出した新聞は、シャルロットから譲り受けたものだ。そのため端はよれて皺が目立ったが体裁は保っていた。ヌヴィレットはそれを受け取り、それが七国四海ポストと判ずると、何処か硬い声で応える。
    「毎日刊行されている新聞はすべて取り寄せ目を通しているので、勿論これについても把握している」
    「では、七国四海ポストが先日の洪水の日の直後にこれと同様の号外をばら撒いたことは?」
     僅かに目を見開き、ヌヴィレットは首を振った。予言の日の前後、フォンテーヌで彼以上に多忙だった者はいないだろう。それをリオセスリが支え、現場をナヴィアらが中心となって対応したことをクロリンデは知っているが、それでも当時流石のヌヴィレットであろうと倒れてしまうのではないかと心配したものだ。そんな彼が、たかがゴシップ誌のばら撒いた号外などを知るはずもないと、クロリンデは呆れとも嘆きとも取れない――敢えて言うなれば疲れたと言わんばかりの溜息をひとつ吐く。
    「そうでしょうね。私も支援にフォンテーヌ廷を駆け回っていなければ知ることはなかったでしょう。その号外を真剣に読む者などほとんどいませんでしたし、市民はこれ幸いとそれを燃やして炊き出しをしていたほどです」
     クロリンデは己の目で見たものか、己が信じると決めた者の言以外を信じるつもりはない。故に情報収集の一環としてスチームバード新聞を読み、街角の討論を聞く程度であるが、それらから世論にこのゴシップのような陰謀説が流布しているようには感じられなかった。しかしそれは大多数、世間一般的な話でしかない。
     決闘代理人のように、暴力と近い行為を職としていれば少数の言を耳にする機会は多い。だからクロリンデは重々しく口を開いた。
    「しかし、ほとんどなのです。一部の持つ不信感が時には恐ろしい力を持つことをヌヴィレット様であればご存知でしょう。彼はいつも通り静観の姿勢を選びましたが、いまはフリーナ様が退位し環境が少なからず変わろうとしています。彼は寧ろ静観以外の姿勢の取りようがなく、万が一があろうと自身に火の粉が掛かるだけならきっと気にも留めない。けれど私も鬼じゃない。身近な人に危害が及ぶ可能性を知りながら放っておけるほど無情でもありません」
     クロリンデは己の懸念を口にした。それはやさしささえ感じられるものであり、ヌヴィレットは一度思案するように瞼を閉ざし、こくりと頷いた。
    「……承知した。陰謀論者は時として凶行に走ることがあり、実際にこのフォンテーヌでも数多の罪人が己の妄想に取り憑かれ、水の下へと送られてきた。此度のリオセスリ殿のゴシップの件、号外まであったとなれば執拗であると言えるだろう。マレショーセ・ファントムで調査を、そして私から一度リオセスリ殿と話をしよう。彼もいい加減、水の上に引き上げる必要があるかもしれない」
     頼もしい言葉だ。ヌヴィレットがそう言うならば、彼なら有言実行することは確かであり心配も不要だ。クロリンデはくすりと喉を震わせると、紅茶を飲み干して立ち上がる。
    「いい機会でしょう。それが適えばこのようなゴシップに私たちがやきもきする必要もなくなります」
     リオセスリとしてはいい迷惑だろう。しかしいつも彼にはいいように使われている。契約の範囲内の助けのみを心掛けているが、毎度上手いこと誘導されてしまうのだ。そしてそれが決してこちらに不利に働くことはなく、それどころか意味のあるものでそれが悔しい。
    そんなリオセスリに対し快不快を感じるのは人それぞれだが、だからこそ経験の浅いナヴィアには忠告したのだ。若くしてこのような老獪な男とやり合うべきではない。彼女が棘薔薇の会の会長を務める以上、いつかは関わる必要が出るだろうがいまはそのときではない。閑話休題。ともかく、リオセスリに意趣返しができたように思い、クロリンデはルージュを引いた唇に弧を描いた。
