充電させてやバーベルを背中に乗せて、右足を一歩引く。かかとを床から離した状態で、体重を左足に移動させる。上半身をまっすぐに保ったまま尻にグッと力を入れ、足がぐらつかないようにゆっくり丁寧に体を下げていく。
両足が90度に曲がり、右足の膝が床のぎりぎりまで近づいたら止まって5秒数える。そして再び尻の筋肉を引き締めて、左足で強く床を踏みしめ、初めの姿勢に戻る。
ぽつり、額から伝い落ちた汗がトレーニングマットの上に落ちた。背中に乗せたバーベルのずしりとした重みが心地良い。
5月の朝は爽やかで、外を走りながら胸いっぱいに吸い込んだ空気が美味しかった。ランニング後にこうして寮の一室に設えたトレーニングルームにやって来たわけだが、窓から差し込む明るい日差しに室内とは思えぬ清々しさを感じた。
時間ができたらまた山にも行きたい、そう思い描きながら大和がトレーニングに励んでいるとドアが開いてヴァンがやって来た。ハイブランドのスウェットのセットアップを着こなしたヴァンがトレーニングベンチに腰掛けて、ベンチの上に置いておいた大和のジャージの上着をおもむろに肩に羽織る。
「邪魔せんから、ここ居てええ?」
「いいけどよ」
トレーニングを続けながら大和は時折りヴァンに視線を向けた。まだ前髪を降ろしたままのヴァンはまるで海外の映画のワンシーンのようにアンニュイな雰囲気で佇んでいる。傷心の痛みを憂う端正な横顔。視線が動いてヴァンと目が合った。
「……」
「……」
バーベルを担いだ大和がぐっと体を下げ、膝を曲げた体勢をキープする。ぽたぽたと汗が落ちた。5まで数えたら、ずしりと重いバーベルを持ち上げて元の姿勢に戻る。
「……っふ――――っ」
汗だくの体から熱い息を吐きだして、再び屈みこもうとするが、視線を感じてそちらに目を向けた。
「野球どうだったんだ?」
瞬間、ヴァンの表情が動いた。
「聞いてくれるん?」
「さっきから聞いてほしそうにしてるだろ」
観たいメジャーリーグの試合があるから早起きするのだと、昨夜からヴァンは意気込んでいた。どうやら結果は喜ばしいものではなかったようだが。
「トレーニングの邪魔したらあかん思て、ずっと黙っとったやん」
「静かにしてるヴァンは返ってうるせぇ」
「熱~い熱視線、気になってもうた?」
「しゃべりたい、しゃべりたいってオーラが全開だった」
「やまちゃんには隠し事できへんな。ほな、トレーニングのBGM代わりに聞いたって」
そうしてヴァンは試合のあらましを語りはじめた。野球に詳しいわけではない大和にも分かるやさしい言葉で、臨場感たっぷりに活き活きと擬音語を織り交ぜて話す。まるで賑やかなジェットコースターのようだ。
「……調子でてきたみたいだな」
表情をくるくると変え、身振り手振り交えながら話していたヴァンが、はたと動きを止める。予定していたトレーニングを終えた大和はタオルで汗を拭っている。
「ほんまや、話してるうちにめっちゃ元気になっとる!」
驚くヴァンに大和が笑う。
「自分のことじゃねぇか」
「話聞いてもらうまでは確かに落ち込んでたはずや。せやからジャージも羽織らせてもらったんやし」
ヴァンは特別小柄というわけではないが、羽織っている大和ジャージのサイズが大きいためぶかぶか感が否めない。
「デカすぎねぇか? 気に入ったなら同じやつ買いに行くか」
「やまちゃんのやないと意味ないやん?」
ヴァンが意味ありげに見上げるが、大和は目をぱちくりさせるばかりだ。
「また貸してや」
嬉しそうに肩にかけたジャージに包まるヴァンの横に大和が腰かける。
「そりゃあかまわねぇけどよ」
「やまちゃんの相棒のジャージには、やまちゃんの元気がぎょうさん蓄えられとる。せやから、こうやって羽織ってると、元気分けてもらえる気がするんや」
「そんなもんか?」
「ほんまやで。最初のときは純粋に間違えて着てしもたんやけど、めっちゃ着心地よくて、あったかくて、それで気づいたんや。ああ、まるでやまちゃんに抱かれてるようやって」
「おれがいるときは、おれでいいだろ」
ジャージの上から自らの体を抱いていたヴァンが、まじまじと大和を見つめる。大和はちょっと拗ねたような、面映そうな顔をしている。頬が少し赤い。
「おれがいるときは、ジャージじゃなくておれのところに来いよ」
