ワードパレット
魔法のような/サンダル/夜
---
サンダルを履く日に焼けた素足ばかり目に入る。おれはなんども人にぶつかりかけるのだけど新伍はさんざめく人波をするする抜ける。手を握っていなかったらたぶんとっくにはぐれていた。おれたちは人のいないほうへ、だれもいないほうへ、静かなほうへ、暗いほうへ、自然と踊り出、それでやっと向かい合った。
陽だまり/戻ろうとして/コーヒー
---
戻れるのならばそれはたしかに戻りたいけれど肝心の戻るべき場所はわからなかった。どうしたって、結局最後はこうなるにちがいない。
おまえのいるところはぜんぶ陽だまりだ。どす黒くうずまくコーヒーのおもてすら、きらきらさせる。
「ジェンティーレ、おれ、結婚するんだ」
こんなふうに。
コチニールレッド/怖い/真冬
---
カシスのジェラートによく似ている、真っ赤ではないよなあ、という、なんとも煮え切らない赤色をしたマグカップ。新伍の手の中におさまっているそれはもうとっくに空だった。それでもなお口をつけながら、「怖いよ」とだけかぼそく呟く。
なにが、とは言わなかったのだが、新伍は続ける。
「なんでいまこんなところにいるんだろう、おれ」
短いまつげに乗った雪があまりに重かったのか目を閉じて、頭をゆるりと振って、それでこっちに倒れてくるのを、おれはなんともなしに抱きしめた。今は真冬だから。人は寒さと飢えには勝てないものだから。それは否応なしに心をささくれ立たせるに違いなかった。
だからおれは暖炉に火を灯さない。
アラーム/満面の笑み/はしゃぐ
---
じりじりじりじり--
甲高い、うるさい起床のアラームが鳴って、時計を止めようと伸ばした手がやわらかいものに触った。伝わってくるあたたかさ。ひとだ。目が、かっと醒める。「おはよ」先に起きたのだろうにまだすこし眠たげな、どうしたって聞き覚えのある声。
心臓がおそろしく早うつ。
「すごい目覚まし時計使ってるんだなァ」
ああだめ押し。観念したジェンティーレがばっと顔をあげれば予想通り葵が目に入ってきた。そのずいぶん楽しそうなにこにこのほうは、想定外だった。
「し、シンゴ、なんで、はっ、はあ?」
「さすがに覚えてないわけないと思うんだけどなあ。ずいぶんはしゃいでくれちゃって」そう言って代わりに目覚まし時計を止める葵。ジェンティーレは目の前を横切った腕を思わず凝視した。歯形が散っていた。鬱血しているほどじゃないのが--三日と言わず一日すぎるかすぎないかで消えてしまいそうなほのかに赤いそれが--よけいに怖くて、ほかのところなんてとても見られない。首を背ける。
「覚えてないんだ」
葵の声はあくまでも平静な、普段どおりだった。
「まあ、いまジェンティーレが考えてそうなことはなかったけど。この通り脱がされて全身さわられて噛まれて吸われて舐められただけで。いれたり、だしたり、そういうのは、どっちも、なんにも」
それはそれで変態的すぎる!
