一人の薄暮「嬢ちゃんありがとな! 護衛を引き受けてくれて助かったぜ」
「いえいえ。こちらこそ報酬の他におまけまで頂いて、ありがとうございます!」
「なんの。機会があればまたよろしくな!」
「はい、また……」
仕入れてきたばかりの商品を抱え揚々と自分の店に入っていく商人の背中に、ひらひらと手を振る。今しがた完了した護衛依頼のおかげで懐は温かいし、おまけで貰った特大肉まんがあるから小腹も満たせそうだ。
ほかほかと湯気をたてている肉まんを齧れば、じゅわりと口の中いっぱいに肉汁が広がる。あ、タケノコ入ってる。皮もふわふわで美味しい。
二口目を咀嚼しながら、初めて来た町を当て所なく歩く。
あまり大きな町ではないけど人の往来は多く、通りにはいろいろなお店が並んでいて活気があった。食べ物や服、花、日用品など眺めているだけでも楽しい。
――洛陽で借りていた邸の周りも、こんな感じだったな。
華やかな大通りから一本外れた裏道に、一時荀攸殿と一緒に暮らした邸はあった。外壁の一部が崩れかけた建物は強い風が吹くと隙間風で冷えたけど、立派なかまどもあって居心地は良かった。
その邸も董卓に焼き払われ、今はもうないけれど。
――荀攸殿は、今頃どこで何をしているだろう。元気にしているかな。ちゃんとご飯食べてるかな。
今夜の宿を探しつつ、なんとなく天を仰ぐ。陽はだいぶ傾き、空の端では透明感のある青に橙色が混じり始めていた。
これからは一人の戦術家としてやっていく――そう言っていた彼と別れてから、幾度朝と夜が巡ったか。途中までは数えていたけど、もう忘れてしまった。
傭兵として人助けや荷運びの手伝い、猛獣退治など色んな仕事をするたび、その日あったことを誰かに聞いてもらいたかった。今までは荀攸殿が格好の話し相手で、口数は少ないながらも相槌を打ったり問いを返してくれていたから、独りになってからは日々が物足りなく、色彩を失ったかのように味気なかった。
もちろん色んな人と出会って初めて食べる物に舌鼓を打つのは楽しかったけど、隣に荀攸殿がいればもっと楽しかっただろうなと、何度もそう思った。
――会いたいなぁ……。
考え事をしながら歩いていたのが悪かったのか、気が付けば夕飯時に差し掛かっていて、宿はどこも満室だった。宿の主人曰く、近々大きなお祭りがあって物見客がたくさん訪れているらしい。
仕方なく夕飯だけ済ませて町を出て、夕暮れ迫る林の一角で野営の準備を始める。
乾いた枝葉を集め火を起こし、膝を抱えてじっと炎を見つめていると、荀攸殿と別れた日のことが思い起こされた。
――荀攸殿はまたお会いしましょう、って言っていたけど、”また”っていつ来るんだろう。
この世界は思っていた以上に広くて、一度別れた人と再会を果たした記憶はない。
乱世にあっては今日が平穏無事だったからといって、明日もまたそうだとは限らない。仙界で過ごしていたからか生来そうなのか、多少頑丈なわたしですら賊との戦いであっさり命を落とすかもしれないし、足を踏み外して崖から落下死することだってあり得る。
誰にも絶対なんてないのだ。先は見えず、戦火や災厄の影に怯えずにはいられない。
そんな世ではどれだけ再会を望んでも、”また”が訪れない可能性は大いにある。たとえ叶ったとしても気が遠くなるほど多くの時間を要するだろう。
ふと、仙界から下界へ降りるとき西王母に言われた言葉が蘇る。
『あなたを人間と呼べるかは難しい所だけれど、私たち神仙に近い存在であることは確かよ。その身に流れる時間は人間よりも緩やかで、あなたには多くの時が与えられている。何かを為すのに、優位に働くはず』
ただ、と西王母は憂い顔になる。
『それはあなたの容姿がそうそう変わらないという側面も持ち合わせているわ。……いずれ、何年何十年経っても姿の変わらないあなたを、不気味に思う人も出てくるでしょう。
あなた自身の生い立ちを人に明かすかどうかは、あなたの自由。ただ人間は、自分と違うものを忌避しがちだわ。信頼を得ていれば話は違うかもしれないけれど、皆が皆理解を示してくれるわけではないことだけは、覚えておいて』
そう言った時の彼女は、心からわたしを案じてくれているようだった。西王母の気持ちはとてもありがたい。
でもわたしはあの夜、わたしの意思で荀攸殿に自分の秘密を打ち明けた。
大量の黒煙を逆巻きながら大火が洛陽を飲み込んだあの日。
