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かくしごと
もう寝ようという時に、ポコっと新着メッセージを知らせる音が鳴る。送り主がブレだったことで自然と緩んだ唇は、確認したメッセージにひどく歪んだ。なぜなら画面に表示されたのは、『具合悪い』の一言だけだった。
すぐに寝巻きを脱ぎ捨て、適当な服に着替えた。時間を見れば、ブレの家の近くを通る電車はもう止まっている。こうなったら向かう手段はひとつだ。スマホと財布を入れた鞄を手に、共同置き場に止めている自転車で飛び出した。吹き抜ける風は、さすがに冷たい。
普段ブレから来るのは、予定の確認やくだらないことばかりだ。そんなあいつが、あの一言だけを送ってきた。
つまり相当悪く、弱っているのだろう。頼られたと感じられて、不謹慎だが嬉しい。確かめるのを、後回しにしなくてよかった。下手をするとあいつの性格から、このメッセージを消されていた可能性がある。ブレは案外頑固なので、口を割らせるのはかなり苦労するんだ。
向かう途中でコンビニを見かけ、思わず足を止める。体調を崩しているなら、買いに外へ出れないだろう。こういう時、一人暮らしは不便だよな。思いつくものをカゴに入れていく。コンビニで買うのは高いが、他に店は開いていないので仕方ない。適当に買い込み、今度こそブレの家へと向かった。
そうして見慣れた扉の前まで来た。鍵は持っていないので、ブレのスマホを鳴らすしかない。
なかなか出ないので、日付も変わる遅い時間なことも忘れて心配した。だから繋がった時はほっとしたが、かすれた声が聞こえて眉間に皺を寄せる。
『トワ、……どうかした?』
『どうかしたのはお前だろ。寝てるところ悪いけど、入れてくれないか』
『えっ?』
『お前の家の前に来てるから、開けてくれ』
ここで会話は途切れてしまった。何度か呼び掛けていると、ガチャリと音がして扉が開いた。目の前の俺を見て、ブレは随分と驚いた顔をしている。その頬ははっきりと赤く、髪は結われていないからぼさぼさだ。
これだけで、あまりよくない状況だと悟る。すばやく鍵まで閉め、手を引いてさっさとブレをベッドの中へと戻した。
「えっ、トワ?」
「熱は測ったのか? どれくらいあるんだ」
部屋のテーブルをベッドの近くに移し、コンビニの袋から取り出した物を置いていく。買いすぎた気もするが、足りないよりはいいはずだ。
「具合悪いって風邪か? 食欲はあるか?」
「……なんで来たの?」
「そりゃ来るだろ」
付き合っている奴に具合が悪いと言われ、気にならない奴なんていないだろ。
「これ貼っとけ」
「ん、冷たくて気持ちいい」
額に手を当てれば熱く、ブレは鼻をすすりながら小さく咳をしている。だから一緒に買ってきた、ひんやりするシートをおでこに貼ってやる。あまり効き目はないらしいが、熱が出ていたらやっぱり要るかなと、つい手が伸びていた。
テーブルにあった体温計を渡し、ブレに測らせる。その間に詳しく聞けば、買った薬を飲んで昼からずっと寝てたと言う。今は夜中だぞ、もっと早く俺に言えよとモヤモヤした。
見せられた体温は思っていたよりは低く、ほっと胸を撫で下ろす。風邪だと思うし温かくして薬を飲み、大人しくしていれば良くなるだろ。もし熱が上がったら、一緒に病院へ連れて行くだけだ。
「ちょっとでもいいから腹に入れて、薬を飲めよ」
身体を起こしたブレはぼんやりとしていて、ちょっと可愛いと思ってしまった。オレの言葉にこくりと頷いたり、いつもより素直なので、余計にそう見えるのかもしれない。
「なんか量多くない? オレこんなに飲めないし、多分食べれない」
「ああ、こういう時は気分で欲しいもの変わるし、種類あった方が食えるだろ」
飲み物は水などをいくつか。それから食べ物はゼリーやプリンなど、並んでいたものをひとつずつ買ってきた。選びきれなかったのは内緒だ。
おかげで、狭いテーブルの上は結構埋まっている。選べる方が楽しいから気にするなと、伸ばした手で髪を掻き混ぜた。
「じゃあ、それがいいな」
「これか? 無理に全部食うなよ」
甲斐甲斐しく世話をして、容器の蓋まで開けてやる。なんか、してやりたくなってしまったんだ。