    「ああ、そうです。先日のスチームバードに掲載されたヌヴィレット様の独占記事、とても好評ですよ。彼の場合、メロピデ要塞のイメージもあるのであのようなインタビューは無理でしょうが、彼は元囚人に影響力があるはず。社会復帰に伴う援助活動にこれを機に貢献してくれたらいいですね」
    「うむ……彼にはこちらでの雑事で煩わせたくはないのだが……」
     珍しく歯切れの悪いヌヴィレットに目を瞬かせたが深くは追及をしなかった。クロリンデにとってヌヴィレットは上司で、リオセスリはたまに利害が一致し共闘する程度の関係が最も心地好いのだ。いまの自分に憂いはない。己が職務で関わりを得たに過ぎない二人だが、癖の強いこの二人にもささやかながらに幸福があればいいと思う。
     己にとってナヴィアという友人のように、友人という友人がいないであろう彼らにも、友人があればいいとお節介ながらにクロリンデは己の珍しい思考に気分は悪くなかった。





    第三幕 ― The past as seen by the head nurse. ―


     思えば彼の少年は不思議な色をしていた。まるで幻影のように揺らいでいるのに輪郭はちっとも朧げではない。まるで赤黒い靄、深海を膜にして己を包んでいるかのようで、ひと目でその紅玉は彼に惹かれてしまった。
    「キミのお名前はなんていうのかしら?」
     枝のような手足、塞がったばかりの傷跡は赤く全身に蛇のように這っていた。その中でも目立つのは、獣の爪痕のような首から胸にかけた三本傷。シグウィンはその傷が少年の生命を蝕むことがないよう、慎重に少年に触れる。
     シグウィンにとってこどもは未知の存在であった。ずっと人間に興味を持ち、愛し、知ろうとしてきた。しかしシグウィンはメリュジーヌだ。だから知ろうとしなければ人間を理解できない。故に長いこと水の下に生きるシグウィンにとって、こどもという存在は未知だ。メロピデ要塞にこどもが収監されることは稀であり、その稀でさえ短期間のことだ。数年もの刑期を課されたこどもの囚人など、シグウィンは知らない。それほどの罪を犯したこどもは、悲しくも壊れてしまい裁判に掛けられることもなかった。こころも、身体も無惨に壊れた。こどもはそれほどに純粋で脆い生き物だ。そうシグウィンは理解していた。だからこそ、シグウィンにとって目の前にいる少年が、このメロピデ要塞の看護師長となって初めて観察するこどもであった。
    「リオセスリ」
     ぶっきらぼうに少年は答える。しかしそれはシグウィンを推し量るために、わざとかわいげのない振舞いをしているのだとわかる。おとなも初めてメリュジーヌでありながらヒトを模したシグウィンを見れば、こういう反応をするのだ。だから彼女はにっこりと笑顔を浮かべた。
    「リオセスリね。ウチはシグウィンよ。このメロピデ要塞で看護師長をしているの。キミの傷は塞がったとはいえ、表面的なものよ。無理したらまた開いちゃうかもしれないわ。白くなっていないから多分化膿の心配もないと思うけど、念のため毎日お昼に医務室に来てね」
     傷の保護のためと真っ白で清潔な包帯を頸に巻き付ける。それは苦しくないように、けれどずれて傷跡が見えてしまわないように丁寧で優しい手付きだった。その間も笑顔を浮かべたまま、目があえば怖くないと目で語り掛け。すると徐々に力が抜けていき、ぎこちなくもリオセスリの口角が上げられる。
    「……ありがとう、シグウィン看護師長」
     それがシグウィンとリオセスリの出会いであった。


     ぱたぱたと軽い足音が響く。鉄に四方を囲まれた空間に響く足音と思うと、些か間抜けでさえあった。それに気付いたようにゆるりと振り返る背に、シグウィンはにっこりと笑みを深める。
    「公爵! ただいま!」
    「おかえり、看護師長。水の上は楽しめたかい?」
