一心同体 カリスマ性、とは。他人を支配する統率力、人を惹きつける魅力、人々を心酔させる掌握力。神より賜った才能または天賦の力。
そして大抵の龍種が生まれ持つ恩寵とされている。
このような経緯から、龍の周りには常に人がいる。龍は、それはもう恐ろしく、モテる。カリスマ性に富んだ彼らをそう言い始めたのは誰だろうか。売れたい記者か、噂好きの編集者か。余程の命知らずであることは確かだろう。人を惹きつけて止まない彼らは花、彼らの愛を求めて群がる烏合の衆は蝶か蜂だろうか。
男性の龍であれば女性たちは媚び得るように諂い、女性の龍であれば男性たちは見初められようと阿る。自身に群がる様々な種族の異性の数は、すなわちその龍のカリスマ的支配力の表れとなる。諍い、勉学、闘争、商い。あらゆる分野の中で勝利や成功を収めることで、龍は信者から更なる信仰と崇拝を獲得し、己に新たに追従する者へ福祉が齎されることを証明するのだ。龍を囲う人々の数は龍の社会、企業、組織の中で最も信憑性の高いヒエラルキーの誇示となる。
かくしてドクターの生涯のつがいことリーも、退廃的な煙草の匂いや草臥れた服装、癖の強い髪などで印象をコントロールしているもののその例に漏れず優れたカリスマ性に恵まれていた。もともとは龍門の出自ではないリーにとって、そのカリスマ性は異国の地で友好的な関係を築く助けにもなっただろう。
すん、と己を腕の中に閉じ込めるリーの服の胸あたりに顔をうずめてドクターは浅く匂いを嗅いでみる。いつもと変わらない煙草の匂い、昼食を振る舞ったのだろう食欲をそそる香り。その中に嗅ぎ慣れない、砂糖を煮詰めたような甘い香りが混ざっている。煙草の匂いには慣れたというのに、そちらには未だ不慣れな呼吸器が肺への侵入を拒み、反射的な防御反応に咳き込む。
「ドクター?」
大きくあたたかな手がドクターの背をゆっくりと撫でる。何度か咳き込んだ後、ゆっくりと深く息を吸い、吐いて、大丈夫だという意思表示も兼ねてひらひらと手を振った。
「けほっ、ん……大丈夫。これ、香水の匂いかな?」
「は、」
生理的に薄く膜を張った涙を指先で拭っていると、背中を撫でるリーの手の動きがぎちりと拙くなる。油の切れたブリキ人形のような挙動と、熱の引いた乾いた声音にドクターは遥か高くのリーの顔を見上げる。そこには普段の気の抜けた笑みは何処へ、眉間に皺を寄せすっかり視線はドクターから逸らされていた。ぶつぶつと何か口ごもっているようだったが、ドクターには全く聞き取れず首を傾げてみると、腕の中のドクターの動きに我に返ったようにドクターを見下ろす瞳と目が合う。きんいろが煌き、散らかした思考をかき集めるように揺らぎ、動揺が奥底へと隠される。
「すみません、次からは気を付けます」
そこに僅かな嘘の色が見える。嘘というよりも、言い訳や誤魔化しに近い。ドクターはリーの偽りを見抜いたが、しかしすぐさまその疑惑は幸福に溶けていく。探偵業を営むリーは探偵に必要とされるスキルを一通り習得しており、こと心を読むことや真意を隠すことには長けていた。ドクターもリーとの距離感を測りかねていたころはその技に苦労した。しかしそのリーの技さえも今では筒抜けで、ドクターの目にはいくら繕おうとも美しい捏造は晒され、残酷な虚偽は暴かれる。それらを見抜いてしまえるほどに親しく、近く、相手を知った関係を築いている現状に。あるいは愛しい人を前に幾らかガードが緩くなっているリーに。ドクターはおかしくて笑ってしまう。
「ふふ……君、面白いくらい動揺して、あははっ」
突然声を上げて笑い始めたドクターに、リーは戸惑ったように音を上げた。
「なんですか、何がそんなにおかしいんです?」
あはあはと子どものように可憐に笑うドクターの笑い声が治まるまでリーは何もできず手を彷徨わせることしかできなかった。ただ何もせず待つということができず、狼狽えながらも尾鰭がドクターの足に絡みつく。それ以外はどうしようもなくてうろうろする手の動きがその可笑しさを装飾してしまい、治まるまで数分の時間を要した。はぁ、とため息をついてドクターにこりと微笑む。