大人しく食べる様子を眺めながら、他になにをしてやろうか考える。ああ、そうだ。ブレが起きているあいだに、しておかなければいけないことが、ひとつだけあった。
「具合悪かったら外に出ないだろ、鍵貸してくれ」
「そこの壁にあるけど」
「サンキュ。寝てるブレに開けてもらうの、悪いからな」
指で示された入口近くの壁に、鞄と一緒に下がっていたので早速借りる。小さな犬のキーホルダーが付いているが、なにかのマスコットだろうか。意外と可愛らしいものを付けている。失くさないように、俺の鍵と一緒にしておく。
熱で頭が回らないのだろう、不思議そうに首を傾げて俺を見ている。お前が良くなるまで借りるだけだと言えば、納得したようだった。
立ち上がったついでにクロゼットを開けると、欲しかった毛布がある。他にも枕に出来そうなものもあるから、色々と借りることにした。俺も寝ないと身体が持たない。手にして戻ればブレは横になっていたので、テーブルの上を簡単に片付けてから座った。
「トワ、泊まるの?」
シーツから顔を半分出し、俺を見るブレがまた可愛く感じられてどきりとした。きっと、いつもの生意気さが鳴りを潜めているからだ。
今から寒い中を帰るのは面倒だし、なによりこんな状態のブレは放っておけないだろ。
「そのほうがいいからな。朝のバイトに出たら、また来るわ」
「……授業は?」
「きょうは休みだろ」
「そうだっけ」
「そうだよ、だから安心して寝ろ」
もう夜も遅い時間なのと薬も効いたのか、しばらくするとブレから寝息が聞こえてきた。その頬はまだ赤いが、静かに眠っているので大きく息を吐いた。
本当は色々と言いたいことはあったが、病人相手にすることじゃないと我慢した。抑えられた自分を褒めたい。
そっと電気を消して暗くする。ブレの様子に安心したからか、眠気が戻ってきたのであくびが出る。いまからだと数時間くらいだが、寝ないよりはマシだ。硬い床に寝転がり、毛布を被って目を閉じた。
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あっという間に朝が訪れ、どうしたって出るあくびを噛み殺す。眠るブレを起こさないように動き、テーブルにメモを残しておく。そして借りた鍵を使い、そっとこの家を出た。
出掛けにこっそりと覗いたブレの顔は、ここ来た時より随分とよさそうだった。下手に触ったら起こしてしまうので、手を伸ばすのはぐっと我慢した。自転車を漕いで感じる風は、相変わらず冷たい。ブレの家からとなると、バイト先のコンビニは思いのほか遠かった。
悪化していたら気が気じゃなかったバイトをこなし、早くから開いているスーパーへ向かう。行ったのはブレと片手で数えるほどだが、場所を覚えていてよかった。
あの様子なら、昨日の夜よりは食えるかもな。
バイト中も手が空いたら、気に掛けていたのはあいつのことだった。だからシフトが同じおばさんに気づいたら相談してて、色々と教えてもらった。聞いたものを適当に見繕ってブレの家へと戻ってきたが、自分で鍵を開けて入るのは不思議な気分だ。
「おかえり」
「……ただいま。起きてたのか」
荷物を手に部屋へと入れば声を掛けられ、シーツにくるまったブレと目が合う。にんまりと笑っているので、このやり取りに俺の方が照れてしまう。
「トワ、オレ腹減った〜」
近づいて顔をよく見ると、かなり赤みが引いている。まだ咳はしているが、甘えたな声を出してねだる余裕はあるようだ。昨夜はあんなにしおらしかったのに。まあ、元気のないブレは見ていて落ち着かないので、これでいいんだが。まだ病人だしな、喜んで世話してやるよ。
増えたペットボトルの殻や空いた容器は、適当な袋に放り込む。
「ブレはなに食べたいんだ?」
今から作る物は決まっているが、食欲があるのはいいことだし一応聞いてやる。俺はなんでもうまそうに、たくさん食べるブレを見るのが好きだ。
「トワ」
「は?」
「だから〜、トワがいいなあ」
呆気に取られていたら、楽しげな声で繰り返された。お前なあ、くだらない冗談を言っている場合か。
隠しもせずため息を吐き出しても、ブレは何食わぬ顔をしている。なので新しく貼り替えたシートの上から、おでこを指で軽く弾いてやった。悪戯が成功した子供のように、くすくすと笑っている。
