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    nisshyhana2

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    明後日な方向に飛んでいってしまいましたが、もずくさんへ!
    庶民服で露店でアクセ買う買い物デートのつもりが何故かミラー夫妻のクライシス未遂に…
    書籍1巻最後〜2巻初頭?くらい?何やかんや仲良しミラー夫婦妄想です。
    最後いらなかったなあとは思うのですが、くしゃみをするルンパを入れたくて…

    #サイレント・ウィッチ
    silentWitch

    枯れない朝露、秋の空 ルイス・ミラーが、ジョッキになみなみと注がれた赤黒いジャムを飲んでいる。七賢人のローブ姿のまま、バスタブいっぱいの血のようなワインにくそ長い毛髪を散らばらせて。
     ロザリーは喉元に迫り上がるものを必死にこらえた。あれは昨夜私が炊いたベリーのジャムだとでもいうのかしら。糖分を大幅に控えたからあの量を一気に消費しても…いえ、だめよ。そういう問題じゃない。アルコールは控えなさいと言っているでしょう、ルイス・ミラー!帰ってきたら今日こそ禁酒の誓いを立ててもらうわ。
     なるほど妊娠中の不安定とはこういうものかと、湧き上がって来るものを必死に飲み下しながらロザリーは納得した。なんとおぞましい夢だろう!この気持ち悪さは如何ともしがたい。
     ………もうだめだ。
     ロザリーは腫れたように開かない瞼を必死にこじ開けると手洗いに走り、ゲエエとえずいた。


    ***


     朝焼けの中、王宮に植えられた秋薔薇の花弁に朝露が光っている。その輝きを落ち窪んだ目の端で確認し、ルイス・ミラーは想い人のために朝露を集め回った日々に一瞬思いを馳せた。現実逃避だった。
     国境付近の竜災害の件で一週間の拘束の後、やれやれと帰ってきたら突如東部地方への翼竜接近の報が入りまさかの三徹である。別に竜を撃つのに時間はかからない。執務室に帰ってきてから、被害に関する報告書と討伐の顛末に関する報告書と復興に関する各部署への要請と復興予算の算定、上に上げる決済書と部下の始末書に目を通し、議定書にサインを入れ予算案にサインをし請求書にサインを走り書きサインを書きサインを書きサインを…。王宮の一室に書面書面と煩いお貴族様連中を集め、極太の結界を張ってありったけの攻撃魔術をぶち込みたい衝動をルイスは必死に堪えた。家に帰れば。家にさえ帰れば、最愛の妻とお腹の中の可愛い娘(暫定)に会えるのである。
     震える右手を叱咤し、ルイス・ミラーは最後のサインを殴り書いた。もういいな?もういいだろう。義務は果たした。お偉方の採決なんざ待ってる方が馬鹿を見る。帰ろう。
     決めてしまえば気分は良くなった。目の下の隈を三重にした無精髭まみれの物騒極まりない顔だが、取り繕っている余裕もない。しかし、ルイスが執務机脇の窓枠に足をかけ今にも飛び立とうとしたその時、彼の契約精霊が行手を阻んだ。正確に言うと、数日着た切り雀でずず汚れた首根っこを掴まれ執務室に引き戻された。
    「何しやがるクソメイド!」
     完徹三日目の朝ではさすがに殺気を殺すことができず、口調もライオネル変換器を通せない。しかしリンはルイスの激昂など気にも留めない様子で、無表情ながらに真剣な面持ちで告げた。
    「ロザリー様の体調が最悪です。」
     ルイスのただでさえ寝不足で血色の悪い顔が蒼白になる。
    「まさか流産……」
    「いえ、悪阻というものらしいのですが。食事を全く受け付けず、何らかの臭いを嗅いだだけで込み上げてくるとの事で。」
     夜中に何度も飛び起きては手洗いに走るのだという。
    「そんな状態のロザリーをお前は放って来たとでも?」
     寝不足で剣呑を通り越したルイスの眼光に晒されても、リンは淡々と事務的に話を進めた。
    「ロザリー様より、帰宅予定を三日過ぎたルイス殿の様子を見てこいとの指令です。ついでに風呂に数日入っていない様子であれば、とりあえず湯に通して臭みを取ってから担いで帰れと仰せつかっています。」
     夫の臭いで吐いて泣かせたくないというロザリー様の温情ゆえ、とリンは胸に手を当て、無表情ながら妻の思いやりに胸を打たれた体で言い切った。
     妊娠中は有機的な異臭に敏感になるものと頭では分かっている。分かってはいるが、魚の臭み抜きと同等の扱いを滔々と説いたリンの言葉にかけらも嘘が無いことにルイスは泣いた。そしてロザリーの懸念通り四日ほど風呂に入っていなかったルイスは、宿直室備え付けのシャワー室で湯を浴びて適当に無精髭を削った後、着替えすら切らしていることにようやっと気付いた。少しの逡巡の後、ヤケクソで(竜の血がこびりついて異臭がする)ローブごと石鹸水を引っ被ると、死んだ目のままリンに担がれ空を飛び、三日ぶりに執務室から脱出した。


