余熱「……早く大人になりたいな」
演奏が止まり、ふとそんな呟きが聞こえて、楓は顔を上げた。
隣を見れば、ギターを抱えながら不貞腐れた顔をした七基がいる。
楓がバルコニーで晩酌をしている時にそろりと近場に寄ってきた彼は、演奏したい気分だからとおもむろにギターを弾き始めたのだった。楓は七基のギターの音色を独り占めするという、なんとも贅沢な時間を堪能していたが、この雰囲気の中、彼が突然そんなことを言い出すなんて。
「どうして?」
「だって、子どものままじゃできることが少なすぎるから。……今だって、主任がお酒飲んでるのをただ眺めてるだけだし」
「あはは、お酒がそんなに良いものかはわからないけど……」
楓はカシスオレンジが入った缶をくるくると傾けてみせた。
特段酒に強いわけではなく、かといって弱いわけでもない。たまにふと飲みたくなるけれど、ノンアルコールのドリンクももちろん好きだ。だからこそ楓は、七基が大人になりたいと思っていること、酒の話を出すことに気が引けてしまう。
(俺にとっては、もう一度高校生活に戻りたいって瞬間もあるからなぁ)
楓は数年前に終わりを告げた高校生活に想いを馳せた。今の生活にはもちろん満足しているけれど、高校生に戻ったらもう一度やりたいこと、というのはそれなりにあるかもしれない。
缶に口をつけて、少しだけカシオレを口に含む。甘みと酸味が、柔らかく口内で弾けた。
「……大丈夫。焦らなくても、いつの間にか大人になってるよ。だから今は、今だけの青春を大事にしてほしいな」
「…………うん」
七基はまだ不服そうな顔だったが、こくりと頷いてギターの弦に触れる。また面白みのない、大人側の意見を押し付けてしまっただろうか?あく太との一件があってから、楓はかなり慎重になっているが、ふとした時に大人側の感覚を押し付けていないか心配になる。
(七基くん、高校生に見えないくらい十分大人びてるけどなぁ)
楓はなんとか彼を喜ばせたいと思って、素直に思っていることを伝えることにした。
「でも、七基くんは大人っぽいから、そんなに背伸びしなくても良いと思うよ?」
「えっ……!」
七基は不意に楓を見上げ、目を見開いた。くすんだ紫の瞳は照明の光を反射して、キラキラと輝く。
「ほ、ほんと……?!俺って大人っぽいです?」
「ふふ、うん」
その言動や仕草は逆に子供っぽくてかわいらしいけれど、それを伝えたらまた不機嫌になりそうだったので、楓は胸の内に仕舞っておくことにした。
「しっかりしてるし、頼りになるから!特に、音楽の面では七基くんに頼りっぱなしだもんなぁ……」
「全然!頼ってくれて嬉しいよ……!」
七基は楓の言葉がよほど嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべる。
今まで、おもてなしライブの楽曲の作曲に音響担当、寮で行うパーティーのプレイリストの作成など七基は嫌な顔ひとつせずこなしてみせた。それに加えて、unloveとして他アーティストへの楽曲提供も行なっている。普段の高校生活や区長としての活動もあるというのに、どうも彼は頑張りすぎているようにも見える。
彼は無邪気な面もあるが、昼班の中でも会社の中でも、どちらかと言えばストッパー役で、頼るよりも頼られることの方が多いように思われる。思いを呑み込みがちな七基がちゃんと息抜きができているのか、楓は不安に思った。
「……でも、もうちょっと甘えてくれても良いんだよ?俺だって、頼ってくれたほうが嬉しいから」
「……!」
そう言って笑顔を見せれば、七基はかっと顔を赤くして、口元を手で隠してしまう。どうやら楓の発言に照れているようだ。
「そ、そっか……ありがとう」
「うん!悩みでもやりたいことでも、なんでも相談していいからね!」
ちょっとは大人らしいところ見せられた気がする。
楓はくすぐったい気持ちになりながら、もう一口、とカシオレを口に含む。初めは微炭酸だったが、だんだんと気が抜けてしまったようで、もう、ただの甘いカクテルと化している。ゆったり時間をかけて飲んでいるからか、心地よい酔いが回ってきた。
チラリと七基を覗き見ると、彼は演奏の手を止め、まだ何か思案しているようだった。真面目な彼のことなので、必死に楓に頼ろうとしてくれているのだろう。そんな顔を見ていると、いまいま話さなくてもいいよ、などと水を差す気にはなれなかった。
涼しい夜風に吹かれながら言葉を待っていると、七基はついに決心したように口を開く。
「……じゃあ、その」
「うん?」
「手、繋ぎたい、とか」
「うん、…………ん?」
一度相槌を返してしまったが、今彼は何と言っただろうか?
区長の仕事のこととか、高校生活での悩み事とか、そういうことではなく。まさか、そういう方向での甘えを見せられると思わず、楓は目を円くしてしまう。
楓の動揺に気づいたようで、七基は慌てて弁明を始める。
「あ、あー、えっと、俺体温低いから手も冷たくて、っていうのは研修旅行の時色々あったからバレてると思うんだけど、さっきから演奏してる間も手が冷たいなって思ってたっていうか……だから、その、……」
七基は言葉に詰まり、髪をくしゃ、と掻き上げる。そして寂しげに目線を逸らしてしまった。
「……いえ、冗談です」
「えっ、冗談?」
「うん……はぁ、酔ってるからって何言ってんだろ、ほんと……」
七基は大きなため息をついて、小声で何かを呟いている。随分と時間をかけて真剣に考えていたようだったし、声色的にも冗談には聞こえなかったけれど。
楓は少し考え込んで、ハッとする。
(まさか、今のって、大人っぽい彼なりの渾身の甘えだったんじゃ……?!)
