キメラ 身長は可も不可もないが、不摂生と体質から肉付きはよろしくない。顔つきはとびきり美人でも可愛らしくもない。肌の色素は薄いが、顔色が悪い方が目立つ。宝石のような瞳でもないし、髪に自信があるわけでもない。頭脳は大勢に褒められたり恐れられたりなど非凡であるものの、経歴はほぼ白紙の記憶喪失。職業は、ロドス作戦部部門長にして戦争屋。あんまりである。
ドクターは、そもそも自身が善良なる者と同じ盤上には決して立てないことを理解していた。同族はおらず、何者にも当てはまらないということは、何者でもないかもしれないということだ。唯一特出した頭脳はあれど、愛嬌という点ではかえって無用の長物だ。
故に、ドクターは他人に嫉妬をしないと決めている。嫉妬ではなく、羨望に留めることを常に意識している。羨望も立派なネガティブ感情だが、それくらいは許してほしい。だって仕方がないだろう。ふわふわの耳も、艶やかな羽も、輝かしい光輪も、しなやかな尾も、妬んだところで手に入らない。何者でもない自分がそれらをアクセサリーとして付与できたら、どんなに良かっただろう。
そんな何者でもないドクターを、リーは好きだと言った。彼のような立派なツノも、工芸品のような鱗も、美麗な鰭も、嫋やかな尾もない姿を難なく愛した。両手でも、体の全てを使っても零れ落ちるほどの愛情をドクターは注がれる。ドクターは満たされていた。
満たされたからこそ、ドクターはリーに何を返せるだろうと、強襲作戦を指揮する時よりもずっとずっと頭を悩ませている。
ロドス本艦、オペレーター休憩エリア。バースペース。
ドクターは素顔を晒すことに抵抗がないが、その立場から個人を特定し得るあらゆる情報は極力秘匿されていることと、健康状態を考慮した全身防護服のおかげというべきか、ドクターの素顔を知るオペレーターは意外にも多くはない。アーミヤに勧められ――バーを勧められるということは、少なくとも自分は成人はしているということである――仕事が落ち着いた日の夜は、バーの端っこ、ドクターの身長ほどある観葉植物に隠れてしまうボックス席に腰を落ち着けちびちびをアルコール度数の低い酒を口に含んでいた。酩酊とまではいかないものの、気持ちの良いほろ酔い気分を味わっていると、カウンター席から賑やかな声が飛び込んでくる。ひょいと上体を反らしてそちらを見れば、数人の男性オペレーター達が和気藹々と酒を片手に談笑していた。ドクターは好奇心が服を着て歩いているような人なので、申し訳なさと興味本位を抱いてよぅく耳を澄ませ会話を盗み聞くことにした。「おめでとう」「可愛い子じゃないか」「お前にはもったいない」「デートはいつだ」……ははぁ、ロドスでまた新たな恋がひとつ実ったようだ。ドクターはひとりグラスを掲げてそのオペレーターを祝った。
「それで、彼女はリーベリなんですけど、リーベリの女性って何を褒められたりしたら嬉しいかわからなくて……。あぁ、リー先生はわかりますか?」
急に恋人の名前が出て、ドクターはもう一度目を凝らす。談笑するグループの向こう側、肴を齧っていたらしいリーは突然の名指しにも特に動揺せず、ゆるりと首をそちらに向けた。
「なんでおれに聞くんですかねぇ」
「そりゃあ、ロドスで話しかけやすい人生の年長者なんて……限られていますし。あとそこにいたので、つい」
「経験豊富そうだよな、先生って」
「ティーンを卒業したばっかりのこの男に人生のアドバイスをくださいよ」
酔いが回っているのか、全員が遜って頭を下げている。頭上で手を合わせ彼を拝む姿は、神に縋るそれに酷く類似している。バーのラインナップだからだろうか、リーは普段飲んでいるものとは異なる酒を呷り、グラスをテーブルに思わせぶりに置いた。
「リーベリですか。となると、羽を褒めるのは定石でしょう。種族的特徴のひとつですし、恋人関係なく風に揺れる彼らの羽は美しいと思いますよ」