    「ええ! お友達にたくさん会えたし、みんなもアレをきっかけにフォンテーヌ各地にお友達が増えたらしいわ。いまでこそ不幸中の幸いといえるのだけど、それでもいいことがあったなら喜ばなくっちゃ!」
    「ははっ、いいね。看護師長のその考え方、俺も見習わなきゃな」
     リオセスリはしゃがむことはしなかったが、その目に柔らかな光を浮かべている。身長が大きく異なるも見下ろされる圧迫感のないその目に、シグウィンは目を細めた。
    「そうよ。でも公爵ってば、アレ以来水の上に行っていないでしょう? つまりお休みを取ってないってことだわ。働き過ぎは駄目よ」
     シグウィンと話しながらも、リオセスリは合間に周囲へと視線を走らせていた。ベルトコンベアの不具合、各種設備の劣化状況、その報告内容の確認。それらは以前から抱えているメロピデ要塞の問題であり、昨今は予言対策にリソースを割かれ後回しにされていたものだ。それを乗り越えた今、早急に対応しなくてはならない問題である。だが洪水の爪痕は未だ残されており、メロピデ要塞でいえばウィンガレット号に関する利権問題等の対応のほか、水の上より審判が開始したことによりぞくぞくと送り込まれる囚人の対応と仕事は山積みだ。休む時間がないのはわかるが、それでもシグウィンに休暇を進めたのはリオセスリである。この要塞の看護師長として見過ごせなかった。
    「そんなことないさ。ただ水の上に行っていないだけで、ちゃんと休んでる。先日だって久々に鉄拳闘技場に立っただろ? 気分転換なら充分できているさ」
     肩を竦めるリオセスリは何処か呆れさえ滲ませている。いい歳をした男相手に余計な気遣いと言わんばかりのその仕草に、ぷくりとシグウィンはこどものような仕種で頬を膨らませた。
    「もう! ウチの話聞いてた? ヒトは日光を浴びないと骨とかいろんなところが弱くなっちゃうのよ?」
    「そうは言うが看護師長。俺なんかガキの頃から此処にいるが、ちょっとやそっとじゃ折れない太い骨をしてることをあんたが一番知ってるだろう? 俺は此処で生きるのに適した身体をしてるんだろうさ」
     ほらと力こぶを作ってアピールするリオセスリの、わざとらしく跳ね上げられた眉尻に思わずシグウィンは手が出た。パンッといい音が響き、流石のリオセスリも肩が跳ね上がる。
    「痛ッ! おいおい看護師長が患者を作る気か?」
    「そんなに鍛えてるんなら大丈夫でしょ?」
    「とはいうが、あんたも神の目持ってんだし、面より点でこられる方が痛いんだぜ? 看護師長のちいさな手で本気で叩かれたらかなり痛い」
    「あら、いい音が鳴って気に入ったのに。張りのあるいいお尻ね」
     リオセスリは思い切り叩かれた尻を撫で擦る。本当に痛かったのだろう、眉間に皺が寄っている様に、シグウィンの溜飲も下がった。
    「仕方ないわね。……まあ、まだ問題は山積みだもの。公爵の体調管理はウチが徹底してあげるから安心して。まずは、お土産のクッキーに合わせてミルクセーキを作ってきてあげるからお茶にしましょ!」
    「……看護師長。実はあんたが戻ってくる少し前にアフタヌーンティーをしたんだ。俺もそろそろ歳だし、甘いものは控えないとな?」
    「それなら紅茶のお砂糖を控えればいいわよ。だって、もう(・・)公爵は紅茶に砂糖はいらないでしょ?」
    ――まただ。シグウィンの目には深海の膜が色濃く映った。リオセスリの色は、此処に来たころと変わらず不思議な色をしていた。しかしその色は年々濃くなり、ふとした瞬間彼を飲み込もうとする。
    「公爵?」
     瞬間、目の光を失ったように見えた彼を呼ぶ。するとハッとしたように瞬きをしたリオセスリは、苦く笑った。
    「もう今更甘くないお茶なんて味気なく感じる。……ああ、甘くない紅茶なんて水のように飲めてしまうから眠気覚ましに丁度いい。看護師長の折角の助言だ。今度からは夜は砂糖抜きにしてみようか」
    「……それじゃあ、お腹ちゃぷちゃぷになっちゃうしカフェイン中毒になっちゃうわよ」
