ファミユ・エト・グリモワール【3】律とモリスが契約を交わしたその翌朝。
律はいつもと同じカーテンの隙間から漏れる朝日の眩しさで目を覚ました。
普段と違ったのは、キッチンからトントンと小気味良い音が聞こえてくることと、良い匂いがすること、人の気配がすることだ。
聞いたことのない曲の鼻歌混じりでキッチンに立つ派手な髪色の長身男性こそが件のモリスである。
律が起きたことにまだ気がついていないのか、手際よく調理を進めている。
するり、と布団から片足を出した。
「起きた?朝飯……つってももう昼近いけど、もうすぐできるから」
「………」
そんなに大きな物音を立てていないのに、すぐに律が起きたことに気がついて声をかけてくる。その反応スピードに今まで培ってきた退魔師としての経験から、勝手に警戒体制をとる。
目の前に悪魔がいる現状に頭がまだ慣れていないのだ。
モリスの立ち振る舞いに悪魔の性質である意地の悪いものは含まれていなかったため、深呼吸して警戒を解く。
律は布団から体を引き剥がすようにして起き上がり、モリスの後ろに立った。
「なんだよ、せめて返事……」
「おはようが先だろ」
無言で後ろに立たれたことに文句をつけようと、モリスが振り返ったところで自分の目線よりずいぶんと斜め上にある顔を捕まえる。
むに、と片手に収まった小さな顔は不服そうに唇を突き出していた。
「顔掴む必要ある?」
「ないな」
手を離して、両手で頬を包んで引き寄せると意図を察したモリスが屈む。もしかしたら心の中を覗くことができるのかもしれない、そう考えていると皮膚のささくれ一つない美しい唇が上から優しく押し付けられる。
「おはよ♡」
「なんだその……にやけた顔は」
「そんなにキスが気に入った?」
「うん、まあ。朝ごはん…もう昼か。なんだ?」
「買い物に思ったより時間かかってさぁ」
時間的には昼食だが、机の上にはトーストとサラダ、ベーコンエッグにヨーグルト。飲み物は牛乳とオレンジジュースが並んでいた。
食材は律を起こさないように家を抜け出し、開店直後のスーパーから買ってきたものだ。
金はモリスのポケットマネーから出ているが、以前強欲な日本人が億万長者になりたいと言うから作った本物の偽札の余りである。
立派な犯罪なわけだが悪魔の犯行が人間如きにバレるわけもなく、不正がまかり通っている。ちなみに、その日本人は余命宣告されており前科がいくつかついているなど魂に願いを叶えるだけの価値がなかったので偽札を渡しただけで、モリスは魂に価値のある者にはちゃんとした富を与えているので誤解なきように。
「豪華だな」
「そう?一般の家庭ってこんなだと思うけど」
「魔力使わずに作ったのか?」
「アンタが昨日そうしろって言ったんでしょ」
「……ありがとう。いただきます」
律は昨日と同じく手を合わせてから食べ始め、モリスはテーブルを挟んで昼食をたべる律の向かい側に腰を下ろす。
頬杖をつこうにも低すぎるテーブルに肘の置き場所を見失い、仕方なく体の後ろ側の床に手をつく形で楽な姿勢をとった。
家事を終えて一息ついたところで、話し出すために呼吸を整える。
「あのさあ、昨日の……」
「エムプエヴィネ様ッ!!!!!!!!!」
話を切り出そうとした途端、突如どこからか聞こえた叫び声にも近い呼び声。
そして律の部屋の壁に赤い血液のような液体が染みて広がり、勝手に紋章のような円を描き始める。
二人がポカンと口を開けたままその壁の行末を見守っていると、壁に大きく描かれた魔法陣から濁流のような赤色の液体が溢れてくる。
鉄臭くはないから血ではないのだろうけれど、まるで鮮血のように真っ赤な大量の液体が固まっていき、人を形作っていく。
律はその魔法陣に見覚えがなかったが、モリスのものではないことくらいはわかる。
モリスも慌てる様子がないため、一旦様子を見ることにした。
「セリィ……」
「知り合いか?」
「あー、まあ」
