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    masyuu_re

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    masyuu_re

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    わんこずと裏→表の話。
    凌憂→甲犬→賢憂→班憂の順番です。

    ベキリーブルー・ガーネットは落ちて来ない 犬飼。
     名前を呼ばれて、犬飼は元気の良い返事と共に後ろを振り向いた。
     そしてにこりといつも通りの笑顔を浮かべながらなんですかと問いかけてみれば、声を掛けて来た側である土佐凌牙は一瞬どこかうろたえた様子を見せる。
     どうしたというのだろう。声を掛けてきたのは土佐くんの方なのに。そんなことを考えながら、犬飼は隠すことなく首を傾げた。土佐くん。代わりに今度は犬飼の方から名前を呼んでみれば、土佐が一歩を踏み出して距離を詰めて来る。
     その一歩は、とても大きい。
     犬飼は一瞬で目の前まで来た土佐を見上げる。獰猛でいて、その実だれよりも優しく不器用な彼を犬飼はとても好いていた。愛おしいと素直に思うそれは決して恋愛感情などといったものではないけれど、確かな好意を抱いていることにかわりはない。
     しかしそれは同時に、土佐にとってはひどく残酷なものだった。
     いや、土佐にとってだけではない。土佐にとっても、甲斐田にとっても、御子柴にとっても、だ。
     ただ犬飼だけが知らないでいる。犬飼だけが、いついかなる時もただただ純粋な好意を持って彼らを慈しんでいた。
     じっと、土佐は犬飼を見おろしている。普段からして寡黙である彼が一体なにを考えているのか。犬飼はそれを理解したいと思ってはいるものの、いつも上手くいかない。だから鈍感だの間抜けだのと言われるのだろう、きっと。
     しかし犬飼にとって誰かの内心をくみ取ることはとても難しいのだ。何せ自分の心の内すら、自分の中に存在しているであろう彼のことすら、自分のことであるのに理解できていないのだから。そんなふうに考えてしまうと、犬飼はいつも虚しい気持ちになる。知られないこと、知ってもらえないことがどれ程に心を傷付けるのかを理解しているのに、と。
    「余計なことを考えなくてもいい」
     ぽつりと、言葉をこぼしたのは土佐だった。
     犬飼は深みに嵌りそうになっていた思考を急浮上させながら、また真っ直ぐに土佐を見つめる。
    「土佐くん?」
     名前を呼べば、土佐はほんの少し不器用に笑った。
     そして大きな――犬飼の頬を簡単に包み込んでしまえるほどに大きな手がそっと首筋に触れ、次にまるで何かを確かめるかのように、まるで簡単に壊れてしまうものを扱うかのように静かに頬に触れた。
     自然と更に顎が持ち上がる。いつもは見上げてもまだ高い位置にある土佐の顔が今日は随分と近い。
     それは土佐が自分の身長に合わせて僅かにかがんでいるからなのだと、少し遅れて気付いた犬飼は緩慢に瞳を瞬かせた。
     ――瞬時に判断することができなかったから、反応が遅れたのだ。
     次の瞬間、犬飼は誰にでもなくそんな言い訳をしていた。
     首筋に感じる痛み。最初は軽く、だが次第に皮膚に食い込む牙を感じてびくりと体が震える。
    「と、土佐くん……!?」
     犬飼は反射的に土佐の腕を掴みどうにか彼の大きな体を引き剥がそうとした。慌てた声。驚きと痛みに跳ねる体。気付いているはずなのに、土佐は犬飼の首筋に牙を突き立てることをやめようとはしない。
     これはなんだろう。彼は一体なにを思って自分にこんなことをしているのだろう。犬飼はぐるぐると思考を巡らせるが、到底答えにたどり着くことはできなかった。
     力尽くで引き剥がすことは可能だ。しかしきっとそうしてはいけないのだと、頭の片隅で警鐘のようなものが鳴っている。
     痛みを耐えることなど簡単で、首筋の傷にしても犬飼にとってそれは決してたいしたものではない。だから本気で拒絶しないのだろうか。自分自身に問いかける。だから、逃げようとしないのだろうか。
     しかし犬飼は、拒絶しないのではなくしたくないのだと、逃げようとしないのではなく逃げたくないのだと、ふいにそう考えている自分に気付いてしまった。だがそれが土佐を受け入れている行為に等しいのかとなれば、それとも違う。犬飼自身、本心の部分では自分の感情を理解しているわけではなかったが、今ここで土佐から離れるという行動は得策ではないのだろうと、そんなふうに考える。
     そして代わりにそっと土佐の背中に手を回してみれば、今度は土佐の方が驚いた様子を見せた。
     首筋から牙が抜け、間近でアクアマリンのような瞳とかち合う。二人はお互いに瞳を瞬かせ、先に犬飼が緩慢に首を傾げた。
    「どうしました?」
     そしていつも通りの笑顔で言葉を紡げば、土佐はどこか戸惑っているような、怒っているような表情を浮かべながら犬飼から顔を背けてしまう。
     土佐くん。今度は自覚を持ちながら犬飼は何も気付かないふりをして、同時に気付かない方がいいのだろうという空気を感じ取りながら、ただいつも通りに土佐の名前を呼ぶ。噛まれた首からはまだ血が流れているのだろう。無意識のうちに首筋へと触れた手は流れたばかりの鮮血で濡れていた。
     土佐は何も答えない。
     ほんの少しの時間、ふたりの間に沈黙が落ちる。
     先に動いたのは土佐の方だった。彼はふいに犬飼へと背を向けたかと思えば、ただ一言悪いと告げて一歩を踏み出す。
     犬飼はそんな土佐の背中に手を伸ばすべきなのか、名前を呼ぶべきなのか、それとも距離を詰めて彼に触れるべきなのか、様々なことを考えはしたものの、結局無言を貫くことを選択した。
     鈍感な犬飼でも分かる。今の彼はきっと、どんな言葉を掛けたとしても答えてはくれないだろう。こちらを振り返ることすらしないはずだ。土佐くんと普段通りに彼を呼んでも、大丈夫ですよと伝えても意味がない。一体、何が大丈夫だというのだろう。自分自身にすら分からないのだから、土佐の心を動かすことなど出来はしないのだ。
     だからただ犬飼は土佐の後ろ姿を見つめていた。犬飼は彼が大きな一歩でどんどんと犬飼から離れていく姿を、ただ静かに見送ることしか出来なかった。