「香水。別に怒ってないし、気にしてもいないよ。君のことだ、依頼人か……それとも古い知人だろう?」
ドクターが見抜いた虚偽と真実の照らし合わせを求めると、リーはバツが悪そうに顔を歪めた。
「昔の友人、いえ後輩?クソッ、匂いが移るほどの距離を許したつもりはなかったんだけどな……」
「文献に目を通したよ。龍は恐ろしくモテるんだろう?君がまだ青い時期がどんな風だったか、俄然興味が湧いてきた」
「やめましょう。……やめてください、あれはそんなもんじゃないんです。昔の話なんて、あなたは知らなくていい」
香水の匂いを消す様に服を手で払い始めたリーは心の底から不快だという表情でいる。まるで過去ごと振り払うような乱暴な言い方は、リーにしては珍しい。いつだって穏やかな声に、怒りや苛立ちという感情が乗るケースは極めてレアだ。過去に関わる時はいつだって、リーはドクターの知らない声や顔をする。そのことが少しだけドクターの胸を痛めつけた。結局のところ、この男の何もかもを知ることは自分には許されていないのだ、と思い知らされているようで。
実際は、龍はつがいに過去の追従者たちのことを知られることを嫌うという習性の一種に過ぎないのだが。龍ではなく、龍の文献も少ない状況では既知であることを求めるのは不可能や無茶ぶりに近い。
そんなこととはこれっぽっちも知り得ないドクターは、気まずそうに視線を逸らすことしかできない。
「もちろん今の君だってすごく魅力的だよ。そっちの方面に無頓着な私でさえ魅了されているくらいだ。龍門の街で君を知らない女の子なんていないんじゃ……いや、違う。そうじゃない」
「ドクター?」
視線を下げ、自身の爪先を眺めれば片足に巻き付く尾鰭が優しく下腿を撫でた。美しく揺らめく鰭を、すり寄る猫のように愛おしく想いながら、ドクターは名前ばかり知っていて中身には全く未知な感情を吐露する。
「そんなことを言いたいんじゃないんだ。私……私は、嫉妬しているのかな。わからない。嫉妬、とも違うような気がする」
知識によればその感情は良くないものだとドクターは把握している。深く息を吐いて、早く消えてくれないものだろうかと、ただただ祈る、祈る神などいやしないのに。
「君の過去を聞き出そうなんて思わない。私にはその対価を支払えない。でも、うん。私の知らない君がいることが、少しだけ寂しい、と……思ったんだ」
願いを捧げる両手をポケットの奥まで隠して、平坦で抑揚のない声が地面に落ちていく。そろりと下腿の裏を撫でながら、リーの尾鰭がドクターの足から離れる。器用な尾はゆるりと揺蕩い、何往復かドクターの足を撫でるとリーの足元に垂れ落ちる。床を掃くように揺れる尾に、らしくないなとドクターはその動きを興味深く目で追った。そんなことをしていたものだから、リーがどんな顔をしているかなんてこれっぽっちも知りやしない。
「あなたは、おれの過去なんかが欲しいと言うんですか」
ずり、ずり、と音を立てて地を這う鰭に新たな傷や穴が空きやしないかとひやひやしているドクターは、心ここにあらずといったように、思考を挟まない感情そのままの答えを口にした。
確かにドクターは、うん、と答えた。続けて、でも、とも言う。その唇を銀杏色の手袋越しにリーの長い指が塞いだ。
「わかりました」
次にリーと再会を果たしたのは、それからひと月後になった。ロドスが龍門に停泊してすぐにリーはロドス本艦に搭乗し、いつもドクターのもとへふらりと現れる。その日もまた自販機の前で購入するカフェラテのメーカーに悩むドクターをどうやって見つけたのか、誘蛾灯に誘われるようにドクターの隣へ当たり前のように立つのだから、探偵とは全く恐ろしいものだとドクターはリーに関心した。
「ドクター。これをどうぞ」