軽いアドバイス、なのだろう、しかしドクターは影でこっそりの自身の毛先を指先で摘んでため息をついた。さらりと癖のない髪には、リーベリのような柔らかな羽毛など当然混じっていない。リーはドクターの指通りの良い髪を暇さえあればせっせと梳いてくれるが、面白みのない髪だと思われていないだろうかと不安になる。なんの変哲もないドクターは、どれだけ彼を満足させたり、楽しませたりできるだろうか。愛してくれる彼に楽しみを与えられるだろうか。すりすりと髪を指の腹で撫でてみる。零れ落ちていく髪を見つめ、ドクターはひとつの決意を胸に灯した。
「……ドクター?」
リーの裏返ったような声が聞こえ、悪戯が成功した子どもの気持ちを味わえたドクターはくすくすと肩を揺らして笑った。
ロドスに新しく開店した美容室で、柔らかな桃色の髪に蜂蜜色の瞳をした可愛らしい少女によってドクターの髪はいくらか軽くなった。具体的には、バックにボリュームを増し襟足にレイヤーを入れた、所謂ウルフカットに似たようなものだ。
翌日ドクターはゴールデングローに尋ねた。自分のような髪でリーベリのような髪形にできないか、と。ゴールデングローは逡巡し、雑誌をいくつか開いた後、こんなのはどうでしょうかとウルフカットの髪形を見せた。ボリュームをもっと出せばふんわりと見えて、対照的に風になびく襟足がきっと羽のように見えますよ。提案した少女、ゴールデングローはしかし躊躇した。こんなに綺麗な髪なのに、とドクターの髪を惜しみ、可愛らしい耳と尾をへちょりと下げる。しかしドクターの決意は固かった。ドクターは石棺から目覚めてから初めて、ストレートミディアムだった髪に鋏を入れた。
「どう?私、リーベリみたいじゃないかな」
ロドスのバースペースで、度々リーが若いオペレ―ターの恋路にアドバイスをする時に言う「恋人の素敵なところ、褒めるべきポイント」の情報を収集することがドクターの日課になった。人生経験豊富なリーは、きっと自分と恋人となる前にあらゆる種族の女性と付き合っているに違いないとドクターは睨んだ。恋人という惚れた者のフィルターがかかっているとはいえ、リーは地頭が良く、体格にも恵まれ、過去は出自も相まって洒脱な貴公子だったと小耳に挟む。そんな彼の気を引き、好みに当てはまり、少しでも飽きないよう楽しませてやれたら。そうすれば、何者でもない自分を愛してくれる彼に報いることができるのではないか。そう思い、ドクターは必死になって努力した。
ある時はウルサスやフェリーンの耳の形を褒めた。ドクターは耳の形は変えられないので、代わりに耳を少しでも目立たせようとイヤリングをウタゲに相談して購入。ピアスは、せっかく五体満足に救出してくれたアーミヤたちに申し訳なかったため空けなかった。
「私、ウルサスやフェリーンの耳に負けないくらい綺麗に耳を魅せたい」
ある時はクランタの脚力を尊敬した。ドクターの足は貧弱で、とても脚力は望めなかった。だからせめてもの思いで肌を綺麗に見せようと、全身丸洗いしていた石鹸ではなく良い香りがするボディソープを購入し、ついでに湯につかるということを覚え、肌の状態に気を遣うようにした。血行改善によって顔色もよくなり、医療部が喜んだ。
「クランタみたいに走れなくても、足を美しく見せるくらいはしたい」
ある時はサンクタの光輪の輝きを闇の中でも絶えない導きだと例えた。ドクターには光輪はない。今度こそ詰みだと頭を抱えたが、髪を切ってもらった際ゴールデングローが天使の輪と口にしたことを賢いドクターは覚えており、美容室に駆け込んだ。ゴールデングローに勧められたシャンプーやトリートメントで髪を洗い、うるうるつやつやの髪質を手に入れた。明るい場所であれば、ドクターの髪にはサンクタのように輝く光の輪が現れる。
「光がないと輝けないけど、サンクタのような素敵な輪に見えるといいな」