    ***

     それ、凌牙にやられたんでしょ。
     ぼんやりと立ち尽くす犬飼に声を掛けてきたのは甲斐田紫音だった。
     視線を向ければいつも通りの笑みを浮かべている甲斐田が立っている。犬飼は甲斐田の言葉を心の内で反芻しながら先程、土佐に噛み付かれ、牙を立てられた首筋へと触れた。まだ乾ききっていない血が皮膚に張り付き、ぴりぴりとした痛みを訴えているそこは、傷みと同時に熱を持ち、犬飼の心を揺さぶる。
    「黙って噛まれてあげたんだ」
     甲斐田の言葉は問いかけではなく、確信を持って告げられていた。
     気が付けばすぐ傍に立っていた甲斐田が、てのひらで覆われている犬飼の傷をじっと見ている。まるで何もかもを見透かされているような気持ちになり、犬飼は居心地の悪さを覚えてた。ルビーのような透き通った甲斐田の瞳。きらきらした輝きの中に、危険な色が宿っている。
    「……当て付け?」
    「え」
     小さく零された甲斐田の言葉は、犬飼には理解できないものだった。そして甲斐田自身も気付かせるつもりはない。
     甲斐田の白くすらりとした手が犬飼へと伸ばされ、冷たい指が手の甲に触れる。その指先はまるでてのひらの下にある噛み痕をなぞるように動き、向けられる視線はますます危険な色を帯びていく。
     これはどういった心境の表れなのだろうか。甲斐田が纏う雰囲気は静かであり、不穏でもあり、そしてなにより危険だった。
     犬飼は甲斐田の指先に促されるまま噛み痕から静かに手を離す。露わになった噛み痕を目にした瞬間、甲斐田は口端を釣り上げ笑った。その笑みが驚くほどに美しかったものだから犬飼は隠すことなく瞳を大きく瞬かせる。ぱちりぱちりと瞬く灰青色の瞳を見つめながら甲斐田が何を考えていたのか、きっと知らない方が犬飼は幸せだろう。煽られているのだと感じたこと、犬飼の体に他の誰かが付けた傷があるということ、その瞬間を目撃したときの心の高揚、そして自分も同じように犬飼憂人という人間を蹂躙し、見た目よりも柔らかな彼の肌に噛み付いてやりたいと思ったこと。何もかもすべて、犬飼は知らずにいた方が幸せなのだと、誰よりも甲斐田自身が良く理解しているということ。
     血が乾き、ぱりぱりと剥がれ落ちそうになっている首筋の噛み痕を、甲斐田が目を細めながら見つめている。
     犬飼はどうにも落ち着かない気持ちだった。甲斐田の指が乾いた血に触れ、噛み痕に触れる。汚れてしまいますよと告げようとした言葉は甲斐田の表情を見た瞬間に喉の奥へと落ちて行った。
    「甲斐田くん?」
     そしてただ、名前を呼ぶことしか出来ない。
    「犬飼は、誰にでもこんなことを許すわけ?」
    「……いえ、これは」
     これは。続く言葉など出ては来ない。甲斐田からの問いかけに答えを返すとしたらそれは確かにノーだ。だが土佐にこういった行為を許したという手前、甲斐田に対してきっぱりと否定の言葉を投げかけることがどうしても犬飼には出来なかった。
     なんと言えばいいのだろう。躊躇いが犬飼の顔に浮かんだ瞬間、ふいに甲斐田の長く整えられた爪が首筋の傷口へと突き立てられる。
    「っ!?」
     ぴりぴりとした痛みなどではない。それどころか土佐に噛まれたとき以上の痛みが、犬飼の体を駆け抜けた。
     新しく流れ出た血が、犬飼のシャツを通してじわりと広がっていく。反射的に掴んだ甲斐田の手首は細く、やはり冷たく、まるで自分の中の熱が奪われていくような錯覚が犬飼を襲った。くらくらと目眩がする。その原因が何であるのか、この抉られた痛みのせいなのだろうか。困惑する頭で必死に思考を巡らせながら、犬飼は甲斐田を見上げた。
    「誰でもじゃないなら。誰になら許すの。凌牙、シバケン、俺。あとは、裏返った方?」
    「……甲斐田くんが何を言いたいのかが、私には分かりません」
     正直に告げた言葉を受けて、甲斐田は笑みを深くする。
