夏油傑の動向書プロローグ
無機質でミニマリストの家主を思わせる部屋に、スマホのバイブレーションが響いた。黒髪の学ランを着た青年、否少年と呼ぶべきであろう男は、黒目だけを動かしてその画面を見る。《伊地知》と表示されたAndroidを手に取った少年は、未成年だとは悟らせないイントネーションで応答をした。
「もしもし、伏黒ですが…」
ぼそぼそと、口の動きだけでは何を言っているかが読み取り辛い。頬の筋肉が強張っているのであろう。するとあるとき、彼の表情に黒目全体が見える瞬間があった。眠たげに半分開かれていない目ではなく、動物が何かを警戒するときの、あの、目。
そのまま話は続けられていくが、言葉ひとつひとつに間が空いている。窓の外から響く電車の音以外何一つとして物音のないこの部屋で、彼の息遣いだけが感じられた。彼の神経がよく張り巡らされたこの部屋で、彼に勝れるのは、五条悟ただ一人であろう。
無表情という鉄仮面を被った彼は、最後に大きく息を吐いた。
「では承りました。報酬の件は後にメールで。」
彼は電話を切られた途端、勢いよくスマホをソファにぶん投げた。白くてなにも飾られていないソファにそのまま彼も身を投げると、うつ伏せになって足を直下させる。ガタ、ガタ、とメトロノームのように一定な旋律を奏でる攻撃は、クレッシェンドがつけられた。
「…そういえば、監視って誰のだよ」
交差点の音が響く部屋の中、一人の少年は大きく項垂れた。
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__トントン、この学校ではもの珍しい傷痕ひとつとしてないドアを叩く。何度叩いたか記憶には覚えがないが、それもしょうがないであろう。この世に自身があるのは2度目なんだから。どういうことだと尋ねられても答え辛い。ただ単に、死んだと思って気づいたら幼い津美紀がとなりにいた。それだけ。
「入っていいぞ」
「…失礼します」
趣深い和室に佇むおっさんとぬいぐるみ。絵面だけではそこに甥や姪がいてほしいものでもある。まあそこには実際、男子高校生(仮)が隣にいるわけで緩和はされない。むしろ情報量が増えるだけである。
むぐー、むぐー、とうさぎの頬を引っ張る学長は、「このうさぎかわいいか?」と聞いてきた。知るか。一体何のようで呼んだんだよ。
「…かわいいんじゃないですか」
「そうか」
畳の上でちょこんと座らされたうさぎがこちらを向いた。殴りに入ってこないよう片目で注意を向けながら、彼のほうへと体を向ける。
「ところで本題に入るんだがな、今回は依頼した監視についてだ」
詳細があやうやだったよな、とワハハと彼は言ってみせるが顔は笑っていない。ここの教師たちはサングラスで表情は隠せると思っているのだろうか。ま、別に俺に関係はないけど。
「で、監視する対象とは?」
「夏油傑だ」
「はあ。詳細は?」
「この紙に書いてある」
対:夏油傑という表紙のB3サイズのプリントが投げられる。適当にめくってみれば、対象人物の顔はどこかで見覚えがあった気がした。喉の奥に記憶がつっかえて、脳で靄がかかってしまう。
「…この人、俺と面識あります?」
「んー、まあないとも言い切れんな」
学長は歯切れ悪そうに笑うと、そのまま手首をくるりと回した。黄色い照明が表情の皺を際立たせ、何とも居心地悪そうな依頼になりそうだと第六感が告げている。逃げていいかな。そっと正座を崩して足を引こうとすると、うさぎが足へと飛んできた。ぎっしりとその愛らしい見た目に反して、餅のような粘着力をもつうさぎ。早く月に帰れよ、今日は望月だぞ馬鹿うさぎめ。
「なあ、伏黒恵よ。受けてくれるな?」
「…はい」
「あと高専から転校してもらうから手続きよろしく〜」
「は?」
「詳しいことは資料三ページに載ってるぞ」
いやそんな軽いノリでいうなよ。常に無表情と言われる俺でもこの学校にそれなりの愛着はある。
「まあ、そんな心配するな。虎杖たちがいなくても、友達はがんばればできる。大切なのは笑顔だぞ?笑顔」
「そういうことじゃありません」
おっさんの言うことは無視して資料を開いてみるが、小さな文字がありすぎて頭が痛くなってきた。虎杖が読めないタイプのプリントだな。禁止要項を適当に目を通してみると、どうやら対象は元呪詛師らしい。前世に呪術史で習ったのか?なんて考えたけれど思い出せなかった。
「対象が危険行動を取り出した場合はきちんと捕縛するんだぞ」
「え?そんな恐れがあるんですか?」
「一応伝えておくが、夏油傑は《百鬼夜行》の首謀者だ」
「監視の情報の一環として扱うように」と一言残すと、学長はそのまま襖を開けて出ていこうとする。
「特級の監視、?」
思い出したと同時に息が止まった。