符や飴を手渡してきた時と同じく、なんでもないようリーがドクターに差し出したのは木製の箱だった。開けても?そう問う視線を向ければ肯定を込めにこりと微笑まれる。細長い桐箱をぱこりと開けたドクターは、子どものようにはしゃいだ色をした声を上げた。
箱の中身は金属が一切使われていない、大きな鱗と石を紐で編み込み直接繋いだ御守りだった。紐を摘み上げる。形状だけなら、リーが昇進の際にドクターに贈った玉飾りに似ている。編み込まれている石は大振りの黒水晶のように見え、美しく磨き抜かれてもなお向こう側が窺えないほど深い漆黒をしている。その表面を金彫りしたのかと見紛うほどに目に鮮やかな金色が砂金の如く疎らに散らされていた。不規則な金色は照明の輝きに一瞬も同じ表情にならない。それほどにも大層な石に負けず一層目を引くのは、リーの鱗を彩る全ての色が含まれている大きな鱗だった。その鱗ときたら、ドクターの親指の長さに届きそうなほどの大きさをしているものだからドクターは驚いた。
「こんなに大きな鱗、どうしたんだい」
「剥がれちまったんですけど、形も色も悪くないでしょう?よく宿舎でおれの尾を見ていたんで、鱗に興味があるのかと思っていたんですが。違いましたか?」
「なん、お、起きていたのか!?」
「おや、本当に興味がおありなんですねぇ」
「……鎌をかけたな」
ちらりとドクターがリーの尾を見れば、くるりと普段はない白い線、包帯が巻かれていた。治りが悪いのなら医療オペレーターに診せるべきでは、と思ったがリーの養い子のひとりには龍門一の闇医者にしていずれ医療に革命を齎す子がいるのだから、大きなお世話だろうとドクターは一度開いた口を閉じる。
「おれのつがい、未だ道半ばのあなた。そいつをおれだと思って、肌身離さず持ってくださいますか」
ドクターが生み出したそんな不自然な沈黙を逃さないよう絡めとり、リーは自分のための時間として利用する。言葉を用いた戦いならば、ドクターもリーに引けを取らない。しかし沈黙までも使いこなせと言われると、ドクターはまだまだ未熟だった。声の抑揚、沈黙の使い方、声のトーン、タイミング。対人と対話の技能は、雰囲気こそ異なるがまるでドクターを盟友と呼ぶあの友人を変わりない。隙を見せれば、一気に掬われてしまう。
トン、と。リーの人差し指が優しく鎖骨の結び合う場所、胸骨柄を突く。
「おれの過去が欲しいと言ったでしょう?そいつは多分、おれと一番付き合いが長い鱗だと思いますからね。今のおれが差し出せる唯一の形ある過去ってことです」
「でもこれ、オーダーメイドってことだよね?あとこの石も。高価なんだろう?壊したら大変だ」
掌に乗せた御守りは繊細で、そしてドクターに贈る物には一切の妥協を許さない龍の男は、きっと今回もかなりの金額を費やしてこの品を用意したに違いない。ドクターは申し訳なく思う。こんなにも美しい物を、最前線ではないとはいえ戦場に立つ者に贈るのはどうなんだ、と。そしていつ死ぬかもわからない人間の部屋を幸福と思い出で彩るなんて、おかしな趣味を持っている奴だと。
しかしそれすらも見通す月の瞳は、うっとりとほくそ笑むのだ。
「そうですね、壊れたら大変ですよ。なので壊さないように、あなたも気をつけてください」
無茶をするくらいなら、その気負いまでも人質にとってしまおうという考えらしい。
「……わかった。あの、リー」
「はい」
「ありがとう」
傷つけないよう細心の注意を払いながらもその御守りをドクターが愛おしそうに握りしめれば、リーは今度こそあたたかく微笑み、最初からそう言いなさいなという小言と共にドクターの頭をフード越しに優しく撫ぜた。
御守りとは。厄除けに招福、加護や祝福など、願いや祈りを込められた縁起物であり、人々の心のよすがであり、覚悟のひと押しだろう。
「やむを得ない。防衛ラインに敵を通す」
ドクターの口から放たれた言葉に、会議室へ集められた作戦に参加するオペレーターや医療部がざわついた。傍らでその言葉を聞いたアーミヤは断固反対という顔でドクターの横顔を見上げる。
「ドクター、それは危険です!」