    「犬飼ってほんとに分かんない。俺たちを近付けたいのか遠ざけたいのか。好きなのか、嫌いなのか。本当は、なんとも思ってないのか」
    「私はみなさんのことが好きですし、少しでも理解したいと思っています」
     それは確かに、紛れもない本心だった。その証拠に真っ直ぐ甲斐田を見上げる犬飼の瞳には少しの揺らぎもない。
     この言葉が嘘や冗談だったならどれほど良かっただろう。嬉しようなむず痒いような気持ちとは裏腹に甲斐田はそんなことを考えもした。知らない方が幸せなのだということは往々にして確かにある。きっとこの感情も知らない方が幸せだ、という領域に分類される。自分から犬飼に向けるものも、犬飼から自分たちへと与えられるそれも。知らない方が幸せだった。知らなければ、望まずにいられるから。与えられなければ、そもそもそれ以上を望もうなどとは思わないから。きっと、考えることすらないだろうから。
     しかし自分たちは知ってしまったのだ。ならばもう戻れはしない。
    「甲斐田くん」
     犬飼の手が、甲斐田の手に重ねられる。自分の傷口を抉る手に。
    「何か、怖いことがあったんですか?」
     そしてまるで小さな子どもを相手にしているかのような言葉と柔らかな笑み。甲斐田の心を落ち着かせるように犬飼は重ねた手を優しく握りしめた。
     怖いこと? 甲斐田は犬飼の言葉を反芻する。
    「あったって言ったら、慰めてくれるわけ?」
    「私に出来ることでしたら」
    「簡単にそんなこと言っちゃ駄目だって知らないんだ。本当に犬飼は、頭の中がお花畑だよ」
    「そんな、御子柴くんみたいなことを」
     犬飼の言葉を確かに聞きながら、甲斐田はそっと体を屈めた。
     色素の薄い長い髪が犬飼の頬を擽り、肩に触れる。
     甲斐田の白い手が今度は犬飼の傷口から流れ出る血を止めるようにぴたりと覆いかぶさり、自分が広げた傷口なのにと甲斐田は自嘲気味に笑った。その表情を犬飼が見ることは叶わなかったが、なにも感じなかったわけではない。確かに自分の思考はお花畑なのだろう。これまで何度も何度も言われてきた。さすがに、気付かないわけがない。
     ちゅっと、軽い音を立てて甲斐田の唇が犬飼の首筋に触れる。触れたその場所は、土佐の牙が食い込んだ場所の反対側だ。唇を押し当て、食み、また音を立ててキスをする。くすぐったさにだろう身を捩った犬飼の体をもう片方の手でおさえ込みながら、甲斐田は唇を押し当てたまま痕を残すようにきつく吸い上げる。
    「ひえっ」
    「……ん、ふっ。なに、その声」
    「だ、だって甲斐田くんが」
     きっと自分の顔はいま赤くなっているに違いない。それを自覚している犬飼は思わず甲斐田の手を強く握り締めながら間近にある赤い瞳と視線を合わせた。
     甲斐田は目を細め笑っている。その笑みは先程までとは違い危険さも陰鬱さも不穏さもなく、ただ楽しそうなからかいの色と高揚が滲んでいた。
    「甲斐田くんが変なことをするからじゃないですか……!」
    「変なことってなに? ちゃんと言ってくれないと分からないんだけど」
     分かっているくせに。分かっているくせに。犬飼はまるで鯉の様にぱくぱくと口を動かし、甲斐田から逃げようとまた体を捩るが、勿論逃がしてなどくれはしない。
     甲斐田は再び、いま自分が付けたばかりの赤い痕へ唇を押し当てた。今度は啄むように触れ、戯れに歯を立てる。痛くはないだろう。自分は土佐の様に深く牙を突き立てたりはしない。これでも自分は、好いている相手には優しくしたい人間なのだと、甲斐田は内心で笑っていた。誰も信じはしないだろう。それでも紛れもない本心なのだ。
     首筋から顎へ、頬へ、そして耳元へ。甲斐田の唇がゆっくりと移動する。
    「また苛められたら俺のところに来なよ。とびきり優しくしてあげるからさ」
     そして囁かれた言葉は犬飼が今まで聞いたどんな言葉よりも甘く、甘美で、優しいものだった。