ある時はフォルテのツノの艶に手間や美意識を見出して讃えた。ツノもドクターにはない。しかし連日あらゆるオペレーターを訪ねては美しくなっていくドクターの噂を聞きつけ「どうしてあたしに声がかからないの!」とロベルタが憤慨し執務室に飛び込んできた。おかげでツノは手に入らなかったものの、ドクターは化粧をすることや色の魔術がいかに重要かということを叩きこまれ、実演され、手間をかけて自分を磨くことを覚えた。ロベルタによるスタイリングが終わり、彼女が帰っていった後にはデスクに所狭しと化粧品が並んでいる。「わからないことがあったらいつでも連絡してね!」というメモがあらゆる化粧品の裏に貼りつけられており、美容業界の著名人との繋がりを得ていた過去の自分に心の底から感謝した。
「綺麗になるって手間がかかるけど、手間をかければかけるほど綺麗になるってわかると、手を抜けなくなったよ」
ある時は、ある時は、ある時は、ある時はある時はある時はある時はある時はある時はある時はある時はある時はある時は、ある時は。
ドクターは努力する。リーの羨むもの、好ましいものになれるように。何者でもない自分を飾る。少しでも彼に魅力的に映るように。鏡を見れば、もうそこには幽鬼のような顔色をしたドクターはいない。今のドクターはロベルタが言う「メイクブラシが思わず動くような顔」を正しく使うことができる。
次は服装かな、と仕事着になっている防護服を引っ張る。この身がこの服を必要とせず自由に出歩けるようになった時が楽しみだと、ドクターはひとりほくそ笑んだ。
ドクターの様子がおかしい。リーは執務室で業務に勤しむ恋人を訝しんだ。訝しむ、と言うほど不穏なものではないのかもしれないが。
いつからか、ドクターは自身の身なりや容姿をえらく気にするようになった。それ自体は寧ろ喜ばしいことである。徹夜も薬も理性回復剤と酒をちゃんぽんまでする、不摂生に人の器を与えたような人が、自身の体を省みるようになるというのは嬉しい徴候だ。おかげでドクターは現在良質な睡眠とか過不足のない食事、生活の質、必要最低限の薬を手にし、健康状態も良好。このままいけば、週に二回ほどの頻度で行われる健康診断も一回、もしかしたら月一になるかもしれない。検査が終わる度にぐったりと疲労困憊でベッドに倒れ込む恋人を見ることがなくなる日もくるかもしれない。
しかし、なんと形容すべきか。リーは腹の底にぐるぐるととぐろを巻く感情を音に乗せないよう、努めて穏やかに口を開いた。
「ドクター、茶を淹れるので少し休憩にしましょうか」
ペンがノートの上を走る音が止まる。顔を上げたドクターはふわりと花が咲いたような愛らしい微笑みを浮かべた。
「そうだね。君が言うのなら」
未だ見慣れない髪形、髪の艶。薄くメイクの施された顔。イヤリングの揺れる耳朶。服の間から僅かに覗く肌の血色。まるで数か月前とは別人のように恋人は自らを飾っている。
美しくなっていく。恋人がそうなることを、自分は喜ぶべきなんだろう。しかしリーは素直に喜ぶことができない。ドクターの素顔を知らない者たちが、ドクターと知らず美しくなっていくこの人を見るたびに頬を染めたり、目で追いかけたり、噂をしたりする。道端に懸命に咲く可愛らしい蒲公英のようだった人が、高嶺の花になっていく。己だけが知っていた愛らしさを置いていって、誰もが振り向く大輪の花になっていく。リーが愛した可憐な姿を脱ぎ捨てて、見る者すべての目を奪う蝶へと羽化していく。
ドクターの目は、まるでリーを跳躍してどこかを見ている。
ドクター。あなたはかつてのあなたを捨ててまでして、一体何に振り向いてもらおうとしているんですか。