地獄の業火を思わせる炎が激しく爆ぜ、ガラガラと大きな音をたて数多の建物が崩れていった。木材が焼ける匂いよりも、鼻をつく嫌な臭いが勝っていた。何が燃えているかなんて、考えたくもない。
凄惨な光景の只中にあって大きな怪我もなく逃れられたのは、貂蝉殿の導きあってこそだ。その貂蝉殿は呂布に着いて行き結末を見届けると、洛陽を去った。
残されたわたしと荀攸殿は火の手が及んでいない郊外で、身一つで逃れてきた人々と共にただ茫然と、為す術なく燃え上がる都を見ていた。
『……飲まずにはやっていられません』
悄然と語った荀攸殿と、全く同じ思いだった。
やがて天をも焦がすほど赤々と燃え盛っていた炎が鎮まったあと、荀攸殿と二人、煙の残る焼け跡を歩いた。
一緒に暮らした邸は辛うじて家の形を保っていたけど、屋根を支えていた柱は炭と化し今にも崩れそうだったため、欠けた陶器と燃えずに残っていた酒とを引っ張り出し、側を離れた。
煤けた地面に座り荀攸殿と二人舐めたお酒のあの苦さは、この先ずっと忘れないだろう。
『俺はこれから、一人の戦術家としての道を進もうと思います』
お酒が入るといつも饒舌な荀攸殿も、この時ばかりは淡々と語った。
『あなたは、どうされますか?』
『わたしは、またどこかをふらふら巡って、世の中を見て回ろうと思います。知らないことがまだまだありますし、自分に何が出来るのか、何を目指したいのか……見極めたいので』
『そうですか……別々の道を歩むことになりますが、あなたとはまたどこかで会いたいと、心底からそう願います』
『あ……』
荀攸殿の言葉で、しっかりと握っていた手を離されたような心細さに襲われた。いつまでもずっと一緒にいられると思っていたわけじゃない。そのはずなのに、目の前に突き付けられた別れが、どうしても受け入れがたかった。
『あのっ、わたしの話を、聞いてもらえませんか』
気が付けば考えるより先に、口から言葉が出ていた。
何か、荀攸殿とわたしを繋ぐ縁が欲しかったのだと思う。何も持たないわたしでは「秘密の共有」しか思いつかなかったけど、荀攸殿は快諾し話を聞いてくれた。
普通の人間とは違うこと、仙界で過ごしたこと――ぽつりぽつりと語り終わったあと、荀攸殿は『そうですか……』と一言発して、器に残っていたお酒を飲み干した。
特に驚いた様子がなかったことに、わたしの方が驚いたくらいだ。
『えっと、それだけ……ですか?』
『そうですね。驚きのあまり理解が追い付いていない部分もありますが、あなたが今後向き合わざるを得ないであろう艱難辛苦は、想像出来ます』
言葉を切った荀攸殿は欠けた器――元は椀だったものを地面に置き、怜悧な目でまっすぐわたしを見つめた。
『あなたが辛い時、俺が傍で寄り添えたら。そう思いはしても、一度違えた道が再び交わる保障はありません。
ただ、俺はいつどこにいてどのような立場であったとしても、あなたの味方です。そのことは、覚えていてください』
俺に秘密を打ち明けて下さったこと、嬉しく思います。
微笑んだ荀攸殿にそう言われたとき、意図せず泣いてしまった。もしかしたら心のどこかに、気味悪がられるかもという不安があったのかもしれない。
あの時荀攸殿がくれた言葉も、急に泣き出したわたしにおろおろする荀攸殿の顔も。ずっと胸に残って、わたしを支えてくれている。傭兵業や人との関りが上手く行かずに落ち込んだときにも、いつも励まされた。
「……探しに行ってみようかな」
いつ来るかもわからない偶然をただ待つより、自分から再会の可能性を掴みに行く方が建設的だ。どれだけ時間がかかったとしても、後悔しない方を選ぼう。
何で今まで気づかなかったんだろう。会いたいなら探して会いに行けばいい。単純なことなのに。
たとえ荀攸殿の髪や髭が白くなり皺が増えて、わたしだけが何も変わらなかったとしても。荀攸殿なら「あなたは変わりませんね」と笑って再会を喜んでくれる。
きっとそうだという確信があった。
手掛かりは荀家が名家であること、将来有望な親戚がいることくらいしかないけど、人伝に探して行けばどうにかなる。たぶん!
心が決まれば、じっとしていられなかった。砂をかけて火を消し、荷物を手に歩き出す。
人が多い所なら情報も多いだろう。完全に日が暮れていない今なら、次の町かどこかの集落にたどり着けるはずだ。
――また一緒にお酒を飲んだりご飯食べたり、笑いあって過ごしたいな。
逸る心に押し出されるように、足が動く。早足はいつしか駆け足になって……沈みかけの夕日に向かって走るわたしの顔は、期待に満ちていたに違いない。
*了*