    ***

     なんだよそれ。
     犬飼を見つめる御子柴の表情は苦々しい。
     嫌悪感を隠そうともせずに眉を顰め、犬飼を睨み付けている御子柴はまるで毛を逆立てた子犬のようだ。そんなことを思いながら犬飼は眉尻を下げ笑って見せる。なんだと聞かれても自分が一番分かっていないのだから答えようがない。――いや、正確に表現するのならば御子柴の望んでいる答えを与えることが今の犬飼には到底出来なかった。
     首筋の片方には噛み痕、片方にはキスマーク。一体なんだというのだろう。今日のふたりはどうにもおかしかったと今更ながらに強く思いながら、犬飼はまたへにゃりとした笑みを浮かべるばかりだ。
    「それが、私にもよく……」
     分からないんです。正直に告げようとした瞬間、荒々しい足音と共に御子柴が距離を詰めて来たものだから、犬飼は驚きに瞳を瞬かせる。
     御子柴くん。反射的に後ずさりながら呼んだ名前は果たして彼の耳に届いたのだろうか。御子柴は血に濡れた方の犬飼の手を掴み、さらに表情を険しくさせた。殺気すら放ちそうなほどの不機嫌さだ。これは間違いなく怒っているのだとさすがに察した犬飼は、なるべく御子柴を宥めようと柔らかな声で名前を呼び、そして空いている方の手で彼の頭を優しく撫でる。
    「触んな。きたねぇだろうが」
    「……こっちの手は汚れてませんから」
     そもそも汚れている方の手は御子柴に掴まれているのだ。汚いと思うのなら解放してほしい。御子柴の手にまで自分の血が付いてしまうことを心配しているつもりだったのだが、どうやら相手には伝わっていないようだ。御子柴の不機嫌さは増すばかりで犬飼はほとほと困り果ててしまう。
     汚いと言いながらも撫でられたままで犬飼の手を振り払いはしないのだから、困惑も増すばかりだ。お互いに一体何をしているのだろうと考えてしまうのも仕方がない。
     御子柴の瞳は犬飼の首筋へと向けられたまま動かない。ただその視線だけが噛み痕とキスマークを確かめるように忙しなく左右へと動いている。
     土佐に噛まれたときの血は止まりかけていたが、甲斐田の爪で抉られたことによってまた新しい血を流していた。それも決して大量というわけではないが、犬飼のてのひらを赤く染めるには十分であり、目にしてしまった御子柴はふと吐き捨てるように笑う。たった今、御子柴が浮かべた表情はある種、甲斐田が浮かべていたそれと同じものだと犬飼は瞬時に理解したが、その思いを言葉にすることはしなかった。当たり前だ。火に油を注ぐ結果になるのは目に見えている。
    「いつからここまで縄張り意識が強くなったんだよ。こうやってわざわざ主張して、当て付けか?」
     当て付け。同じ言葉をやはり甲斐田も口にしていた。笑う口元からちらちらと犬歯が見える。目の前にいるのは一人の囚人ではなく一匹の狂犬なのだと、犬飼は確かに感じていた。
     ああ、早くこの傷の手当てをしたい。頭の片隅でそんなことを思いながらも、御子柴を無視できるはずもなく、犬飼はただ彼の言葉に耳を傾ける。何を怒っているのだろう。怒っていながら、どうしてこんなにも楽しそうなのだろう。感情は確かに伝わってくるというのに、その真意が分からない。
    「あの、御子柴くん」
    「あ?」
    「その……、手を、放してください」
     遠慮がちに告げた言葉はだが、うるせえと一蹴されてしまった。犬飼は自分の手を掴む御子柴の手に、――正確には彼の少しばかり頼りない手首に優しく触れる。まだ大人には遠い、細い手首。万が一にも痕など残してしまわないようにと細心の注意を払いながら御子柴の手首を掴めば熱の宿った瞳がじっと犬飼を見据えた。
