いつもだったらもう家に着いているぐらいの時間なのに!帰宅途中、学校から最寄り駅に着く寸前で忘れ物に気づいた。
忘れてしまったのは国語の教科書とノート。別に忘れても支障はないはず...とふたつを頭に思い浮かべた瞬間。明日の3限目、国語。最初の5分間で行われる小テストを思い出した。10点満点で5点以下を取ると放課後に追試を受けなければいけない。明日は部活もある曜日で、部長である私が休む訳にはいかない。
そうして友達に「ごめん!忘れ物取りに帰るから先帰って!」と一言言った私は、学校に向かって早足で歩き出した。
***
下校時刻が迫り、人も疎らになった廊下を1人走る。日も沈み始めて、がらんとした廊下は日中と違って少し怖い。
「もー!暗いし!私立なんだから電気と暖房ぐらいまだ付けといてよ!」
それに冬の廊下は特に冷える。節電のためか切られてしまった暖房に八つ当たりしながら階段をかけ登れば、うちのクラスの教室は目の前だ。
「やっと着いた......」
走っている間に熱くなってしまった体からマフラーを外しながらドアに手をかけた瞬間、ガタと教室から音がした。
「こんな時間に残っている子いつもいたっけ...」
クラスメイトの顔を思い浮かべても、そんな遅くまで残っている子は思いつかない。首を傾げながら考えていれば、物音と一緒に声も聞こえてくる。
よく聞いてみれば、その声の主は同じクラスの木更津くんだった。暗いわけではないけど、物静かでいつも本を読んでいるような子だ。
こんな時間だし、木更津くんも忘れ物かもしれない。でも喋る訳でもないし、会うのも少し気まずい。
教室に入ってしまうか、どうしよう......と悩んでいれば、木更津くんとは違う声が聞こえて、教室にもう1人いることがわかった。
「あ、この声って柳沢くん......?」
柳沢くんと木更津くんは仲が良かったし、2人でいても何にも不思議じゃない。それに、普段は緊張して滅多に話せない柳沢くんと話せる良い機会かもしれない。
「よしっ」
走ったせいでバサバサになってしまった髪を整えて、制服の裾も伸ばす。なるべくなら、好きな人にはよく見られたい。
身だしなみを整えて準備万全。ゆっくりとドアを開けて、そろりと教室の中を覗き込んだ。
「あっ」
飛び込んできた光景に私は驚いて、口をぽかんと開けてしまった。
誰もいない教室で、木更津くんと柳沢くんがキスをしている。ちゅ、と音を立てながら角度を変えながら何度も行われる。普段私たちが過ごしている教室。日中ざわざわと騒がしいその場所が、がらんと静まり返っている。その中に、2人の呼吸音と、唇の合わさる音だけが聞こえている。
見たくは無いはずなのに目は瞬きを忘れたまま、逸らしもしないで教室の中を覗いている。盗み見ているみたいで、少し惨めだった。好きな子が自分以外とキスをしている。ぼんやりと視界が歪み始める。
そんな私に気づいていない2人は、お構い無しに会話を続ける。
「ん...って淳!教室でこんなダメだーね!帰るぞ!」
「ちょっとぐらい良いでしょ?ね、柳沢」
「ダメだーね!」
「あと1回だけだから」
引き下がらない木更津くんに、柳沢くんはやれやれと言うような顔をしてから「あと1回だけだーね」と告げた。
横顔だけでも分かるぐらい、嬉しそうに笑った木更津くんの顔が柳沢くんの顔に近づいていく。そのままもう一度唇がくっついて、柳沢くんのあひるのような唇がむ、と形を変えた。
1回だけだと言ったのに、その後なあなあになったのか、柳沢くんが流されたのか。時間にしたら数十秒だけかもしれないけれど、私にとっては数十分にも感じるような時間。2人はキスしていた、はず。途中から、目をつぶっていたから、はっきりと分からない。
私の足はそこに張り付いたみたいに動かなくなって、早くここから動かないとって考えだけは頭の中を足早に駆けていく。見ていたってバレちゃう。うごけ、うごけ。目をつぶりながら念じていれば目の前からガラガラと音が聞こえた。
「あ......」
そろそろと目を開ければ、柳沢くんと木更津くんが立っていた。柳沢くんは笑顔で、木更津くんは興味無さそうにこちらを見つめている。
「おー、藤堂さん。こんな時間までいるの珍しいだーね?」
さっきまでの事なんて、感じさせないような明るい声で柳沢くんが言った。
「あ、えっと。うん。その、忘れ物したから取りに来たの。明日国語の小テストあるでしょ?追試は受けたくないし。2人は?」
口だけがぺらぺらと回っているけれど、目は合わせられなくて少し下を向いたまま話した。
「俺たちもちょっと用事あったから。でももう帰るだーね。藤堂さんも暗いし、気をつけて帰るだーね」
「2人もねって、2人は寮だしすぐだね」
「じゃあまた明日」
2人が私の横を通り抜けて、教室から出ていく。
「気をつけてね。また明日」
すれ違う時、何も言わないと思っていた木更津くんが喋ったことに驚いて顔をあげる。
ばちっと木更津くんと目が合った。いつもみたいにうっすらと唇に笑みを湛えた木更津くんが、唇に人差し指だけ立てた手を持っていった。しーっと子供を注意する動き。そうして「今日の夜ご飯何かな。デザートあったら僕に頂戴」「あげないに決まってるだーね」なんて話しながら、2人はそのまま帰って行った。
「み、見てたのバレてた」
廊下を曲がって見えなくなった2人の姿に安心した。緊張から解かれた心臓はまだ、バクバクと大きく音を立てている。
このまま教室にも入りたくなくて、くるりと方向転換した。さっきは走ってきた廊下をのろのろと歩く。言うなって言われても、そもそもこんな誰にも言えない。色恋沙汰に浮かれる中学生に、こんな話題を放り投げたら大変なことになる。
じわりとまた涙が滲んできた。その日は涙が滲む度にした目を擦って帰った。今までで1番遅い帰宅に、お母さんが驚いていたけど、怒られはしなかった。よっぽど酷い顔をしていたのかもしれない。笑える。
夜寝る前に、今日の木更津くんのあのジェスチャーを思い出した。何がしーっだよ。
「誰が告白する前に失恋した話と、好きな子が教室でキスされてた話なんて出来るか......!」
次の日の小テストは4点で、放課後追試を受けた。全部柳沢くんと木更津くんのせいだ。
またぽろりと涙がこぼれた。