印章 彼の男は、戦が終わり少年王が即位した後は流れるように自分の棲み家へと帰っていった。元より、商家の主しての肩書を彼は気に入っていたようだし、何より充分すぎるほどにデュナン統一のために身を尽くして貢献していたので、その後の自由は当然の権利であるとも思う。
初めに敵として相対し、その内に同陣営の上官として見つめてきた彼は、その能力は如何あれ本来戦場などには相応しくない男であると、クラウスの目には映っていた。
赤月帝国の軍師であったマッシュ・シルバーバーグに軍略や振る舞いを学んだ彼は、必要であったからこそ、大胆に、時に冷徹にその才能を揮っていた。けれどその在り方は恐らく、彼の性質には些か負担であったろうとクラウスは思う。
──彼は、あの戦の中で結果的に妹弟子に自身の危険を選ばせた事や、少年へ重責を負わせた事を、何処に在っても気に病み続けて行くのではないか。
デュナンが一つの国となって直ぐに軍師の座を降り、国を整える大事な時期に辞去する事を認めた少年王も、きっとそれは見透かしていただろう。
「折角退任なされたのに」
相談役など引き受けたのは何のおつもりで? と続いたクラウスの言葉に、黒髪の偉丈夫はふん、と鼻を鳴らす。
「それを言うならお前がオレを頼らなければ良いだけだ」
「残念ながら、あなたに受けた薫陶からは使える物は何でも使うべきであると」
「そんな物は教えてない」
真実、隠居の身を使って申し訳ないとは思いつつ、心強いことは確かなので、クラウスは折を見てラダトへ通っていた。
ラダトの豪商シュウの屋敷は、彼が戻ってからその敷地面積を更に増やしている。通りに面さない奥まった所に離れを作る為に贖ったそうだ。元から過ごしていた邸宅や、近隣から隔てるための庭は広く取られており、シュウ個人の暮らすその棟は喧騒から切り離されている。
今は迎賓と商談のみに使われる屋敷に比べ、隠居の先として相応しい棲み家だなと、クラウスは訪ねる度に思う。
屋内には使用人も警備も置かれていない。歩哨は梨園の外縁に立たせてあるが。
「……剣は嗜まれませんか」
「何だ、藪から棒に」
ふと思考していたことの先が声に漏れた。
「いえ、あなたはこちらに一人でお過ごしですから」
「今更だな。前にも言ったが、あの妖怪たちが太鼓判を押す建て方と、紋章札を配備している」
たしかに、この離れを建てる際に各方面からの助言があったとは聞いているが、しかし。
「自衛の手段はいくらあっても構わないでしょう?」
「お前がもう少し頻繁に来るなら、そっちの警護がついでで来るからオレには都合がいいが」
「ご冗談を」
頻度を上げて時間と歳費を浪費出来るわけがないと、分かっていて揶揄うのだ。
「あなたがせめて、城下におられれば」
「バカを言え、何のために帰ったと思うんだ。近くにいたらあの王は確実にオレに仕事を投げ込む」
「……それもそうですね」
今も相談役としてクラウスに助言を与えてくれる事からも明白だが、国政面でも確実に、シュウは有能だ。そして彼の強かな少年王は、人誑しでありつつ人使いが荒い。即位してからは磨きがかかっている。
「お前は」
「私は……あなたの後継としての仕事をお任せ頂いておりますよ」
つまりは寝る間も惜しい日が続いているという事だな、とシュウはクラウスをを改めて観察する。
その視線を受け止める紫紺の瞳は穏やかに微笑んでいるが、目の下のクマは化粧などしないのではっきり見えている。それでいて顔色は白過ぎるほどだ。
「まぁ、息抜きと思って来るがいいさ」
「シュウ殿にご負担いただく分、とても楽になっておりますよ」
「おい」
労りを照れ隠しのような物で返されて小突く。
「ごめんなさい。こちらに伺う時はいつも、とても気が楽になります。……ありがとうございます」
「オレ自ら持て成しているんだ、そうでなくては」
言いながら勧められた茶に口をつけて、青年はこれは、と微笑んだ。茶器を置いてから細く息を吐いて束の間目を閉じる。
二人の味の好みは近しいが、その上で過去にクラウスが反応を見せた銘柄をシュウは用意していた。
一息付いてからは、互いに限られた時間を効率良く、と予め送っていた書類やテレーズ、ジェス達から預かった最新のものを足しながら話を進めていく。
これまでに行われた市街の整備施策で起こった不具合であるとか、中枢区域で設ける社会規則と適用区画の見直しなど。上がっている案についての意見を出し合う。
比較的設定の簡単なものについては、シュウの頷きだけで終わることが殆どであった。クラウスとしても、自分達の選択結果の確認の意味合いが強い。そうして戻って最終的な詰めに入るのだ。
統一戦争の後始末が進んで来た今、目下最大の課題は、旧ハイランド領との融和であった。
ハイランドからいち早くデュナンへ馴染むことのできた人間という立場のクラウスではあるが、時期も立場も違う。母国側に残った者からの視線には棘の含まれた物も一部には有る。