    ***


     ルイス・ミラーが今度は竜に喰われている。ガブガブと噛みつかれ、穴という穴から真っ赤な血が勢いよく吹き出す。ロザリーは成程、と思った。あれは恐らくルイス・ミラーの体内のワイン成分の赤みだろう。大丈夫、ただの夢よ死にゃしないわ。あの殺しても死なないルイス・ミラーが。
     妊娠中の夢は極彩色と聞いてはいたが、なるほど色彩の趣味が極悪である。自分の奥にある心配事に綺麗に色をつけて、ここまで丁寧に上映してくれるとは。
     ロザリーはため息をついて苦しげに寝返りを打った。夜の間はむかつきが酷く、手洗いを往復している間に空が白み始め、ようやく眠れたと思ったらスプラッタ上映である。どうしたものか。体調も心情も底辺の底辺だが、もう朝も遅くなってきているだろう。今日はどうしても週末市に包帯の買い出しに行かなくては。しかし身体が重い。何処からか異臭もする。何の臭いだこれは。生活臭で異臭騒ぎなぞ妊娠とはこうも大変なものなのか。
     浮腫んだ指先に力を入れて何とか起きあがろうともがいていると、指の腹に艶やかな栗毛が触った。
     腫れぼったい瞼を重たげに開けると、隣で件のルイス・ミラーがローブ姿のまま口を開けて寝ていた。視覚した途端、石鹸水で上書きされた上に生乾きになった竜の血生臭さの様な異様な臭みと酒臭さにはっきり気づく。生活臭ではなかった。正真正銘の異臭だった。
     夫の契約精霊は、言っては何だがメイドとしてはポンコツである。自分が着替えを用意し口添えしてから持たせるべきだった、とロザリーは痛むこめかみを揉んだ。
     ルイスの口端には珍しく薄い髭が残っており、それにはご丁寧に一昨日ロザリーがこしらえたベリージャムがくっついていた。帰宅早々糖分(微糖だが)を安酒で流し込み、風呂に入り直す前にぶっ倒れたのだろう。

     予定より三日遅れで、異臭のする夫が帰ってきた。なるほど、昨日のローブ姿のまま血溜まりのバスタブで云々は予知夢だったのかもしれない。あれは竜の血だまりだったのかとロザリーはため息をついた。本音を言うと、ワインもジャムも血の暗喩にしか思えない。
     ロザリーはつくづくと、こんこんと眠る夫の顔を眺めた。レースのカーテンから晴れた秋特有の褪せた眩しさの陽光が差し込み、広いベッドの上を明るく照らす。疲労が色濃く出ていても、夫の整った顔立ちに落ちる睫毛の影は美しかった。なんとはなしに、夫の目の下に出来た濃い隈をゆるゆると指先でなぞる。

