わがまま「アシュリー家は本来わがままな家系なのだと、義父より聞かされている。」
橙に染まる夕暮れの庭園で、シリルは彼らしくもなく自身の足元に向けてボソボソとつぶやいた。
モニカは「わがまま」と心の中で復唱した。いつ何時でも自分の思うがままに振る舞う彼の美しい義妹を思い浮かべてから、なんと彼に似合わない言葉だろうと改めて考えた。彼はいつでも誰かの為に必死に己の役割を果たそうとする。モニカの尊敬する人だ。
「義父には、お前はもうアシュリーなのだからそろそろわがままを貫き通す強さを持てと。昨夜は里帰りしたクローディアにも罵倒された。」
罵倒。何故錚々たるアシュリー家の面々がシリルがわがままでない事にそんなにも揺れているのか。何が起こっているのだろうとモニカは緊張からこくりと唾を飲んだ。
王宮での七賢人の会議帰り。日暮れの橙に染まった春の王宮庭園に、想い人の後ろ姿を見つけたのは偶然だった。ラウルが手入れをしているこの庭園には、異国の珍しくも美しい花々が咲き乱れている。その中に佇むプラチナブロンドの彼の姿は、おとぎ話の挿絵の様に現実味がなかった。
モニカは彼の綺麗な立ち姿を見るのが好きだ。いつも彼の背筋はピンと伸び、遠目に見ても美しい。しかし今日の彼は少し猫背気味に見える。いつもなら黙ってそっと見つめるだけなのだが、右手と右足を同時に出しながら花壇脇で毛づくろいをしている猫に近づこうとする様子を見て、モニカは勇気を振り絞って声をかけてみることにした。(その勇気も彼にもらったものの一つだ。)
モニカがぼってんこぼってんこと駆け寄ると、西日の陽だまりの中毛づくろいをしていた猫は異変を感じて逃げ出した。シリルは足音だけでモニカに気付いたらしく、宝石みたいな青い目を驚きに見開いた。
ぜいぜい言いながらモニカはシリルに言い募った。
「あのっ…私っ……私…」
夕暮れの眩い光に照らされる中、シリルの白い耳が内側からさっと赤く染まったのをモニカは見逃している。
「…………えと、何か困られているように見えまして…あの……私がなにかお手伝いできることは……」
彼が猫背なのは何かに困っている時だけだ。更に言うとギクシャクと猫に近づいていくときは何かに追い詰められている時が多いように思うのだ。
ならば助けになりたい。
シリルはモニカの大事な人なのだから。
モニカの運動不足による荒い息だけがみっともなく庭園に響いた後、
「……今日、モニカに会えるとは思わなかった。」
と彼はかすれた声でつぶやいた。その端正な横顔は夕日に照らされて赤く染まっている。
モニカが大好きな彼はいつもハッキリキッパリシャキシャキしているのだが、今日はどうにも覇気がない。儚げと言う形容詞まで思い浮かぶほどだ。見かけは繊細で美しいが明後日な切れ味のある気性の彼には、なかなかに珍しい様子である。
いつもならまっすぐ射抜くような青の瞳が、今日は伏せられ長い睫毛の陰が揺れている。
「あのっ…シリルさばっ…おぅおおおおお久しぶりですっ…と、あの、えっと、最近そういえばお話できる機会がなくてその…あのぅ…何か…ありましたか?」
思い返せば、モニカが最後にシリルと話したのは新年が明けてすぐの頃だった。この数か月、近くでうろうろ仕事をしているはずなのになぜか面と向かって会うことがなかったのだ。
西日に照りつけられながら、モニカはチラチラとシリルを見上げ様子を観察した。シリルは元々細身の青年だが、どうもこの数ヶ月で更に痩せた気がする。繊細だが凛と強い目元には色濃く隈がはりつき、彼の焦燥と疲労を感じさせた。
「……少し込み入った話で……。モニカ。今、時間は大丈夫か?」
モニカがコクコク首振り人形のように頷くと、彼はそっと息を吐き、そしてらしくもなく視線を彷徨わせると、しばし逡巡してから切り出した。
「実はここ半年ほど、外勤に赴くと執拗に追われ、退勤時を狙って拉致監禁が狙いであろう襲撃に遭うようになった。」
何だそれは。次期アシュリー家当主であるシリルの身に一体何が起こっているのか。モニカは血の気が引いていくのを感じた。
「王宮での会合などについては、察して下さったで…ンンッ、アィ…ンッ…あのお方が便宜を図って下さり、多少は改善されてはいるのだが」
相変わらず頬を赤らめながらのあのお方呼びだが、今は本人がいないので大丈夫だろう。
しかし愛弟子が手を貸すほどの事態というのに、モニカに全くその話は来ていない。違和感を感じてモニカは手汗に塗れた小さな手をギュッと握りしめた。
「最近はハイオーンの家屋に入り込む者まで現れ、私物が盗まれたり怪しげな物品が送られてきたり…果てには外泊先にまで忍び込まれて」
何と恐ろしい!モニカは我が身に置き換え想像し、あまりの事態にガタガタ震えた。
しかしモニカは首をかしげる。シリルは自身も腕の良い氷魔法の使い手であるし、そもそもそんな大事になっているのなら彼と契約している伝説の白竜と氷霊が黙ってはいないはずである。
「先日外泊先で待ち伏せをされた際にはピケが怒ってしまい…侵入者を、その、氷漬けに。」
まあそうだろう。
「その後その侵入者が某貴族の令嬢だということが判明したのだが、氷漬けにしたことに対して損害賠償を要求され、なぜか同時にサイン済み婚姻届が送られて来て…調停のためニールにまで世話をかけることに…」
シリルの顔色が悪くなっていく。聞いているモニカの顔色も悪くなってきた。貴族の考えることは理解できない。
「見かねたラウルがしばらく護衛を買って出てくれていたのだが、昨日自宅に送られてきた物品にかつて出回ったレディメリッサが作成した薬品なるものの匂いが付いていただとかで、ちょっと家族会議してくると」
そういえば今日の七賢人会議に珍しくラウルは参加していなかった。どうやら物騒な家族会議が目下開催中らしい。
結果的に国の総戦力で対処する事態になっているにも関わらず、何も事態は好転せず焦燥感だけが募る日々。本来こんな雑事に無関係であるはずの友人知人まで巻き込んでしまい、シリルは目に見えてやつれていた。
今日は運悪く頼みの綱の第二王子も王宮に不在で、敵陣に一人。図書館学会の会議がお開きになった時点からひっきりなしに声を掛けられるのを、無視することもできずに真面目に対応していたらしい。猫に癒しを求めてひっそりと夕暮れの庭園をふらついていたのも頷ける。
モニカは何も知らなかった自分を殴ってやりたかった。何ができるかは分からないが、無詠唱で風を巻き起こしてそれとなく牽制するなどはモニカの十八番である。できることはあったはずなのに!
