破局耀玲夢を見ていた。
私がまだ新人のマトリになったばかりの頃で、耀さんに会ったばかりの話。
まだ耀さんのことが少しだけ怖くて、距離を取っていた頃の話。
今思えばその頃から耀さんの視線は暖かくて、優しかった。
まだマトリとしても人間的にも幼かった私はどれだけ耀さんに守られて来ていたのか、知る由もなかった。
背中を追いかけるうちに耀さんの心に触れていつの間にか好きになっていた。
きっと最初から私は耀さんに勝てる術を持ってはいない。
意識が浮上して目を開けると蛍光灯の光が目に刺さる。
どうやら机に突っ伏したまま寝ていたらしい。
目の前には食べ終わった惣菜の空の容器がそのままになっていた。
時計を見ると日付はとうに超えていて、覚醒しない頭でやっちゃったなとぼんやり内省する。
部屋の主はまだ帰ってきていないらしい。
寝起きの重い体をなんとか引きずってとりあえず容器をゴミ箱に捨てる。
虚しく吸い込まれていく容器をぼんやりと見つめて、あぁそろそろゴミを出さなくちゃなと積み上がっている中身を見て考える。
ほぼ全て値引きシールが貼られたそれらは、全て私の生活の痕跡だ。
耀さんはしばらくこの家に帰ってきてはいない。
忙しいのもあるのだろうが、なんとなく避けられている、と思う。
確証はない。
けれど、別に帰って来れるであろうタイミングでも敢えて会うのを避けているような気がした。
そこまで考えて自分の意識が知らず知らずのうちに沈んでいることに気がついて、諌めるように頬を軽く叩く。
お風呂に入ろうか、寝てしまおうか。
「お風呂、めんどくさいな」
口から言葉がまろび出た瞬間、ガチャンと玄関の扉が開いた音がして私は反射的に顔を上げた。
「……耀さん?」
帰ってきたのだろうか。
心のどこかで信じられないまま立ちすくんでいると、人の気配と共に私の好きな人が顔を出した。
「ありゃ、まだ起きてたの」
わざとらしく驚いた口ぶりではあったが、本当は分かっているときの物言いだった。
大方部屋の灯りがついていることを外から確認していたのだろう。
「なんだか、久しぶりですね」
耀さんは少しだけ困ったような顔をして私の頬に手を寄せる。
まるでごめんねと言いたげに優しく撫でると、すぐに離れて行く。
「痩せた?」
「ご飯いっぱい食べてくれる人が側にいないもので。そうなると自然に」
「そう」
何だかいろんな感情を含めた「そう」だ。
「耀さんは?」
「俺はいつも通りですよ」
……嘘つき。
顔色が少しだけ悪い。
目元にうっすら隈が浮かんでいるし、髪の毛はいつもより傷んでいている。親指にささくれが出来ているのだって見つけた。
ワイシャツは清潔だけどくたびれているからきっとコインランドリーかどこかで適当に洗ったものだろう。
だけど、私は口に出すことはしなかった。
耀さんがそれを「いつも通り」にしたいと言うなら「いつも通り」なのだ。
ふと、昔だったら言っていたなと考える。
猪突猛進のマトリの新人、泉玲。
けれど今は服部耀の彼女の泉玲であって、耀さんが私に対して「そういうことにしたい」と思ったのならばそれを無理矢理暴くのはなんとなく憚られた。
「玲」
名を呼ばれて顔を上げると耀さんがあんまりにも優しい顔をしているものだから、面食らって言葉を失う。
「明日、時間ある?」
カレンダー上は休みでる。
けれど、私は出勤して仕事を片付けてしまおうと思っていた。
急ぎではないもののやっておいた方が良い仕事はいくらでもあった。
この仕事において備えておいて損になることは一つもない。
それに、本音を言えば耀さんのいないお休みは寂しすぎた。
「えっと…」
唐突なお誘いにはいと即答できなかったのは耀さんがあまりに静かで穏やかで凪いでいたからだ。
「俺のために玲の時間欲しいって言ったら、怒る?」
「そんなわけないじゃないですか」
そう、そんなわけないのだ。
私が耀さんのお誘いを断る術なんて持っていない。
最初から。
だから私は黙って頷いた。
耀さんは満足そうに目を細めて微笑んだけれど、それが私にとっては少し恐ろしいものに見えたのは、気のせいではないのだろう。
約束の日の朝、私は穏やかに眠っている耀さんを尻目に、早々に起きるとテーブルの上に手持ちのメイク道具を並べた。
せっかく耀さんと過ごすのだから出来る限りかわいい自分でいたいという乙女心である。
いつも仕事で使っている品々は早々にご退場頂き、お出かけ用に使っているものだけを残す。
ほぼ新品同然の下地を手の甲に出すと、いつも以上に念入りに保湿した顔に乗せていく。
これを使うと化粧乗りがすごいんです!と力説してプレゼントしてくれた神楽さんのところのスタッフさんの顔を思い出し、心の中で感謝をする。
普段は仕事仕事でメイクがおそろかになりがちな私が、なんとか一般的な女性がするメイクのラインを保てているのは少なからず神楽さんを始めとするスタッフさん方の影響が大きい。