     何をそんなに頑張っているの、ルイス・ミラー。私は貴方と居られたらそれで良いのよ。他に望む事なんてないわ。いえ、糖分とアルコールの制限をしてやりたいとは常々思っているけれども。
     ルイス・ミラーが朝に酷い顔色で横に転がっている度、ロザリーは思うのだ。彼が抱えるものを自分は殆ど分かってやれない。魔力を殆ど持たない自分では、彼と同じものを見ることすら難しいのだ。
     彼が見ている景色を、隣に立ったとして同じように感じることはできない。手段も求める結果も彼とロザリーでは全く違う。彼が望むことを同じように望みもしなければ、彼が懸念することに同じように考え至ることすらないだろう。ましてや彼の仕事は七賢人で、仕事内容の凡そが機密事項だ。家庭に戻らない父親の背を見ていたロザリーは、七賢人の過酷さを知っている。その過酷さをルイスに背負わせたのは、自分だ。
     知らず、頬を涙が伝っていた。なるほど妊娠中の不安定、とロザリーは呟いて、重い身体を引き摺り朝食の準備を始めた。


    ***


     ルイス・ミラーはぽかんと口を開けたまま夢を見ていた。幸運の朝露を取りこぼしては悪童がわめく夢だ。
    「アイツに幸運をやりたいんだ」
     そいつはあかぎれだらけの手で、ミネルヴァ敷地内に群生していた野薔薇の朝露を少しずつ小瓶に集めていく。野薔薇には棘がびっしりと生えていて、朝露にそいつの血が混ざる。なんとまあ血生臭い。おまけにその瓶の底には穴まで空いている始末。ルイスは目を窄めた。
     徒労なのだ。どんなに苦労して幸せのシンボルを集めたって、それに意味はあるのか?
     独りよがり。いつだってそうだ。ロザリーはきっとそんなこと望んでいない。
     必死になって朝露をかき集めていたあの頃、若かったルイスは何でも良いからロザリーになにか良いものを与えてやりたかった。今だってそれは変わらない。ああそれなのに。
     何故今の自分は、ロザリーから奪ってばかりの気がしてならないのだろう?
     執務室に泊まり込む日が続き、帰宅できたとしても広いベッドの片隅に眠る妻におやすみを囁いて隣に倒れ込むだけ。今回だって結局何日離れていた?
     離れていく。
     もう一か月間、碌にロザリーと話せていない。


     パタン、と控えめながらも響いたドアの開閉音にルイスは飛び起きた。ロザリーが出て行ったのだ。出て行く?何処に?
     心臓が嫌な音を立てた。広いベッドの隣に手を滑らせたが、清潔なシーツにもう彼女の体温は残っていない。バタバタと血生臭いローブ姿のままダイニングに走ると、ルイスの朝食用のカトラリーとサラダが朝のテーブルに用意されていた。竈には鍋一杯の甘い栗南瓜のスープが湯気を立てている。パンや卵はまだ用意されていない。ルイスがもう少し寝ると思っていたのだろう。ああそんな事に気を遣わなくていいのに!
     今朝、意識を手放す前に見たのは、妻の疲れ切った色の悪い痩せた頬と赤く腫れた目元。妻は泣いたのだろうか?あのロザリーが?指先で触れた足の先も手の先も冷たかった。
     廊下を抜け、玄関脇のコートハンガーに目を移すと、妻の秋用のコートが掛かったままになっていた。
    「あんの馬鹿…」
     北国訛りで苛立ちを吐き捨て、火急の用だと彼の契約精霊を呼ぶ。しかし呼びかけに応じて吹き込んだ風の中には紙切れが一枚はためいているだけだった。そこにはあまり上手とは言えない文字で何事か書き連ねられている。
    「カーラの部屋の掃除のため週末はお暇を頂きます。くれぐれも身重のロザリー様に世話をかけないよう。リィンズベルフィード」
     ルイスは盛大に舌打ちすると、三つ編みが崩れるのも構わず頭を掻きむしった。そうして我ながらどうしようもなく異臭のするローブを脱ぎ捨てると、寝室の箪笥から清潔なシャツとズボンを引っ掴んだ。


    ***


     噴水のある市民公園に週末に立つ市は大規模なもので、食品や衣類はもちろん古書や古美術品、なぜか簡単な医療品や装飾品までも扱う店が軒を連ね賑わっている。ロザリーはよく好んで週末市を覗きに来た。週末に寄り集まって開かれる露店の方が、どうしたことか実店舗を構える専門の業者よりも安価であったり珍しいものを売っていることが多々あるのだ。単純に面白い。
     元令嬢ではあるが軍医であるロザリーは、業者から卸される消耗品のストックが怪しくなると、よく週末市で適当に買い足して凌いでいた。今は医療業は体調不良のため休業中なのだが、先日同僚であるハウザー老医から包帯の納期が遅れ備蓄が尽きそうとの愚痴を聞いたのだ。欠勤中で迷惑をかけている身、ならば買い出しくらい…と思ったのが悪かった。そう、目覚め前の夢からして血濡れで最悪だったのに。