動脈を通る酸素が減って脳がうまく回らなくなる。気のせいだと思いたい。
生まれ変われたのか、そんな凶悪犯も。過去に百人殺し、そのうちには両親も手にかけたというやつが。
風が吹きつくたびに掛け軸が、強く壁に打ちつけられる。『正』と大きく書かれた字から信念が襲ってきた気がした。
ああ、これだから受けたくなかったんだ。
「大丈夫だ、伏黒。あいつは思想が傾いてるだけなんだ」
静を謳う和室の中、俺の心臓だけが異物と化していく。
夏油傑の動向書
20XX年12月4日(月)
指紋がたくさん残っているすりガラスに、霜が張り付いている。風に吹かれる雪が散々と舞うが、どうやら今日はつもらないらしい。高専にいたときは、虎杖が一人で二メートル近い雪だるまを作っていたことを思い出す。野薔薇は「ばっかじゃねえの」って呟いた5秒後には雪合戦に参戦していた。ちなみにその第五次雪合戦は、真希さんと虎杖チームの圧勝で幕を閉じた。食物連鎖の頂点に位置する身体能力の奴等を、なぜ同じペアへと組み合わせたのか。それは積分よりも難しいので、考えるのは諦めた。
「あっつ」
そんな斜め上の空想は、俺の椅子の裏に位置するヒーターが熱すぎるせいでどこかへ飛んでいく。
実際の目の前はというと、新しく俺の担任となる先生が夜蛾学長へと相槌を返していた。俺はといえば指先の指紋を合わせたり、離したり、ハラハラと降る雪の向こうを見つめていたりした。するとどうやら話を終えたらしい担任が、すっくりと立ち上がって腰を丁寧に折りたたむ。前世の担任兼後見人であった五条悟とはまったく違う方向線の人だ。銀の細い淵メガネをかけた彼は学長が去った後、ゆっくりとこちらを振り向いて目を合わせた。
「伏黒くんよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
微笑んだときの目尻に寄った皺が綺麗で、所作の礼儀がしっかりした人である。小説を捲る動作が似合いそうだ。
そのまま廊下へと共に出て、先生はつきあたりの教室の扉へ手をかける。あわてふためきながら席へと着くたくさんの生徒の姿が、扉の窓から隙間見えた。するとだんだん脳の奥がスゥーっと冷えて、目が冴えてくる。え?今から自己紹介とかするのだろうか。隣の先生を見ても微笑んでくるだけで、何の情報も返ってこなかった。
「じゃあ私が手招きをしたら入ってきてくださいね。」
「い、いやあのちょ」
ばたりと閉ざされてしまった教室のドア。隣を向いても、そこには人のいない廊下しか視界に入らない。風でガタガタと揺れる窓の音だけが脳に伝わる。ま、大丈夫だろ。メインは夏油傑の監視。そして相手は今はただの高校生、資料によると呪力もないはずだ。こっちは人生二回目なんだからと眉間を押すと、担任がこちらへと手を振った。ドアノブへと手をかけると、ぞろりと沢山の目が窓越しに見つめてくる。こそこそと聞こえるソプラノの声に、「女じゃねえのか」と残念がるテノールの声。生徒たちの声を伴奏にしながら、先生の声が左耳を通って右耳から出て行った。
そしてなんとなく生徒の席を見た途端、変な髪色が見えた。それも資料で見たターゲットの顔の前に。白銀頭のあいつが。
「あ、あぁ!??」
すると、夏油傑のほうへと振り向いていた彼がこちらを振り向く。ツンと尖った鼻先に陶器のように白い肌、特徴的なアクアマリンの瞳はそのままで、目隠しの代わりに黒いサングラスがかけられていた。そしてなぜか体のサイズもちっさくなってるし、どこか青い感じが否めなくなっている。
「あ、恵じゃん。どーした?」
「どーしたもこーしたもねえよ!それはこっちのセリフだ!」
「えどうしたって、息して人間生活してるだけだけど?」
「立派な大人なのに小学生みたいなこと言うな!」
「何言ってんの〜恵くん♡俺はいま、正真正銘17歳の五条悟くんだよ?」
アーモンドアイを丸く潤わせた先生がこちらを見つめてくる。いや違う今は先生ではない、生徒か。え?なんなんだ?何でここにいるんだ?ていうか生きてたのか?目の前にある状況の惨状が酷すぎて、俺の脳処理能力では追いついていけない。絶賛エラー中だ。
今さっきまで強く窓に吹きつけていた風が止んで、ピチチと雀が鳴いている。日光が彼の髪の毛を銀色に透かしていて、相変わらずこの人は綺麗なんだなと、ふと思った。
ずっと周りの視線がビシビシと刺さってくるが、もう意識は五条悟にしか向かなくなってくる。なんだ?五条先生は夏油の過去を知らないのか?チョークを取って黒板に自分の名前を書いていくが、これから自分が歩むべき方向が見つからない。
「…えっと、この字で“ふしぐろ めぐみ”と読みます。これからよろしくお願いします。」