龍門に設置したロドスの事務所への視察を終え、ドクターはアーミヤと共に龍門の街を歩いていた。時間も麗らかなお昼過ぎ、賑わいに溢れた街を仕事ではない身分で歩き回れることは、とても贅沢なことだ。アーミヤの耳が忙しなく揺れ、あらゆるものに目移りしては遠慮がちに自分へと視線を向ける。ドクターはそんな可愛らしいアーミヤに頷いて、並んで露店を見て回った。食べたことのない料理、炎国特有のアーツユニット――炎国の言葉で呪具、と呼ばれるらしい――などを見て回った。百聞は一見にしかず。ドクターもアーミヤも一緒になって顔を寄せ、これは何、あれは何と端末で調べながら龍門の街を巡った。そうしてせっかくだからロドスに常駐していない龍門出身のオペレーター達に挨拶でもしてから帰ろうと思い立ったのが、日暮れ前だった。ドクターの優秀な頭脳は現在ロドス本艦に搭乗しているオペレーターを把握しており、タブレットで確認するよりも早く誰を訪ねるべきかを導き出した。そのうち気軽に顔を見ることができるオペレーターとして、探偵事務所に依頼が舞い込み龍門に戻っているはずのリーがリストに上がった。探偵事務所への最短ルートを端末に表示し、アーミヤと隣り合わせに座って休憩していた広場のベンチから腰を上げようとした時だった。
広場に面した大通りの露店の前に、ドクターは自身の恋人を見つけた。この大勢でごった返す街のなかでよくもまぁ見つけられたものだと驚きを通り越して感心していると、その長身の隣に並ぶ人の姿を認めドクターはぎちりと体が強張った。
リーの隣に、彼と同じ龍族の女性がいる。ドクターは思わずまじまじと龍族の女性を観察してしまった。
龍族といっても、容姿は人によってかなり異なる。チェンのようにツノと尾が特徴的な龍もいれば、リーのようにツノと尾の他に鱗で全身を覆う龍もいる。その女性は細く伸びた美しいツノ、しなやかな尾をしていた。こちらからは後ろ姿しか確認できないため、まだ皮膚や骨格までは断定できない。ドクターは冷や汗が伝った。もしや、リーの過去の恋人だろうか、それとも捨てたという家に属していたころの、婚約者?いいやとドクターは自身の心を宥める。大丈夫、今のリーの恋人は自分なのだから。リーは絶対自分を選んでくれるのだから。そもそもリーはそんな風に自分を裏切ったりしない、だから大丈夫。そうわかっているのに、ドクターは動悸が治まらない。もう見るな、と理性が叫ぶのに。本能が目を逸らさない。
龍の女性が隣に立つリーを見上げる。
彼にそっくりなマズルと、色鮮やかな鱗が見えた。
ハッと気が付けば、ドクターは自身の執務室の椅子に深く腰掛けていた。おそらく顔を洗って化粧を落とすなりして意識が覚醒したのだろう。ロドスに戻ってきた記憶があまりにも曖昧で、アーミヤに迷惑をかけていないかひやりとしたが「今日は楽しかったです。ありがとうございました。またドクターと観光をしたいです」というメッセージが端末に送られており、少なくとも不快な思いをさせることなく取り繕って帰還することはできたのだなと胸を撫で下ろす。しかしすぐ不安が曇天の雲のように心を覆った。
やはりリーは、同族の姿に一番心を惹かれたりのだろうか。ドクターは長く長くため息をはいた。龍のツノも、尾も、ましてや鱗なんて。自分はどうやっても手に入れられない。妬んだところで手に入らない。嫉妬さえもできないのだ。自分には、何にもない。何者でもない、自分。いくら着飾っても、努力しても、お前は彼の最も好む姿になんてなれやしないのだと窓ガラスに映る自分が嘲笑うようだった。いくらあらゆる種族の好ましいであろう要素を切って貼っても、結局は何者にもなれない。
同族などこの世にはいないのだ。誰にもなれない、何にもなれない。彼の愛にいくら報いようとしたところで、零の自分には何を掛け算しても零に変わりはない。何者でもない自分を、リーに愛させてしまっている。なんてかわいそうなことをさせているんだろう。
ドクターは首を横に振った、やめよう。きっと疲れているから、気が滅入っているだけだろう。リーは自分を、愛してくれる。自分はその愛に返すことができているはずだ。だって日に日に自分は過去の自分と別人のように、美しくなっている!