「わかっている。私は防衛ラインの最前で指揮をしている。敵が侵入した場合、最初に鉢合わせるのは間違いなく私だ。だがこの作戦を強行するのであれば、これ以外に方法はもうない」
モニターに戦場となる土地を映し出す。極めて複雑かつ不安定な地形での戦闘となり行動範囲も限られることとなるその作戦は、ロドスでも指折りの少数精鋭によって決行される予定だ。
「アーミヤ、本作戦に投入できる人員は限られている。そのほとんどを前線に投じたとしても殲滅は不可能だ。戦線崩壊は最も避けたい事態となる。ならば防衛ラインが耐えられる数…そうだな、二体まではこちらでどうにかするしかない。君も前線に出てもらう以上、当日の護衛は私が指名する」
もう傍らに控えているケルシーに視線を向ければ、彼女は何も言わない。そのケルシーまで前線に投入する作戦である以上、当日ドクターの護衛を任せるオペレーターさえも精鋭でなければならない。ケルシーの無言を異論なしと解釈し、ドクターは眉尻を下げるアーミヤの肩に手を置いた後、作戦会議に召集されたオペレーター達をゆっくりと見据えた。フェイスシールド越しでもよく通る声を、会議室の端まで齟齬なく聞こえるよう普段以上に張る。
「作戦決行は五日後。本作戦部隊に編制されるオペレーターには明日の十時までに現地での待機および配置ポイントを端末に送信し、十四時に訓練室にて演習を行う。それまでに端末を必ず確認してくれ。では、本日はこれで解散とする」
張りつめ冷たい空気が、徐々に廊下へと流れていく。最後のひとりまでオペレーターが会議室を去る背中を見送る。その間ドクターはポケットの内で人知れずリーから手渡されたあの美しい御守りに繋がれた鱗を指先で撫で続けた。祈りを捧げることも、願いを乞うこともしない手は、愛しい人の形に縋る。全てを救う神などいないと信じているドクターにとってのよすがにして、戦場に立つ覚悟を奮い立たせるものは、龍の姿をしている。
ドクターは会議室から出た足でそのままPRTSの演習機能を利用し、オペレーターの配置ポイント、タイミング、予想される敵とその数をシミュレートする。繰り返す。
繰り返す。繰り返す。繰り返す。繰り返す。繰り返す。
そうやって試行錯誤の末に満足のいく作戦を編み出して。その足で執務室へ戻ろうとする途中、廊下の切れかけて点滅する照明に誘われるようにして販売機の前に立った。疲労に翳む視界と息苦しさにフルフェイスのシールドを外し、乱暴に談笑スペースとして設けられた傍のベンチに転がす。たまには缶コーヒーでも、と取り出した硬貨を指先で弄んでいるうちに、敵が防衛ラインを越えたことをPRTSが知らせる警報音が脳裏に蘇る。二回続けて鳴り響いたけたたましい音が離れない。前線を維持するためとはいえ、敵を二体も防衛ラインに侵入を許すことは前代未聞だ。加えて傍にアーミヤもケルシーもいない状況であり、非戦闘員の医療部がドクターの後方には控えている。作戦を立てた以上、医療部のメンバーにかすり傷のひとつも負わせることは許されない。ドクター本人にも戦闘能力がない以上、情けないが当日の護衛が頼りとなる。しかし責任を押し付けるつもりは微塵もない、有事の際はその全ての責任はドクターが負って当然だ。もちろん、そんな事態は避けなければならないため護衛の選抜は一層慎重にならなければならない。
けたたましい警報が頭から離れない。心臓がびくりと戦慄き、鼓動を不規則にする。ああ、うるさい、うるさい、煩い!焦燥と不安と苛立ちのままにピン、と硬貨が宙を舞う。無意識のうちのコイントスは、飛ばしたはいいが受け止めることを全く考えていなかった。そのまま床に音を立てて落ちるはずだった硬貨は、しかし後ろから伸びてきた大きな手によって救われた。乾いた手袋の擦れる音に、はっと意識を現実に戻してドクターは振り返った。
「こんばんはドクター。考え事ですかい?」
すっかり見慣れた銀杏色の手袋をはめた主はやはりリーで、その指が器用に硬貨を弄び、ドクターの前に差し出される。