     リオセスリはあからさまに話を逸らした。それにシグウィンは気付いたが、そこに食い下がることはしない。その温情に預かるかのようにククッと悪く笑うリオセスリに、シグウィンは溜息を吐く。
    「でもお茶には付き合ってもらうわよ! 甘さ控えめの身体にいいミルクセーキ用意するわ」
    「勘弁してくれ……」
     がっくりと肩を落とし、仕事からも完全に意識の逸れたリオセスリにシグウィンはとびきりの笑顔を浮かべた。

     シグウィンは手紙を書くことが好きだ。人間は同族であっても――否、同族こそ信頼できずに疑う。コミュニケーションを取り、信頼は勝ち得なければならない。そのためにシグウィンはあらゆる手段を講じた。その中でも笑顔と無垢さは、シグウィンの見た目も相俟って何よりも武器になった。
     初めて彼女を見たヒトは、まるでヒトのようなシグウィンに奇異の目を向ける。メリュジーヌが幾らこのフォンテーヌに溶け込み、彼らの隣人となろうと、ヌヴィレットの庇護にあろうとそれは変わらない。ヒトは脆い。短命で、メリュジーヌらからすればいつまでも年端もいかないといえる幼子だ。そんな彼らは根っからの善良で、無知故に何もないのに暗闇を恐れるようにあらゆるものを怖がる。故に正しく導ければヒトは輝かしい未来を描けるし、道を踏み外させれば地の底まで簡単に転げ落ちてしまうのだ。
     ヒトは言葉でしか相手を理解する術を持たない。メリュジーヌのように色を見られなければ、ヌヴィレットのように水に溶けた感情を読み取ることもできない。だからシグウィンは言葉を尽くすのだ。そして色で、水で、言葉以外のあらゆるもので他を読み取れるからと、そこで怠惰になってもならないことをヒトから学んだ。まるで子が親から、親が子から学ぶようなものである。故に今日もシグウィンはペンを持つ。
    「そうね……昨日はヌヴィレットさんに会えなかったし、お手紙はヌヴィレットさんに送りましょ!」
     ちいさな手に握ったのは、リオセスリが公爵になり始めて水の上に行ったその日にプレゼントしてくれたこども用の万年筆だ。ちいさく、かわいいピンク色のそれはシグウィンの手にもぴったりで、定期的にメンテナンスをしながら使っている愛用の品であり、いままでの礼だと、照れ臭そうにプレゼントを手渡された日はうれしさのあまりたくさんの友達に手紙を書いてしまったほど。そのうちの一通は勿論ヌヴィレット宛であった。
     ヌヴィレットには水色の便箋を用意する。ルエトワールやノンビリラッコといったかわいらしい海洋生物に、ハートやリボンといったシールを用意する。無垢で愛らしい少女のようにデコレーションした便箋に、漸くペン先を走らせた。
     ヌヴィレットの体調を心配する言葉から始まり、昨日の街の様子、メリュジーヌの話に続いて要塞の話。メロピデ要塞は自治を許されている。故に内部での出来事を詳らかにはできないが、シグウィンとリオセスリの仲だ。何処までなら語っていいかを確認せずとも弁えているため、シグウィンの手紙は検閲されない。だからこそ、シグウィンはそれを書くことにした。
    ――これは、フォンテーヌに生きる者の話だ。
     フォンテーヌでは紅茶が主流の飲み物だが、元は上流階級の者が愛飲する飲み物であった。貧民、ましてやサーンドル河に住まう者は憧れることしか許されなかったその飲み物も、負の遺産ばかり残したように思われたフォンテーヌ科学院の恩恵もあって、紅茶製造も盛んになり貧民も手を出せるようになった。――とはいえ、紅茶は水より高価だ。本当の貧民は明日を生きる野菜くずのスープと固いパンが先決で、紅茶に手を出すことはできなかった。
     だが紅茶には多分にカフェインが含まれている。そして紅茶には砂糖があう。カロリーとカフェインの同時接種が適う飲料は、活動意欲を生み出すものでもあった。生きるために人々は、食事よりも手軽にカロリーとカフェインを摂取できる紅茶を好むようになったのだ。