赤い液体が完全に人間に変貌を遂げる。
真っ先に目がいくのは左右2本の真紅の角だ。
瞳はモリスと同じ横に長い瞳孔で、ターコイズブルーとコーラルピンクのバイカラーがゆらゆら蠢いている。
髪色は焦茶と、ところどころ炎のような赤と橙色が組み合わさったものだった。この悪魔の性質が現れているようにキッチリと一糸の乱れもなく編み込まれた2本の三つ編みが揺れる。
「派手だな…」
「そう?地獄じゃこんなの普通だよ」
どう見てももう一人悪魔が出てこようとしているというのに、律はモリスの作った昼食を黙々と食べ続けていた。
モリスはやはりコイツは普通じゃない、と再認識したところで人型の方に視線を向けた。
「あのっ!お久しぶりですエムプエヴィネ様!セアルリグです!!覚えておられますか……?」
セアルリグと名乗った青年は律のことなど目に入っていないのか完全に無視してモリスに挨拶するために走り寄る。走り寄るほどの距離もないのだが。
律は土足で家に踏み込まれたことに少し眉根を寄せた。あとで赤く汚れた壁と一緒にモリスに何とかさせれば良い。
「覚えてるよセリィ、最近また功績あげたってね」
「すべてエムプエヴィネ様に昔教えていただいた賜物です!その節は本当に」
「いやいや、買い被りすぎだし。それでなんの用?」
地味に会話を遮られたのを気にする様子もなく、セアルリグは律をチラリと横目で見ると悪魔同士でしか使えない地獄の住民が話す言語に切り替える。
『人間界でエムプエヴィネ様を正式な儀式で呼び出した者がいる、と小耳に挟んだものですから、その…』
『心配してきてくれたの?それなら何も問題はないよ、契約も取ったし』
『流石ですね!!やはりエムプエヴィネ様こそ正式な評価を受けるべき……いえ、それよりこの人間は?捧げられた生贄ですか?』
セアルリグはようやく律をしっかりと瞳にとらえた。
蚊帳の外に放り出されてただ一心不乱に飯を食らっているだけの人間に視線を向けて何の用だ、と言いたいところだが律はまだ無言を貫く。
『俺の契約者で、退魔師』
『た、たた、退魔師!?えっ!?!?!!?ええっ!!?!!!わ、わわ、私今…っ!』
セアルリグは先程までの和やかな再会の雰囲気とは打って変わってわたわたと慌てて口を押さえる。
律は黙々と食を進めながら、悪魔なのに鈍臭いのか何やらヘマをしたっぽいことを理解すると同時にモリスが功績を上げたとも言っていたのを思い出す。
警戒をしておくに越したことはないけれど、食の手を止める程でもない。
『シジルと真名晒したねえ。そういうところだぞセアルリグ。ったく俺が絡むとポンコツになる癖治せよ』
『も、申し訳ありません……お恥ずかしい限りです……』
このセリィことセアルリグは、地獄でも有数の貴族の生まれであり、いろいろ事情があって子供の頃に遊んでやっていたためエムプエヴィネに懐いていたのが、今ではこんなに大きくなった。関係は?と聞かれると強いて言うなら上司と部下、先輩と後輩、貴族と平民。そんなところである。
律がぱちん、と手を合わせて食事を終えた。
「ごちそうさま。美味かった」
「おー、水切りラック置いたから洗って干しといて」
「ああ!退魔師を下僕にされたんですね!なんて……そんな……なんて羨ましい……」
セアルリグが殺意にも似た、冷たい熱のこもった視線を律に向ける。
それなりに優秀な退魔師とはいえ、いち人間の律は背筋に走るゾワゾワとした感覚に手元を狂わせてしまう。
シンクに洗っていた食器を取り落とし、ガシャン、と嫌な音を立てて割れた。
「ひょっとして割れた?せっかく買ってきたのに」
「おい!セアルリグ!お前、使う言葉を間違えるなよ、こいつが俺の下なんだ!お前がどう思ってるかは知らないが、真名を晒した間抜けが俺に何かできると思うなよ!!!!!!」
「わぁっ!わ、や、やめてください!あの!私嫉妬を司る悪魔なので、こう、無意識的に!人を不愉快にしてしまうことがあって!