様式美で礼をすれば、パチパチと拍手が返ってきた。その中には五条先生、しかも夏油傑のものまで混ざっている。ターゲットは記憶はないとはいえ、根本的な性格は変わっていないはずなため、クラスで騒がしいほうに位置に存在すると思っていた。だがそんなこともないらしい、空気に馴染みきっている。
黒く長い髪はお団子にされており耳には大きいピアス、そして上に吊り上げられた細い目。決して初見では優しいとは程遠い印象を与えるはずなのに、なぜか人が良さそうに見えてしまう。
「では伏黒くんはあそこの席へ。」
「はい。」
アディダスのリュックやディズニーのクマがぶらさげられたスクールバックが陳列している隙間を避けて通っていくと、ようやく自身の席へと着けた。視界がよく開いたこの席はターゲットの頭がよく見える。その席の前の五条先生はといえば、ずっと後ろばかり振り向いてホームルームなど蚊帳の外だった。くるりくるりと指でターゲットの前髪で遊んでいるときの彼の笑顔はとっても無邪気で、初めて見た表情だったかもしれない。いつも前世ではふざけたことをする人だったけど、俺たち生徒には慈愛の目で見つめる人だった。
そんな人が今世では気の許せる友人ができるなんて…いや、でも、もしかしたら。そういう夏油の魂胆だったとしたら、俺は食い止めなければならない。なんとしてでもだ、絶対に。
窓の奥を見つめれば、高専とは違って灰色のビルが立ち並ぶ景色が見える。古びて温かみのある木造ではなく、コンクリートで固められたこの教室で、俺は深く息を吸った。
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ピー、ピーッ。
高く積み上げられた校舎に隠れた狭いグラウンド。太陽は見えない、だが空に雲も浮かんでいない。こんな人工的な環境下の屋外でやる体育は初めてである。
日陰に沈んだこの空間で生徒に紛れて一緒に走る。独特な掛け声を出してグラウンドを走るのは、どうやら私立も同じらしい。乾燥した空気をつきぬける男の掛け声が、校舎の壁ではねかえった。
「全体、止まれー!」
掛け声につられて、足並はズレたまま生徒たちが止まりだす。眉が細く、髪を一つにしばった女性の先生が、号令をかけた。
「やすめ、気をつけ、礼!」
「よろしくお願いしまーす」
自身の視界の端のほうでは、確か席が前だった男がサッカーボールのたくさん入ったカゴを運んでいる。顔を後ろに向けた女の先生が、ありがとうと片手を上げて伝えていた。
「それではですね、今回はお分かりの通りサッカーをしていこうと思います。では最初はパス練習からしていくので、ペアになって下さいー」
右側を向くと、案の定五条先生が夏油のほうを振り向こうとしている。それもそうだろう、五条先生は夏油が何をしたのか知らないのだから。だが、これで先生と夏油の仲が深まったら?
…想像したくない。最低と最悪のツーコンボなど止めるが吉である。
五条先生の元へと走っていくと、夏油と目が合った。何を目論んでるのかは知らないが、先生だけはやめとけ。最強だとしても性格が最低だし…それにちょっとだけ、少しだけだがこの人を利用されるのは嫌だと思う。
先生は自己中心的な性格に隠れて分かりづらいが、優しいのだ。そのやわらかい部分を利用するのは難しい。だがなぜか、夏油にはイヤな予感がする。これは直感でしかないので、違った場合は予防ということで見逃して欲しいものだが。
「めずらしいじゃん。恵、どーしたの」
「俺と組んで下さい…ともだちいないんで」
「えー、なにそれ。どーしよっかなぁ〜!ねー、すぐるぅ…あれ」
先生の目線を追うと、夏油はもう他の人とサッカーコートへと歩いて行っていた。
「なんなんだよあいつ!!!!いいや、傑なんかぶっ倒すぞ恵!」
「いや今からパス練だから戦わないでしょ…」
「すぐるー見とけよ!!!お前らに絶対勝つからな!!!」
頬と鼻を火照らせて先生が叫ぶ。白い吐息が空気上にぼんやりと広がった。こちらを不思議そうな表情で見つめた夏油は、一度瞬きをして、半目を剥いた。そしてなぜかその変顔を、五条先生は柔らかい眼差しで見る。彼は「恵行こうぜ」と中指を彼に向けると、陽気に歩いていった。先生から聞こえる鼻歌が、アップテンポになっていく。
「はやくボール取りに行きましょ。」
「そうだな。」
先生は目だけ夏油のほうへと動かすと、何もなかったようにと正面を歩いてゆく。彼の青い瞳が輝いていた。
すると彼はサッカーボールを手にすると、ドリブルをしながらこちらへとパスしてくる。
「定位置に着いてからパスして下さいよ」
「えー別にいいじゃん」
「…高校生のときこんな感じだったんですね」
「えっ俺なんか違う!?」
「一人称からちがいます」
