青梅雨 じとり、と。頬に触れる空気に、纏わりつくような重さをふと覚えた。山稜から吹き付ける風は蒸れ、むせかえるほどの土気と露を含んだ山草の濃い香りを運ぶ。山の脈動と力強い息吹を感じる風の中に入り混じる微かな青梅の香を、熟達の忍びの鋭い嗅覚は機敏に感じ取った。
空を見上げる。山に分け入った際は僅かな横雲がたなびいていた筈の空は、今や陰雲が無数に立ち込め、空本来の色を完全に覆い隠してしまっていた。時折遠雷の音が雲の切れ間から朧げな響きを伴って、鳴る。
(もうすぐ雨が降る)
ここから城へはどれほどか。遠くに目をやるも既に城は遠霞の向こう側に覆い隠され、そこにあるのはただ白いもやばかりである。
どこか雨を凌げる場所を探すほかあるまい。忍び———狼は判断し、くるりと踵を返した。手に持ち運んでいるものを抱えなおし、雨に濡らさぬよう自身の首に巻かれている色褪せた白橡色(しろつるばみいろ)の襟巻をそっとそれにかぶせる。己は濡れても良いが、今腕に抱えているものだけは決して濡らしてはならない。
立ち並ぶ木立の隙間を足早に縫い、駆ける。足が、湿りと粘り気を帯びた土を踏みしめる。柔らかくもったりとした土壌が己を引き留めんとするを振り払い、ただ駆けた。義手は使うことができない。鍵縄の衝撃でうっかり腕の中のものを台無しにしてしまってはどうしようもない。狼は襟巻にくるまれたそれに目を落とした。同時に一際大きな雷鼓が頭上に轟く。
ごろごろ……、どんっ
腹まで響く音が皮切りとなった。ぱらぱらと数粒の雨粒が葉を揺らした直後に、叩きつけるような激しい雨が狼のいる山に降り注ぐ。疾風が吹き荒れ、辺りは瞬く間にけぶる霧に閉ざされた。全てが真白に塗りつぶされてゆく中で、狼の目は点々とまばらに連なる極彩色を捉えた。
紅藤から紺青へ。紺青から目の覚めるような紅色へ。透明な雨粒を真珠の飾りの如く纏い、誇らしげに咲き乱れるその花は紫陽花であった。連なる花の群れの先に視線をむければ打ち捨てられ、朽ちかけた小屋がぽつねんと建っていた。かつてこの山に住んでいた者の住居だろうか。周囲を埋め尽くす紫陽花の群れから見るに、ここは庭園だったのだろう。何れにせよこれは好都合だ。考える間もなく薄汚れた小屋に体を滑り込ませ、ようやく狼は一息ついた。
「はぁ……」
吐いた呼気はもやとなり、雨粒とともに溶けて消える。雨脚はますます強く、激しさを増している。暫くは小屋からは出られないだろうが待つことには慣れている。古い小屋ゆえ多少雨漏りしているが、雨が止むまでは十分に凌ぐことが出来そうだ。ひと先ずは濡れた服を乾かそうと着物の合わせを寛がせたその時だ。
「……おい」
「!!」
声を出す間もなく腕を取られ、即座に後方へと引かれる。一時的な安堵に緩んだ全身の筋肉が、一瞬にして硬直する。雨音で普段よりも気配に疎くなっていた。殺気を出すことなく、それでいて抵抗を許さぬままに己の手を取る卓抜した身のこなし。
賊か、それとも敵兵か。
狼は目にもとまらぬ俊敏な動きで腕を掴む手を振りほどき、相手の顎を狙い鋭い蹴りを放とうと足を振り上げた——————が。目の前に立つ者が誰であるかを認め、狼は目を見開いた。
「弦一郎殿っ、!?」
