未だ遠い恋の唄 どこか遠くでポロンときれいな音がこぼれ落ちた。辿々しく始まったその音は、いつしか和音を奏でると高く駆け上がり、初冬の校舎に響きはじめる。
モニカは先月分の報告書を捲りながら、無意識に耳を澄ませた。
初冬の晴れた日の午後。生徒会室の大きなガラス窓は表面積いっぱいに陽射しを取り込み、舞い上がった埃をキラキラと輝かせた。
暖炉に火を入れなくとも室内は暖かく、蝋燭を用意せずとも手元は眩しいほどに明るい。
生徒会の面々は今は部屋に居ない。職員室に赴いたフェリクスとシリルはもう少しかかるだろう。今日は職員への報告以外にこれと言った用事がなく、会長と副会長以外は各々の細かい仕事に出掛けていた。
そんな中、モニカだけは今月の会計報告書のために生徒会室に居座り先月の書類の見直しを行なっている。
ポロンポロンとピアノが遠くで唄っている。
あたたかい陽だまりの中、モニカは素敵な数字とのお喋りを楽しんでいた。
その数字は几帳面で細かくて、ときどきジトリとした目つきで小言をこぼす。だが、誠実で潔癖なその数字は絶対に本質を違えないのだ。モニカは白い手袋をはめた指先で数字の羅列を追いながら、くふくふと頬を緩めた。書類の余白に細かく追加で書き連ねられた数字の真面目さに、じんわりと嬉しくなる。ああ、この数字はなんて真摯なのだろう。
決して難しい計算ではないが、それなりの量が積み重なった数字には流れが出来る。数字の流れが出した結論を更に文章で正確に補って、その報告書は締めくくられていた。数字だけで全てを感じ取るモニカは、他人に伝えるための一文に小さく驚く。
モニカしか居ない陽の光に満ちた生徒会室に、ポロンポロンとピアノが届く。
モニカはその優しい最後の書き文字を、そっと爪先でなぞった。
遠くでピアノが鳴っている。ポロンポロンと溢れ出る音はやさしいのに、どこか切ない。
ベンジャミンではないだろう、とシリルは思った。彼のピアノはもっと雄弁で、華やかで楽しげに響く。
「グレイアム嬢かな」と階上を見上げ、フェリクスが呟いた。
その神秘的な碧い瞳の奥で何かが翳るのを見て、シリルは咄嗟に何か言わなければと思った。だが自分ではこの人の哀しみの核心には触れられない事をどこかで気付いてはいた。
「彼女の演奏は去年の全校演奏会で聴いたきりですが、その際は優美さが際立っていたように思います。この音は繊細ではありますが、彼女にしては素朴に思えます。」
感じた事をそのまま口に出すと、フェリクスは優しい瞳でシリルに言った。
「彼女は、本来とても純粋で素朴な人なんだよ。ずっと一つの恋を大事にし、一人の人を綺麗に想い続けることが出来る、稀有な人なんだ。」
そう言ってフェリクスはシリルから視線を外すと少し苦く笑った。
言外にそう在ることが許されないフェリクス自身への諦観、憤り、複雑に混じり合った哀しみが伝わった気がしてシリルは焦った。この美しい人が重く濁った何事かをずっと抱えている事は、愚鈍なシリルでも感じていることだ。思慮深い碧い目は、ずっと年上の様にも見える時がある。
ブリジットはフェリクスの婚約者候補の筆頭だと聞くが、両者にどんなしがらみがあるのかシリルには想像もつかない。
無粋な自分には恋なんて分からない。ただ、人の心をこんなにも深く察することが出来るこの美しい人が、悲しまなければ良いと思った。
一時間ぶりに戻った生徒会室にはモニカしか居なかった。
ドアを開ける音に気づいた彼女が、陽だまりの中でヘニャリと笑う。室内は明るくて、彼女の瞳が光を当てたペリドットみたいに若葉色にキラキラ輝いた。
フェリクスはその笑顔が自分に向けたものではないことを知っている。
「シリル様、先月の報告書の見直し終わりました。」
「計算は合っていたか?」
「はい。今月分の集計に回す分だけ、私の方で整理させて頂きますね。」
「ああ、ありがとう、宜しく頼む。」
「じゃあ私は今月の会計報告書を。」
二人が穏やかにやり取りするのを、何処か遠くにフェリクスは眺めていた。
モニカがふとシリルの裾を引いて、あっと手を離す。意識外の己の行動に驚いた様に。モニカの頬が赤らみ瞳が潤む。心臓を抑える小さな手が小刻みに震えていた。
裾を引かれたシリルは不思議そうに振り向いたが、潤んだ瞳が目に入るとさっと視線を外し、白い耳を火照らせ首を傾げる。自分の耳の熱さを不可解だとでも言うように。
彼のお気に入りである二人は仲が良い。それは悪いことではない、別に。
最初の目論見とは違う方向ではあるが、相性が良く仕事が円滑に進むのは悪いことでは決してない。ああなんて可愛らしい二人なんだろうと眺めていれば良いだけのことだ。
ポロンポロンと陽だまりの中、ピアノはきれいな恋を唄う。あどけなくて優しくて、でも気付かないくらいの悲しみが小さくきらめく。
あいたい、あいたいと想い出を抱き締めながら彼女は溢れた想いをそのまま音にのせて、どうしようというのだろう。
いや、どうしようもないから唄うのか。
フェリクスは部屋の入り口で立ち尽くしたまま、目を伏せる。
モニカとシリルが来月の決算のための資料について話している。
モニカは嬉々として今月の会計報告書を書きはじめ、シリルは資料室に昨年度の同月の書類を取りに行った。改竄が激しい時期のものだが、形式の見本として用意してやるのだろう。甲斐甲斐しいことだ。
どれ手伝ってやろうかとフェリクスが資料室に足を踏み入れると、シリルの柔らかい唄声が聞こえた。唄というよりは鳴り止まないメロディーを舌の上で転がしているだけなのだろうが。無自覚なのだろう。
シリルの唄声はとてもきれいで「彼」のお気に入りだった。
でも、その唄はだめだ、だめなんだよシリル。
君は自分が恋してるだなんて気づいてないんだろう。どんなに君が「僕」に見せない優しい目で「僕」のたった一人の不良仲間と話してるか、知らないんだろう。
……ああまだこんな所にも「僕」が居るのか。
もっと念入りに。もっと念入りに殺さなくては。
誰よりもこの唄の意味を知っているのは「彼」だが、仮面越しの「彼」がそれを認めるわけにはいかない。あの優しい王子様への恋の唄を「彼」は理解してはいけないのだ。
陽の当たらない資料室で「彼」は前髪をグシャリと掴んで溜め息をついた。
「シリル、紅茶を淹れてくれないかい」
そして「彼」は彼の愚鈍な右腕の気を引いて、その形にすらなっていない恋の唄を終わらせることにした。