    「汚いでしょう。血が付いてしまいます」
    「……気に入らねえ」
    「御子柴くん」
     汚いと言ったかと思えば、手を放すことに関して気に入らないという。犬飼はもう本当にただ眉尻を下げて笑うことしか出来なかった。
    「あいつら、こんなクソザコ看守のどこが良いんだよ」
     ぽつりと零された言葉は本当に小さなもので、犬飼に届くことはない。しかしそれは御子柴にとってただの自問自答以外の何物でもなかったため、届かなかったことは幸いだった。知られたくもない。どこが良いのだと声を大にして言いながらも、こんな男のことを好いている自分を。
     御子柴は自分の手首を掴んでいる犬飼の手を振り払った。
     そしてそれとは逆に、血が付いている方の手を強く自分の方へと引き寄せる。
     そんな突然の行動に犬飼は灰青色の瞳を驚きに瞬かせ、今日はこんなことばかりだと内心では焦りを覚えていた。抵抗など忘れてただじっと御子柴を見つめる。
     御子柴は自分の方へと引き寄せた犬飼の、節くれだった指に唇を押し当てた。場所は、薬指だ。
     熱い息が指にかかる。浮かべていた笑みが消え、御子柴の瞳がそっと伏せられた。唇は指の第一関節に触れ、指先に触れ、そして次に歯が立てられる。
    「っ……」
     御子柴が強く歯を、――牙を立てたのは薬指の根元に近い場所だった。
     そのまま噛み千切られてしまうのではないかと思う程に強く歯を立てられて犬飼は驚きに目を瞠る。痛いです。どうしたんですか、御子柴くん。反射的に告げようとした言葉は、僅かに瞳を持ち上げてこちらを見つめた御子柴の瞳に抑え込まれてしまった。指の付け根がじんじんとした痛みを訴えている。器用なものだ、などと頭の片隅で感心している場合ではない。
     指に、牙が食い込んでいる。今日はこんなことばかりだ。誰も彼もが犬飼の姿を目にするなり凶暴性を露わにする。噛みつき、牙を立て、傷口を抉り、痕を残し、また牙を立ててくる。まるで示し合わせたかのようだ。
     犬飼は知らず知らずのうちに深く息を吐いていた。どくりと強く打った鼓動。そして頭の中で警鐘が鳴る。
     この警鐘や襲い来るめまいは、傷付けられた痛みのせいではない。これは、自分ではない何かが自分を押し退けて出てこようとしている事に対しての警鐘なのだ。
     ぎゅっと強く空いた方の手を握り締めた瞬間、満足したのだろうか御子柴の立てていた牙がするりと指から抜けていく。
    「……みこしばくん、」
     噛まれた薬指の根元には、くっきりとした痕が綺麗な円として残っていた。ぐるりと薬指を一周している円。それがなんであるのか、どういった意味を持っているのか、犬飼という男は決して気付かない。
     御子柴が、盛大な舌打ちをした理由にも。
     焦燥と後悔と怒り。悔しさ。幼さゆえの持て余した感情に、犬飼は決して気付きはしないのだ。面と向かって口にしたところで、伝わるのかも怪しい。その鈍感さが御子柴の苛立ちを加速させる。こんなふうだから苛立つのだ。こんなふうに無防備だから、簡単に痕を残されて、簡単に囲い込まれる。
    「クソ看守。鈍感野郎。だからテメェはザコ看守なんだよ」
     御子柴が吐き捨てた言葉に、犬飼は灰青色の瞳を瞬かせた。
     だが何か声を掛けようと口を開いた瞬間にはもう、御子柴は犬飼に背を向け荒々しい足音を立てながらリビングとして使われているこの部屋を出て行ってしまっていた。

