手合わせ遠い。
どれだけ登ってもたどり着けなかった滝の上よりも遥かに。圧倒的な存在は大きく、己の前に立ちはだかっていた。
父は穏やかな人だ。物腰は柔らかく、無駄な争いも犠牲も好まない。
母といる時なんて、父が気圧されてしまうほどだった。あの国軍最高司令官も、母が相手では敵わないのだ。それほどに、とにかく優しい父の背中をずっと見てきた。
王族としての在り方、振る舞い、勉学、すべてにおいて完璧な見本となる人物が一番近くにいてくれた。
なのに、どうしてこんなにも遠いんだ?
ぎゅ、と柄を握り直すと、マヘンドラは前を見据えた。姿勢良く剣を構える父──アマレンドラがもう一度深く息を吸い込んだ。
来る!
地面を蹴った足が大きく踏み込む。ぐん、と鼻先が目の前まで来るほど近くなる距離にマヘンドラが怯んだ。向かって来るとわかっているのに、一切迷いのないその動きと威圧感が、マヘンドラの動きを鈍らせる。
ぶつかり合う刃が金属音を広場に響かせて、マヘンドラは振りかざされる剣に受け身を取るので精一杯だった。何とかその動きに付いていけているだけで、押すには程遠い。
力比べじゃ、父に劣るわけじゃない。互角か、それ以上の自信はあった。それなのに、全く歯が立たない。
奥歯を噛み締めて、改めて気合を入れようという時、勝負はついた。
「……ッ!」
小さく息をつく間もなく、ぴたりと首に当たる刃に息が止まる。首が跳ねられるのは安易だった。横からあとほんの少し力が込められれば、あっという間にマヘンドラの首は宙を舞っただろう。
「っはあー、駄目!ぜんっぜん駄目だ!」
緊張の糸が一気に途切れて、その場にばったりと倒れ込んだ。弱気な言葉の裏に隠れた悔しさの滲んだ顔を見て、アマレンドラが手を差し伸べた。
「少し休もう。休息も必要だ」
すっかり父の顔に戻ったアマレンドラに引き上げられる。そうして聞こえてきたのは、ぐうう、と鳴いたアマレンドラの腹の虫だった。
「まだ早いけど、休息は……お昼に変更する?」
「ああ、そうしてくれると助かる」
アマレンドラは恥ずかしそうに頬をかくと、マヘンドラの提案を受け入れた。
「何をそこで捻くれてる」
「……別に、あんたには関係ない」
「全戦全敗、だったか。カッタッパから話には聞いてるぞ」
「っう……」
「あれだけやって、まだ一度も敵わんとは。バーフバリの名も大したことない」
「煩い!」
聞き捨てならなくて、マヘンドラが木から飛び降りた。相手が国王だろうが関係ない。
俺のことはいい。だけど俺のせいで父上も馬鹿にされるようなことがあったら、誰であろうと許せなかった。
「それ以上何か言ったら、」
「剣を抜け」
「…は?」
噛みつく勢いで、その胸倉に掴みかかったというのに、その威勢は呆気なく挫かれた。
思わず素っ頓狂な声が出てしまったじゃないか。
「その腰にぶら下がってる剣を抜けと言った」
何度も言わせるなと、苛ついた様子のバラーラデーヴァに、マヘンドラは渋々と言われるままに剣を抜くしかなかった。
何を企んでる?
「構えてみろ」
「何だよ? 稽古なら父上につけてもらうからいい」
「そうか。このまま負け続けたいと言うのなら、好きにしろ」
納めかけた剣が止まった。
「くそっ、偉そうに」
だがバラーラデーヴァは、過去に父と対等にやり合っただけじゃない。いくつもの戦を戦い抜いてきた、紛れもない実力の持ち主だ。まだ二人がうんと若い頃の話を、カッタッパから耳にタコができるほど聞かされてきた。競い合い、高め合ってきた仲なのだと。
悔しいが、これから何度やっても父には勝てそうになかった。それは事実だ。
だけど気に食わない。
よりによってこいつに教わるだなんて!