デスクの引き出しに手を伸ばす。抗不安薬と睡眠導入剤を取り出し、まるで菓子でも食べるかのように口にぽいぽい放り込み、水を飲もうと冷蔵庫はぱかりと開く。しかし補充を忘れた冷蔵庫の中にはラップをかけたケーキと、どうしてそうしたのか覚えていない転がされたままの人参と、ケチャップやソース、安酒しか入っていなかった。最悪のラインナップである。じわりと舌の上に広がる苦みに薬を吐き戻したくなる。ええい、どうとでもなれと、ドクターは安酒のステイオンタブを引っ張った。水道水を飲めばいいのに、と囁いてくれる理性はとっくに蒸発していた。
懐かしい同族の学友との会話もそこそこに、リーはもう目を瞑っても辿りつけてしまうだろう探偵事務所への帰路を歩いていた。その進路を急遽変更させたのは、ロドスに駐在しているアからの一本の電話だった。ポケットから震える端末を取り出し、リーが物を言うよりも早くアの珍しい大声が音割れしながら耳に突き刺さる。
「リー先生今すぐロドスに来てくれ!旦那のことなんとかしてくれよ!」
「声でっけぇなぁ。ドクターがどうしたって?」
「旦那が部屋に立て籠もって、薬と酒をちゃんぽんして泣きながら入れ墨やってくれって内線で懇願してくるんだよ!」
いや情報量が多くないか?リーは一瞬で頭痛がした気がして頭を押さえたくなったが、要約してドクターがとんでもないことになっている時にそんなことしてる場合ではないだろうと自分を叱責し、ちょうど龍門近くに停泊しているはずのロドス本艦に早足に進路を変えた。
かくして、一時間ほどでロドス本艦に到着したリーがドクターの執務室の前で見たものは、ドクターに有事が起きた際に対応する医療部の顔見知りメンバーが扉を前にして立ち往生している姿だった。その中にアの姿を見つけ、リーは手招きして我が子を呼び寄せた。
「状況は?」
状況確認はどのような職業においても初歩中の初歩だろう。
「最悪だな」
どうしようもできない報告だった。
「今さっきから内線やめて、扉の前で直接説得始めたところなんだけどさぁ」
アが指をさしたので、リーはそのまま指の先に立つケルシーの言動を観察する。
「ドクター。君が支離滅裂な言葉と共に内線で医療部に無理難題を言いつけて何時間が経過しているかわかるか?二時間だ。その間に君が行うべき業務と医療部の業務がどれほど滞っているか、君は正しく理解できているか?」
「うるせえ!」
普段のドクターからは想像もできない棘のある言葉に、リーは我が耳を疑った。
「文句があるならこの扉を開けてみろ!君が医療事業部最高権限で扉のキーを解除しようとするのと同時進行で、私は扉のセキュリティを更新し続けてやる!これ以上時間をドブに捨てたくないのなら、私の腕に入れ墨をしろ!」
「アーミヤが騒ぎを聞きつけてやってくる前に観念しろ」
「あっ駄目。アーミヤがこんな私を知ったら舌を噛み切って死にます。情けないドクターですまないアーミヤ……」
ゴツンと扉の奥から打ち付ける音がしたかと思えば、すすり泣く声までしてきた。精神状態が著しくない。おそらく理性も家出してしまったのであろう。しかし泣いている間も扉のセキュリティを更新しているらしく、いくらケルシーが手動でパスワードを打ち込んでもビクともしない。
アとリーが扉に近づくと、医療部がざっと道を空けた。さながらモーセの海割りだ。ケルシーがちらりとリーを一瞥すると、やっと来たかと言わんばかりに重苦しいため息をはかれた。人の顔見てため息つかないでもらえます?とはこの状況ではリーも口にできなかった。アが扉をノックして、声を張り上げた。
「旦那!リー先生来たぞ」
「……本当?」
すすり泣きが止み、機嫌を窺う子どものように恐る恐るといった声音でドクターが答えた。その声が随分と下の方から聞こえたので、きっと扉の向こうでドクターはしゃがみ込んでいるのだろうとあたりをつけて、リーは同じようにしゃがみ込みドクターに話しかけた。
「はい、ドクター。おれですよ。わかります?」