     失敗した、とロザリーは細かく雲が散った秋の空を仰いだ。包帯をそこそこの量買い込んだところまでは良かった。しかし、市場全体に漂う雑多なものが混ざった臭いにどうにも胸が悪くなり、公園中央の噴水脇に腰を下ろしたが最後、そのまま立てなくなった。自分の今の体力を見誤ったのだ。
     石畳の上を色付いた落葉が転がっていく。乾いた秋風にロザリーは身震いした。目の前の景色が揺らぎ、喧騒が遠のく。貧血だろうか。恥ずかしい、とロザリーは思った。ロザリーは医師で、妊娠初期の難しさは知っていたはずだ。しかし自分は大丈夫だとなぜか高をくくっていた。休業しているという焦りもあったと思う。何か人の役に立ちたかったのだ。しかし気を回したつもりがこの体たらく。なぜいつも私は上手くやれない。空回りばかり。嫌になる。
     頭が重い。身体が冷えてきた気がする。お腹の子は大丈夫だろうか。こんな母親で申し訳ない。もしも流れてしまったら。あの人は悲しむだろうか。悲しむだろう。また迷惑をかける……。

    「ロザリー!」
     あの人の声が聞こえた気がした。あの人は、いつもロザリーが悪い思考に没入していくのを引っ張り上げる。昔から。
    「なぜ上着も着て来なかったのですか、貴女は!」
     噴水脇に座り込んで俯いていたロザリーが顔を上げると、ロザリーの上着を抱えたルイスが息を切らせて雲が流れる秋の空から降りてきた。市場では人々が下を向いて物色するので然程は見られていないようだが、それでもそこかしこから「飛翔魔術だ」と声が上がる。ルイスはシンプルな白いシャツにスラックス姿だった。ローブ姿ではないことにロザリーはこっそり安堵する。ルイスが着ているのはロザリーが着替えにと寝室の箪笥に用意していたものだ。よく仕舞っていた場所が分かったものだと少し驚く。
     ルイスは色づいた落葉が目立つ地面に降り立つやいなや、きれいな灰紫の瞳を剣呑に光らせ、八重歯を見せて怒鳴った。
    「この馬鹿!!」
     一瞬、夫が初恋のあの人に見える。ロザリーは成程と思った。妊娠中は不安定なのである。
     いや、ロザリーだって分かってはいるのだ。初恋のあの人はこの人で、だが彼の背で跳ねる艶やかな極太の三つ編みが視界に入るとなんだか否定したくなる。
     夫は自分の乱暴なもの言いにハッと気づくと「体調は?気分はどうです?」と苛立ちを抑え込んだ声で尋ね、持参したコートで甲斐甲斐しくロザリーを包んだ。優しくされた上で言えた義理はないのだが、ロザリーは久しぶりに見た大事なものをすぐに隠されたような気分になる。
    「ごめんなさい。案の定、立てずに困っていた所なの。来てくれて助かったわ。」
     ただでさえ寝不足でひどいルイスの顔色が紙のように白くなる。
    「ああ、お腹の子は大丈夫よ。ただ吐き気と目眩がひどいだけなのだけれど…言い方が良くなかったわね…」
     いつも澄ましている夫の顔が歪んでいる。
    「なぜ、市場に?買い物などリンを遣いにやらせれば良かったでしょう。」
    「軍の医務室の備品だから、自分で見たかったのよ。頼まれたものでもないし、貴方の契約精霊にお願いするほどのことでもなかったの。」
     悪い事をした子供のような気分で答えたが、夫の方がなぜか不貞腐れた利かん坊のような表情をしている。
    「それで座り込んでいるのですから、世話もない。」
    「ええ本当に。そうよね、起きたら身重で寝込んでるはずの妻が家にいないなんて驚くし、嫌な気持ちになるわよね。」
    「分かっているのならやめて下さい。いつもみたいに叩き起こせば良かったでしょうに。」
    「貴方が、とても疲れているようだったから。」
     そんなのはどうでも良い、とルイスがかぶりを振って語気を強めた。
    「もうそろそろ分かって下さいロザリー、もう貴女一人の身体ではないのですよ。」
     ルイス・ミラーは珍しく真剣に怒っていた。美しい灰紫の瞳がギラギラと光っている。久しぶりに混ぜ物の中に丁寧に隠されている本当の彼を見つけ出した気がして、ロザリーの心が一つ跳ねた。ロザリーはそんな自分に少し呆れた。
    「ええ、そうね。悪かったと思っているわ。判断を間違えた。」
     ロザリーは息を吐くと、先ほどまでの雲が飛ばされた秋晴れの空を見上げた。