ただ、本当はわかってる。長いこと父と手合わせし、戦術を肌で感じていたのがバラーラデーヴァなら、もしかしたら何かを得られるんじゃないかって。
それでもやっぱり頼りたくなくて、意地が勝ってきたから、これは最終手段だった。
「……わかった。ただし!次に父上と手合わせするまでの間だけだからな」
マヘンドラは乱暴に言い放ち、バラーラデーヴァに向かって指をさす。無礼にも程がある振る舞いだが、この国でその態度が許されるのもマヘンドラくらいなものだ。
バラーラデーヴァのつける稽古は、父とは対象的だった。何より剣を扱わせなかった。体術が主な割合を占め、身体の基本的な身のこなしや、力の受け流し方なんかを徹底的に教え込まれた。
バラーラデーヴァ曰く、「お前は身体が固い」だそうだ。
父も厳しい人だとは感じていたが、バラーラデーヴァはもっと容赦がなかった。
ようやく剣を握れる頃になったと喜んだところで、バラーラデーヴァにはとても及ばなかった。
これが己の実力。
父に負けた以上に、大きな無力感に襲われていた。追いつこうともがいても、また一つ壁が立ち塞がったような感覚。
一体どれだけの壁を乗り越えれば辿り着けるのだろう。
「殺す気でやらなければ、到底勝てぬ」
「そんなこと言ったって…!」
「言い訳はよせ。相手が父ではなく、敵だったなら、お前はとうに死んでいるというのに」
父に勝てなければ、死ぬ。
それを聞いて、自分の甘さを痛感する。これは親子の"ごっこ遊び"なんかじゃない。
覚悟が足りていないのだ。
手合わせ、訓練、なんとでも呼べるが、すなわち負けは死を意味していることを、忘れかけていたが、ここではっきりわかった。
父の息子であることが甘えとなっていることに。
「立て、マヘンドラ」
結局、バラーラデーヴァからは1本も取ることが出来なかった。
力勝負に加え、身体の使い方、どれをとっても強い。それだけは違いない。歳を重ね国王となった今も、衰えを知らない肉体は過去の産物ではなかった。
「一本勝負、それでいいな?」
マヘンドラは頷き剣を構える。腰を下げ、息を長く吐き出した。
集中しろ。
神経を、研ぎ澄まして。
まずはマヘンドラが一歩踏み込んだ。乾いた砂埃が舞い、アマレンドラが受け身に走る。
マヘンドラの顔つきが違うことに、アマレンドラはすぐに気付いた。
一撃一撃は重いのに動きは滑らかで、隙も少なくなった。以前までの、がむしゃらな攻撃は姿を消し、マヘンドラの力の強さはそのままに、身のこなしは軽くなったようだった。
しかし、剣の振りがまだ大きい。
甲高くぶつかり合う刃物と刃物。アマレンドラが強く力を込めると、マヘンドラは負けじと振りかぶり、さらに力を込めて剣を振るった。
「あっ!」
ぱき、と割れる音がして、マヘンドラの剣が真っ二つに折れてしまった。
また力を入れすぎた。
アマレンドラは上手にマヘンドラの自慢の力を引き出し、強すぎる腕力を逆手に取った。
折れてしまった剣を見て、アマレンドラが一度、やり直しを図ろうと気を緩めた瞬間。マヘンドラはしゃがみ込んで脛を蹴った。足を取られ体勢を崩すと、マヘンドラは折れた剣を拾いあげ、アマレンドラに向かって投げつけた。
「っ、!」
顔のすぐ横を風が切り、髪がふわりと舞う。アマレンドラが躱さなければ、頬を斬りつけていただろう。そして避けることに意識を向ければ、その他は疎かになる。
すばやく、低く身体を落とし、腹部へ肘鉄を喰らわそうとするのをアマレンドラは寸前で防ぎ、腕を捻り上げた。
「つ、ぅ……っ!」
マヘンドラは痛みに顔を顰める。けれどお陰で懐まで潜り込めた。
隙を作り、近接に持ち込んで、力で押す。バラーラデーヴァが勝ち筋として残した戦術。
力の強さなら、バラーラデーヴァにも引けを取らなかったのだから、父上にも勝てるかもしれない。
あとは、なんとか抑え込めれば──
すぐさまアマレンドラの構えた剣先が、マヘンドラへの横っ腹に向かう。
ちぇっ、そう簡単には勝たせてくれないか。
マヘンドラは、ぐんっ、と頭を後ろに逸らすと、アマレンドラの額に向かって頭を思い切りぶつけた。手加減はしていない。全力の頭突きだった。
もろに頭突きをくらい、衝撃と痛みに、アマレンドラから呻き声が漏れた。頭を抑え、よろ、と後ずさるのを、すかさずマヘンドラは身体ごと突進させ、地面に突き倒す。
最早手合わせ、というより組み手に近かったが、マヘンドラの猛攻は止まらない。
のしかかり腕の動きを封じて、これで決めると決意を込めて拳を叩き込もうとするマヘンドラに、今度はアマレンドラが下から顎に向かって頭突きを繰り出した。
「ぃっ、づ、ぅ!」
マヘンドラの脳味噌がぐわんと揺れる。
危うく舌を噛むところだった。
途端、身体は押し除けられてしまい、アマレンドラは大きく踏み込むと、剣先をマヘンドラの心臓めがけて一直線に突き刺そうとした。
刹那、こちらを覗くアマレンドラの瞳とかち合う。今まで見てきたどんな父の表情とも違う。
その目付きと、殺気。
マヘンドラは初めて、父からそれを肌で感じ取った。恐怖で足が竦むとは、こういうものなのか。震えた足は、全く動くことが出来なかったのだ。
「そこまで! 剣を納めよ、バーフバリ」
剣が下ろされても、まだ心臓の音が煩かった。
未だに圧倒され続ける強さに、武者震いがするようだった。伸ばしても伸ばしても、届かない手だけれど、父の本気を引き出せたような気がした。それはつまり、今までよりずっと父に近付いている証拠でもあった。マヘンドラは、さらに強く拳を握りしめる。
その目はまだ、決して闘志を失ってはいなかった。
「あんな顔、暫くぶりに見た。本気だっただろう」
「つい楽しくなってしまって」
「強がるなよバーフ」
「あはは。ああ…、大きくなったものだ」
アマレンドラは笑う。
その横顔は嬉しそうで、たとえ負けたとしても、同じように笑っただろう。
父とはそういうものだ。
「それにしてもあの動き、バラーにそっくりだ。いつから隠れて稽古を?」
「数日前、あいつが不貞腐れてるのを見掛けてからだ」
「負けず嫌いは母譲りだなぁ」
「何呑気なことを」
「ああ!そうだぞバラー。今に私もお前も……背だけじゃない。あの子に抜かされる日が来るのだろうな」
我が子の成長を感じて、待ち遠しいと目を輝かせる。これからが楽しみで仕方ないと言うように、アマレンドラは声を弾ませ続けていた。