「本当だ。でも本物のリー?私の都合のいい幻聴かもしれない……」
「じゃあ、会ってみましょうか。扉を開けてくれますか?」
「やだ。ケルシー達も入ってくるんでしょ」
リーは後方に仁王立ちするケルシーの恐ろしい気配を感じた。立ち上がり、外套についた埃を軽く払い。ケルシーに向き直り、片手の指を三本立てて見せる。
「三十分ほど頂けますかね」
「駄目だ。十五分」
「そこをなんとか」
「十五分だ」
「…………二十分」
「……はぁ」
ケルシーがアを含めた医療部の精鋭を連れて引き返していくのを、リーは手を振って見送るのもそこそこに、扉に向かってなるべく刺激しないよう優しく語り掛ける。
「ドクター。ここにはもうおれしかいませんよ。だから開けてください」
「ずび……うん、今開けるよ」
あんなにも頑固に、強固に閉じられていた扉が呆気なく開かれる。開かれた扉のすぐ先に佇んでいたドクターは、顔を真っ赤にしてぼろぼろと涙を溢していた。愛しい人の涙を安売りよろしく振る舞わないでいただきたいものだと、リーは拭える分だけ涙を拭う。
「さ、座ってお話しましょう。歩けますか?」
「歩ける……」
小さな背中がとぼとぼと悲しそうに遠ざかっていく姿に、リーも自分の事のように悲しくなる。その背中も見失いたくなくて、ぴったりと後ろについて歩いた。襟足の毛量を減らしたせいだろう、うなじがチラチラと見え隠れする。
執務室のソファにドクターが腰を下ろした。スプリングが軋む僅かな音が、ドクターの軽さを代弁した。俯いてしまったドクターの前に膝をつき、その両手をとって顔を覗き込んでみれば、再び涙があふれ出しているところだった。
「さて、どうしたんですか?入れ墨なんて言い出して。あんなの痛いだけですよ」
やわやわと掌を握って言葉を促してやれば、スンと鼻を鳴らしながらドクターは嗚咽交じりに答えた。
「うろこが…ぐすっ、うろこがほしくて」
うろこ。鱗。リーは己の手首から覗く皮膚にドクターの視線が注がれていることに気づき、同じように自身の手首を見た。何の変哲もない、傷跡が走るだけの手首を。
「リーのうろこはきれいだね」
「ありがとうございます」
「えぐっ、それで…うろこがあれば、もっと好きになってもらえるかと思って。でもうろこは生やせないから、せめて、まねごとだけでも、って。いれずみ、いれたくて」
「待ってください」
褒められて舞い上がる隙も与えず、ドクターはリーに爆弾を投げつけた。「好きになってもらう」?一体誰にだ。
まさか、とリーは冷や汗が背中に伝うのを感じた。急に美しくなったドクター、かつての面影をなくしていくドクター。まさか。
振り向いてもらいたい相手がいる?
自分という者がありながら?
まさか。
「かみも、みみも、あしも、はだだって、私はなんにもないから。他のみんなみたいに特別なものがないから。だからすこしでも、きにいってもらいたくて、いいねっていってたもの、ぜんぶ、ちかづけようとして」
ドクターの涙声が針のようにリーの心臓を刺す心地さえした。人を見る目と人の心を読むこと、それらは得意と豪語できるほどだった。なのに己の目はドクターの心が自分から離れていくのを予期できなかったというのか。誰だ。どいつだ。おれの愛しいひとを奪ったのは。自分のためではない誰かのために流れている涙が恨めしい。
手を離して、ゆらりと立ち上がる。自分の顔を見上げようとするドクターを、リーは無言でソファに押し倒した。えぶっ、とどのように鳴いたのかわからない声がドクターから出る。吐息ごと食べてしまいたいほど可愛らしい声。涙に濡れそぼった瞳が大きく見開かれる。その顔の横に手をついて、どこにも逃げられないように閉じ込めてしまう。
「誰です」
「ぇえ?」
何が起こっているのかさっぱりわからない様子のドクターが、少し裏返った声を上げた。ソファが狭いせいでままならないが、無理矢理覆いかぶさるように乗り上げる。
