Amore mio 肌寒いような気がしていた。胃の奥が重く感じる。全て気のせいだと思って、スーツに腕を通した。日本に病気は気からという言葉があるが、まさにそうである。つまり認めてしまわなければそれは気のせいなのだ。ドイツ開催の世界会議に出席しないわけにもいかず、寒さに気付かないフリをした。帰ってきてから洗濯しようとスエットをベッドの上に放置する。
実際のところプロイセンは無理をしてでも世界会議に出る必要はない。しかし、会議で毎回胃を痛める可愛い弟を見捨てられるわけもなく、主催国だからと何かと理由を付けて手に入れた参加権をみすみす手放すわけにはいかなかった。現役であったのならば厳しく見放すことも厭わないが、現役ではないのだから気にする必要もない。こういう機会でなければ頻繁に会えない人もいるのだから余計に今更休むという考えもなく、気のせいかもしれない悪寒に普段は飲まない薬を服用した。
国に何かあった場合の体調不良であれば薬なんて意味はないが、プロイセンに限っては国原因ではないことは分かりきっていた。壁の崩壊後、不安定になって体調を昔より崩すようになったが、その感覚とも違う。近頃ドイツ国内で風邪が流行っていることを考えて、そのウイルスが原因で寒さを覚えたのだろうと冷静に分析した。体温さえ下がれば顔色の悪さは寝不足などと誤魔化せば事足りることだ。そう、本気で思っていた。
「馬鹿なのか?」
上から降ってきた言葉に、ぱちくりと瞬きをした。荒い息の合間に「お兄様?」と問い掛けると「おう」と簡素な返事が返ってきた。
再び上がってきた熱を薬で下げるため、近くの空き部屋に入って、プロイセンは思わず床に座り込んだ。薬を飲んで一息ついたところで視線に気がつき、見上げたところにロマーノがいたのである。現在進行形で会議中のはずであり、空き部屋に誰かがいると思わずすっとんきょうな声が出た。
「お兄様なんでこちらに…?」
「そりゃこっちの台詞だ。なんでお前今日来てるんだよ。プロイセンを連れて来ないといけないほどの大きな会議でもないだろ」
「ケセセ、俺様の可愛い弟の胃を労るために」
「…………」
「…………」
「……その体調で?」
たっぷり空白をおき、呆れたロマーノはため息をついた。けせせと乾いた声でもう一度笑っておく。バレていなければ誤魔化したが、薬を飲んでいる姿を見られた時点で体調が悪いことはバレている。隠すことはやめて深く息を吐き出した。立ち上がるために、近くにあった机に手を置く。ふらりと重心が揺れた。
「お兄様が来なければ隠し通せる自信あったんだけどなぁ」
「まず隠そうとすんなよ」
「なぁ、なんでお兄様会議に出てないんだ?」
「俺が出ると思うか?」
「出ないと思います」
「よく分かってんじゃねぇか……っ、お前、この熱で本当によく来ようと思ったな」
重心が定まらないまま立ち上がろうとするその手にロマーノは触れた。例え平熱が高かったとしてもそれは明らかに発熱した人の温度だった。もっとも、プロイセンの平熱は低いと以前聞いたことがあったから、これは余程体調が悪いのだと思う。ロマーノは眉をしかめた。
「薬を飲めばなんてことねぇぜ」
「それはなんてことあるんだよ」
ロマーノはプロイセンを立ち上がらせて自身に寄りかからせると、そのままどこかに電話をかけ始めた。とくとくと聞こえる心臓の音に安心して少し眠りそうになる。CHAOから始まった電話越しの会話を目を瞑ったまま聞いていると、徐に「ドイツ」という単語が出てきて、勢いよくロマーノを見た。
「ドイツ? 今ドイツって言ったか!?」
「しーっ。ちょっと黙ってろ」
子供をあやすように口元に指を当ててしーっと静かにするようジェスチャーをする。
「まって、いくらお兄様でもそんな所業は許されねぇぜ!」
「暴れんなって! お前が暴れたら俺じゃ止められな……転けて頭打つぞ! 俺が!」
「!」
ぴたりと動きを止めたプロイセンを見て、思惑通り止まったことへの安堵と男としての威厳で少し複雑な気持ちを覚える。
『ロマーノ?』
「あ、ああ。悪い。とりあえずこいつ家連れて帰るぞ。いいな」
『ああ、よろしく頼む』
生真面目な声とともに電話が切れた。ロマーノはスマートフォンをポケットに仕舞う。
「胃を労るって言ってる奴が弟に心配かけてんじゃねぇよ。すごいびっくりしてたぞ」
「だって、」
「だってもくそもねぇ。とりあえずお前連れて帰る話はつけたから。動けそうか?」
辛辣な言葉から一転、優しく労る言葉をかける。プロイセンはぎこちなく数度頷いた。
「よし。じゃあ帰るか……電車は無理だよな。秘書呼んでくるから送迎してもらおう」
「え!?」
「?」
「お、お兄様のお手を煩わせずとも自分で帰れるぜ」
「は?」
「いや、一人で…」
「は?」
「は?」
「バカ?」
「シンプルな悪口!」
「逆に何で一人で帰ろうとすんだよ。バカ以外の何者でもねぇだろ」
「いやだけど」
「プロイセン」
ロマーノの優しくて、真面目な声が静かな室内に響いた。どこかで遠くで人の声が小さく聞こえる。会場のスタッフだろうか。
「俺が、お前を、連れて帰りたいんだ。これ以上辛い思いをさせたくないし、帰り着いたかをやきもきしながら待ちたくない。分かるか?」