いよいよ耐えられなくなったジェンティーレはまた寝転がった。いっそ、汚物と混濁と泥濘のなかでぬたうっていたと言われたほうがまったくましだった。「うそだ‥‥」信じたくない。おれがこいつを食うなら、一方的な蹂躙であるはずだったのに。なんでそんなことに。まるで飼い殺しの畜生の交わりみたいな、もしくは精通していない子供がそれでも自慰をするような。そんなまね、おれが。こいつに。
「いやだ、ありえない、おれは信じないからな‥‥」
「ほんとだってば。いいから起きなよ。二度寝してもしらないよ」
朝陽を受けて笑う、清潔なシーツにくるまった少年(実際はそんな歳でもないのだけど)の姿は苛烈な思想の映画のワンシーンじみている。
止まる/パジャマ/一歩後ろから
---
小柄である新伍におれの寝衣のサイズが当然合うわけもないので、それに柄にもなくどきどきしたりして、ほんとに、もう、ばかみたいだった。思わず目がいく。後ろ姿をじっと見ては気づかれる前に視線を外すことをくりかえす。ときどき、ズボンがずり落ちないように手で押さえて引き上げているのが無性にかわいい。……いやかわいくない! そんなわけあるか! 冷静になってみれば、ただの、サイズの合わない服を着てる、みっともない、とっくに成人してるくせに顔も表情も体つきも子供みたいなこれっぽっちの男だろ。ぶんぶん頭を振ってそう思い込もうとして、やっぱりだめ。ああかわいい、好きだ、くそ、かわいい、って言葉を、ぎりぎり奥歯で噛みころす。(情けないのはおまえだよ)頭の中ではおなじみの金髪の男が笑っている――実際のところそんな言い方されたこともないが、いつだってそう聞こえていた――。
掌編1
「シンゴにもっと優しくしてやれって言ってるだろう」くすくす笑いでおきまりのように言うので、この前とまったく同じことを言うので、もうこいつに相談したところで、と思うのだけど、それでもジェンティーレにはヘルナンデスのほかにこういう話をしてもいいと思えるような相手はいないし――日向にはお相手がいるらしいが、あいつがこんな繊細な話に付き合ってくれるとは思えなかった。まあこの勘というのは実際のところ大間違いなのだけど、言い出さないことには本当のことなんてわかるわけがないので、ジェンティーレがそれを知るのはしばらく後のことになる――なんならヘルナンデスのほうから聞いてくるのだからしょうがなかった。
「言っておくけど、同じことを言うっていうのはな、意地悪なんかじゃないよ、おまえが進歩してないからなんだよ」それともほしい言葉がおありで。でも、だって、褒めるところがないんだもの。「ほんとうは褒めてやりたいさ。ああ誘えたんだ、って、亀はようよう歩くものだと」
お誘い。といってもそんなに難しい話ではないのだ。ただサッカーをやろうって、一緒に練習をしようってそれだけでいいはずなのに――食事に誘ってみる計画が持ち上がったこともあったのだけれどただのファストフードにもためらったので、ハードルはこうやって地面に倒してやったのにそれでも――頓挫した。なぜなら、電話のかけ方を忘れてしまったから。電話のその向こうの声が耳に届くまでに再構成を成す、不可思議とテクノロジー神秘に打ち震え抒情的センチメンタルに振り回されるうちに時が過ぎていたとさ。哀れだ。伏したハードルに足をひっかけて、見事に転びやがったのだ。
「そりゃあないだろうに!」
「うるさい、うるさい、うるさい!」悲痛なる叫びに、「オイタワシヤ」ヘルナンデスは日本語を使って戯れに呟いて目を細めた。
「おまえいったいなんだったらできるんだ」
体じゅうにさくさく刺さる辛辣な言葉を聞きながら、(そもそもあんなのを好きになっちまったのが間違いだったんだよ)ジェンティーレは思う。あいつじゃなければおれはもっとスマートに、それでいて強引に、ドラマチックで――すこしだけエロティックで――それから、なんだろう、とにかく、理想的な恋愛ができたはずだった、と、べつにそんなことはない想像をする。これがとんと、慰めにもならない。むなしいだけである。不毛である。「もっと建設的なことをしたほうがいい。破壊でも救済でもなく、現実を見ればいいじゃないか。それがそんなに難しいか?」ヘルナンデスが疑問をぶつけて、
「おまえはこんな気分になったことないだろうが」ジェンティーレが投げやりに返した。「胸のあたりがむかむかしやがる」
「単なる飲みすぎだ、それは」一拍おいて切り返す。「それから、おまえがおれをどう思ってるかしらないが、斯様な経験については人並みにはあるんじゃないかと」
「そうかよ、ああ、そうだろうさ! おれが言ってるのは、おれみたいな気持ちになったことが、もしくはおれみたいなのを相手にしたことがあるかってことだ!」