彼らは知らない。本日不在の第二王子が暗躍し、ここ数か月二人の情報統制を行い、偶然落ち合うのを阻止していたことを。大切な友人を助けてやりたいのは山々だが(彼の鈍さに苦労している身としては自業自得だと呆れる部分は多々あるが)、現状を知れば何かしら自身の想い人が行動を起こすであろうことをあの賢い男は瞬時に予測し複雑な心理状態のまま現状維持につとめていたのである。
逆にいうと本日こそが、王子の邪魔を受けずに二人が話せる奇跡の日であった。心労でシリルの隈は濃くなったが。
王子の急な外出の裏に、ニールを煩わせたことにより重い腰を上げた彼の義妹の存在があることは誰も知らない。
「私としては誠実に断っていたつもりだったのだが。こういうのは特定の相手が決まらないと収まらないのだとニールに諭され、判断が遅い鈍い意気地がないとエリオットからは蔑まれ…」
そして話は冒頭に戻る。
アシュリー生粋の本家筋の面々に「さっさと決めてこい、わがままを貫け」と輪唱され、ソフォクレスには青二才っぷりを揶揄われ、事情を飲み込めないピケには苛立ちをぶつけられ、トゥーレには心配され。シリルは今にも死にそうな顔で自身の長く伸びた影をにらんでいる。
モニカには何故シリルの身の安全がシリルがわがままになることに繋がるのか分からなかったが、クローディアが断言するのならそうなのだろう。
「わがまま、ですか。」
「……ああ。もうずっと長い事、自分自身を誤魔化しているだけということに気づいてはいたんだ。」
シリルがそっと息を吐く。
「私は愚鈍で、直ぐには振る舞いを変えられない。誠実でありたいと願っていても、意識の外で変化を恐れて逃げてしまう。」
そうだろうか、とモニカは思った。彼ほど誠実な人間をモニカは知らない。いかなる時も誇り高く背筋を伸ばし、真正面から物事に向き合うその姿に、モニカは憧れてやまない。
「アシュリーの本質はわがままであることだと言う。私は、この場合のわがままとは、どんなに周りに迷惑をかけようとも己の真意から逃げず、自身と向き合うことだと捉えている。」
だから、これは私のわがままなのだが
シリルの夕日に染まった赤い横顔に、耳に掛かっていた一筋の髪が音もなく零れ落ちる。
彼の長い睫毛が葛藤に揺れるのをモニカはじっと見ていた。
もう一度息を吐いてから、彼は意を決したように
「モニカ、」
と背筋を伸ばし切り出した。
モニカも学生時代からの癖でつい背筋を伸ばす。
不躾な願いと言うのは承知した上で、だとか、七賢人であるお前を煩わせるのは本意ではないのだが、だとかなんとか。彼は口の中でひとしきりもにょもにょしてから。
私と一緒に、なってはくれないだろうか。
と、吐息に溶けてしまいそうなほど密やかに囁いた。
その淡い言葉を聞いた途端、一も二もなくモニカは勢いよく頷いた。
少し遠まわしな表現で、良く分かっていなかったのもある。しかし、何でもいいから好きな人と一緒に居たいというのは恋する乙女の一番の願いに違いない。
モニカの瞳は夕陽を受けて若葉色にキラキラと輝いた。
一緒にいることで、そんな物騒な襲撃から彼を守ることが出来るのならそれに越したことはない。なにしろモニカの無詠唱魔術は護衛に最適なのだ。
「ハ、ハ、ハイッ もちろんでふッこ、今後とも宜しくお願いいたしばずっ」
モニカは勢い余って声を上げた挙句、やはり噛んだ。
シリルは驚いたように、場違いにやる気に満ちた顔で力強く頷くモニカを見た。
そして、少し困ったように眉根を寄せながらも、宝石みたいに綺麗な瞳を優しく細めてそっと微笑んだ。
「ああ、ありがとう。宜しく頼む。」
***
そうして適齢期の見目麗しい侯爵令息に敏腕護衛が付くことになったのだが。
貴族令嬢、マダムたちの静かながらも手練手管の限りを尽くした恐ろしい攻戦はその後も凄惨を極めた。必死の形相で出向先よりとんぼ返りした第二王子は、己の自室の片隅でカーテンに包まり涙目で震えている二人を目撃し、首を傾げることになる。