チノ ―欲しい男がいる。
[ チノ ]
喉から手が出るほど欲しいと思う男がいる。
“好き”ではない。
その感情はある条件を満たした時だけウラタロスの中に起こり、ウラタロスの内面をざわめかす、平素では有り得ない渇望だった。
欲しい、という望み。
何かを欲しいという乞い。
詐欺師という名のナンパ師だったウラタロスはよくその言葉を口にした。ウラタロス好みの女の子相手に 形のいい良太郎の唇を借りて『キミが欲しい』と何度も口説いた。 キミの唇が欲しい。キミの愛が欲しい。つまり平均以上に見目のいい女子相手になら誰にだって告げてきた。もしくはキミのお金が欲しい。
男相手にそれを言ったのは良太郎が初めてだ。 化け物としての体しか持たないイマジンのウラタロスは、良太郎に接触したばかりの初期こそ彼の肉体を欲しがって、常になら女性にしか言わないその言葉を、良太郎に向けて何度も吐いた。
『キミが欲しい』。『キミのカラダはボクのもの』。それが無理なら、愛が欲しい。(だけど言葉に出来ることなく、)
キミが欲しい。それは女の子に対しても良太郎に対しても同じく本心だったけど嘘で、偽りの言葉だったけど、本心だった。
いつからか女の子にも良太郎にも、それを言えなくなってしまった。
キミが欲しい。―嘘、良太郎しか欲しくない。
良太郎が欲しい。―嘘、良太郎を手に入れてしまいたくない。
口ばかりの偽りでさえ。
良太郎以上の誰かは現れず、良太郎以外の誰かを欲するまでには及ばない。良太郎に憑いたイマジンが自分を含めて4人、5人と増えていくたび、今更その肉体の独占権を巡って競り合うのも馬鹿馬鹿しくなってきた。欲望が薄れてきたのを自覚する。良太郎は好きだ。でも好きじゃない。もはや愛。肉食系か、草食系かと問われれば草食系。彼がこの世の誰よりも しあわせであればいいという無欲のようで欲深い愛情。心の底から欲しいと思うものが出来れば、ほかのものなどたとえ嘘でも欲しくなくなる。だけど欲しいものさえ手に入れてしまえばいつかは失う、恋は消耗品にすぎない、 だから愛したい。望まずに望んでいたい。こんな気持ちは他の誰にも起こらない。
それは自分に限った事ではなくて、良太郎を取り巻く すべてに共通する想いの筈だ。口では出しゃばることを言っても、結局良太郎がみんなの中心で笑っているならそれでいいのだ。良太郎は愛されている。 いつからかウラタロスも、その一員になってしまった。
だけどこの頃、ふとした時に焼かれるような渇望を思う。
「―おい、良太郎!」
電車から窓の外を眺めて、余所見していたウラタロスはその声に面を上げた。顔を上げるとすぐさま視界に声の主が入って来た。
赤鬼が、座席に大人しく落ち着いている良太郎の傍ら、テーブルに手を着き腰を屈めて会話している。―電車が揺れると彼も転びそうになり 大袈裟に騒いで良太郎にからかわれ、ふたりで笑い合っている。
うるさい。
もう一度電車が揺れるとモモタロスがウラタロスのいる座席の方までよろめいてきて、あわてて振り回された彼の腕が ウラタロスの飲みかけていた珈琲のカップに当たった。
「―ちょっとセンパイ、」
「おぉ、ワリィ」
一瞬ウラタロスを振り向いたモモタロスはすぐ、良太郎の元へ戻って話の続きを。
ふと、ウラタロスは目の前のテーブルにこぼれた珈琲に視線を遣って、桃色の泡と水色の泡がじわりと溶け合っていくのを見ると、ムカりとした気持ちを起こした。
『うるせぇな、お前の方がドジだろ。ドジ良太郎』
聴こうとしなくても聴こえてくるバカな声がうるさい。 意識を逸らせばようやく音は聴こえなくなるけどそれでもうるさい。赤鬼のいる この電車の中は煩い。いつだって。
イスルギに隠れてしまえばこの煩さは消え失せるかもしれないが、車両から離れてしまえないのは良太郎が来ているからだ。居たって昼寝をしているだけの彼も、引きこもりがちのあのコも、―モモタロスだって、そうだろう。
良太郎を眺めているといつでも自然と視界の中に混ざってくるあの赤い姿。
身振り手振りがうるさくて目立つ。
気にしないよう逸らしてもウラタロスの眼は勝手に良太郎を追いかけていて、だけど瞳に映ってくるのは赤鬼で、いつの間にか良太郎とあの男、どちらを見ているのかわからなくなる。もしくはあの男を見ようとする時、その傍らには良太郎が寄り添っている。モモタロスはこの車両の誰にも見せない甘い顔を良太郎に向ける。きっと彼のあんな表情が珍しいだなんて、良太郎は知らないだろう。良太郎は彼の想いを知りながら、彼の想いなんて知らないだろう。そんな時無性に、あの渇望が起こるのだ。―欲しい。
諦めた感情が、燃え出しそうになる。
みんなが平等に愛する中、あの男だけが抜け駆けをしているからだ。
良太郎を見詰めているだけなら、起こらない。
普段の粗野でしかないあの男を眺めているだけでも、起こらない。
あのふたりをひとつの視界の中にとらえた時だけ、焼けつく心が何かを欲しがる。―ふたりの間を引き裂いて、割り込んで、奪いたくなる。
…良太郎を?
