鳳凰于飛(冒頭) 傑物と評される曹操に仕えるべく、荀攸は荀彧や郭嘉らと共に許昌近くの街道で曹操の到着を待っていた。
人を集めるのならば、許昌に立ち寄るに違いない。軍師らの読みは的中し、やがて夏侯惇、夏侯淵を伴った曹操が姿を現した。
遠目にもわかる威風堂々とした佇まいは、洛陽で見かけた時よりも凄みを増しているようだった。
「――いらっしゃいましたね」
「ああ。では、行こうか」
荀彧、郭嘉が先んじる一方、荀攸は背後でぶつぶつと独り言を呟いている満寵を振り返る。満寵は「ここをこうして、こうすればもっと威力が……」とひたすらに手を動かしていた。
「満寵殿。曹操殿が到着しました」
荀攸が声をかけても、満寵は空返事すら返さない。目の前の自作の兵器以外に興味はないといわんばかりの彼に、荀攸は小さく嘆息する。こうなると何を言っても満寵の耳には届かないことは、短い付き合いのなかで嫌と言うほど思い知っていた。
「荀攸、殿……?」
「はい、荀攸は俺です……あ」
驚きに満ちた高い声に反射的に答えた荀攸は、声の主を見て動きを止める。
厳めしい長躯の男に並び立つ、あどけなさを残す乙女は、大きな目を丸くしひたと荀攸を見つめていた。
命の恩人である彼女を、荀攸は一日たりとも忘れた事はない。麗らかな陽の下で何度彼女の笑顔を思い返し、月下の静寂に幾度再会を望んだか知れない。
「驚きました。こんな所で傭兵殿と再会するとは、歓天喜地です」
ようやく荀攸の口から発せられた声は、言葉とは裏腹に驚きも喜びも滲まない淡々としたものだった。
「荀攸殿! 会いたかったです」
反応の薄い荀攸に対し、傭兵は全身で喜びを表している。弾んだ声や輝かんばかりの笑顔は、洛陽で別れた時と何ら変わりない。
飛びついてくる彼女を、荀攸は両の腕を広げ受け止めようとした。が、はたと衆目の前であることを憚り、寸での所で身をかわした。
「わっ!」
たたらを踏んだ彼女は、濡れた瞳で不満げに荀攸を見上げる。しかしすぐに嬉しそうに目を細め「お元気そうで何よりです」と笑った。
「あなたもお変わりないようで、安心しました」
積もる話は山ほどあるものの、満寵の作った兵器が上げる不穏な異音が再会の喜びに水を差す。
「今はまず、暴走した兵器の廃棄を優先しましょう」
「はいっ!」
素早く武器を構えた彼女は、一瞬で傭兵の顔になる。今の今まで纏っていた柔らかな雰囲気が冬暁の如き冴えを見せ、澄んだ瞳に強い光が宿る。
久方ぶりに見る彼女の勇姿に心躍るのを感じつつ、荀攸も武器をとった。
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許昌に着くや否や、荀攸は他の軍師らと共に軍議に加わった。曹操の父を害した陶謙配下の凶行すらをも利用すべく事が動き出すなか、諸々の用事を片付けようやく腰を落ち着けられるようになったのは、すっかり夜も更けた頃だった。
傭兵の方も旅の連れを迎えに行き事情を説明するのに時を要し、二人連れ立って許昌の片隅にある食事処に足を踏み入れた時には、客の姿は疎らになっていた。
「荀攸殿とまた会えて嬉しいです。どうしているかな、ってずっと気になっていたので」
各々食事や飲み物を注文し配膳を待つ間、彼女は屈託なく笑う。一点の曇りもないその笑顔はやはり、荀攸の記憶に鮮やかに残る姿と遜色ない。
胸に沸いた懐かしさをしみじみと噛みしめた荀攸の口角が、彼女につられるよう、少しばかり上向いた。
「俺も、あなたのことは気がかりでした。報酬や食べ物につられ、誰かに言い様に使われていないか。無茶な戦いを強いられていないかと」
「人を食い意地が張った守銭奴みたいに……。それに無茶を強いるのは、荀攸殿がわたしにやったことじゃないですか。どの口がそんなこと言うんです?」
荀攸の計略により、張遼や呂布といった強敵と刃を交えるに至った事を、彼女は未だ根に持っているようだ。
口では怖かった必死だったと言うが、結果として彼女は武勇に優れた大男相手に立ち回り、荀攸が望む結果を勝ち取った。
傭兵としての手腕は疑いようがなく、彼女がいるだけで戦略の幅が――取れる選択が増える。軍師として曹操に仕える事が決まった今、彼女との再会はまさに僥倖だ。
「あなたなら出来ると判断したからこそです。……無茶を言った自覚は、多少ありますが」
「自覚あったんですか」
彼女は逐一、良い反応をする。人見知りの気がある荀攸は今まで、誰かを構うような言動をあまりしてこなかった。だが彼女と接していると、もっと色々な表情を見たくなる。
「料理が来たようですよ」
「ほんとだ、ありがとうございます!」
運ばれてきた肉のあつものを両手で受け取った彼女は、きらきらと目を輝かせた。その目が、もの言いたげに荀攸を捉える。
「お先にどうぞ」
「いただきます!」
匙を手に食事を始めた彼女の姿に、荀攸は酒で喉を潤しつつ、遠い洛陽での日々を想起した。
董卓誅すべしと同心する王允の養女貂蝉と、彼女に協力する傭兵に牢獄から助け出されたのち、荀攸は王允が用意した簡素な家に身を隠した。
そこには傭兵も身を置いており、二人での共同生活が始まった。