愛しいあなた、愛くるしいあなた。何者でもないあなたを自分の色に少しずつ少しずつ染めていくのは、とても楽しかった。あなたが会いたくなるタイミングまでわざと距離を置いて焦らしたり、苦いから嫌だと言われても禁煙せず苦い舌のキスに慣らすことにひどく優越感を抱いた。
たとえドクターの心が逃げ出そうとしても、もうどこへも行けないようにしてしまおう。下準備は十分役目を果たしてくれたはずだ。自分だけが知っていた可憐な蒲公英のような人。すっかり高嶺の花になってしまったあなたを握り潰した香りは、どれほど甘いだろうか。
「あなたがそんなにも虜になっていて、その上あなたを泣かせる男はどいつですか」
「りぃ?」
涙の伝った頬を押し上げながら舐めとる。塩辛い味。これもやがては自分だけのものになる。リーは牙を見せて笑った。
「ねぇ、ドクター。そんだけ苦しいならもうやめちまいましょうよ。そんな奴に振り向いてもらうなんて、辛いだけですよ」
「いやだ!」
押し倒されたドクターが折り曲げた膝が、リーの腹に入った。もう少しドクターが小さかったら鳩尾に入っていたであろう危うい膝蹴りにリーは堪らず怯んだ。不意打ちすぎる。咳き込むリーを無視してドクターは立て籠もっていた時よりもわあわあと大声を上げて泣き始めた。
「なんでそんなこと言うの!リーのためにがんばってるのに!」
「……はい?」
リーのために、とリー自身がオウム返しすると、ドクターは泣きながら拳をリーの胸に向かって思いっきり振り下ろす。そんなことをしても、リーには全く痛みは走らない。ドクターはそれほどまでに非力な人だった。
「リーが、リーがバーで綺麗だって言ったり、褒めたり、憧れだって言ったから!私もがんばって負けないように綺麗にしたのに!誰でもないし何にもなれない私のこと、たくさん愛してくれるリーに、少しでも返したくて頑張ったのに!」
全く痛みは走らないが、最後に一層強く胸を叩いて、くるんとドクターはうつ伏せに丸まってしまった。くぐもった絶叫に近い声音が部屋中に響いた。
「やっぱりリーは私のことなんか好きじゃあないんだ!飽きちゃったんだ!」
わああ!といよいよ声を上げて子どものように泣き出してしまったドクターに、リーの脳はフリーズから中々立ち直らなかった。リーのために、おれのために。おれのため?いつおれが他を羨んだって?もしや、数か月前からバーで酒を奢られる代わりに乗った恋愛相談のことか?どこで聞いていたんだこの人?いやそれは誤解です確かに昔はやんちゃもしていましたが今はあなた一筋です本当です。ぐるぐると思考が拡散して、なかなかまとまってくれないそれらをリーは力任せにかき集めた。ドクターが叩いた胸が遅効性の毒のように痛み始める。
つまりこの人は、ドクターは。自分のために綺麗になろうとしてくれたのか。そんなの、そんなことをされるなんて、男冥利に尽きるってもんじゃあないか!とんだ誤解をしていたことにようやく気付き、慌ててリーはドクターの背中を擦った。うなじにキスもした。今この瞬間にできる弁明と反省と謝罪を吐き連ねた。
「ドクター。ドクターすみません。おれが悪かったんです。全部おれの勘違いで早とちりで。ぜぇんぶおれが悪いんです。だから泣き止んでください」
「リーに嫌われた!もう、もう指揮だけする人になる!PRTSみたいになる!」
「なんですかPRTSみたいになるって。本当にすみません。こっち見てくださいな。おれはこんなにドクターのこと大好きなんですよ!今までだってこれからだって、ずうっと愛してるんです」
いよいよドクターの喉が裂けてしまいそうな泣き声に変わり始めたことを耳が敏感に拾い上げ、なりふり構っていられず、うつ伏せに蹲ったままのドクターの腹に腕を差し込んだ。そのまま両足で踏ん張ってドクターの体を持ち上げる。突然のことに涙も泣き声も引っ込み、持ち上げられたドクターは犬や猫のように体が無防備に伸びきった。
「……落ち着きましたか?」