     シグウィンはその事実をとある少年から知った。少年は食事どころが水さえ買わねばならないそこで手に入れた特別許可券で、食事ではなくまず水と砂糖、幾つかのティーバックを手に入れた。水はもちろん大事だが、食事はどうしたのだとシグウィンは問う。食べなきゃ大きくなれないわよと言いながら、薬と称してミルクセーキを押し付けた。
    すると少年は言う。食事は奪われる。特別許可券はただの労働では食事代を稼ぐのも難しい。それならば稼ぐ方法はただひとつ。そのために元手は必要だ。しかしカロリーを取れないと体は動かず、頭も冴えない。それならば最低限の食事のほかは紅茶を飲めばよい。水は奪われる可能性はあるが、茶葉を楽しむヤツなんてこの水の下にいなければ、ただの砂糖を舐めて楽しむ酔狂もいない。
     シグウィンは唖然としたものだ。シグウィンの知る囚人はただ生きるためだけに生き、働き、食べ、そうして目を濁らせた者たちか、あらゆる力ですべてを手に入れる者、それの取り巻きになる者の三者しか知らなかった。だからこんなにも静かで燃え滾る熱を湛え、理路整然とこれからを語る者など見たことがなかったのだ。
    だからシグウィンは聞いた。何故紅茶にそうした飲み方があることを知っているのかと問うた。すると事もなげに少年は言った。「雨風凌げるだけの場所で寝ている連中なら誰でも知っているさ」と。
     その少年は大人になっても紅茶に砂糖二つを欠かさない。その味を忘れてはならないと、己に言い聞かせるように――。
    「……封筒にはそうねえ、公爵のステッカーにしましょ!」
     ペタリと封筒に鮫の姿を模したデフォルメをされたリオセスリのステッカーを貼り付けると、ぴょんと椅子から飛び降りる。そして郵便室のルッツの元に向かう。その際、特別許可券は忘れずに。このメロピデ要塞の職員であろうと、此処では特別許可券が絶対でありそれは例え公爵であろうと同じであった。



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    そらの

    DOODLEIF設定の種運命時のイザキラに到るはずのお話。
    ・捏造設定多数あり・シホについてはほぼ捏造・公式男女CPは基本的に準拠・ヤキン後イザキラ顔合わせ→終戦条約締結までアスラクキラがプラントにいた設定・イザが議長に疑念を抱くことからラク暗殺がおこなわれずに話が展開する。完結してない。できるかもわからない。
    軍人になれなかった男(仮題)(イザキラ)序章


     痛い! 痛い! 痛い! そう叫ぶ己の声を忘れない。焼け付くような痛みを忘れない。己の血が玉となって無重力に舞うのを忘れない。何一つ忘れはしない。
     アカデミーで切磋琢磨した友人がいた。その友人らと将来を有望視され、クルーゼ隊の一員になった。戦場を知らないこどもであった己は、この友人らと終戦を迎えるのだろうと思っていた。友人らの中でも、己と憎らしいことだがアスラン・ザラは白服を纏うことになる。そうして国防の担い手となるのだと思い込んでいた。しかしそんな空想など、戦場に出るなりすぐに打ち砕かれてしまった。ラスティ、ミゲル、そしてニコル。どうして彼らは死なねばならなかったのだろう。彼らも国を守りたいという志を持った志願兵だ。ニコル・アマルフィなど己より二つ下の一五歳でピアニストとしての才能を有した、やさしい少年であった。争いを好まず、反りの合わないアスランと己との些細な衝突でも、いつも仲裁に入るような少年だった。なんで。何故だと目の前が真っ赤になった。込み上げ溢れ出す涙の熱さで頬が焼けるかとさえ思った。けれどそれが零れ落ちてしまえば、残るのは冷たさだけでそれは憎しみによく似ていた。
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