あれが良い、これがおすすめと時にはサンプルを貰ったりして知らずのうちにラインナップが潤っていた。
目元は何色にしようかと少し迷ってたくさんの選択肢の中、赤にしようと決めた。
艶やかな赤が似合う年齢ではないので、少しだけ茶色が入った少し大人しめの赤だ。
いつもより工程の多いメイクを終えた私は、あらかじめ用意していた服に着替えるとそのまま洗面台に駆け込んだ。
アイロンのスイッチを入れる。
そこまでしたところで、どんな髪型にするか全く考えていなかった自分に気がついた。
髪飾りのほとんどは耀さんの家ではなく、私の住んでいる家に置いてある。
こっちの家に置かせてもらっている中で何か良いものはあっただろうか。
何はともあれとりあえず巻こうと鏡に向き合ったところで、鏡越しに視線を感じて振り返る。
今まさに起きました、と言わんばかり風体の耀さんと目が合った。
「……いつからそこに」
「玲が唸ってるところから」
「唸ってました?」
うん、と寝ぼけ眼で返事をした耀さんは、私の後ろに立っておもむろにアイロンを手に取った。
アイロンが置いてあった場所に、代わりとばかりに真紅の花があしらわれた髪飾りが置かれる。
「こんなの私持ってましたっけ」
「結構前からね。寝室のところにな仕舞い込んでで忘れてるなぁとは思ってたけど」
言われてあぁ、と記憶に当たりがついた。
それはまだ耀さんの家にあまり慣れていなかった頃、デートのために買ったものだった。
その日、デート終わりに誘われるまま耀さんの家に行き、そのまま置いて行った代物でもある。
「よく覚えてましたね」
随分前、一回だけ付けていた髪飾りのことを私はすっかり忘れていたと言うのに。
「玲のことだからね」
かわいかったし。
さらりと言われて言葉に詰まる。
こういうところが本当にずるい。
固まった私を他所に耀さんは慣れた手つきで私の髪を綺麗に巻いていく。
あっという間にハーフアップを作り上げた耀さんは、満足したような顔をして背中を押した。
これはすぐに支度するからちょっと待ってて、の意だ。
促されるままリビングに戻って散らかしたメイクを片付けていると、しばらくして支度を終えた耀さんがやってきた。
行こうかと言って取られた手が、とても冷たかったことが妙に気になってそわそわした。
とりあえず腹ごしらえをしよう、と言われて私たちは近くのショッピングモールに向かうことにした。
近くと行ってもそれなりに歩く距離にあるショッピングモールはいつもなら車で向かうところだ。
けれど、今日は歩いて行きたいと耀さんは言う。
「良いですよ、幸いヒールのない靴も置かせて頂いてますし」
職業柄、歩くことに抵抗はない。
「覚えていますか?昔お蕎麦屋だったの」
「いつの間にか潰れちゃったねぇ」
「よく行っていたのに、気がついたら閉店していて」
耀さんの家からショッピングモールまでの道すがら、かつて耀さんのお気に入りの蕎麦屋があった。
気の良い老夫婦が経営していて、雰囲気のあるお店だったけれどある日長い仕事が明けて久々にお蕎麦屋さんに行こうかと耀さんと話して向かったところ、いつの間にか閉店していた店だ。
今はパン屋さんになっていて、かつての姿の見る影もない。
一度パン屋さんになってからパンを買いに行ったことがあった。
確かにおいしいパンだったが、なんだかお蕎麦屋さんのことが頭に引っかかってしまって心から楽しめず行くのを避けていたお店だ。
「初めて行った時、耀さんがお蕎麦を5枚も注文してびっくりしたんですよ」
「その時の玲、目まんまるにしちゃって」
耀さんの前に山のように積まれたお蕎麦が圧巻だったのだ。
目も丸くなると言うものだ。
今では耀さんの大食漢にも慣れたので驚くことは無くなったが、当時は心の底から驚いた。
「今日のお昼はお蕎麦にしようか」
「いいですね」
確かショッピングモールのフードコートにお蕎麦屋さんが入っていたはずだ。
かつてのお蕎麦屋さんには負けるが、ショッピングモールのお蕎麦屋さんもなかなかだったと記憶している。
お蕎麦屋さんの話を始めた耀さんがいつも通りだったことに安心として、そうと決まれば急ぎましょうと足を早めた。
お昼には少し早い時間だったけれど、ショッピングモールは人で溢れかえっていた。
この辺りにはあまり子どもは住んでおらず、利用する人たちの年齢もやや高いはずだったが新学期も近いこともありちらほら子どもの元気な声が聞こえる。
私たちは行き交う人たちの間を縫って目的のお蕎麦屋さんに向かうと、耀さんは例に漏れず山のようなお蕎麦を頼んだ。
私は少しだけ悩んで天ぷら蕎麦を頼む。
耀さんの胃は四十路になっても決して衰えず元気なままだ。
本人曰く食べられる量は減っているとのことだったが、私から見れば全然変わっていない。
その証拠に耀さんは届いたお蕎麦を端から勢いよく胃袋の中に収めていく。
「この後どこに行くんですか?」
すると耀さんは黙ってチケットを2枚机の上に出す。