それなら拒否してしまえば思春期の繊細な心に傷がついてしまうかもしれない。
楓は、ここでその発言を聞かなかったことにするのは間違いだと判断した。よし、と意を決して、七基に向かって勢いよく手を差し出す。
「……はい!」
「へ」
「手、繋ごう!」
七基は二、三度瞬いたのち、うめき声をあげながら瞳を彷徨かせる。……目に見えて、逡巡している。ここまできたら、もはや握ってもらった方が楓としてはありがたい。
「……ありがとう」
七基は一言お礼を言って、楓の手を取った。細長い、少し冷たくて硬い指が、楓の指と指の間に絡んでくる。
(あ、そ、そういう繋ぎ方?!)
てっきり握手の形になると思っていたが、予想外の接触に楓はひっそりと心臓が跳ねるのを感じる。こんな繋ぎ方、幼馴染や従兄弟、それに妹とだってしたことがない。
深く息を吸って、吐いて。落ち着きを取り戻して七基に向き合う。彼は先ほどとは打って変わって、安心したように微笑んでいた。
「……やっぱり主任の手、あったかいです」
「研修旅行の時も言ってくれたよね。でも、どちらかというと、七基くんの手が冷たいからそう感じるのかも?」
「うん……そう、なのかな」
触れる指が冷たいのも、朝に弱いのも、もしかしたら七基が低体温なことが関係しているのかもしれない。今の時期でこれくらいひんやりとしているのだから、冬場はもっと大変そうだ。
「演奏の時も冷たかったんだよね。マッサージでもしてあげようか?」
「え?!」
「あ、ごめん……!いくら部下だからって、流石にそれは良くないよね。ハラスメントってやつだ……」
「いっ、いえいえいえ!嬉しいですよ、俺は!」
七基はそう言ってくれるが、どう考えてもお世辞というやつだ。自分の発言を内省するうちに、楓の脳は少しずつ冴えていく。
(……手を繋ぐって、こんな感じ、だっけ)
小豆島では感動から突発的に七基の手を取ったけれど、今はお互い自覚しあって手を繋いでいる。
(あれ、なんか、だいぶ恥ずかしいかも……)
じわじわと、繋いだ手から全身に熱が広がっていく感覚がする。
まさか、酔いすぎた?
……まだ一杯しか飲んでいないのに?
途端に居心地が悪くなって目を逸らすと、七基はそれを追うように顔を覗きこんでくる。
「主任……?」
「!」
「大丈夫?具合、悪い……?」
不安そうに揺れる目が見えると、楓の心臓の音はいささか早くなる。今まで、七基相手にこんなに緊張することはなかったのに。楓はぎこちなく目を逸らした。
「……えっと、ごめん。冷静になると、この状況恥ずかしいなって思って……」
「っ……?!」
七基はパッと顔を明るくした。いつもだったら、「そうだよね」、と頬を赤くして、焦って飛び退きそうなのに。
不思議な感覚に苛まれ、なんとか逃げようとするものの、組まれた指に力がこもる。無理やり振り解くわけにもいかないし、このままでは逃げ場がない。
楓が手を離すように訴えようとすると、七基は辿々しく言葉をこぼす。
「それってその、……意識、されてるってことでいいの……?」
「え、……意識、って」
どういう意味?
そう聞こうかと考えたが、ピンとしない表情の楓を見て色々と察したのか、七基は眉を下げ、首をゆるく振った。
「……なんでもない。こういうのって素面の時聞かなきゃズルだよね」
「うっ、酔っててごめんね……」
「ううん。……ありがとう、十分あったまった」
七基の手は名残惜しそうに離れていった。そしてギターのピックを改めて手に取ると、軽やかに弦をつまびく。
「だからもうちょっと、主任のためだけに弾かせて」
「!」
先程まで手を握られていたことをすっかり忘れてしまうような提案に、楓は目を輝かせる。
「ありがとう七基くん!贅沢すぎるな〜、本当に!」
「……それはこっちの台詞です。じゃあ、リクエストをどうぞ」
「えっ、じゃあunloveとの最初の思い出だし朝班の……いやいや、せっかく七基くんがこうやって弾いてくれるんだからやっぱり昼班の曲も聞きたいし、うわー迷っちゃう……!」
「そ、そう言ってくれるなら、全部弾いてもいいけど……?」
「高校生にこれ以上夜更かしさせちゃうのはまずいので……!ちょっと待って、今決めるから!……えーっと……」
必死に頭を悩ませる楓を見つめ、七基は耐えられないように吹き出して笑った。
「わかった。メドレーにするね」
そう言って七基がハミングと共に弾き始めたのは思い出深いあの曲。朝班のステージでの様子が思い出され、音色がじんと胸に沁みていく。
(……七基くんの曲にみんなが恋してた、か)
研修旅行で楓が七基に伝えた言葉と、先ほどの体温がリンクして、また、握られていた手が熱くなっていくように感じる。
(……高校生相手に柄にもなく照れてしまったことを、どうか悟られませんように……)
楓は贅沢な弾き語りを堪能しつつ、すっかりぬるくなった缶を握って、何とか熱を逃がそうとした。