「うん、そんな感じかな」
差し出されるがままにドクターは掌をリーの手の下に構えたが、硬貨が掌の上に落とされることはなく、まるで子ども相手に揶揄うように頭上へと高く高く掲げられてしまった。
「……食堂で飯作ってる時に小耳に挟んだ程度ですが、また随分と難しい作戦が近いうちにあるそうですね」
答えるまでその腕を下げる気はないらしく、探偵の尋問に素直に応じる。そのきんいろの眼にかかれば、即席の嘘は呆気なく見破られ、愚かな虚勢は崩れ落ち、優しい偽りまでも残酷に暴かれてしまう。
「そうだね。部隊に編成できる人数も限られているし、特殊な地形も相まって、前線維持が厳しい。だから今回は防衛ラインに敵が侵入する前提で作戦を進めることになった」
「それ、本当に大丈夫なんです?」
「なんとかするさ」
非力な自分ひとりでは医療部のメンバーを守ることはできない。自身だけが危険性の高い場所に立たされる分には、まだいい。本当はいいと言ってはいけないのだろうけれど。自分が選び、自分だけが危険にさらされるのは、自己責任で仕方がないと割り切れてしまえるようになった。だが非戦闘員の彼ら彼女らに何かあってはならない。ドクターの選択で犠牲を生み出すわけにはいけないのだ。
跳ね上がった心拍数に息をのむ。大丈夫、シミュレーションはうまくいった。空調が正常に稼働しているにもかかわらず汗が垂れた。明日の演習ではより精密な作戦となる。うまくいく。耳鳴りが激しく、リーの声が遠い。絶対に失敗は許されない。瓦礫、炎、硝煙、血の匂い。フラッシュバック。犠牲が出てはならない。
片手をポケットに潜め、美しい御守りを撫でる。よすがに縋り、覚悟を上塗りする。
ドクターは完璧で、過去を陵駕するドクターでなくてはならない。
「■■■」
甲高い耳鳴りさえかき分けて、リーの声がするりとドクターの心の臓を撫でた。ドクターを演じるひとりのにんげん、その魂をこの世界に引き寄せ、この肉体に繋ぎ止めるもの。多くは足元に巻き付くその鱗獣に似た長く逞しい尾が腰に巻き付く。そういう時は決まって、ドクターが何と言おうとリーの要求を呑むまで離さない。
いつの間に硬貨を自販機に食わせてしまったのか、ドクターが差し出したままの手にあたたかなココアの缶が握られた。
「おひいさま。目の前にいる龍の使い方をお忘れで?」
ぱちり、と目の翳みを払うようにゆっくりとドクターは瞬きをひとつ。目の前のきんいろの瞳が僅かな熱を帯び、その色に赤みを孕ませた、気がした。
「おれを使いなさいって言ってるんです。護衛くらいなら、おれでもできますよ」
「よくもそんなことが言える。……君がいれば、そりゃあ助かるけど、龍門を離れた作戦なんだ」
事実、単騎での戦闘に置いて前衛の勇士や武者たちと肩を並べるほどの働きをリーは見せる。とりわけ行商人という肩書きを持つ彼らは戦場をある程度先鋒オペレーターで整える必要はあるものの、その手間に見合うかそれ以上の働きをする。いくら偵察ドローンを飛ばせてもドクターの目は一対しかなく、当然情報処理や演算能力にも限界はある。そんな中で彼らときたら、ドクターの目が届かない場所で敵の進行ルートを単独抑え込んでしまうのだ。それほどの実力があるリーが当日の護衛となれば、ドクターとしてはありがたい限りだった。それこそ、たった今抱えている不安が全て吹き飛んでしまうほどの。
しかし探偵事務所の仕事は大丈夫なのか。そう意味を込めた言葉は、まるでたった今腹の前で揺れる尾鰭で追い払うように「そんなもの」とあしらわれてしまう。
ココアを持たない、未だ冷えたままの、ポケットに潜った方の手がリーの手に奪われる。過去ではなく、目の前の男に縋れと言わんばかりに手を攫われる。爪の色まで悪いその手を優しく掬い上げて、リーはキスを落とす。種族特有のその口には柔らかな唇は存在せず、硬くも確かな熱を帯びた口吻が指に熱を分けるように触れる。
「あなたには、なんの憂いも背負ってほしくないんです」