静寂が戻ってきたところでリーが尋ねると、ドクターは鼻を啜りながらも小さく頷いた。リーは一度ゆっくりとドクターの足裏を地面につけさせ、肩を優しく握りまるでダンスのターンでもさせるようにドクターの体を反転させ、自分に向き合わせる。よろめく体をぎゅうと抱きしめた。リーの背中にドクターの手が回る気配は、まだない。
「ドクター、どうしてそんなにするまで不安なんですか?おれはそんなことしなくても……もちろん嬉しくははありますけどね?そんなことしなくたって、ただのあなたに夢中なんですよ?」
抱きしめながら髪を撫でる。ミディアムほどの長さだった髪が、随分軽くなり簡単に梳き終わってしまうことが寂しかった。
「……君に、ずっと愛してほしかったんだ」
ふわふわの耳も、艶やかな羽も、輝かしい光輪も、しなやかな尾もない。何者でもない自分に退屈されたくなかった。そんな姿を愛するリーに何かを返したい、愛に報いたいとドクターは願った。しかしそれはドクターが都合よく綺麗事に変換しただけの言葉で、飽きられたらどうしよう、捨てられたくないという不安であり、リーへの不信とも言える。彼の偽りない愛への裏切りだった。そんな醜い感情を悟られたくないあまり、ドクターは嫉妬だけはしないと心に決めていたのだ。ただ羨むだけは許してほしいと祈った。だが、結果は台無しだった。ドクターは確かに美しくなった。あらゆる種族の美しさを切り取り、模倣し、貼りつけ、繕った姿は、例え不健康でも不摂生でも、ドクターの本来の姿をすっかり覆い尽くしてしまった。リーが愛したドクターの姿はもう、遠い過去のものになっている。
「リー。ごめんね、ごめんなさい」
ようやく背中に縋る華奢な指をした手に、リーはようやく安堵した。縋ってくれたのは嫌われていない、とわかってくれたということだろう。
「ちーとも怒ってませんよ。ドクター、いいことを教えてあげましょう」
リーがゆるゆると背中を撫でてやれば、ドクターはすっかり甘えるようにリーの胸に頬を寄せる。嗚呼、おかしい人だ。こんなにも可愛らしいのに、飽きる事なんてあるはずがないのに。
「おれは愛に見返りなんて求めやしませんよ。お代はとっくに頂いているんでね」
道端に懸命に咲く可愛らしい蒲公英のような人。可能性を秘めていたかもしれない蛹。成熟しきっていない、未熟な人。愛らしく可憐な、何者でもない、何者にもなれたあなたを、おれだけが知っている。おれのための存在になるよう染め上げて、喰らっている。例えドクターの同族が現れたとしても、そう認識できないくらいにあなたをつくりかえようとしている。あなたの知らないところで、おれはとっくにあなたを食い散らかしている。
おれがつくりかえたあなた。そんなあなたから、
「変わらないで、そのままでいてくださいね。ドクター」
抗不安薬と睡眠導入剤を安酒でちゃんぽんしたドクターは、そこで意識がブラックアウトした。
目が覚めた後にドクターがしたことは、ベッド上ではあるもののケルシーへの極東スタイル謝罪であった。土下座である。
「この度は多大なるご迷惑と、損失と、不快感を伴う発言と、」
「謝罪は結構。ドクター、時間は有限だ。君ならわかるだろう」
「はひ……」
ドクターは数日程ぶっ通しで執務室に籠って仕事をした。今回ばかりはドクターが何もかも悪いため医療部の制止も入らず、遅滞した分を取り戻すために徹夜もして働いた。結果、毛艶は失われ、髪は好き放題に伸び、顔色はすっかり元通りになり、必要最低限の肌のケアしか行う余裕がなくなった。完全に振り出しの不健康な人間に逆戻りである。振戦すら覚える手足で仕事を済ませ、ふらふらと自室へ向かうも道中で力尽きるように廊下に這いつくばって眠るドクターの姿を、リーはまるで獲物を待ち望んでいた獣のように喉を鳴らして見下ろした。
「よし、よし。ドクター、大丈夫ですよ」
軽々と抱き上げた後、大人から子どもまで誰も近づきそうにない顔色をした不摂生続きのドクターの額にキスを落とした。心底幸せそうな顔で、リーは笑う。
「おれがいるでしょう?」