逃避行 暗い部屋に仄暗い光があふれている。今どきのテレビにしては少し暗いなと思って隣を見たら、細い目がテレビを見つめていた。よく見ればそのテレビはブラウン管のようで、画質は荒い。中で男と女がふたり、見つめ合っている。
『大好きやけん、もう離れんで』
どこの言葉だろうか。よく聞く方言ではない気がした。少なくとも隣の男が放つ言葉のアクセントではない。
「なあこれ、どこの方言だ?」
問いかけてみても返事はない。ブラウン管から溢れるあおい光で照らされた表情は俺を見ることなく、ただテレビの中の映像を見ている。
そのうち男女がどちらも海へと落ちていった。突然画面がフェードアウトし、黒塗りの背景に白い文字が流れ始める。どうやらエンドロールらしい。
「面白くなかったな」
どうしてか男女が見つめ合っている場面以外は思い出せない映画の感想を言えば、隣の男はこちらを見た。その表情はどこか機械的で、まるでさっきまで見ていたブラウン管の中の人間のようだ。
「水上?」
名前を呼んでみる。
その男は小さく首を振った。それからテレビのリモコンを手に取る。
ぷつりと音がした。
重い瞼を持ち上げれば波の音が耳に流れ込んできた。重苦しい上半身を持ち上げて辺りを見回せば白い砂浜が見える。
隣に男が寝転がっていた。水上だ。
どうしてこんなことになっているのかと思い返して、そう言えばふたりで海に落ちたんだと思い出す。
どうしてそんなことをしたんだどうかと思い出して、ふたりでどこかに行こうとしたことを思い出す。
「荒船」
寒いのか震えた唇が名前を呼んでくるから、上半身を斜めに倒して水上の上に覆いかぶさる。
「大好きや」
久しぶりに聞いたような言葉に冷え切った四肢が温まる気がした。
「もう離れたらあかんで」
気が付けば右手が握られていた。その手は冷たくて、もう自分たちが生きているのか死んでいるのかすらわからなかった。でもなんだか、それでもいいと思った。
ここがきっと天国なら、俺たちの逃避行は成功したんだろう。
遠くから喧しい救急車の音が響く。