同じ目線で伝えられる事柄と、決してそうでは無い事柄があった。
ハイランド側の取り纏めの大きな力と成る筈の皇家と、軍内だけではなく国民にも広く知られていた知将と猛将が不在となってしまった事が痛かった。それらの仕事は主にテレーズや、ジェスたちが担う。
クラウスは、これからの軍備の在り方をハウザーたちと構成していく。
ハイランドを領土として取り込んだ結果、ハルモニアと国境を接することとなった。
先の戦争で彼らがハイランドへ戦力を貸した意味も考えておかなければならない。
幾つもの想定に対して、今国内で成すべき事と、対外的に為さなければならないことを洗い、持つ資源の中からどう割り振るか。
行うべき事柄は尽きず、信頼して任せられる者の選別は急務だった。
彼の少年の力でなんとか再結を果たした元都市同盟は、ハイランドの脅威に対して戦時の勢いで乗り切ったその後の今こそ、その地力を試される。
だからこそ、ハイランド領との融和はより重要だとクラウスは感じていた。──人を、束ねなければ。
それと同時に、シュウと比した自分の力不足を思う。
「焦ってもやる事は変わらんだろう」
声に顔を上げると、互いに書類に目を向けていたはずのシュウと視線が合った。
「……ええ、そうですね。増えすぎて手に余る前に、こなしていきますよ」
「他人を使うことを覚えろ。今まさにオレを使っているように」
先ほどは何でも使うなどと言葉遊びの様に言ったクラウスではあるが、用兵軍略の外では未だそう活かしきれていない、とシュウは見ていた。
「周りからどう侮られようが、お前が自らを若輩などと言って逃げることは出来んぞ」
青二才と謗られる事もありながら、自信ある強者の振る舞いを続けたシュウだからこその言葉だった。
「やり方はお前に合った形でやればいい」
「そう、ですね……」
「使い易いところから使え、フィッチャーを信用するなら奴の下からお前の駒を得て任せろ。他は、ハイランドの元貴族筋の籠絡でもなんでもしろ。あっちの事はそこからだろう」
相手を動かすための振る舞いは、意志を貫き通す靭さを表すことでも、謙虚さを表すことでも、クラウスには幾らも選べる所だろう。
お前の中の手札だって多いのだから、出し惜しまずに使えよ、とシュウに言われて、考えていなかった訳でもないのに急に手の内が増えたような気になって、クラウスは軽く目を見開く。
「オレだってお前の手札のひとつにくれてやってるんだ」
この話になってから親指を握り込んで言葉を聞いていたクラウスは、漸く表情を緩め、そして唇を吊った。
「……ええ、何でもやって見せましょう、あなたが私のものの内であれば」
それこそ、万の軍勢を得たに等しい気持ちだった。
「ああ、そうだ」
辞去の挨拶を述べて、席を立った時にクラウスはシュウに引き留められた。
奥の部屋へ行き、その後戻った男の差し出した手から、掌に収まるほどの小さな黒檀の箱を受け取る。
「こちらは?」
開けてみろ、と表情で促されて控えめな細工の施されたそれを開くと、銀の指輪が収まっていた。
どっしりと幅が広い環の外側は面が出されており、飾り部分の台座には線が掘り込まれている。溝に残るインクの跡。印章だ。
「覚えているだろう」
「あの時の、軍師の印章ですね」
重要書類に捺されたそれをクラウスもずっと見てきた。
「軍を辞した時に返還しようとしたらあいつ、次のはデザインを変えるから記念に持っていけ、と言ってな」
確かに、今の印章は金で、印影も当時のものとは違いデュナンの文字が入り、ジュドが制作を手掛けたそれは複雑精巧だ。
現在は王城に保管されたままではあるが、それが、官吏ではなく軍師として現実的に動く事態が起こった際にクラウスの扱う物だ。
「お前にやろう……というか、持っていってくれ。オレはもう軍師を廃業したし、記念というなら別がある」
「……謹んで、頂戴致します」
もはや効力は無い、あの期間を生き抜いてきた、数多を生かして殺した印章。
「気構えの助けに持たせて頂きます」
「好きにしろ」
「それでは、また。お元気で」
「あまりまめに来ようとするなよ」
ややぶっきらぼうに言うシュウヘ微笑み、クラウスは彼の住処を辞去した。
蓋を閉じ、手巾に包まれた小箱が懐に仕舞われるを見て、シュウは息だけで小さく笑う。
複数ある思惑も、クラウスには恐らく伝わっているだろうし、上手く使うだろう。
尋ねてきた時よりも余裕のある佇まいになった青年を見て、毎度のことながら僅かの時間で立て直す姿に感心し、安心もする。
もうすぐに、相談役など必要もなくなるだろう。
そしてじきにクラウスも、自分の後進を育てるようになる。
己の商いも、どこまで大きくして、どう残し、あるいは譲るかを考えなくてはな、と口の端を上げた。
終