た、ただ、その、エムプエヴィネ様のお側に居られるのが羨ましいと……すみません……」
まるで昨日の自分と同じように律に真名を握られて凄まれているセアルリグを横目に、板挟みにされたモリスは律が落として割れた食器を魔力で元に戻しながら、こんなにポンコツなのにセアルリグはなんで地獄でエリートを続けられてるんだろうかと思いを馳せる。
律は律でなぜこうも人間離れした威圧感を放てるのだろうか。律の怒鳴り声には悪魔ですら怯ませる力があるとでもいうのか。
とにかく、これ以上律を刺激しないためにもセアルリグを引き剥がす。
「ほら律、皿は直したし一旦落ち着けって。でもセリィもこのままじゃ不味いだろ?
そこで、セリィと契約してやってくれない?アンタにとっても悪い話じゃないと思うし」
「内容による。言ってみろ」
モリスは視線と話のバトンをあたふたしているセアルリグに放り投げる。受け取ったセアルリグはモリスの言いたい内容は把握したものの、律の今にも暴れて自分をブチ殺さんばかりの怒りの形相に、泣きそうな顔で全面降伏の姿勢をとった。
「あ、あなたの望みを一つ、なんでも叶えるので、私の真名を記憶から消させてください……」
「一つ?悪魔にとって真名は命だろ?俺にはモリスがいるんだ、ある程度の望みなら簡単に叶う」
「あ、ああ……っじゃあ、その、し、死者を蘇らせるとかは、難しいですけど、好きなだけ……!」
律は一瞬モリスを見る。
見られたモリスはその辺にしてやってくれ、とアイコンタクトを送った。
「わかった。じゃあお前は今後、殺したり怪我をさせたりその他もろもろ俺に害を与えないと約束しろ」
「も…!ももも、もちろんです!むしろ、それだけでよろしいんですか…?」
おずおずと律の顔色を疑うように聞き返すセアルリグは、部屋に入ってきた時とはもはや別人レベルで怯えながら空間から赤い羽根の羽ペンを取り出す。
モリスの契約時と同じように、召喚時のあの赤い液体で空間に悪魔文字を書いていく。
その筆跡はモリスより細く生真面目そうな性格が反映されているように見えた。
「あ、そうだ。部屋の壁、綺麗にしてくれ。あと土足で入った靴跡も。あの赤い液体は家の中に撒き散らかすな。せめて掃除しろ。それとモリスに会いに来るなとは言わないが、家の中で土足はやめろ。そうだ、一応モリスは契約上俺の妻に当たる。過度な接触は避けて欲しいな。お前モリスのこと好きだろう、見ていればわかる。何かあったら許さないからな。何かっていうのは曖昧か。具体的に言うなら手を出すな。
ああ、最後に。二度と俺にあのクソ粘着質な気色悪い視線を向けるな」
律が思いついたものを順に羅列していくと、録音でもしない限り、普通の人間では覚えきれない量を追加することになった。
セアルリグはさっきまでとは違う意味で泣きそうになったし、さらりとモリスに会いに来ることも制限されていて胸にどろりとした感情が溢れた。しかし、文句を言える立場ではなかった。
せっせと筆を動かして、律の要望を書き留めていく。
「え、エムプエヴィネ様に会いに来てお話をするくらいは、構いませんか……?」
「まあ、それくらいなら」
「そもそもセリィは基本忙しいからそんなに会いにこないよ。束縛がキツい夫は幸せな家庭には似合わないぜ?」
律に向けてウィンクをパチンとキメてやると、少しバツが悪そうに視線を泳がせた。
デフォルトは威圧的だが、やはり幸せな家庭と妻の願いを組み合わせると強く出られないらしい。
「ンン……仕方ない。じゃあその部分は浮気と判断できそうなことはしない、くらいにしといてやる」
「よかったな〜セリィ、これに懲りて人間の前で気を抜くんじゃないぞ」
「あ、ありがとうございますぅ……」
律はモリスも自分の挑発に乗って召喚され、真名を握られて今に至ることは妻の世間体を保つために黙っておいた。
セアルリグがそっと差し出してきた赤い羽ペンを手に取り、サインをする。
