私の住む街の片隅には、『魔女の家』と呼ばれているお屋敷がある。
そのお屋敷はこの辺鄙な街の中では一番を争うほど大きくて、ずっと昔からそこにあるらしい。父や母は勿論のこと、祖母が小さい頃から、赤いレンガの屋根にクリーム色の壁の、蔦がぐるぐると絡みつくまるで魔女の家のあの屋敷は、あの場所にあった。
街の人達はお屋敷を避けている(何か怪しい雰囲気がするわけではなく、ただ単純に用が無いからだ。)けれど、私は違う。私はあのお屋敷のたった一人の住民をよく知っているから。
「こんにちはー」
お屋敷の敷地の中は植物が多いからか、冷房が無くてもここはいつもひんやりとしている。荒れ放題の庭とは裏腹に、きちんと掃除の行き届いた玄関ホールの真ん中で、私は呟くように挨拶をする。
するとぱたぱたと足音が聞こえてきて、ホールの横にある応接間から、少女がひょっこりと顔を出した。
「あら、こんにちは!今日は随分と早いじゃない」
「うん、今日から夏休みだからね」
「そうだったのね。お茶を淹れてくるから、待ってて」
そうにこりと笑って、魔女はまたぱたぱたと、今度はキッチンへかけていった。
このお屋敷に住む少女は魔女であり、私の友人だった。本当に魔女なのかは分からないけど、このお屋敷にはいかにも魔女が持っていそうな大釜や、水晶玉があるし、彼女はいつも黒いワンピースを着ているから私は魔女だと思っている。金髪に柔らかな若草色の目も絵に描いた魔女っぽい。
「どうぞ。かおりはレモン水好きよね?」
「うん。去年のこと覚えていてくれたんだ」
よく冷えたレモン水は炎天下の中を歩いてきた身体にすっと染み込んで喉を潤す。空になったグラスをおかわり、と差し出すと魔女はにこにことしながら二杯目を注いだ。
「今年の夏は何か予定がある?」
「えっと……友達と海に行くんだ。それ以外は特に無いかな。魔女さんは?」
「勿論、草刈りよ」
「やっぱり!」
彼女から予定を聞いてくる時点で既に身構えていたことだった。夏の草刈りは、毎年の恒例行事だ。小学生の時からそれは変わらない。
「お願いかおり、わたしを手伝ってくれる?」
「当たり前じゃん、手伝うよ」
おやつを食べながら、草刈りの順序について作戦会議をした。お屋敷の敷地はとてつもなくでかいから、二人でどう刈るべきか、刈った後の草をどう運ぶかまできちんと考えておく必要がある。そして、夏の草の成長速度に負けない為にも。
「じゃあまた明日」
オレンジにじりじりと焦げる空の下、私は魔女に手を振った。今年も夏が始まるのだと思う。彼女と過ごす草刈りばかりの夏休みを、私は案外楽しみにしている。
夏休みが始まってから二週間、私たちはちょっぴり綺麗になった庭を、お屋敷の二階の窓から見下ろしていた。
「やっと窓が開いた!かおりのおかげよ、ありがとう」
「この窓が開くと達成感があるね。ああ、風が気持ちいい」
窓を閉め切ってばかりのこのお屋敷の中に、夏のぬるい風が柔らかく吹き込んだ。ぬるくても、さっきまで一生懸命草と格闘していた身体にはありがたかった。
街の中でも少し小高い場所にあるお屋敷からは、隣街だけでなく、今度友達と行くと約束している海までもがうっすらと見えた。
「かおり?どこ見てるの?」
「別に。ただ遠くを見てるだけ。魔女さんならどこでも簡単に行けちゃうんだろうなって」
「やだ、もうっ、空は飛べないわ!からかわないでよ」
そう言って魔女は私の肩をぺちりと叩いた。夏の陽が彼女の黄金をきらきらと輝かせている。美しいと思う。夏のほんの少しの間だけじゃなくて、いつでも窓が開けばいい。そうしたら、いつでもこの輝きを見ることができるのに。
「暑くて疲れたでしょう?お昼ご飯を食べましょ。わたし、サンドウィッチを作ったのよ」
「ほんと?」