熱い眼差しには、優しい執心と偏執と我執に傾倒した色が渦を巻いている。己を強く持たなければ、律しなければ、なにもかも攫って喰らって飲み啜ってしまう瞳。いよいよ零れた吐息が指先を暖め始めたところで、ドクターは羞恥を思い出しその手をひっこめた。およ、と気の抜けた声に気づかないふりをして、両手でココア缶を握りしめた。
「わかった。当日の護衛は君に依頼する。頼んだよ」
「そこは可愛らしく、お願いと言ってほしいですねぇ」
リーは初心な反応を愉しむように微笑み、置き忘れられていたドクターのフェイスシールドを拾い上げる。冷たいそれを雑に手に持つ。
「叶うのなら、病むことも痛むこともなく過ごしてほしいんですけどね。このままじゃあおれみたいな中年の心臓はいくらあっても足りませんから」
もしこの場に開放された窓があったのなら、リーはフェイルシールドをそこから外へ放り投げていたかもしれない。そうドクターに思わせるほどに、それを拾い上げた時のリーの表情は冷たく、色もない、氷のようなかたちをしていたのだ。ドクターの痛みを自分のもののように抱き、ドクターよりも憎み嫌う人の顔だった。いつだってリーはそうなる。食事を抜いた時、睡眠不足が祟った時、点滴をしたまま仕事をする時、耐えきれずデスクで眠ってしまった後。ドクターが不摂生と不健康を並べる時、彼は決まって痛む表情を浮かべる。
「何故?私の痛みは私だけのものだろう」
どうしてそのような顔をするのか。そう尋ねると、リーの尾がドクターの腰を引き寄せ、ぴったりを隙間なく二人の体を密着させる。トクトクと規則正しい己のものではない鼓動が、ドクターの身体にじんわりと染み入っていく。ドクターの鼓動よりもずっとゆっくりで、今を楽しめという男の余裕はそこにも現れる。小鳥のように忙しなく、生き急ぐように駆けるドクターとは正反対に、湖面を泳ぐ水鳥のように優雅で気品に溢れた鼓動の音。子守歌のように慰める音をそのままに、リーは額にも小さな口づけを降らせた。ぐるる、と喉が鳴らせる。龍にとって、それは無条件下では幼い日にのみ許され、以降は巣の内側で愛しい者のためにのみ鳴らされる、愛の微笑みと依存の象徴。
「あなたの苦しみや痛みは、とっくにおれの苦痛でもあるってことです」
以下、蛇足。
「龍の生理学:改訂第三版」「炎国文化学」より一部抜粋。
・龍種に伝わる「角ある龍は枝分かれした角の一部を折り、鱗ある龍は一番大きな鱗を剥がし、加工を施した上でつがいに贈る」文化について。
贈るという行為よりも体から切り離すという過程に意味があります。
この過程で重要視されることは「贈る側の龍は切り離した箇所を人為的に治療してはならない」と言い伝えられていることです。切り離した箇所をアーツなどで治療、完治させてしまうと龍の体の一部であるという「繋がり」が断たれてしまうため、贈る側の龍は自然治癒以外、人為的治療を強く拒絶します。この行為は鉱石病の発生により一層衛生管理・感染予防が徹底されている現代においても未だ根強く龍の間で行われており、炎国の宗教的儀式の側面があると考察されています。
切り離した一部をつがいに手渡すことで、贈る側の龍がつがいと一部の感情や直感などを共有するという報告があります。つがいの恐怖や苦痛、つがいの周囲に脅威が存在する、など危機的状況を「繋がり」が保持されたままの体の一部を通じ、自身の体や感情の一部として取り込むことでつがいを守ろうとします。
※追記
また近年、龍の「繋がり」を介した危機察知能力は源石に由来する天災やアーツユニット・オリジニウムアーツ暴走事故までも察知したという報告が増えています。
※補足事項
龍はつがいと出会うまでに不可抗力や事故、成長の過程などで分離した角や鱗で作られた、麗石と同様の技術で作成した石をアクセサリーとしてつがいへ贈る文化があります。これは龍の角や鱗が中胚葉由来であるという論文の発表から、骨や心臓などと同等の価値となり、つがいへの最上級の信頼と求愛、執着を意味します。