空中に浮かんでいた悪魔文字がモリスの時と同じくうねり、渦巻いてセアルリグのシジルを浮かべる。
その後、重力に従うように落ちると、とぷんと水の中に沈む音を立ててどこかへ消えた。
気がついた頃には音もなく壁と畳の汚れは消え去っていた。
セアルリグもあの赤い液体で足元を覆うとブーツを脱いだ。赤い汚れはついていない。
「これで契約完了です。律さん、私の名前は?」
「セリィ」
「はあ…良かった」
セアルリグことセリィはようやくホッと胸を撫で下ろす。
これでも200年ほど悪魔をやっているが、こんな危機的状況に陥ったのは初めてだった。憑依しているところをエクソシストに強制的に呼び出されるなどはあったが、毎回偶然を装ってモリスが助けに来てくれていた。
セアルリグにとって、幼い頃からずっとそばにいてくれたモリスは兄も同然だった。
生存競争が激しい地獄で、家族すらも自分を力が強く利用価値のある一柱の悪魔としか見ていない中、身分の違うセリィに唯一優しくしてくれた人物だった。
自分に人間界の知らないことを教えてくれたモリスがセリィは大好きで、とても尊敬している。
だからこそ自身の嫉妬心が強く働いてしまって上手にコントロールできないのだ。
「あ……そういえば、エムプエヴィネ様……モリス様が契約上の妻だとか、夫というのは一体…?」
「そのまんまだよ」
「結婚した」
「えっ、え?え、結婚って、あれ、愛し合う同士が結ばれるあれ?……日本って同性で結婚できましたっけ?というより種族が違……えっ?????私のエムプエヴィネ様が人間と結婚?人妻?????」
「俺のだ。しれっと自分のものにするな」
「セリィが壊れちゃった」
自分が家族同然だと思っていたモリスが自分の預かり知らぬところで人間と結婚し、他人の妻になっていた事実にセリィの心はもはや跡形もなく完膚なきまでに打ちのめされた。
「す、末長くお幸せにーッ!!!!!!!!!」
胸の奥にふつふつといつもの感情が湧き出てきたのを誰よりも早く察知したセリィは、また律を睨みつけて契約違反をしてしまう前に赤い悔し涙を流しながら窓をブチ破って空に消えていった。
そういえば部屋を荒らすなとは言わなかったな、と律は頭の中で独り言を呟く。
今日一日で悪魔としてのプライドと独占欲を粉々に砕かれたセリィの精神の無事を祈りながら、モリスは一つため息をついてパチンと指を鳴らし、破壊された窓を直しておく。
セリィは、二人の間にはまだ愛情と呼べる確かな感情がないことを知らない。
「涙まで赤いのはちょっと怖いな」
モリスはアンタのが怖ぇよ、と言いたくなったのをすんでのところで飲み込んだ。
元通りになって静寂を取り戻した室内で二人、無言で立ち尽くす。
「セリィが来る前何してたんだっけ?」
「忘れた」
*
ついさっきまで昼食を食べていた気がするけれど、セリィが乱入してきたおかげで時刻はもう夕方に差し掛かっていた。
モリスは頭の中で今まで見てきた料理をランダムにピックアップする。
もちろん手作りを所望されているので、手の込んだフレンチやイタリアンは除いて。
くるくるとルーレットのようにまわる思考は止まらず、晩御飯のメニューは結局律に聞くことにした。
「晩飯何がいい?」
「俺はあんまり料理に詳しくないんだ。なんでもいい」
「何でも良いってなんだよ〜」
何でも良いが一番困る、とは世の中の主婦が最もよく口にする文言だ。
まさかモリス自身が口にするとは思わなかったが。
「お前が作ってくれるなら何でもいい」
何でもいい、の前にその一文が追加されるだけで抱く印象はガラリと変わるものだ。
やっぱ、かわいいところあるじゃん。
「……もう!せめて肉か魚かだけでも教えてよ!」
「魚。鰤の照り焼き」
「言えるんじゃん……」
最初から言えよ、その言葉も喉元から出かかったのを無理やり抑え込んだ。