    「私ね、最近貴方の夢ばかり見るのよ。」
     告白してみせると、怒っていたはずの美しい夫は、綺麗な灰紫の目を輝かせ耳を赤くしてみせた。ロザリーはどうしようもないものを見る目で夫を一瞥する。
    「別に良い夢じゃないのよ。貴方が血の海で溺れたり、竜に喰われたり。」
     自分が何を恐れているのか、突きつけられるようなものばかり。
    「先々週から仕事を休んで、一日中寝室と手洗いの往復でしょう。脳が暇なのね。」
     自嘲じみた言い草だったが、ルイスは何も言えなかった。子を持つという立場は同じだが、男女で担う役割は違い過ぎる。母体の負担を分かち合うことも、湧き上がる不安を分かってやることもルイスには出来ない。
    「今まで気付かない振りをしていたものが、夢で話しかけてくるの。母親になることも勿論だけど、貴方の無茶苦茶な仕事内容も、馬鹿みたいな食生活も、冗談みたいな睡眠事情も。何もかもが心配になる。」
     ロザリーのありきたりな茶色の瞳が、鮮やかに色付いた街路樹を映して揺れる。ルイスは同じ景色を見ながらロザリーの手をそっと握った。妻の貴族の奥方らしからぬ荒れた手は、冷え切って小さく震えていた。
    「心配になると管理したくなるの。職業病かしら?おかしなものね。私は、何者にも縛られない貴方が好きだったのに。」
     ふと思い出して「ベリージャムの味付けはどうだったかしら?」と聞くと「とても美味しかったですよ」と夫は応えたが「そんなことより」と先を促される。
     どうしたことか、怒っていたはずの夫の目は今やキラキラと朝露みたいに輝いていた。ロザリーは自分が吐露した内容を夫の脳から抹消したくなったが、夫は宝箱から宝物を出す直前のような顔で待っている。まるで思い出のあの人が、老教授への良い報復を思いついた時みたいな上機嫌さだった。
    「……糖分やアルコールの制限も着替えの準備も、もっと貴方の近くにいないと満足にできないでしょう。でも貴方に近づくには私は足りないのよ。私では、貴方の苦しみを分かち合うことも、助けることも出来ない。」
     俯きながらボソボソと詮無いことをこぼす。
    「結局、私はそれが苦しいのだと思う。」
     夢の中ですら貴方を助けられない自分に腹が立つ。
    「これでも、貴方の善き伴侶でありたいと思っているのよ。でも私は貴方の妻として十分であるとはとても言えないわ。七賢人の妻として社交界にも出ず、ましてや休職まで…役立たずな上に身の程知らずなのよ。」
     今日だって不調を押して買い出しに出たのは、自分でもまだ役に立つと自分に言い聞かせるためのようなものだ。意地っ張り。結果最愛の人に迷惑をかけた。
    「貴方にはもっと自由になれる選択肢があったはずよ。他でもない私がそれを一番知っていたのに。飾らない本来の貴方を愛しているのに、本当の貴方を隠してまで、一緒に居たいだなんて…」
     一人で眠る夜いつも考える。貴方との子は素直に愛しいと思えるのに。
     私が、この子が、いつか貴方の枷になるのではないかと。
     
