隠し味は愛情「アップルパイあるけど、食べる?」
執務室の奥に存在するミニキッチンには、今やドクターよりリーの方が立っている時間が長いといえよう。食堂に置いてあるものとは比べ物にならないほど背の低い冷蔵庫の前にしゃがんだドクターが、扉を開けて中を覗き込みながらソファーに寛ぐリーへと言葉を投げかけた。ちょうどおやつの時間で、食堂には若いオペレーター達がわらわらと集い始めているはずだ。ソファーで専ら数字に強いが故に任された書類を確認していたリーが顔を上げる。
「せっかくなんで、頂きましょうかねぇ」
両の腕を天井に高く伸ばすと、肩からぽきぽきと音がした。威圧感を減らすためか、はたまた背が高いせいで会話に支障があるのか、普段から猫背気味な背中がぐっと伸びる。その恵まれすぎている体格は、ミニキッチンから背中を遠目に見ているドクターですら圧倒されるほどだった。ちくしょう、いいなぁ大きくて。ドクターは貧弱な我が身を呪った。
ぱたむを冷蔵庫の扉を閉じ、ラップを被せられ大皿にまとめて乗せられたアップルパイの二切れを運ぶ。忘れず取り皿とフォークを二つずつ手に取り、ローテーブルに置いた。
「甘い方と苦い方、どっちがいい?」
「んー……苦い方で」
「……えぇと、こっちだったかな。はい、どうぞ」
ドクターは断面を覗きこみ、やや林檎の色の濃い方を取り皿に取ってリーの前に差し出す。どうも、と皿を受け取り添えられたフォークを握る。
「これ、どうしたんですか?」
「貰いものだよ。みんな美味しいって言ってたけど」
一足先にドクターは甘い方らしきアップルパイを一口食していた。小さな口でぎっちりと林檎が詰まった一口を一所懸命頬張る姿は、ハムスターを想起させる。
「うん、美味しい」
ほんのり笑うドクターの顔に、リーもフォークをアップルパイに刺しこんだ。断じてドクターに毒見をさせたわけではない。冷蔵庫で冷やされしっとり冷えたアップルパイはやや硬くなっていたが、問題なくフォークで切り離すことができた。ドクターのそれよりも大きな一口分を口に入れる。冷えたパイ生地を歯で押し潰すと、真っ先に舌に触れたのはやはりと言うべきか、ごろごろと大きめに切られた林檎だった。僅かに歯ごたえを残して煮詰められた林檎をしゃり、と噛む。ドクターに苦い方、と言われたことに納得した。強めのカラメルで煮詰められたほろ苦さは、子どもには慣れない味だろうがリーには丁度良い味だった。底に詰められていたカスタードクリームとの相性も悪くない。一級品ではないが、良い意味で家庭的でオーソドックスな味だ。
焼きたてであれば生地もさっくりと空気を含んでいてもっと美味かっただろう。じわりと林檎からはカラメルが滲み出て、カスタードクリームはとろりと柔らかく、香りだってずっと立っていたはずだ。リーはもはや癖となってしまった料理の検分を終え、舌の上で充分に味わったアップルパイを飲み込んだ。
「美味しいですね」
「及第点?リーだったらどうする?」
「大前提は焼きたてであること。あとはパイ生地一枚の厚みを減らして、層を増やします。カスタードクリームにもう少しバニラの香りを足してもいいかもしれませんね」
おぉ、と感心しきった声が吐息と共にドクターの口から零れた。
「流石先生。改善点として次回に活かすとしよう」
「…………はい?」
ドクターがフォークを置いてポケットから取り出した手帳にペンを走らせていく。ぽかんとリーが口を開けて呆然としていたのはほんの一瞬で、すぐに手元の欠けたアップルパイに視線を戻す。何の変哲もない、ただのアップルパイだ。
「ドクターが作ったんですか?」
「うん。前に治療棟の子ども達と一緒に手探りで作ったんだけど、結構楽しくてね。昨日の夜作ってみたんだ。あ、苦い方は今回が初めて」
「さっき貰いものって仰いましたよね」
「そうだよ。昨日人事部の子の実家からたくさん林檎が送られてきてね。お好きにどうぞ、って今なら食堂にたくさん置いてあるんだ。いい林檎でしょ?」
小さい一口ではあるが噛んでは頬張りを繰り返していたドクターは、既に半分ほど平らげた後だった。少し前にリーが淹れた、ノンシュガーのぬるくなったコーヒーを飲んだところで、あ!とドクターが思い出したように声を上げた。
「違うよ。昨日は早く仕事が終わって、なんかおかしいテンションで作ったんだ。夜更かししてたわけじゃないよ」
「まだ何にも言ってないでしょうが」