「ほんとに?」とヘラヘラしてくる先生がなんかうざったくて、ボールを強く蹴った。夏油がどんなやつだったか知らないくせに、呑気に声かけるなよ。俺がどんな気持ちで心配しているか知らないくせに。
「…てゆうか、なんで高専通ってないんですか。呪力ないんですか?」
「俺にないと思ってんの?最強の悟くんだよ?」
「ウザ。じゃあなんでこの学校にいるんですか」
「えー」とリズム良くボールを蹴った彼は、そのまま空を見上げる。
「…俺も高校生活楽しみたかったからかな♡」
「そすか」
先生は耳を触りながら「え!?そんな呆れた目で見ないで!?ちゃんと呪術師のバイトしてるから!!」と騒いでいた。すると生徒のパス練習を見回っていた女教師から、「五条静かに!」と叫ばれる。となりの男子生徒が「西田センセが怒った」と呟いた。
「バイトの呪術師が最強ってどこのコメディですか」
「払ったれ本舗とかいう芸人のコントだよ」
「聞いたことないです」と俺が言うと、「俺はある」と五条先生が歯を見せて笑った。
「…俺のほうが似合ってますね」
「え?どーゆーこと?」
「"僕"が似合ってないってことです」
「俺もそう思う」
にかりと歯を見せて笑った五条先生の顔が、ふんわりと光に照らされた気がした。太陽はビルに隠されているはずなのに。
俺が蹴ったサッカーボールが、だれもいないところへと転がっていく。
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目の前に置かれた大きなスケッチブックにカッター。それにB3の鉛筆が5本置かれている。体育の授業とは違い、静寂に包まれたこの美術室は中学以来であった。デッサンのために置かれた古代ローマ人のような顔のオブジェ。とおった鼻筋に石膏の白い肌が先生みたいだと思う。
選択授業であるらしいこの芸術という分野では俺の決定権などなく、美術に振り分けられていた。というか選択授業は全部ターゲットと同じだけれど。
ガガガガと歪な音を立てるヒーターからピーピーとランプが鳴る。それに気づいた初老ぐらいの男の先生が立ち、ガチャガチャと灯油が入っていたのだろう箱を取り出す。こちらを一周見渡すと、そのまま教室から出て行ってしまった。一瞬にして緩まった空気の中、生徒たちがカタカタと喋りだす。
「え、この部屋寒くない?」「確かに。てか帰りタピオカ飲もうぜ」「え、私カラオケ行きたい」
だれかのスケッチブックを覗き込んで、放課後どう過ごすかについて議論する女生徒たち。目の前のポニーテールの女の子が仲間に入りたいのか、そちらをチラチラと見ていた。
指先をカイロで温めながら、モデルである林檎と洋梨の輪郭を描いていく。昔からシャー、シャー、と鉛筆の芯がスケッチブックで擦れる音が好きだった。キャハキャハと楽しそうな笑い声の上に連なる鉛筆の音、学生でしか味わえない音楽がコンツェルトを奏でていく。となりを見れば、大きな手で細い鉛筆を容易に動かしていく夏油傑がいた。
「伏黒くん?だっけ。この学校に馴染めそうかい?」
「…え?あ、はい、割と」
「そっか、それは良かった」
いきなり話しかけられて、紙の端を折り曲げてしまった。糸のように目を細めて、人好きのする笑みを浮かべる夏油傑。小学生のときに聞いた、「本当に怖い人は優しい顔をして近付いてくるんですよ」という言葉を思い出す。まあやさしいひとも優しい顔をしているのだから、人ってみんな優しい顔をしているのかもしれないけれど。
すこし警戒を強めて彼の動きを横目で見ていると、彼の描いた絵が自然と目に入る。だが、そこには食べ物がどうかすら危うい何かがあった。…呪いか何かだろうか。
「下手…すぎ、なのか?」と呟いていたつもりが、「ん?あー、私、芸術系の類は苦手なんだよね」と返事がかえってきた。どうやら聞こえていたらしい。
「…なるほど」
「笑ってくれてもいいんだよ。悟なんか私が絵を描こうとした途端、すぐに笑いものにしだすからね」
「そうなんですか、相変わらずですね」と俺が返すと、彼は細い目を丸める。鉛筆を音が立たないよう置いて、こちらを向いた。
「なんで同級生なのに伏黒くんは敬語を使うんだい?」
「それは…なんとなく、です」
「まあ好みの問題だよね」
「はあ」と返すと、周囲の生徒たちがこちらへと寄ってきだした。ガヤガヤと周りを囲ってきだし、夏油はそのまま離れていってしまう。
「えー、なに夏油とばっか喋ってんの。ずるいぞ夏油〜」
「なあ、伏黒くんってどこからきたんだ?」
「え、あ…北の方の東京。」
「え?まじ?俺行ったことない」「私もない〜」と周りに人の柵ができた。目を逸らそうとすれば、こちらを微笑んで見つめる夏油傑と目が合う。なぜそんなふうに親しみやすくするのだ、監視の妨害か?