彼女お手製のサンドウィッチはとても美味しいから好きだ。たっぷりの卵や、塩気の効いたハム、しゃきしゃきのレタスの食感を思い出して私のお腹がぐぅと鳴った。そこにレモン水があればどんな人だって間違いなく彼女の料理の虜になるだろう。
夏休みも後半に入り、私はこれまで手を付けていなかった宿題の前で途方に暮れていた。
全然わからないし、いくらやっても量が減らない。
「助けてよ〜〜」
「宿題って自分の力で頑張るものでしょう?それに、数学ならかおりの方が詳しいわ」
魔女はそう言って私を助けてくれない。さっきからずっと、海から持ち帰った貝殻をネックレスに加工することに勤しんでいた。
小さな貝殻をあんなにも喜んでくれるなんて思わなかった。海の近くのお土産屋で買ったよく分からないゆるキャラの描かれたクッキーよりも喜んでいた。
数学の問題はよく考えてもやっぱり分からず、窓の外を眺めながら思考は遠くへ旅に出る。今日も良い天気だなぁ。こんな日はどこかへ出かけたいなぁ。いやでも外は暑いしなぁ。日が暮れてからならどこかへ……。
「花火大会!」
「きゃっ!どうしたの?」
私が突然立ち上がったからか、魔女は驚いた声を上げた。猫みたいに目をまん丸にしてこちらを見上げている。その手から落ちた貝殻が、床でかつんと音を立てた。
「今日はお祭りがあって、最後に花火大会があるんだよ。ほら、あそこの公園で!魔女さんは知らない?」
「は、花火?知らないわ……」
「ねぇ、一緒に見よう!大丈夫、お祭り会場に引き摺っていったりしないから」
その言葉に魔女はほっと息を吐いた。別に外に出てはいけないという訳ではないのに、彼女は出会った頃からこの屋敷の敷地の外へ出ることを嫌がった。
「ほら、今なら窓が開くじゃん。二階からなら見えるよ」
日が沈み、昼間っから薄暗いお屋敷の中は真っ暗になる。
魔女はテーブルランプに日を灯した。ゆらゆらと影が揺れる。ランプに照らされた彼女の顔は、どこか緊張しているようだった。
そういえば、こんな遅くまでお屋敷に居たことって無かったかもしれない。いつも日が沈む前に帰らなきゃいけないような気がしていたから。
私達は花火大会の時間の直前に二階へと上がった。窓を開けると夜闇の中に祭り会場だけがぴかぴかと光っていた。
ただの街のお祭りで花火が上がることは今年が初めてだ。だから私も打ち上げ花火を楽しみにしている。わくわくと胸を高鳴らす私の隣で、魔女は一歩後ろに離れた場所にいた。
それから幾分か経った後、最初の花火が打ち上がった。大きな音と共に夜空に光の花が咲く。会場と距離が近いからか、花が散るパラパラという音までが鮮明に聞こえた。
「わっ!すごい……!」
いつの間にか魔女は私の隣に経っていて、私と同じように夜空を眺めて瞳をきらきらとさせていた。
夜空の花の色に合わせて、黄金が色付き、消える。大きな瞳の中にも花を咲かせた彼女が、私の顔を見て微笑んだ。あんなにビビっていた数時間前が嘘のようだった。
「ああ!すごくきれいだったわ!かおりが教えてくれなきゃわたし見ていなかったかも」
小さな花火大会はあっという間に終わった。しかし魔女にとっては十分だったようで、興奮気味に感想を口にする彼女は可愛らしかった。
「こんな綺麗なものを見ることができるなら、窓はきちんと開くようにしておく必要があるわね!あ、それなら外で見ればいいのよね……」
唇から溢れた呟きに、私の胸がちくりと傷んだ。彼女は屋敷に縛られている訳ではないから、彼女が出たいと思うのなら外に出ればいい。けれど、それはまるで私と二人の世界が崩れるようじゃないか。
捻れた独占欲に気付いた時、私と彼女は永遠でないことを知った。私だってこの街にずっといるわけではないし、彼女だってこれからもずっとこの屋敷に縛られていることが正しいわけではない。
けれどもう少しだけ、名も知らぬ魔女が私のだけのものであってほしいと、そう願ってしまったのだ。