迂闊なことを言って怒られる人と怒る人 年末。久しぶりに実家に帰省した。
と言っても、今住んでいるところは実家から電車で二時間程度の微妙な距離なので、『帰省』と呼べるほど大したイベントという感じでもなく、荷物だって最低限の下着と申し訳程度の土産くらいだ。
実家の前に着いて、一応呼び鈴を鳴らしてからドアを開ける。
そうしたら母親が柴犬の子犬を抱えて現れたので、とてもびっくりした。なんでもつい最近、子犬をブリーダーから引き取ったらしい。そういえば昔から変な行動力だけはある母親だった。
威嚇されるかと少し緊張したものの、子犬は警戒心の欠片もない様子で跳ねるように寄ってきて、あまつさえ人の膝をクッション代わりに寝始めた。
どこかで聞いた話、柴犬は犬種の中で一番オオカミに近いらしいが、膝の上で舌と腹を出して寝転がる犬の姿からは、とてもじゃないがオオカミの血が流れているとは思えない。なんなら顔もオオカミよりはタヌキに近い。
犬は嫌いではなく、むしろ好きな方だ。この正月は子犬と遊んで過ごそうと密かにほくほくしていたら、母親に「いい加減少しは部屋を片付けろ」と叱り飛ばされ、膝の上の子犬も取り上げられた。
いくら部屋が余っているとは言っても、家を出た一人っ子の部屋をそのままにしておくのはいくらなんでも勿体ないということらしい。無理もない。
そうして渋々部屋を片付け始めたところ、学生時代に使っていた携帯電話と充電器をセットで発見した。今は亡きガラパゴス携帯、フィーチャーフォン、パカパカするやつ。
あまりの懐かしさに片付けを中断し、携帯を充電して開いてみると、メールボックスに未送信のままのメールが一通残っていた。
見るとそれは、学生時代に片思いしていた相手への告白メールで、勇気が出ずに卒業するまで――いや、卒業した後も結局送れなかったものだった。
当時は学校という広いようで狭い範囲が世界の全てのような状態だったから、友人関係を壊すのが怖くて尻込みしてしまったのだ。社会人になった今考えると、なんとも青春という感じで甘酸っぱくすら思う。社会人になり、世間の荒波に揉まれ、良くも悪くも成長した今はもうそんな全力投球の恋なんてできる気がしない。
ということを、うっかり、酒の席で問題の片思い相手に暴露してしまった。
なんと驚くことに今でも友人として付き合いが続いているから、新年のお祝いムードとアルコールの合わせ技で気が緩み、ついうっかり口を滑らせてしまったのだった。
テーブルの向こう側で目を見開いて固まる友人を前に、慌てて取り繕う。
「いや、あの……もう時効だと思ったって言うか、青春の一ページ、的な……だからほんと、気にしないでほしいんだけど……」
アハハ。笑顔が引き攣っている自覚はあるが、とりあえず冗談っぽく笑って見せる。
しかし友人の表情が和らぐ気配はなく、むしろ逆にその顔はどんどん険しくなっていく。
いくら終わった話とはいえ、友人だと思っていた相手——それも同性——から好意を寄せられていたことが分かって気分を害したのだろうか。まだ未練があると思われたのだろうか。
慌てて言い訳の言葉を考えていると、友人は急にテーブルに突っ伏した。額とテーブルがぶつかり、ごんと鈍い音が鳴ったが、友人はそのまま動かない。
どうしたものか考えあぐねていると、友人が何やらぶつぶつ言い始めたので、そっと身を乗り出して、友人の頭の横に耳を寄せる。
―—勝手に美しい思い出にしやがって。
―—こっちはお前との関係が切れないように必死だったのに。
――俺の努力はなんだったんだよ。
なんとか聞き取れたのはそんな言葉。
同時に、ぐす、と鼻を啜るような音も聞こえた。もしかして泣いているのだろうか。
友人の肩を軽く叩くと、友人はのっそりと顔を上げ、涙で潤んだ目をこちらに向けた。
その顔が赤いのはアルコールのせいだけではない、と思いたい。
「……えっと……あの……付き合う?」
「うるせえ死ねッ!!」
友人はそう叫んで、再びテーブルに突っ伏した。
なかなか大きな声だったが、薄いとはいえドアで区切られた個室の居酒屋で、周囲も騒がしい状況、友人の罵声が誰かの耳に届いた様子はない。
少しの間逡巡してから、腰を浮かせ、ゆっくりとテーブルを回って友人の隣に移動した。
突っ伏したままの友人に寄り添い、テーブルに頭を預けて目線を同じ高さにする。
「……あのさ」
「……」
「その……ずっと片思いを続けるのって、結構きつくて……美しい思い出ってことにしないと、耐えられないと言うか……」
「……俺は今でも一途にずっと好きなんだけど?」
「あっはい……すいません……」
返す言葉もない。
そのまま沈黙が流れ――おそらく十数秒ほど経ったころ、友人が口を開いた。突っ伏したままで。
「……昔から、連絡するのは俺からばっかりだった」
「……うん」
「メシに誘うのも、遊びに誘うのも、年末年始の予定を聞くのも俺ばっかり。しかも俺はシフト制で、休みの調整もしやすいから、いっつもお前の予定に合わせて」
「……う、はい……その通りです……」
友人はそこで顔をこちらに向けた。至近距離、二人でテーブルに片側の頬をくっつけたまま見つめ合う。
「それもこれも、お前のことが好きで、友人でもいいから関係を続けたかったからなんだけど、それをお前は、何? 勝手に終わったことにして、笑い話にして、そのくせ急に『付き合う?』とか、マジで何? 殴られたいの?」
「あの……はい……本当にすいません……お前の言う通りです……」
じっとりとした視線を向けてくる友人を直視できずふらふらと視線を彷徨わせてしまうが、この距離では眼球をどこに動かしたとしても友人の顔が視界に入る。
意を決し、なんとか許してもらう方法を模索するためにも友人の目を真っ直ぐ見つめる。
友人は眉間に皺を寄せ、口をぎゅっと引き結んだ。ゆっくりと上半身を起こして、上から俺の頬を指で摘まんで軽く引っ張ってくる。
「……今からお前の実家に連れていけ」
「ふえっ」
頬を引っ張られているから、自分でも驚くほど間抜けな声が漏れた。
上半身を起こして友人に向き合うと、友人はこちらを睨むように見つめている。
まだ正月休み中で、この飲み会の後は実家に戻る予定だった。だから予定が大きく変わるわけではなく、ただ友人を伴って帰るだけだ。友人のことは両親もよく知っているから、恐らく問題はないだろう。
しかし――まさか今日のことを両親に告げ口する気なのだろうか。そんな小学生みたいなことを? この歳になって?
流石にそれは恥ずかしいから許してほしいと謝罪の言葉を述べようとした口を、友人の唇が塞いだ。
唇はすぐに離れたが、お互いの息がぶつかり合うほどの距離で友人は、
「過去のお前が送り損ねたっていうメール見せろ。……俺の心が動くような内容なら、許す」
そんなことを言うから、俺はただ頷くことしかできなかった。