放たれた蹴りにはたちまち惑いが色濃く表れ、力を失った足は難なく避けられてしまう。乱れた息を整えた後、僅かに顔をしかめ。将は煩わしげに呟いた。
「やめろ。頼むからこのような狭い場所で暴れてくれるな……。ただでさえ本調子からは程遠いのだぞ。あまり無理をさせるな」
「なぜ貴方がここにいる。エマ殿の話を聞いていなかったのか」
「無論聞いた。だが城にいたとて何が出来る? 体に差し障るからと書状一つ書けぬのだぞ。飯を食っているだけでは鈍る一方だ」
「言いたいことは分からなくもない……が、エマ殿が鬼の形相で貴方を探していた。早めに戻った方が良い」
「ふん……」
狼の訥々とした言葉に、弦一郎は小さな笑いを漏らした。
「貴様までも俺に指図するか。一介の忍び如きが」
言葉の威勢の良さとは裏腹に、言葉尻には力ない諦観と自棄が滲む。その理由を狼は知っていた。
将が項垂れ目を落とした先。きつく拳を握って誤魔化しているつもりなのであろう。しかし。白く変色するまでに握りしめられた指先は微かに震えていた。
痛むのか。そう問えば弦一郎は暫しの間動きを止め、ただ瞬きばかりを繰り返す。二人の男の密やかな呼吸音が小屋に響く。ざざぁ。降りしきる雨の音に紛れるように弦一郎はほんの少し、首肯した。
竜胤を巡る争いは熾烈を極めた。戦の過程で国主の孫たる彼は護国の為、禁忌とされた実験の産物をその身に刻みつけていた。
——————変若の澱。使用者に強大な力と頑強な肉体を与えるもの。だがそれがあくまでも一時的なものであったことに、果たして誰が気づけただろう。はっきりとした異変を感じた時には全てが手遅れだった。
美しい所作で朝餉を口に運んでいた弦一郎が不意に箸を取り落とした時、手合わせのさなか、彼の木刀を跳ね飛ばした時に感じた驚くほど軽い手応え。今思えばありとあらゆる違和感は、弦一郎の体の異常を火を見るよりも明らかに指し示していたというのに。
日を追うごとに彼の体は持ち主の意思に逆らい弱っていく。澱の爪痕は、弦一郎を酷く蝕んでいった。
城の薬師であるエマが彼を診察し、結論づけたところによると。これから近いうちに指先から腕にかけて段々と麻痺が進み、やがて動かすことすら大儀を伴うことになるらしい。そしていずれ症状は全身にも広がるのだろうと。安静にしていれば多少は変若の澱の後遺症を緩やかにすることができるらしいのだが、今の彼を見れば彼女の言いつけを微塵も守っていない事は一目瞭然だ。
急雨に濡れた黒髪は、白い顔にべったりと張り付き、そこからは雫が絶えず落ちている。傍らに刀が置かれていた。鍛錬のさなかに雨に降られたか。敵を警戒してか抜き身のままだ。言外に語られる将の痛々しいまでの努力に、狼は密かに眉根を寄せた。
「いい気味だろう、貴様にとっては」
不意にぼそりと将が言葉を発した。意味を図りかね、狼は視線で何故、と疑問を投げかける。
「貴様の左腕を奪った男が、今やこのざまだ。刀も振れぬくせ、名ばかりの国主として城に居なくてはならない。萎えた腕では弓すらも満足にひけるかどうか……。ここで貴様に襲われたなら、恐らくは碌に抵抗できぬまま俺は果てるだろう。それとも、」
一旦言葉を切り、直後弦一郎は吐き捨てるように言った。