だから俺のために一緒に帰ろうとロマーノは告げた。何でも自分で出来るプロイセンに寄り添ったずるい言い方だ。頷かせるための巧妙な罠が仕掛けられていることに気付きながらも、プロイセンは黙って頷いた。
ドイツ邸のキッチンで我が物顔で料理をする。過去に尋ねたことがあるので、ここで料理をすること自体は初めてではない。数ヶ月前に来たときと同じ配置にある調味料や鍋を手に取って、食材を冷蔵庫から出す。味見をして、いつもより薄味のスープの出来栄えに満足気に頷いたとき、階段の方から聞こえた物音に顔を上げた。二階の自室で寝ていたプロイセンが起きて来たらしい。
「具合はどうだ?」
「あつい……」
手に付いた水滴を拭き、緩やかに左右に揺れるプロイセンの元に駆け寄る。額にそっと手を当てると空き部屋で彼の手を握ったときより熱くなっていた。色の白い肌は真っ赤になっている。ロマーノの秘書に送迎してもらい、会議場からドイツ邸に戻ってきたプロイセンは、ロマーノに手伝ってもらいながら服を着替え、ベッドに潜った。そのときは「自分で着替えられるから!」と照れたように抵抗する元気があったが、今はされるがままである。冷たいロマーノの手に額をすり寄せた。
「ヴェストは…?」
「まだ会議。また収拾付かなくなって進行が遅れてるってさっきヴェネチアーノから連絡あった」
「あいつら…」
「お前は今は自分のことだけ考えろよ。食欲あるか? スープ作ったんだ」
「スープ…?」
「チキンスープ。ドイツでは風邪引いたときにチキンスープを食べるんだろう?」
「おれさま教えたことあったっけ…?」
「調べた」
弱ったときは自分の国のもん食べるのが一番だ、と何気なく伝えられた言葉が溜まらなく嬉しく感じた。自分の国の料理に対する自信が人一倍強そうなロマーノがプロイセンのためを思って作った、世界でひとつだけのチキンスープだ。
「食べる…」
「いや食欲あるかを聞いたんだけど」
「たべる」
「…無理はすんなよ」
「ん」
「取り敢えずそこのソファに座って待ってくれるか?」
「わかった」
プロイセンの手を取り、ソファまで誘導した。座ったことを確認してキッチンに戻る。ゴホゴホと重たく乾いた咳を背後に聞きながら急いで支度を再開する。戸棚に仕舞ってあるアンティークのように洗練されたスープカップを取り出した。そのスープカップにチキンスープを注ぎながら、少し離れた位置で聞こえていた咳の音がいつのまにか後ろから聞こえてくることに気付き苦笑した。ぺたりと踵とつま先が触れて、腰に腕が回る。
「プロイセン」
「……」
「ちょっとでいいから離れてくれるか? 早く温かいスープをお前に飲ませてやりたい」
スープカップを置き、腰に回された逞しい腕を叩く。思い切り力を込めればロマーノの腰など簡単に折れるというのに、弱々しく抱き締めてくる。ロマーノは困ったように、腕が攣りそうになりがら自分より高い位置にある頭を撫でた。
「どうした?」
「……」
「何か言わなきゃ分かんねぇぞ。このやろー」
「スープ、」
「ん?」
「……その、」
「うん」
優しく相槌を打つ。ぽんぽんと撫でる動きにプロイセンは段々と眠たくなるのを感じながら「その」と歯切れの悪い言葉を漏らした。
「なんだよ」
「……スープなんていいから、お兄様にそばにいて欲しい……です…」
語尾に近付くにつれて掠れて吐息に紛れてしまっていたが、至近距離に居るロマーノにははっきり聞こえた。思わず目を見開く。動揺したことが伝わったのか、プロイセンは「いや…」と弁解をする。
「あっ、いや、困らせるとか、そんなつもりはなくて、」
「マリア」
折角作ってくれたのにとか、申し訳ないとか、色々喋り出したプロイセンを黙らせるように二人きりのときしか呼ばない呼び名を口にした。プロイセンの動きが止まる。
「会議場に居たときも思ったけどな、そんなに自分を後回しにしようとすんな。今大事なのはなんだ? お前の体調が悪い、その一点だけだろうが」
「でも、」
「でもじゃねぇんだよ。マリア、よく聞け」
撫でていた手を下ろして静かにスープの火を消した。抱き締められたままロマーノはくるりと身体の向きを変えた。文字通り目と鼻の先にプロイセンの顔がある。
「俺はお前のことを大事にしたい。恋人の具合が悪いなら仕事だって投げ出すし、作った料理だって冷えても構わない。…だから、もう一度言ってくれないか?」
覗き込むように紫色の瞳を見つめた。視線が泳ぎ、熱のせいか目元が濡れる。その涙を指で拭って辛抱強く待つこと数秒。プロイセンは泳がしていた視線をぴたりとロマーノに固定した。
「…………さ、さみしいから、一緒に居て欲しいです…」
「もちろん」
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■あとがき
読んでいただきありがとうございます。蛇足なのでこれは読んでも読まなくても大丈夫です。
チキンスープのくだりしつこくなってしまうので本編内で書きませんでしたが、本当はリーゾ・イン・ビアンコを作ろうとしたけど、
・イタリアではないので全ての材料が揃わなかった
・普段慣れない料理をして万一失敗したら(絶対失敗しない自信しかないけど)彼氏として面目が立たない。
の理由でドイツで風邪引いたときに一般的に食べられるものを調べたという裏話があります。
これが書きたくて、あとがきしたためました。