それは事故だった。
かつて己と共に世界を脅かしたそいつは、赤黒いバスタブの中に沈んでいた。
手から滑り落ちた買い物袋が、ガラスタイルの上に落ちてどしゃりと音を立てる。
ああ、こんな結末はお前には似合わないよ。
いつか来ると思っていた未来は唐突で、うまく息ができなくなる。まるで陸に打ち上げられた魚だ。お前じゃないが。
戦争が長引いていた。
世界の裏側で暗躍するヒーローはこの舞台には必要が無くなった。これからは情報戦だと誰かが言って、俺たちスパイは一夜にして職を失った。
存在意義を示すために上層部に突撃してはみたけれど、相手にはされなかった。誰もが疲れ果てていたのだ。お金も、時間も、無限にあるわけじゃない。
しかし俺たちは知ってしまっている。戦況をひっくり返すことができる力は無くとも、この国の何もかもを知っていた。扱いに困ったそいつらは俺たちを処分することにしたようだった。
こんなのって、あんまりじゃないか。俺にはもう何も残っていないというのに。
「じゃあ、ここから逃げちゃう?」
いつやってくるか分からない処分に怯える俺に、そいつは言った。
俺はその手を取った。
そいつはコードネーム:グッピー(学名:Poecilia reticulata)と呼ばれていた。
強かで明るく、情熱に溢れたそいつは爆弾みたいなやつだった。けれど腕は俺と並ぶほどの切れ者で、俺たちは最高のコンビだった。こんな世界じゃなきゃ俺とは一生出会わなかっただろう。
二人だけの逃避行は最高だった。
住居を転々と変えながら俺たちはひっそりと暮らしていた。それは秘密基地ごっこのようで、俺はいつぶりかに心から笑った。俺たちの関係性に、恋人という名前が加わるのはそうかからなかった。
俺たちは二人ならどうにかなると本気で思っていた。どうしようもないものに支配されていることを忘れていた。今思えば、すんなりとあの国から出ることができたことを疑えばよかった。バスタブの中からすくい出したそいつはすっかり冷えていて、俺くらいの熱じゃ暖まらないことをよく知っていた。奥歯を噛み締めて、涙をグッと堪えた。ここで泣くのはあいつらの思惑通りになる気がしたから。
復讐をする気にはもうならなかった。俺の世界はこいつがいて完璧になる。ベルトから抜いた銃を、こめかみに当てた。どうせ死ぬのなら、俺はこいつのために死ぬと、あの日お前がはにかみながら愛を伝えてくれた時に決めていたから。