     どこにでもあるつまらない茶色の瞳に涙の膜が張る。最悪だ。往来で良い歳した大人が。
    「こんな所で取り乱してごめんなさい。どうやらそういう時期みたいなの。面倒をかけて申し訳ないわ。厄介だと自分でも思ってた所なのよ。」
     たたみ込むように謝罪を口にした後、再度「ごめんなさい、聞かなかったことにして」とロザリーはルイスの手を外しにかかった。
     しかしルイスの美しく長い指は固くロザリーの手を握ったままだった。訝し気にルイスを見上げると、彼は耳を真っ赤にして口元を抑え何かしら呻いている。そして彼は一呼吸置くと、とても胡散臭い煌びやかな笑顔をパッと咲かせた。
    「ねえロザリー、帰って一緒にベッドでゆっくりしませんか?」
     とても浮かれた口調だった。
     自分は何かとんでもない過ちを犯してしまったのではないかとロザリーは今更思い至った。しかしいまいち解らない。自分は弱音を吐いただけだ。
    「そうね、立ち上がれるようになったら、是非そうさせてもらうわ。」
     自嘲を含めた苦笑いでそうこぼすと、夫は何か考え込みはじめた。
    「早急に解決すべき問題は、嗅覚と冷えですか?」
    「そうね、お陰様でコートがあると随分違うわ。嫌な冷えと目眩が消えた。最近ずっとのぼせていて、寒暖がよく分からなかったのよ。もう少し吐き気が治まったら、立てると思うわ。」
     うーんとルイスはしばし天を仰いで唸っていたが、市場の奥で宝石商と思わしき男が装飾品を広げているのが目に入ると「少し行ってきます。ロザリーは座ってて下さい。」と軽い足取りで冷やかしに行った。

     ロザリーは夫が羽織らせてくれたコートを腿の下にも挟み入れ、噴水脇に座りなおす。下半身の冷えが緩和されると随分とましだ。ほうっと息を吐くと、秋の公園を浮かれた歩調で歩く夫を遠目に眺めた。
     夫はなんとも見目の良い人だ。ただの白いシャツにスラックス姿でも、平気で往来の視線を奪っていく。今も品の良い立ち居振る舞いで店主から上客用の笑みを引き出し、店の奥からとっておきを持ち出させた。自分の容姿を良くお分かりで、とロザリーは少し面白くない。
     ルイスはどうやら髪留めの類を物色しているようだった。店主が何事か声をかけ煌びやかな品を薦めたが、ルイスは落ち着いた色味の石が入ったものを手にして微笑んだ。市場のご婦人方の黄色い声が響く。ロザリーはそんなことで気分が落ち込む自分に心底うんざりした。
     昔は。昔のあの人は、髪も肌も荒れ放題で。粗野を通り越して物騒な雰囲気がほとばしっていた。それでもふとした瞬間に見える繊細な美しさがあったのだ。秋の野花の先に生まれた朝露みたいな。ロザリーだけが知っている、秘密の……。
    「見て下さいロザリー!掘り出し物です!磨かれる前の翠玉ですよ!」
     これをただの石ころと思い込んでいるあたり商才のない店主もいたものです。買い叩いてやりましたよハッハッハ。
     浮かれポンチが浮かれている。思い出との落差にロザリーはげんなりした。
     見ると、彼の手には中央にやや大きめの石が埋め込まれた素朴な花の髪留めが握られている。花弁の先には朝露に見えるよう小さな硝子があしらわれており、素朴ながらも職人の丁寧な仕事を感じさせた。
     良い買い物が出来たようでなにより。ただ、ロザリーはこれ以上夫の頭部が重くなるのはいただけないとどこかで考えていた。

    「さて、」
    夫はロザリーの横に腰掛けると、一転して真剣な表情でその石に何事か付与し始めた。「こういう時あの小娘が羨ましくなりますね」とか何とかブツブツ言いながら。
     ロザリーはつられて夫の手元を眺めながらも、チラリと片眼鏡を掛けていない右眼を気にする。ついでに放置されている口端の剃り残しの淡い髭に気付くと目を伏せた。身だしなみを気にするルイスをそこまで慌てさせた自分の愚行に改めて落ち込んだ。