「いってえ〜、病人には優しくしてよ」
「バカ言ってるからだ」
わざとらしく額を押さえていないで、病人なら大人しくしてろ。
こいつの希望は聞き流して、簡易キッチンを借りて食事を作る。運ぶとブレが嬉しそうに顔を綻ばせるから、俺の機嫌は簡単に上昇してしまった。俺も案外単純だ。
「食べられるだけでいいからな」
「ん、これくらいなら多分いけそう」
ベッドから出てきたブレは、熱いのも構わず嬉々として麺を啜っている。病人にはこれと聞いて作ったうどんは、言われた材料を鍋に放り込むだけで出来た。簡単なものだが、ブレに喜んでもらえるのはやはり嬉しくなる。食べる姿から目が離せなかったので、隣で頬杖をついて眺めた。
しばらくしてブレが食べ終えた器の中は、きれいになくなっていた。
「うまかった〜、トワありがと」
「別にって、おい」
「少しくらい、いいじゃん」
一息ついて薬を飲んだブレはベッドに戻らず、俺の背中にくっついてきた。腰に腕まで回し、がっちりと抑えられる。
服越しに伝わる体温はまだ少し熱いため、寝かせたい気持ちはもちろんある。けれどこんなに近くにいて、触れ合えないもどかしさも感じていたから、無理に引き剥がす気になれなかった。ブレも言っているし、少しくらいなら多分大丈夫だろ。少しだけだから。
好きにしろと返事をすれば、身を乗り出してきたブレが頬に口付けてきた。思わず振り向くと今度は唇に触れられ、とっさに手のひらで覆う。
「……っ! ブレ、お前なにして」
「したくなったから」
そう言ってもう一度塞ぎに来るな。ちゅっちゅと可愛らしい、触れるだけのキスが繰り返される。俺の理性は風邪が移る可能性から止めたいが、本能は続けたい。結局ブレが満足して、離れて行くのを待つことにした。
付き合い始めのような初々しさを感じ、これはこれでいいかと甘いことを思う。ブレの唇、ちょっとかさついてるな。最後に俺の唇をひと舐めして、ようやく止まった。
「トワに移ったら、ごめん」
「してから言うなよ。……まあ大丈夫だろ」
今まで風邪を引いたことはないからな、と続けてお返しにほんの一瞬だけ唇を重ねた。
驚いた顔をされたが、俺だって好きな奴には触れたいと思うんだからな。まじまじと見つめられ、照れくさくなり目を伏せる。そんな俺に口を開いたブレから出てくるのは、言葉ではなく咳ばかりだ。慌てて背中を撫でる。落ち着いたところで水を飲ませ、急いでベッドに寝かせた。
「まだ治ってないんだ、横になってろ」
俺も釣られて止めなかったことを反省する。油断したせいで悪化させたら、最悪じゃないか。軽くシーツを整えてやると、気まずそうに俺を見上げてきた。
「……トワ」
「なんだ」
「風邪が治ったら、またしよ」
「そうだな」
「そしたら、トワも食べていい?」
あんな可愛らしいキスでは正直物足りないわけで、同意したらにこりと微笑まれた。
どうやらこいつの頭の中は、一足先に元気になっているらしく笑わせてくれる。調子に乗るなとばかりに、冷たいシートの上からまた指でおでこを小突く。もちろん加減してやれば、ブレは大げさに額をさすり、にやついた顔をしている。「はいはい、元気になったらな」
「言ったこと、忘れないでよ」
こんな約束をしなくても、風邪が治ったあとに会ったら絶対やるだろ。
ブレが楽しそうなので付き合ってやれば、逃がさないとばかりに囲ってきた。そんなに心配しなくても忘れないから、とにかくいまは治すことだけ考えろ。
「わかったから、いまはとにかく寝ろ」
返事と一緒に頭を撫でたら、シーツにくるまり大人しくなった。適当に話し相手をしていると、いつの間にかブレは寝入っていた。
バイト前に適当なパンを口にしていたが、なんだか腹が減ってきた。さっきブレがうまそうに食べていたので、釣られたのかもしれない。おまけにひとりになると、眠気まで顔を出してくる。さっさと腹を満たして俺も眠ってしまおう。
朝のバイトだけの休日は久々だったから、色々と予定を立ててたけどまあいい。調子を悪くしたブレの面倒を、見ることが出来たからな。
とりあえずブレが元気になったら、改めて今回のことで話がしたい。こういう隠し事は、よくないからな。
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