大和が隣に座っているヴァンを抱き上げるようにして、自分の膝の上に対面で座らせた。振動でヴァンの肩からジャージがするりと落ちてしまったが、大和はお構いなしにぎゅっと抱きしめる。
「ジャージより効果あるだろ」
ヴァンを包み込む大和の体は熱く、触れ合った胸元からドクンドクンと鼓動が伝わってくる。汗に濡れた髪がかかる耳が赤い。照れているのだ。
朝から健全で健康的なトレーニングに精を出す大和の清々しいまでの雰囲気に甘さが香る。まるで花の妖精のようだ。
「めっっっちゃ元気でた!」
ヴァンが大和の肩を押して体を離す。このまま触れ合っていては自制心が揺らぎそうだと、灯りかけた欲望を茶化して誤魔化す。
「せやけど、これ以上元気にされると、可愛さのあまり押し倒してまいそうや」
「おもしれえ、できるのか?」
大和がヴァンを抱いたまますくっと立ち上がった。あまりに軽々持ち上げられたものだから、ヴァンは抵抗するいと間も無く大和に抱き上げられてしまった。とはいえ、もとより抵抗するつもりも無いのだが。
「軽〜く持ち上げてくれるやん?」
「鍛えてるからな。さっき背負ってたバーベルだってヴァンより重い」
ヴァンを抱いたまま大和がくるっと回った。
「えーーほんま?」
ヴァンが大和の首に腕を回す。
「おかげで今は犬持ってるのとたいして変わらねぇくらいだ」
「やまちゃんになら飼われてもええよ」
甘えたヴァンがキスをする。
「飼うのかよ」
鼻先を近づけたまま話す大和にヴァンが再び唇を重ねる。
「愛嬌のある、ええ子やで」
「自分で言うな」
くるくる回って笑い合いながらキスと言葉で戯れる。
「ほんまやって、ご主人様思いで、投げたボールもちゃんと拾ってこられる。ボールは野球ボールがええな。それやと絶好調」
「犬はそうやって一緒に遊べるのがいいよな。散歩ついでにランニングもできるし」
「ワイのこと首輪つけてランニングに引っぱってく気やな」
抱き上げているヴァンを大和が純粋な目で見上げる。
「犬は散歩に行きたがるもんだぜ?」
「そんな顔で見つめられたら、尻尾振ってどこまででもついて行ってまうな」
ヴァンが口づけを落とす。先ほどまでより深く。
唇を重ねながら、大和の汗に濡れた髪に手を差し込んで後頭部に手を添えた。
「首輪……つけてや」
ヴァンが大和の瞳を覗き込んだ。
「ワイがやまちゃんのものやって分かるように、な」
視線を絡めながらヴァンが唇を寄せる。
息をするのも忘れて口づけを貪った。時間にすればほんの少しのことだったが、唾液を絡めたキスに欲情の気配が香る。
しかし、春の夢から目を覚まさせるように、大和の手首でスマートウォッチの電子音がピピピと鳴った。
「朝メシに遅れねぇようにアラームセットしてたんだった。メシの前にシャワー浴びねぇと……」
「シャワーもお供しよか?」
大和の腕から降りたヴァンが言う。
本気とも冗談ともつかぬ顔で大和が口篭った。
「冗談やって」
茶目っ気たっぷりに笑ったヴァンが、床に落ちた大和のジャージを拾って手渡す。
「ほな、ワイも支度してくるわ!」
部屋を後にしようとするヴァンを大和が呼び止めた。
「また来いよ」
「ええの?」
「充電でも、なんでもいい。なんもなくても、あっても。どっちでもいい。会いたくなったら、来いよ」
熱っぽい視線がヴァンを見つめる。
「そんなん言われたら、一秒ごとに会いに来てまうわ!」
両手を広げて点を仰ぐオーバーリアクションと軽口で答えたヴァンだが、ポーズを終えるとそそくさと部屋を出る。
寮生活をしているのだから、ある程度の節度を保たねばと思うが、こうも無自覚に振る舞われては可愛らしさに理性が負けてしまいそうだ。
「ほな、また。朝食でな」
部屋に残された大和は、ふと手にしていたジャージの匂いを嗅いだ。ヴァンが羽織っていたせいで微かにヴァンの香水の匂いがする。
「…………」
胸に甘酸っぱい思いが込み上げて来た途端、急に恥ずかしくなった。部屋には自分しかいないが、誰かに見られてやしないかとついきょろきょろしてしまう。
「……へんたいかよ」
自嘲気味にぼやいた大和は、いつも通りトレーニングの後片付けをする。昨日もその前の日も、またその前の日も同じようにしていたが、今日は胸がざわついて春の息吹のように妙に落ち着かない。
ヴァンのせいだ。
窓を仰ぎ見た大和が、差し込む明るい日差しに目を細めた。
明日トレーニングに誘ってみるか。
そう決めた大和の表情がほころぶ。