     数分間続いた長ったらしい詠唱の最後に石が淡く光り、付帯魔術は完了したらしい。
    「急拵えな上あまり適さない石なので、精度は落ちますが。」
     夫はロザリーの纏めた後ろ髪を支える位置に、何事かを付与した花の髪留めを差し入れた。その瞬間、すっと市場の煩雑な臭いが消える。
    「防御術式の応用です。私だってあのジジイにやり込められていた時分とは違うんですよ。」
     昔そう言えばあの人は空気中の異物は排除できなくて、よく悪態をついていた。煙に咽せるわ、くしゃみは止まらないわ、涙は止まらないわ、悪寒、動悸息切れ、痺れて高所から落下……。
    「今、いらん事まで思い出しませんでした?」
     ロザリーは曖昧に笑った。
    「とても楽になったわ。ありがとう。やっと立ち上がれそうよ。」
     ルイスは静かに微笑んだ。悪童の頃にはなかった落ち着いた夫の笑みだ。そしてルイスはポツリと言った。
    「同じですよ。私だって貴女を助けたいし、出来ることなら苦しみを分かち合いたいと思っている。なかなか、ままなりませんが。」
     落ち行く木の葉を目で追いながら、ルイスは長い指をロザリーの冷たい指に絡め力を込めた。
    「私が貴女を求める対価に、何か良いものを捧げれば許されるのではと右往左往する。餓鬼の頃から変わりゃしねえ。…本当ならその髪留めも朝露にビチャビチャに漬けてから贈りたいところなんですが。まあ今となっちゃ朝露なんて珍しくもないですけど…取敢えず今は意匠で代用という事で。」
    「朝露?」
    「学生時代に流行ったでしょう。幸運がどうとか両想いがどうとか。」
     当時、柄にもなく誰かさんの為に朝露なぞ集めまして、とルイスが笑う。
    「待って。私それ知らないわ。貴方大抵日雇いで働いていたし、朝に弱かったでしょう。」
    「別にそれ位どうということはありませんよ。貴女に幸運を捧げられるなら、何だって良かった。」
     ルイスが苦さを飲み込んだ微笑みを浮かべる。
    「でも、そうですね……やっとの思いで最愛の人と結ばれたのに、家にも帰れず竜殺しと書類書きの毎日でしょう?私もそろそろ疲れてきまして。………お偉方を結界術で拘束したまま真空状態に…」
    「やめて。」
     切なげに美しい睫毛を揺らしながら語っていたルイス・ミラーが、いつの間にか物騒な算段を始めていた。いつものことだが。
    「ま、要するに私いまとても寂しいんですよ。」

     だから、後でゆっくり慰めて下さい。

     囁いてルイスが包帯の山を背負い、ロザリーを横抱きにして「さあ帰りますよ」と飛行詠唱を始めた。目立つわよ、と注意するが「身重の妻の非常事態なんで」と取り合ってくれず、二人は屋根の影の隙間を潜りながら帰宅した。
     まあ今の生活だって悪くないのかもしれませんが、なんたって終業時に幸運の朝露が取り放題ですし。秋の空を滑空しながらルイスがヤケクソ気味に吐き捨て、ロザリーはやっと笑った。


    ***


     帰宅した家には鍵が掛かっていなかった。「急いでいたもので」とはルイスの言だが、人に自分のテリトリーに入られるのを嫌うこの人がそんなミスを犯すだろうか?もしかすると書斎のように何らかの結界が?私ってもしかしてえげつない籠の中に入れられているのでは?
     ロザリーが考え込む中、ルイスは妻の上着を脱がせ、コートハンガーにかけて形を整える。一緒に洗面所に赴き、ぬるま湯で手を拭われ手の冷たさを除かれた。そのまま抱きすくめられ、小さな口付けを頭中に落とされる。
     ロザリーがうんざりと呟いた。
    「今思ったのだけれど。もしかして私、寂しかっただけなのかしら。」
    「寂しかったのは私なんで。慰めて下さるんでしょう?今夜は貴女とお腹の子を抱きしめて思いっきり眠るんです。10時間くらい。」
     でもその前に。私が貴女をどれだけ想っているか隙間なく伝えなくては、そうでしょう?八重歯を見せた悪い顔が、次の瞬間うっとりとした大人の表情で愛を囁く。昼間だというのに寝室のカーテンを閉め切ると、ルイスはロザリーを抱きしめたままベッドに沈み込んだ。