「大事なのは笑顔だよ、笑顔。仏頂面したまんまだと怖がられちゃうよ?」
フフッと笑った夏油傑は、鉛筆をカッターで削り出した。パッパと器用に芯をとんがらせると、そのままライトに当てて歪なところがないか確認している。すると、窓の外から「すぐるー!」と叫ぶ声が聞こえてきた。一つため息をついて、夏油は窓を開ける。表情は笑顔の彼に、冷たい風が触れた。
「さとる!そこから叫ぶんじゃない!!」
「は!?すぐるも今叫んだだろ!?」
彼は窓枠を力強く握って、外へと身を乗り出した。強い風が一気に中へと吹き込んできて、壁に貼られたポスターがばたばたと揺れる。すると、横からくたびれたワイシャツの袖が視界に入ってきた。
「夏油くん、これで二回目かな?」
先生は夏油の肩に優しく手を置く。下からは五条先生の笑い声が聞こえてきた。
「はいこれ、バケツ」
「え?」
「今から廊下掃除ね。ほら伏黒くんも」
「え?俺は」
「世の中は理不尽な連帯責任でできてるんだよ。これは一つの社会勉強だ」
中指と人差し指を絡ませて、グッドラッグという指サインをした先生は、また教卓へと戻っていった。
「すまないね、伏黒くん。後から悟に謝らせるよ」
業務連絡かのように謝った夏油は、そのままバケツを持って歩き出す。身長からかコンパスの長い彼は、大股でズンズンと廊下へと進んでいった。周りの生徒は我関せずと、キャンバスに鉛筆やら木炭やらを走らせている。こういうときの学生の団結力は強いのだ。
棚から雑巾を二枚取って、俺は彼を追いかける。眉間を親指で力強く押す彼は、普段から五条先生に巻き込まれているのだろうか。蛇口からボトボトと水がバケツに注がれていく。
「五条先生から離れようとは思わないんですか?」
「え」と俺と夏油が目を合わせる。言うつもりはなかったのに、口からなぜか声に出てしまった。
「や、別に…五条先生トラブルメイカーそうなので」
「確かにね」と夏油は大きく口を開けて笑う。人のいない廊下は音を吸い込む物がなく、彼の笑い声が響いた。教室から漏れる生徒や先生の声が聞こえてくる。
「今のところ離れるつもりはないかな」
「どうしてですか?」
「君は私たちを離したいのかい?」
キュッキュッと蛇口を閉めると、夏油はそのまま笑って俺を見る。
「そうだと困ることがありますか?」
「ああ困るね。そしたら悟の面倒は誰が見るんだい?」
夏油はバケツを地面に置く。そのバケツに俺が雑巾を入れると、バケツの中の水を夏油が手で回した。「冗談ですよ」と俺が笑えば、夏油が「だよねぇ」と笑う。意味を成さない会話の中、俺は内心ため息を吐いた。
「じゃ、伏黒くん。私は自販機に行ってくるね」
「え?」
キツく雑巾を絞った彼は、それを片手に持ったまま下駄箱へと向かい出した。さすが五条先生の友達。「先生には向こうの掃除行ったとでも言っておいてー。君もどこか行くなら別に言わなくても大丈夫だからー」なんて言いながら、雑巾を振り回してどこかへ行く。その後ろ姿にどこか見覚えがあって、俺はまた溜息をついた。
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20XX年12月6日(水)
電気街の裏道のそのまた奥のほう。よく分からない中華料理店の目の前にあるゲームセンターで、俺はある人を眺めていた。インディーズのバンドTシャツをはためかせて、学ランをはおっているだけの彼。かかとのつぶれたスニーカーの紐がほどけかかっている。その男子高校生のあおい瞳には、くまのぬいぐるみが写っていた。
スロットの当たる音、ボタンを強く叩く音。さまざまな音が混雑するなか、聞き取りやすいテノールの声が響く。
「あー、また取れなかった」
その声の持ち主である五条悟はというと、ガラスの壁を隔てた向こうにいるぬいぐるみに躍起になっていた。メダルを入れるはずのカップに百円玉をつめこんで、そこから五枚取り出して、クレーンを動かして、と無機質な作業の繰り返しである。
カーンカーンカーン、ネオンのランプが点滅する音が周囲の雑音に混ざる。となりのバスケットゲームでは夏油が機械的にボールを投げている。スクリーン上でwinnerという文字が動いていた。
いま俺は、放課後であり、任務外であるはずの時間でゲームセンターに来ていた、それもなぜかこの二人とである。眉間を親指で押すと、「片頭痛かい?」と夏油がたずねてくる。その通りである。主にきみの隣に居る男のせいでだが。
なぜならこの五条悟とかいう男、ずっと夏油について回るのだ。こちらが呆れて、もう手遅れなんじゃないかと思うほどに。数学では席の後ろにいる夏油に問題を聞いているし、英語ではカタカナ英語で夏油に話しかけていた。音楽の時間では俺の顔以上に無駄な特徴がないやつなんていなくね?なんて言って、お互いに顔をお絵描きしているのである。その時間はオペラのビデオの鑑賞だったというのにだ。
つまりだ、俺が夏油からこっそりと五条を引き離せることもなく、ここ数日間を過ごしてしまったというわけで。これでは監視どころの問題では無い。そして、このゲーセンに来たきっかけも先生のせいである。
時計をホームルーム前に見つめていたときに、だれかに肩を叩かれた。
「恵くん?かな。ゲームセンターに行かないかい?」
そして振り向いてみると、スクールバックを肩にかけた夏油と頭に乗せた五条先生がいた、というわけである。もちろん断ったのだが、「それじゃ傑ふたりで行こうぜ〜」なんてどこかのだれかさんが言うものだから、着いていかなければならなかった。世界平和のための無給残業とは、自分も成長したものだ。