「ここであの夜の復讐を果たすか?」
絶好の機会だろう。無防備に腕を広げ、挑発するように将は笑う。濡れた髪から雫が伝い、唇を歪める彼の頬を流れ落ちる。人知れず押し込めていた彼の慟哭と恐怖、怒りを、狼はその時悟った。
忍びの掟。その三。手段を選ばず必ず復讐せよ。義父の言葉が蘇る。ただ言われたとおりに命に従っていた頃の掟だ。しかし、今の自分にとって義父の掟は過去のもの。掟は自分で定めると、そう決めた。かぶりを振る。
「そのようなことは、しない」
「……はっ。腑抜けたか。この俺が良いと言っているのだぞ」
「だからこそだ。無抵抗の者を嬲り殺す下劣な精神は持ち合わせていない。安易な復讐に走るつもりもない。見くびるな」
本当に自死を選ぶ気があるならば、狼の助けなど借りなくとも彼は一人で逝くだろう。今の彼はただ自棄に陥り、狼を試しているだけだ。その手には乗らぬ、貴方の痛みの肩代わりはせぬと跳ね除けた。
自身の痛みは、苦しみは。結局のところ己で背負わなくてはならない。誰も代わりを担ってはくれないのだ。
狼の返答に将は無言で顔を背けた。ゆらり、ゆらりと揺らぐ青鈍が、憤るように激しさを増す雨を映し出す。白く光る飛沫が紫陽花の群れに叩きつけられている。まるで彼の内面に吹き荒れる感情そのもののようだった。
「随分と激しい雨だ」
外を見つめたまま将が囁いた。雨の音にもかき消されてしまいそうな囁き。耳をそばだてなければ聞きとることすら難しい。
「蛙を殺したからだろうか」
「蛙だと?」
「ああ。手元が狂って刀を取り落とした。下に小さな蛙がいて……、真っ二つになって死んだ。蛙を殺すと雨が降るんだ。母がそう言っていた」
ほら、ちょうどあの辺り。ぎこちなく腕が持ち上がり、蛙を殺したであろう場所を指し示した。農村の子供に伝わる昔からの迷信を、遠い目をしながらどこか幼い口調で語る将の姿に、既視感を覚える。
ぼやけ、形をなさない記憶が朧気に眼裏に蘇った。
"よいか、おおかみ。蛙を殺すと雨が降る。だから蛙を殺してはいけないのじゃ"
そうか、思い出した。あれは竜泉詣の年のこと。
数年に一度の大切な祭りの日が雨にならぬよう、幼い九郎は毎日のように必死に祈っていた。村の子供から教わった迷信を、さも自分が考えたことのように自慢気に、胸を張って語る溌剌とした姿に例えようもない愛しみが溢れた。
結局その年に平田屋敷は義父が手引きをした賊に襲われ、屋敷の者は数人を残しほぼ全滅といえる有様となった。
幾重にも咲く平田屋敷の紫陽花の色が、仄暗い夜の闇に薄ぼんやりと浮かび上がる。忍び狩りの持つ三叉槍の刃が松明の炎に照らされ、鋭い光を放った。反射を受け、きらりと瞬いた花の露。透明な輝きが、何故か強く脳裏に焼き付いた。
かの夜も冷たい小雨が降っていた。幼い九郎の祈りが天に通じたのか、長らく晴れの日が続いていたにも関わらず、その日は体の芯から冷えるような雨が降りしきっていた。
平田屋敷が襲撃に見舞われていたちょうどその頃、己は任務に出ていた。今思えば、あれは義父の差し金だったのであろう。任務で幾人もの人間を殺し、帰ってみれば屋敷が燃えていた。
蛙を殺せば雨が降るというならば、
人を殺せば何が降る?