「おまえほど屈折してるやつはほかにいないね。少なくともおれの知り合いには」だから悪いけどそれはわからない。ああ、わからないとも。
「だけどそれって、なにか関係があって?」
「…………」
いよいよ黙ってしまったジェンティーレに、ヘルナンデスは冒頭の言葉を復唱する。一回、あるいは二回、それでなくとももう一度。
掌編2(結婚)
暗い海。海岸。新月。ふたりの男が歩いている。横に並び立つことなく、前に後ろに、やや距離をあけて歩いている。けれども手をつないでいるのがいかにも、アンバランスで物ありげ。歩みは遅い。疲れが滲んでいるのだ。
前を歩く男のほうを見ようともせずただ暗闇でさざめく海に顔を向けながら、背の小さいほう、後ろを歩いているほう、新伍、葵、真っ白いスーツを、ウェディング・タキシードを、新郎の衣装を着ているほう、葵新伍、が口を開く。
「こんな真似できるならせめてきのう言えばよかったでしょ」
暗いささやき――これがまったくその通り。
葵新伍でないほう、ジェンティーレに、いままでいくらでもチャンスはあった。自分の気持ちを伝えることの。けれどその度ためらって、言い訳して、棚上げて、遠慮して、うそをついて、ごまかして、下を向いて、手離して、振り払って、そうやってここまで来た。
蓄は悪だ。それはこの男の所業――結婚式から新郎を奪い去った!――が証明している。滞留してやがてどこかから放り込まれた黴で腐り始め、鬱屈により増悪する。精神的苦痛、仕事、手紙も、欲望、義務感だって、愛情でさえ、結局はすべて同じ運命をたどるときまっている。
「そうしてたらどうなった。おまえはおれと揃いにしてくれたのかよ」
「あのさあ、なんでジェンティーレが怒ってんの? 怒っていいのおれだけだよね」
それは少年とショー・ウィンドーごしのオルゴールのような、一方的な恋だった。おとなしく財布をすっからかんにすればよかったものを、ガラスを叩き割ってしまったわけだ。あるいは、それを指差した客を――それも白いドレスが似合う淑女だ――殴り倒して奪うような真似をしたのだ。あての外れた怒りと癇癪の爆発、それがこの顛末。
ただ、オルゴールは物言わぬけれど――予め決められた音にコミュニケーション上の有形的意味はない――ジェンティーレが奪おうとしたものは手と足の生えた人間で、故に考え、拒絶の自由を所有する。
葵に手を振り払われないのは、干からびた砂浜をただ後ろに付いてくるその訳が、受容でないことくらいは、ジェンティーレもわかっていた。「おれが悪い?」葵が言って手を引けば、ジェンティーレの歩みは茫洋たる砂漠の旅人のようにはかなげだったから、つんのめって、それで目を合わされる。「おれが悪いの?」
「違う」
「いいよ、もう」葵の声は平坦に、「はっきり言ってあげないおれが悪かったんだろ」突き放す。
「気づいてるよずっと前から。おまえは知らなかったんだろうけど」
「じゃあおまえ、おれに好かれてるってわかってて他のやつとデートしたっていうのか」結婚の話ができるって、キスを、‥‥を、
(おれがしたかったことぜんぶ?)
頭に血はのぼるし、わなわなくちびるが震えるし、さんざんだ。ジェンティーレには、もう自分が怒っているのか悲しいのかもわからない。ただ激情があり、それに付随して虚しさによく似た冷たい気配を覚えている。
「だからさ、そういうこと言っちゃうのがダメだってわかんないかなァ」わかんないか。無理だよね。おまえ、ぜんぜん変わらないもんな。
畳みかけてくる言葉に息をつく隙はない。顔どうしが近くって、それこそまるで恋人みたいな距離で、おたがいの温度さえわかるような気がした。
「きのうのジェンティーレ、なにか言いたそうだったのに聞かなかったおれも悪かったんだと思う。だからちゃんと言おうかな、おまえのぶんも」
柔らな牙を抜いた。
目眩を切り裂いて、頭蓋を殴りつけた。
「おれがおまえのことを好きになることなんか絶対にないよ。おまえの望んだことは、一生かなわない。おまえに好きって言われれば、たぶんね、すごく、逃げ出したくなる」
ジェンティーレは葵の肩を掴み海へと投げ出した。踏み込んで足の甲が見えるか見えないかというような干潮の浅瀬はそれでも水飛沫をあげた。そしてその首に手をかけようとして、やめた。言い表せないような深いところで隠れていた、自分がこの男に焦がれたわけをいまこの時になってやっと思い出したから。若い性欲にかまけるあまりとんと最近顧みなかった、あの青い情熱。色がない、名前もない、与える必要のないもの。
ジェンティーレにとって、この恋は熱病だった。
間違いなく。
「ずっと、そういう顔してたらよかったのにな」
膝をつき嗚咽する男の体重を受けながら、葵は呟く。