     残されたのは犬飼憂人ただひとりだ。
     犬飼はただぽつんと部屋の中で立ち尽くす。
     噛みつかれた場所が、痕を残された首筋が、牙を立てられた指が、疼いて痛む。強く握り締めていた手をほどけば、てのひらに爪が食い込んでいた。
     吐き出した息は深く、重い。
     緩慢に瞳を瞬かせ、またひとつ、息を吐く。瞬きをただ繰り返す。
     その瞬間、ゆらりと揺れた犬飼の瞳には、燻るような炎の色が確かに宿っていた。

    ***

     鏡に映る自分の姿を、――正確には身体に刻まれた痕を見つめながら犬飼は赤い瞳を不機嫌に眇める。
     本当にどいつもこいつも節操がない。誰かが手綱を握っていなければ、好き勝手なことばかりする駄犬ども。
     牙の痕、鬱血痕、まだ薬指に残っている噛み痕。マーキングのような行為は事実、彼らにとってそうであるのだろう。持て余した感情をどう発散すればいいのかが分からず、だからといって素直に口にできるはずもない。自分たちの間にはいつだって明確な線引きがされている。そして誰もがその線を飛び越えることをおそれている。あの甲斐田ですらそうなのだから、他の二人は余程焦っていることだろう。
     犬飼憂人という男。誰も彼もに手を伸ばし、一度その手を握り返してしまえば、呆れるくらいの明るさと前向きさで相手を導くことの出来る男。そして彼は、見送る男なのだ。だから誰もが焦りを覚える。犬飼は取り残される側であり、それを自覚している。いつもの柔らかな笑顔を浮かべながらさようならと簡単に手を振ってしまえる男なのだと。ありったけの愛情を注ぎ、もうそれがなければ生きられない程に依存させておきながら、本人だけが知らずに笑う。
     犬飼は赤い瞳をゆるりと瞬かせ、口端を釣り上げて笑った。
     馬鹿馬鹿しい。例えどれ程に恋い焦がれたとしても、それが叶うことなどある筈がないのに。
     犬飼憂人は決してただひとりを選ばない。すべての人間に等しく愛を与え、見返りを求めない。
     そう、誰もが、誰の恋も、愛も、受け入れられることはない。そしてそれは自分も同じなのだと、犬飼はただ笑う。
     鏡に映る姿は確かに犬飼憂人であるというのに、それは今の犬飼が求めているものではなかった。あいつはもっと柔らかく笑う筈だ。灰青の瞳を細めながら、無垢な幼子の様に笑う人間なのだ。血の様な赤い瞳など持ってはいないし、牙が見えるように笑うこともしない。
     触れたいと思い自分の身体に触れてみても、満たされる心はない。これだけを考えたのならあの三人は余程恵まれている。他愛無い話しをし、笑みを向けられ、触れることが出来るのだから。
     反対に彼らが自分を羨ましいと思うところがあるとするのなら、それは自分がいかなる時も犬飼憂人と共に在れることだろう。この存在が消えない限り、いつだって一番近い場所で彼を守ることの出来る人間であるということだ。
     犬飼は残り少ない煙草を一本咥えながら、また静かに瞳を瞬かせる。

     そして近くに置いてある安っぽいライターに火を灯せば、ゆらゆらと揺れる炎が犬飼の赤い瞳の中に青い星屑を浮かび上がらせるのだった。



    2023/12/31
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