犯した罪は巡り巡って、己が身に不幸となって降りかかる——————。
狼は将の横顔を眺めた。濡れた顔を拭うこともせず、弦一郎はじっと蛙を殺した場所を見つめ続けている。無精髭がまばらに生えた顎先から雫が滴り落ちていった。
そういえば。ふと狼は自身の抱えていた包みを見下ろした。濡れてはいないだろうか。襟巻きをどかし中身を見る。中が無事であることを確認し、狼はほっと息をついた。
「なんだ、それは」
耳元で低い声が耳朶を打つ。見れば弦一郎が狼のすぐ傍らににじり寄り、包みの中身を覗き込んでいた。
「がらくたではないか」
「がらくたではない」
存外に強い声が出た。弦一郎は驚いたように一瞬大きく目を見開き、すぐに何かに思い当たったように表情を変えた。暫くして頭上からばつの悪い気配とともにすまなかった、と小声で謝罪の言葉が呟かれた。
そう、がらくたなどではない。包みの中には色とりどりの小石や、美しい形の木の葉が入っている。そして丸々とした大きな青梅の実が隙間を埋めるように包みの中にいくつも放り込まれていた。
これらは全て九郎のもの。この時期になると決まって元気がなくなる九郎の為に、狼が集めてきたものだ。平田屋敷の襲撃を思い出してしまうのだろう。夜に布団の中で声を押し殺して泣く九郎を見るたび、狼の心は張り裂けそうなほどに軋んだ。彼の笑顔を少しでも取り戻したいと差し出がましい行為だと分かっていながら城から少しばかり離れた山に赴き、とりあえずはと目に止まった野草や小石をかき集めたのだ。
つと横から手が伸び、骨ばった指が梅の実をつまみ上げる。ふわりと広がる青梅の清(さや)かな香りを吸い込み、将が相貌を崩した。
「良い香りだ。きっと九郎も喜ぶ」
「無論」
大きく頷く。実の目利きに関しては自信がある。幼い頃、忍びの修行の一貫として義父に叩き込まれた。たわわに実る梅の木から最も香りがよく、大きな実を見分けることなど造作もない。
弦一郎の大きな掌の内で梅が転がる。彼の手の熱が伝わり、温まった梅の実がより一層の芳気を漂わせた。
物珍しげにころころと実を弄っていた弦一郎であったが、程なくしてようやく満足したのであろうか。狼に向かって青梅の実を差し出した。
「そら、返すぞ」
「ああ」
果実に狼が手を伸ばした瞬間。
「!!」
突然、弦一郎の指が不自然に強張った。力を失った指の隙間からぽろりと梅の実が落ちる。たん、たん。青梅が板床を跳ねる。思わず目で追ったそれは転がってゆき、やがて己の爪先に当たり止まる。
同時に我に返り、狼は弾かれたように顔を上げた。
「…………」
呆然と自身の手を見つめる将。掲げられた両手は、最早彼自身の意志では制御が出来ぬほどに激しく震えていた。あの様子では碌に力が入らないに違いない。
「来たか…………」
今にも血が滴りおちてしまいそうなほどに唇を噛み締め、将は呻いた。尚も痙攣を続ける己の両手を忌々し気に睨み据え、土の壁に勢いよく叩きつける。とどろく轟音。ばらばらと土塊が剥がれ落ちる音とともに、音に驚いたらしき一匹の野鼠が二人の男の合間を走り抜けていった。
変若の澱による後遺症の病状は、時によって波がある。滞りなく両手を動かせる日もあれば、その逆も然り。しかし、両手が麻痺する間隔が少しずつではあるが徐々に狭まってきているらしい。
目元を歪め両手の震えを止めようと息を荒げる弦一郎の様子を見て、堪らず狼は声を掛けた。
「弦一郎殿」
「……言うな」
「御手が」
「言うな!!」
引き絞るような叫びが静かな小屋に響いた。有無を言わせぬ迫力に思わず狼は黙り込んだ。
しん、と不気味な沈黙が降りる。しとしとと先程よりも激しさを潜めた雨が軒を打つ。
荒れ狂う激情を諫めるように弦一郎は幾度か大きく息をつき——————。
「……たのむ」
静かに懇願した。何かに耐えるようにその声は張り詰めている。常の尊大な態度の彼からは考えられぬ程に、弱々しい囁きだった。狼もそれ以上問いを重ねる事はしなかった。