首元までピッシリと閉められたボタンが苦しくて、一つだけホックを外す。天井で動く照明を見ていると、夏油がヘアゴムで髪を縛っていた。クレーンゲームのほうを見ていると、クマのぬいぐるみをスクバに詰めている五条先生がいる。
「悟、クマはさすがに入らないんじゃないか?」
「がんばれば入るっしょ」
「教科書の類を持ち帰ってないしね」
「うるせー」と口をとんがらせた先生は、そのままカバンを背負うと「いつものとこ行こうぜ」と言った。すると夏油は「今日はスーパーに寄って帰るから、私はお暇するよ」と笑う。
「んじゃ恵ファミレス行こーぜ」
「…え。まだ遊ぶんですか」
「当たり前だろ」
ファスナーが時々引っかかりながら、先生はカバンを勢いよく閉めると、ニッカリと笑う。スクールバックをリュックのように背負った背中は、想像よりも狭くて、やっぱり違和感を感じた。
「じゃ行くか」
「はい」
手をポケットに突っ込んで、駅近くにあるファミリーレストランまで歩く。少しずつ人通りが増えていって、サラリーマンや制服を着た学生たちが往来していた。風俗の広告掲示板や、リップを片手に持つ人気アイドル。ビラ配りのお兄さんが路の端でスマートフォンをいじっている。
少し早足で先生を追いかけると、ようやくチェーンのファミレスへと着いた。ドアを開けるとベルがカラカラと鳴る。
「いらっしゃいませー、何名様ですか?」
「二名です」
「二名様ご案内致しますー」と髪の明るいウェイトレスに言われたため着いていく。斜め後ろにいる先生は黙ったままで、俺がウェイトレスへ返事を返さなければならなかった。
「ふー、やっと着いた」
ソファへと長い足を開いて座った先生は、いそいそとメニューを開く。
「恵もいる?」
「はい」と頷けば、そのままメニューを渡された。彼は期間限定のスイーツメニューしか見ておらず、「ぁー」だか「ぅー」だか声にならない音を口から出している。周りの家族連れや若者たちの賑やかな声が、流行りのポップソングとともに聞こえてきた。
「俺ポテトで」
「うーい」
俺が呼び出しボタンを押すと、あかるく笑顔を作ったウェイトレスがこちらへと注文を受け取ってくれる。お冷を置いて厨房へと行くウェイトレスの後ろ姿を見ながら、五条先生が口を開く。
「そういえばさー、恵。傑のことなんだけど、」
「はい」
「なんで俺と離そうとするわけ?」
笑いながら置いてある手拭きで鶴を作った彼が、こちらを向いた。指が不自然にカタカタと震えて、"最強"と敵対するというのはこういうことだという感覚が染み込んでくる。窓の外へと目線をずらした彼は、整った顔で鼻歌を刻んだ。
「ぇ、あ…」
口を開いて彼に理由を伝えようとするが、空気を吐き出せない。唇と喉が固まって、うまく息ができなくなってくる。
「そんなに緊張しないでよ。別に責めてるわけじゃないんだよ?」
俺の頬を指でなぞり、口角を上げられる。「ほぉら、笑顔のほうが恵はかわいいよ?」と五条先生は笑っていった。たしかに、直接俺に触れてくるということは敵意はないんだろう。グラス中の水面の揺らぎが止まった。
彼の目だけはまっすぐに俺の目を見ていて、前世での思春期を思い出す。正しいことではなく、自分の信念を貫く流儀は、きっと彼から自分は学んだのだと思う。
「まあなんで傑を避けさせるのか知ってるんだけど〜」
「ごめんねイジワル言っちゃって♡」と先生がお冷を手に取る。今さっきまで日が出ていたはずの空は、橙色に染まっていた。
横顔が夕焼けに染まった先生は目尻に皺を寄せて笑う。今さっきまでのニヒルな笑みとは違う暖かい表情は、夏油に向けたものと同じだった。
「恵は悠仁のとなりにいることに理由はある?」
「それは…」
「そうゆうことだよ。」
ウェイトレスが持ってくる抹茶パフェを眺めて、先生がスプーンを取り出す。先生の目の前に置かれたポテトと、俺の目の前に置かれたパフェをトレードすると、先生は水を一つ口にした。
「だからー、俺はすぐるきゅんがじゅそんちゅになったことも、お猿さんが大っ嫌いな理由も、そして殺したことも。全部知ってるってわけ〜」
パフェ用のスプーンを回した先生は、クリームを一杯すくって口に運ぶ。「ん、うま!」といつもの笑顔を見せた先生はそのまま俺のポテトも一本取った。
「先生、半分食べて下さい」
「えーいいけど。恵は相変わらず少食だね」
店内のBGMが短調に変わる。先生の鼻歌だけが明るくて、とても浮いて聞こえた。
簡単簡潔なはずのその説明は、今日だけはよく理解できて、よく分からない。つまりのところ、先生は夏油の友人として、その実際の過去を見ていたというわけだ。
「…先生は、生まれ変わったら人は変わると思うんですか?」
「ん?いいや、思わないから一緒にいるよ」
「?」
「だって記憶ないんだし」
あ。そっか。俺が先回りしすぎただけなのか。ホッとした俺はようやくポテトを手に取ると、口の中に放り込む。すると先生のスマートフォンが震えた。画面を見た彼は「ごめん。夕飯カレーライスだからお開きにしようぜ」なんて言ってくる。俺が頷くと、会計札を持った彼がレジへと向かった。
「ごちそーさまです」
「いいってことよ」