先手必勝と言わんばかりに弁明を始めるドクターを微笑ましく思いながら、二口目を食べる。誰が作ったかで違った味に感じるものだから、人の脳とは複雑に思えて単純なものだ。クロスモーダル効果といったか。赤い着色料のついた甘味料をイチゴ味と共感覚で錯覚する現象のように、至って一般的で普通のアップルパイをドクターが作ったというだけで先ほどより美味に感じる。そしてそれが生じるのは、リーがドクターを好意的に思っている証拠だ。
「イーサンやケオべが味見に付き合ってくれたんだけど、結局普通に食事になっちゃってね。ひとつずつしか残らなかったんだ」
カチ、とリーの口の中で歯がフォークを噛む。
リーより小さな体がえっちらおっちら動き回りながら作ったであろう焼きたてのアップルパイを食せなかったこと、自分が一切れしか食べられないことに対して他の者の方がより美味しい瞬間に多くありつけたこと、即席麺と完全食が友達のドクターがキッチンに立ち調理する様を見れなかったこと。あらゆる不満が拗ねた子どものように沸いては、シャボン玉のように弾けていく。そしていつの間にひとりの人間に対してこのように狭量になってしまった自分の変化に、苦いため息をついた。
「ドクター。今度はおれにワンホール丸ごとくださいよ。焼きたてのやつ」
「それは構わないけど……」
手帳をポケットに仕舞いおやつを食すことを再開したドクターが、意外だと言わんばかりに目蓋を上げアーモンドアイがぱっちりと見開かれる。無防備に晒された顔は、なるほどこれは隠さなければ思考を盗むことなど造作もないことだとリーは常々思う。もちろん、作戦指揮中のドクターは別人のように無機質な顔となり、気を許したオペレーターでもない限りここまで表情をころころと変化させない。その表情を拝むことができるうちのひとりであることに、リーは少しだけ自惚れていた。
「リー、アップルパイが好きだったんだ」
それだったら悪いことをしちゃったね、と謝るドクターにいいえ、と笑う。
「あなたの作ったものなら、なんだって食べたいですよ」
廊下が消灯を迎え非常灯を除き暗闇に包まれた中で、食堂の電気が煌々と輝いている。じわりと景色を塗り替えて現れた客人ことイーサンに、ドクターは喜んで手招きをした。甘い方と苦い方、どっちが食べたい?そう聞けば両方ふたつずつ、と注文が入る。
「夜に食べ過ぎじゃない?」
「メディカルチェックの時間がズレこんだり長引いたりして、晩飯食えてねぇんだよ」
「……結果が良くなかった?」
イーサンに向き合うように向かいの席に座るドクターが不安そうに声を絞り出すものだから、イーサンは大袈裟に手をひらひらさせて否定した。
「機械の不具合でバタバタしただけで、俺は健康だって!血液中源石密度だって安定してるぜ」
診断書数枚を差し出され、アップルパイと交換する形でドクターは受け取った。ふむ、とドクターの視線が紙を泳ぐ文字たちを追うのを他所に、イーサンは差し出されたアップルパイを手掴みで食べた。三口ほど齧ったところで、ドクターが声を上げた。
「すまない、フォークを忘れていたよ」
「いいって。俺はこっちの方が慣れてるし。で、なんでこんな時間にアップルパイ作ってるんだ?」
一切れ目をぺろりと平らげたイーサンがドクターに投げかけると、ドクターは居心地悪そうに目を反らし、診断書をテーブルに置くと落ち着きなく指先を合わせた。
「半分は気分転換。作り方を覚えているお菓子のひとつだし。もう半分は……えぇと、イーサン」
――喫煙者って、苦いものが好きっていうのは本当?
レユニオンを脱退してすぐにロドスへ加入したイーサンは、それなりにドクターとも長い付き合いとなる。だからこそドクターの最近の変わりようといったら急加速で、まさに初恋を知ったばかりの生娘のようだった。頬を血色良く赤く染め、恥ずかしそうに足を組み直したり指先を擦り合わせる姿など、まさしく恋する乙女だ。
「あーはいはい、あの胡散臭い人」
「別にリーとは言ってないだろう!」
「誰も言ってないんだよなぁ」
うおおぉ、と自ら墓穴を掘ったドクターがテーブルに額をぶつける勢いで伏せた。あーあと呆れながら苦めの一切れを齧ったイーサンはつむじを見下ろしながら、喉に引っかかる甘ったるくて仕方がないそれを、コップに注がれていた水で押し流す。
「あんたの作るモンなら、あの所長サン何でも喜ぶと思うぜ」
一から想い人のために作ったとあればなおさらだ。……そんな陳腐なアドバイスなど、羞恥心で頭を抱えて伏せるドクターには聞こえやしなかった。