考えるウラタロスの瞳の中心にいるのは赤鬼だ。
…―モモタロスを?
有り得ない解が弾き出されようとすると、脳が自然と思考を停止する、それが答えだ。―欲しかったのは果たして、
「かめちゃんは、モモタロスのことが好きなの?」
ある日、子どもが尋ねてきた。
ウラタロスはきょとんと瞳を見開いたまま、しばし停止した。
「…どうして?」
ようやく時を解いて尋ね返せば、子どもはウラタロスの前の座席で、テーブルの下で足をぱたぱた動かしながら頬杖ついて、
「かめちゃんはときどきぃ、モモタロスのこと物欲しそうにみてるからー」
「……、」
言う。
冗談じゃない、と思った。
「好きじゃないよ」
「好きじゃないの?」
「うん、好きじゃないね」
「ぼくもー」
好きじゃない。
好きなんかじゃない。
初めて良太郎に憑いた時からモモタロスのことは、自分と違って単細胞で、バカで、頭悪くて、脳みそ枯れてて、一途で、暑苦しい奴だと思ってた。
あの男は良太郎を独占する鬼だ。
好きじゃない、けど、
嫌いではなかったかもしれない。
ウラタロスはにこりと妖しくリュウタロスに微笑みかけた。
「知ってる? センパイには誰から見ても一目瞭然に好きな子がいてね、その子から引き離されでもしようものなら発狂寸前、馬鹿なほどに一途で、その子の事しか観ていない。ボクは誰かひとりにそんな恋し方は出来ないから、だからほんの少し、うらやましくなるのかもしれないよ」
適当にリュウタロスを あしらおうとした筈なのに、口が滑っていた。リュウタロスは誤魔化す言葉を吐き続けるウラタロスを、ほんのり哀しそうな眼で見上げている。
「―あいされたいの?」
「でも、センパイに振り向いて欲しいわけじゃない。ボクのはそういう感情じゃない」
にこり、笑いながら、何を口にしているのかと自分に疑問を感じていた。
「センパイはリョータローだけ見てればいいんだよ。何があっても、リョータローだけ大事にしてればいいんだよ」
言葉は止まらない。これではまるで本心みたいだ。そんな表の言葉と裏腹、脳裏には思考が巡っていた。
だから彼が欲しくなるのか。
だから焦がれてしまうのか。
自分が彼だったなら、誰より強い信頼を彼に感じてもらえただろうか。誰よりも熱い期待を彼に寄せていられただろうか。彼と絆を。 …『誰』 と絆を?
一度でいい、彼が欲しかった。
彼の場所が欲しかった。
ウラタロスが彼をまるごと得たとしてもそれは変わらず、きっと何も変わらない。
彼が欲しいという無意味な渇望。食らい尽くしてしまいたいほど、あの男が欲しくなる。時々。でも。 ―モモタロスがウラタロスの中に消化されてしまえば、良太郎は少し泣く。きっと、それだけの事。(それだけはあって、ならない事だ。)
欲しい男がいた。
ふたりだけ。
The End.
良太郎を自分の命よりも大事にしているモモタロス、に恋してしまいそうなほど良太郎を愛しているウラタロス。というのが私の中の根底かもしれない。