プラダの財布を持った先生は現金を取り出す。制服であるはずのブレザーが一瞬スーツへと錯覚した。そしてレシートを受け取った彼は、ドアの方へと進んで行ってしまう。本当に金遣いは相変わらずであった。ここに釘崎がいたら大惨事である。
「じゃ、恵。また明日な」
「はい。さようなら。」
タクシーもどこの車も呼ばずに、"あの"先生が駅へと徒歩で向かっていった。鼻歌を歌いながら、ポケットに手を突っ込んで歩く彼。しあわせ、といういかにもなオーラを出すその人を肘で突く。まあいいか。しあわせなら、それで。夏油傑は過去というレンズを通して見なければ、いかにも根は真面目でノリがいい男子高校生といった感じである。呪力もなければ記憶もない、何も恐れることはなかった。
そして、あと不確定な期限で続く任務のない俺の高校生活。何をしようかと星の瞬く空を見上げた。
_______________
20XX年12月7日(木)
イヤホンを耳にさす。コードを指で巻きながら前を向くと、スカートを短くした女生徒が黒板に大きく何かを書いていた。
「Happy birthday 悟!」
白と青のチョークをたまに持ち替えて、角の削がれた丸字で描かれていく。すると自身の目の前の席に座る夏油がふと、顔をそちらへ向けた。
「夏油さんはプレゼント持ってきました?」
「いいや、持ってきてないね」
「先生絶対に駄々こねますよ」
「まっ、悟くんを私はそんな風に育てた覚えはありません!」
「昭和の金持ち母Aですか?」
「平成だよ」
夏油は眉をピクリとも動かさずにページを捲る。"アフターダーク"と書かれた文庫本を読む彼は、自身の親友の誕生日というのに相変わらずの興味の無さであった。男女生徒たちが、クラッカーを机の上に置いて待機してるというのに。
まあこの夏油が嬉しそうな笑みを浮かべているときなど、すぐさまに走って逃げなければいけないのだが。"おかし"とはこの人の笑顔のために作られた言葉だとこのクラスに来て学んだ。「追うな」「関わるな」「知るな」、夏油の上手すぎる笑顔はシンプルに恐怖心を震わせる。まだ五条先生のいたずらっけのある笑顔の方が可愛げがあった。
時計を見ると、もうそろそろでチャイムが鳴りそうな時間だった。すると廊下の方からドタバタとした足音が聞こえてくる。勢いよくスパンと開かれたドアからは「ハッピーバースデー俺!」と叫ぶ先生がでてきた。それと同時に鳴るクラッカー音と火薬の匂い。
「うわ何これ線香クサ」
「さとるおめでとーう」
「ワアイありがとう」
「えーなにそれ、全然思ってないじゃん」
ポッキーやマシュマロ、それにいちごオレなど、歩いていくだけでお菓子をたくさん積まれていく先生。馴染みのあったはずの口角だけ上げられた笑顔を振りまく彼は、今見ると気持ち悪い。足取りだけ変えず真っ直ぐここまで突き進んできた彼は、俺の目の前の席で立ち止まった。
「ん、あ、悟」
夏油の顔を向く瞬間に、歯を見せるイタズラな笑顔に変わる五条先生。そんな瞬間を見ても、何も気にせず本を読む夏油。先生は夏油をどんな気持ちで見ているんだろう。元々の夏油の考えの根拠は俺は知らない。だが先生は知っているのかもしれない。「おはよう傑」「おはよう」「それと?」と詰まることなく会話が進行していく。
きっとこの二人の関係が築けているのは、記憶を持つ先生が夏油の解釈を受け入れられずとも理解でき、彼をその上でも愛せるからだろう。
「…誕生日おめでとう、悟」
抱えていたお菓子を床に全部落とした先生は、そのまま夏油へと抱きつく。イヤホンを外して、俺が机へとお菓子を拾い上げていくと、夏油と目があった。細い目を垂れさせて、「どうしようもないやつだ」と甘やかすその表情。そんな風に夏油は軽く受け流すが、事実を知るとどう思うのだかと笑ってしまう。前世から貴方の親友で、そして貴方が大犯罪を犯したとしても貴方を信じ、今世でもまた貴方と親友になりにきていた。そんな奴の愛は、一言で形容できるものではない。
「ほら、先生。いい加減夏油を離したらどうですか」
「恵ヤキモチか?いいんだぞ、入ってきても」
そんな重力が強そうな空間に入りたくない。俺なんかすぐに押し潰されてしまうだろう。
すると担任の先生が教室へと入ってきた。教卓前に集まっていた男女グループや、窓際で集まっていた女生徒たちが席へと着いていく。五条先生と夏油はせまい席と席の間を縫いながら戻っていった。肩を叩いて腕を組む五条に、夏油が《本日の主役》と書かれたタスキをかける。そんな夏油に先生は優しく笑った。
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p.m.19:30
伏黒恵はパソコンの液晶を睨んでいた。マグカップに注がれたホットコーヒーが、段々と冷めてきている。彼はたまに片手に握っているB3サイズのプリントを見て、首を傾げていた。一枚その紙をめくると、次の紙には夏油の過去年表が載っている。今世で知り合ったはずの彼をまた前世のみで見れると思うと、なんか胸の奥底が痒くなる心地がする。念のためにと目を通していけば、ある一文に目が止まった。
2,005年 4月
高専へと入学
2,007年
任務先にて112名の住民を殺害。その後逃走。
2,008年
五条悟、家入硝子が発見。
2,017年 12月
百鬼夜行を渋谷にて行う。その後"五条悟''が刑を執行。
「え」