「おはようございます、ご飯できてますよ」
脱獄翌日――昼も近い時間に目覚めた荀攸に、彼女はさも当然のように食事を用意してくれた。獄中生活を送っていた荀攸を気遣ってか、食卓には柔らかく蒸した魚や、細かく切った野菜を煮たあつものなどが並んでいるが、二人分にしてはいささか量が多い。
「……ありがとうございます」
「いえいえ、自分の分を作るついでですし。お口に合えば良いんですけど」
荀攸に椅子を勧めた傭兵は二人分の茶を入れ、一つを荀攸の前に置くと、自身も卓についた。
彼女が作った料理を食べながら、互いの身の上を語り合う。昨夜は酒が入った荀攸が暗殺失敗の反省と起死回生を狙うための手段を饒舌に語ったため、そういった話題まで至らなかったのだ。
「――という感じで各地をふらふらして、見聞を広めている所です」
簡単な自己紹介を終えた彼女は、空になった皿に再び料理を盛る。二人分にしては多い料理の大部分は傭兵の分だったようだ。小柄な見た目に寄らない彼女の食べっぷりは所作の良さと相まって、見ていて気持ちが良かった。
「仕える主や拠り所を定めず、単身各地を流れているとは。豪胆な方ですね」
「そうですか? わたしは自由で気に入っていますよ、今の生活」
不安などないというふうにあっけらかんとした彼女は、乱れた世にあっても擦れたところがなく、終始感情と表情が直結しているようだった。
いくら命の恩人と言えども、全幅の信頼を寄せるに値するか……荀攸に懸念がなかったわけではない。人はいつどこで手のひらを反すかわからない。
だが朝な夕な共に過ごし、彼女を観察しているうち。言動の裏を読む必要はないと判断した。董卓暗殺に手を貸す理由を「貂蝉殿の覚悟に応えたいから」と真摯な瞳で静かに語った姿も、印象的だった。
そうして彼女と言葉や日々を重ねた荀攸は、いつしか彼女に心を隠す事をしなくなっていた。普段言動に隙を作らぬよう注意を払っている荀攸にとって、傭兵と過ごす気を張らない生活は存外居心地が良かった。
この暮らしが続くのも悪くない――そう思えるほどに。
「荀攸殿が前に言っていた将来有望な親戚って、昼間一緒にいた方ですか?」
あつものに続いて幾つかの点心を食べ終わった傭兵は、荀攸の皿が空いている事に気付くと、蒸した肉や野菜を取り分け荀攸に手渡した。
皿を受け取った荀攸は尋ねられるまま、荀彧らと共に曹操に目通りを願うに至った経緯を語り、その合間に料理や酒を口に運んだ。
「――俺の話はこんなところです。あなたの方は、どう過ごされていたのですか。于禁殿とあなたとでは、気性が合わなそうですが」
「于禁殿とは偶然行き会いまして。危うく連行されかけたり、道中色々と……怒られたり叱られたりもしましたけど。わたしは嫌いじゃないですよ、ああいう自分にも他人にも厳しい人」
酔いが回ってきたのか、杯を手にへにゃりと笑う傭兵の頬は、仄かに色づきつつある。食事をしながら大分酒が進んでいたようだ。気が付けば机上には、幾つもの空の酒器が並んでいた。
「そういえば!」
はっとしたように声を上げた傭兵は、荀攸の方へ身を乗り出す。
「荀攸殿あの時、あんまり喜んでくれてなかったですよね」
「あの時、とは」
「感動の再会をした時です。わたしは泣くほど嬉しかったのに」
「これでも歓喜に打ち震えていました。俺の感情と表情が一致しないのは、あなたもご存じでしょう」
不貞腐れたように眉を下げる彼女の杯に、荀攸は無表情で酒を注ぐ。じっと荀攸の顔を見ていた傭兵は「わたしは……」と小さく呟き、杯を口元へ運んだ。
「荀攸殿にまた会えて、泣くほど嬉しかったのに」
伏せられた睫毛が微かに震えて見えたのは、荀攸の気のせいか。室内を照らす燭台の炎の気まぐれか。
今度は荀攸の方が、彼女を注視した。
あの時――許昌近くで傭兵と邂逅した時、彼女の瞳が濡れていたことには荀攸も気づいていた。単に再会への喜びと判じていたが、彼女にとっては他の意味があったのだろうか。
『わたしは、他のひととは違うんです。仙界で過ごしていた時期があって……』
洛陽での別れの夜、彼女はそう荀攸に秘密を打ち明けてくれた。彼女の身に流れる時の速さは常人より緩やかであり、歳の取り方が違う。それが何を意味するかは、みなまで言われずとも想像がついた。
だが親しくなった者と同じ時間を生きられない孤独は、当事者ではない荀攸が考えるよりも更に深く、彼女の心に影を落としているのかもしれない。
「泣くほどに俺を想っていて下さって、光栄です」
「そうですよ。もっと有難がってください?」
荀攸の言葉に、傭兵は戯れ事を返す。再び笑顔になった彼女は店員を呼び止め酒と料理を追加注文すると、他愛もない話を楽し気に語りだした。
心地よく耳に馴染む彼女の声を聞きながら、荀攸は改めて思い知る。一見悩みなどないかのような天真爛漫な彼女も、身の内には人知れぬ悲哀を内包していた。
――その悲しみを、俺が癒すことは出来ないだろうか。
彼女には処刑を待つ他なかった身を助けられた。恩を返すためにも、自分に何が出来るのか。傭兵との話に花を咲かせながらも、荀攸は一人考えた。