     まぶしい秋の朝日がロザリーを起こす。閉め切っていたはずのカーテンは開け放たれ、秋晴れの空が高く澄んでいる。どこからか金木犀の匂いがした。キッチンでルイスが朝食を用意しながら鼻歌を歌っている。
     身を捻ると、中途半端に髪に引っかかっていた花の髪留めがとうとう滑り落ち、ロザリーは苦笑した。ぬくもった指でそっとつまみ上げると、花弁の意匠の先に硝子の朝露が光っている。これは枯れない幸運の朝露だ。おかげで昨夜は嫌な夢は見なかった。…いや、夕食も摂らず夢を見る間もなく、ただただ深く眠っただけかもしれないが。誰かさんの所業の所為で。それでもこの身体に残る火照りが心地良いと思う程度には自分は毒されているのだと思う。
     ロザリーはまだ膨らみも目立たない白い腹をシーツ越しに撫でながら、「あの人に気を許しちゃダメよ、良いわね。」とお腹の子に呼びかけた。まだ胎動もないだろうに、なんだかその子が元気よく返事をしたようにロザリーには思えた。

     妻と娘のヒソヒソ話に、くちゅん、とルイス・ミラーはパンを温めながら可愛らしくくしゃみした。
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    nisshyhana2

    CAN’T MAKE倉下さんの素敵な無自覚シリモニを見てわーって書きましたが、アイザックになりました。4afterくらいの時期のイメージです。作中の恋について考えるとアイザック(とエリオット)はブリジットの恋を知ってるんだなあってなって、自分も綺麗なままアークのことを想っていたかったってちょっと思ってるところもあるかなって。
    モニカはシリルと仕事してるし、きっとシリルの数字も嫌いじゃないよね。
    未だ遠い恋の唄 どこか遠くでポロンときれいな音がこぼれ落ちた。辿々しく始まったその音は、いつしか和音を奏でると高く駆け上がり、初冬の校舎に響きはじめる。
     モニカは先月分の報告書を捲りながら、無意識に耳を澄ませた。

     初冬の晴れた日の午後。生徒会室の大きなガラス窓は表面積いっぱいに陽射しを取り込み、舞い上がった埃をキラキラと輝かせた。
     暖炉に火を入れなくとも室内は暖かく、蝋燭を用意せずとも手元は眩しいほどに明るい。
     生徒会の面々は今は部屋に居ない。職員室に赴いたフェリクスとシリルはもう少しかかるだろう。今日は職員への報告以外にこれと言った用事がなく、会長と副会長以外は各々の細かい仕事に出掛けていた。
     そんな中、モニカだけは今月の会計報告書のために生徒会室に居座り先月の書類の見直しを行なっている。
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    nisshyhana2

    CAN’T MAKE倉下さんの素敵な無自覚シリモニを見てわーって書きましたが、アイザックになりました。4afterくらいの時期のイメージです。作中の恋について考えるとアイザック(とエリオット)はブリジットの恋を知ってるんだなあってなって、自分も綺麗なままアークのことを想っていたかったってちょっと思ってるところもあるかなって。
    モニカはシリルと仕事してるし、きっとシリルの数字も嫌いじゃないよね。
    未だ遠い恋の唄 どこか遠くでポロンときれいな音がこぼれ落ちた。辿々しく始まったその音は、いつしか和音を奏でると高く駆け上がり、初冬の校舎に響きはじめる。
     モニカは先月分の報告書を捲りながら、無意識に耳を澄ませた。

     初冬の晴れた日の午後。生徒会室の大きなガラス窓は表面積いっぱいに陽射しを取り込み、舞い上がった埃をキラキラと輝かせた。
     暖炉に火を入れなくとも室内は暖かく、蝋燭を用意せずとも手元は眩しいほどに明るい。
     生徒会の面々は今は部屋に居ない。職員室に赴いたフェリクスとシリルはもう少しかかるだろう。今日は職員への報告以外にこれと言った用事がなく、会長と副会長以外は各々の細かい仕事に出掛けていた。
     そんな中、モニカだけは今月の会計報告書のために生徒会室に居座り先月の書類の見直しを行なっている。
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