先生が刑を執行。鈍器で頭を殴られたような心地だった。でも一般的に考えて、特級呪詛師を倒すことができるのは特級呪術師だけ。だけど、よく自分には分からなかった。胃酸が上がってくる感覚がする。キーボードの上で手を止めていると、スマートフォンのバイブがなった。画面の表示には《学長》とでており、電話をとる。
「もしもし、伏黒です」
「おう、夜蛾だ。今回の案件は大丈夫そうか?」
「…一応、任務は完了したかと」
「それは良かった」
学長は深掘りをせず、そのまま世間話を続けた。「選挙来年は投票しろよ」とか、「きちんと俺にbecauseを話してからどっか行けよ」とか。それに対して俺は、はい、はい、と頷くだけで、うまく答えれなかったと思う。
「…学長はこの任務がどうなったら、完了と認めるんですか」
「…」
無線の奥から声がしなくなった。室外機の揺れる音だけが響く。
「呪霊がいなくなるまでは、解決しないね」
「…五条先生が隣にいることは?」
「もちろん知っているよ。あいつ、傑の隣は自分って疑わない男だからな」
ハハッと乾いた笑いだけが受話器に残る。
「ところでお前はあいつらを見て、正しい選択はどれか分かったか?」
「…別に、どれが正しいとか俺は知らないので」
「そうだ、それでいい」
すると、受話器の向こうから賑やかな声が聞こえてきた。「え?なに?誰?これ」「伏黒じゃね?ありがと〜学長!」虎杖と釘崎の声が交互に響く。
「もしもし、」
「よぉ伏黒!元気してる?」
「ちょっと、スピーカーにしなさいよあんた」
「釘崎天才!」
平和そうな会話をしている彼ら。肩からそっと力が抜ける。
「ねえそっち五条先生いるんでしょ?高校生の先生ってどんな感じ?」
「んー、そうだな…少なくとも、俺らの方が良い子ってことが分かった」
「えーなにそれ!」
「そんなの当たり前でしょ!!」
ぎゃいぎゃいと騒がしいスマートフォンの奥で、学長が呟いた。「そうか、あいつらは相変わらず仲良くやってんのか」と。それに返事を返せばいいのか分からずに、俺はただ釘崎と虎杖の会話に相槌を打っていた。
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エピローグ
P.M.20:03
五条悟は鼻歌を歌いながら玄関を入った。ドアの向こうからも香ったカレーライスの匂いが、辺り全体に広がっている。今日は良い日だ。手に持った紙袋を揺らしながらドアを開けると、傑がキッチンで鍋を温めている。
「ただいま帰ったよ、十七歳のサトルくんが」
「おかえりだね、十七才児のサトルくんめ」
昨日、傑が特売だったと帰りに走って買いに行ったにんじんたちは、カレーライスに変身していた。それも俺の大好きな甘口のやつ。前世から恒例の俺の誕生日パーティーは、ディナーよりケーキをメインに行われている。だから去年は任務帰りでコンビニの肉まんだったし、今年は昨日の余り物のカレーだ。でも俺にとっては、キラキラと光る苺タルトや甘い生地とクリームの層になったミルクレープのほうが魅力的だから関係ない。スイーツは世界を救うので。
「ところで悟、十七歳になって決心はついたかい?」
「そっちこそ」
はてなんのことやらと、傑はご飯にカレールーをかけていく。ドロドロと昨日のジャガイモが溶け込んでいて、うん。美味しそう。
「やはり、呪霊をなくすという根本的解決を成さないと意味がないと思わないかい?十七にもなったら理解ができるだろう?」
「いいや、呪力がないかどうかで人権を剥奪するのはおかしいだろ?」
カレーライスの器をテーブルに置いた彼は、スプーンとコップを取りに行く。俺はビールと烏龍茶を冷蔵庫へと取りに行くと、「悟は座ってて」と傑に言われてしまった。大人しくきちんと座っているのも暇だったので、なんとなくテレビをつける。
「悟の気が向いたらいつでも言ってくれよ」
「そっちこそ我慢の限界がきたら言えよ。俺はまた殺しに行くからな。俺を一人にするなよ、傑」
「さあどうかな」とカレーライスを頬張った彼は辛さが足りなかったのか、ガラムマサラをかけ始めた。俺がいくら呪術界のシステムを共に変えようと説得しても聞いてくれないくせに、傑はいつも俺を誘ってくる。それも孤児院の時からだ。共に両親がおらず、前世の記憶を持って生まれた。そんな中でも傑は最初に「よろしく」も言わず、ただ一言。「私は謝らないからな」と言った。それが俺たちの二度目の出会いである。
ごくりと喉を鳴らしてビールを飲む傑は、席を立ち上がった。
「悟、わざとサラダのこと言わなかっただろ」
「あ、バレた♡?」
「今日だけだよ」
二つサラダを持ってくると自分の前に置いた傑は、「マヨネーズを忘れた」とまた席を外した。後ろを向いた傑の脚には大きな傷跡があって、思春期に起きた喧嘩を思い出す。あの頃の俺たちは、いつもどちらに転ぶか悩んでいた。相手の手綱を引っ張りながら。
精神年齢が肉体の年齢に引っ張られるあの時期は苦痛で、毎日生傷が絶えなかった。その結果、俺がこっそり決めたのはこうだ。
お互いが殺されないよう身を守りあうけど、それは道が同じときだけ。傑が道を間違えたときは、"俺"が殺す。そうやって互いを守りながら、これまで生きてきたのだ。
喉をゴクゴクと動かして傑が酒を飲む。まだ未成年のはずの彼だが、過度なストレス社会ではこれがなければやっていけないらしい。
「そういえば伏黒くんに記憶の件はどう言った?」
「ないって言ったよ」
「そうか」
一瞬遠い目をした彼は、何事もなかったようにカレーをまた一口食べた。飲み込むときに上下する彼の喉仏を見て、俺は言葉を飲み込んだ。