自分ではどうにも出来ぬ病にじわじわと体の自由を奪われゆく屈辱は如何ほどなのか。このまま緩やかに動きを止めゆく自身の肉体への絶望はきっと、計り知れない。
「……これを」
その行動に出たのは、完全に無意識だった。狼は足元に転がる若梅を拾い上げ、将に手渡した。次こそは落とさぬように弦一郎の手を取り、上から包み込む。
眉を顰め、これは何だと将が呟いた。
「九郎に渡すのではないのか」
「まだ沢山ある」
「だが……」
「貴方の体が動かなくなったら、外には、出られないだろう。だから…………」
なにか言いたげな弦一郎の言葉を遮り、言葉を紡ぐ。
「このようなものでよければ、毎日でも持ってくる」
「……? 何が言いたい」
「俺は……」
「…………」
言葉が詰まる。弦一郎は急かすわけでもなく、狼の言葉を待っている。自身の少ない語彙を狼は恨みつつ悪戦苦闘の末、狼は率直に己の気持ちを口にした。
「貴方に生きていてほしい」
自尊心の高い弦一郎。己の全てを他人に委ねるぐらいならば迷わず死を選ぶのだろう、この男は。そういった面に於いては、彼は己よりもずっと獣のようだと思う。高潔で、孤独な獣だ。生を終えるときは、ひっそりと姿を消すのだろう。
何故か、それだけはしてほしくないと強く思った。己が彼に出来ることなど、底が知れているが。
暫く毒気を抜かれたように弦一郎は狼の顔を凝視していた。が、しかし。やがて将は小さく吹き出す。
「慰めのつもりか、それは」
「…………む」
「この俺が貴様などに慰められるとはな。ふ、まだそこまで落ちぶれてはおらんぞ」
「……そう、か」
「だが」
弦一郎が微かに微笑んだ。
「これは、貰っておこう」
震える指先で、果実を包み込む。普段は敵を屠る為の刀を操る武士(もののふ)の武骨な指が、狼の思いのほか繊細に、梅の実の表面の柔らかな産毛をそっと撫でてゆく。
遠い過去の記憶を辿るかのように、将の目がそっと伏せられた。戦乱の世を生きる猛き男にしては長い睫毛が、濡れた白い頬に一抹の影をつくる。引き結ばれた唇が僅かに綻んだ。激情はなりを潜めそこにあるのはただ、山を歩けばどこにでも転がっているような粗末な木の実をまるで宝を扱うが如く恭しく切なげに愛でる姿であった。その様はかの狼ですらも———ハッと強く心に惹かれるものがあった。不意に兆した情動ともいえる、ほんの刹那の心の揺らぎ。
しかし狼が自身に湧き上がった感情の正体を悟る前に、将がこちらを振り返った。
「見ろ、狼。雨が止んでいる」
外を見れば、なるほど確かにあれほど降りしきっていた雨は止み、分厚い雲の切れ間から陽光が差し込み始めていた。光風が吹き、紫陽花になみなみと溜まっていた叢雨の名残が眩い光を放ちながら地面に吸い込まれていった。
陽光に誘われるように外へ出ようとした将が、僅かによろめく。狼は無言で手を差し伸べた。弦一郎はふらふらと覚束ない足取りで近づき、僅かな逡巡ののち忍びの手を取った。
ふと疑問が脳裏をかすめた。
そもそも彼はなぜこのような場所で鍛錬をしていたのか。城から離れたこの場所で。
確かに、この山は見晴らしがよく、国が一望できる。素晴らしい景色故、鍛錬も捗るものではあるが……。
と、そこまで考え狼はある可能性に思い至った。
ともすると。ともすると、だ。彼を蝕む澱の麻痺はエマや自身が思っているより、遥かに早い速度で進行しているのではないか。彼が口に出さないだけで。
ひょっとして弦一郎は。自身の体が思い通りに動くうちに、自身が統べ、守っている国を目に焼き付けておきたかったのではないか————。
彼自身が語ろうとしない為、狼もあえて問いはしない。自身に浮かんだ考えを、心の奥底に固く閉ざし、狼は将とともに小屋を後にする。
空は青く、どこまでも澄み渡っていた。雨あがりの涼しい風が吹き抜ける。青梅の甘さを含んだ爽やかな香りが鼻腔を擽った。
山の土産を、九郎様は喜んでくださるだろうか。
眼裏に主の満面の笑みを思い描き、狼は淡く笑みを浮かべた。